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龍ノ94話「氾濫の竜、バハムート」
しおりを挟む平原のリカーネ上空。
雲の向こうで竜は待っていた。
嵐の災禍をその身に宿す竜の名はバハムート、ジークの世界でも有名過ぎるほどだ。
聖書では海の者であると書かれていたがどうやらこの世界では空の覇者であるようだ。ジークは雲の上に立つと刀を構える。
既に戦いは始まっている。
ジークは鋭い一刀で周囲の雲を切り払う。雲は散り散りとなり雨雲は四散し一時ではあるが晴れ間を作り出した。
そして空を泳ぐ竜の姿も目で捉えることができた。
赤紫の体表にポリプテルスの様な体型、顔はカサゴに似た厳つくゴツゴツとし、棘ひとつひとつが短剣の様に鋭利である。
竜と言うより、ちょうど魚類と爬虫類の中間とも捉えることが出来る。
蛇の縦長の瞳孔がジークを見つける。
暴風と共にバハムートの巨躯は風に押し上げられ瞬く間にジークの目と鼻の先にまで到達する。
一本一本が鋭く細く長い鋸状の牙がジークを砕こうとする。
難なくそれを躱すが、あの牙は一度刺されば肉を削り取ることが容易に想像できた。しかもあの細さであれば突き刺さるのも簡単だが、それ以上に刺さったところが途中で折れることで再生そのもの阻害させるだろう。牙は切れ込みが入り一度刺さればかえしの役割を果たし早々抜けないようになっている。
そんな牙がざっと見ても二百、いや三百はあるだろう。噛まれた時を想像するだけでも身の毛がよだつ。
大空の支配者であることは明白だった。
ジークは依然として大太刀を抜かない。先ほどの攻撃、避けはしたものの殺意は感じなかったからだ。
そっとバハムートの顔に手を伸ばす。蛇の様な目は落ち着いている。むしろ嬉しそうとも感じた。
無論、鋭い棘がジークの手をズタズタに引き裂くがそれでもバハムートの頭を撫でることを止めなかった。
十分ほど撫でた後、そっとバハムートは体をジークから遠ざける。
ジークは歯を食いしばり、無力さに打ちひしがれる。
バハムートは人間を殺したくは無いのだ。ナトライマグナに無理矢理従わされているのだ。
ジークは刀を抜く。バハムートの為に――。
バハムートは感謝していた。全身全霊を賭してもなお立ち向かってくれる者がこの時代にいたことに。
竜は人間では無いが、確かに生きている。
ジークはバハムートに憐憫を抱いた。
だからこそ、ここで鎖を断ち斬ることにした。
空は暴風が遊びから殺戮に色を変え、ジークの汚れを落としていた雨はジークの皮膚を裂き始める。
氾濫の竜バハムートとの戦いが始まる。
刃物のような風が鞭のようにしなり、ジークの足を寸断する。
寸でのところで竜殻を展開し、黒曜石の様な外殻がジークを覆う。多少動きは悪くなるが雨粒と風で死ぬよりはマシである。
大太刀を上段に構え、一気にバハムートとの距離を縮め渾身の龍神演武炎ノ型をぶつける。
しかし、分厚い空気の層がバハムートを守りそもそも刃が届かないのである。見えない壁がそこにあるかのように大太刀はピタリと動きを止めている。
そして風は圧縮され、ジークの方へ放たれる。その威力はジークの体幹を崩すほどである。
体勢を立て直そうとするが数十メートルも弾き飛ばされると思った瞬間、ジークは地面へと落下し始める。
息がままならず何が起こっているのかなんとか状況を確認する。ジークの体は巨大な水の塊が勢いよく落下し滝の様に流れ落ちているのである。
指一本も動かないまま、何千メートルも上空から一気に地面に叩き付けられた。
全身の骨は砕け衝撃が逃げられず筋肉はズタズタに断裂し皮膚はもはや爆発していると言うのが適当だ。眼球は弾け、頭蓋骨は粉砕し脳みそが液状になり地面に零れていた。
だがまだ心臓は動いていた。徐々に内臓は再生を始め、肉体は再構築されていく。
完全に再生するまで数週間の歳月が掛かるほどだった。
ジークは目を開けると、生きていることが不思議だった。それと同時にバハムートの力を畏怖した。
文字通り手も足も出なかった。
ファヴニールとの戦いで疲弊の色もあったが空しい言い訳にしかならない。
ジークは王城に戻り準備を万全にしようと考えた。それから立ち上がり足を動かそうとした。
ふと右手を見ると、一振りの大太刀が未だ刃が欠けること無く切っ先を鏡のようにあたりの風景を反射させている。
まだ折れていない。それがどういう意味かジークは直ぐに理解し、目を王城から空へ向け直す。
さっきまで充分眠っていた。これ以上は無い。
もう一度、雲の上へ登り立つ。
そして大太刀を上段に構える。
不屈、不退転、誓った想い、尊ぶべき仲間の顔を思い出し、ジークは目の色を深紅と黄金に変える。
竜脚は常に全力を解放する。
大太刀の握り方は教わった通りに、体の動かし方も教わった通りに。
そして刀身に宿す熱力は竜が持つ絶対強者の本能に従うように。
その熱は大気の水分を蒸発させ雲を焼き尽くす。
バハムートは水を纏い、更にその上から風の鎧を着込む。
咆哮と共にジークは距離を詰め、炎の一撃を放つ。
それは風の鎧に傷を付ける。切り抜いた刃を返し、下段から上段にバハムートの首を狙って切り上げる。
二撃で風の鎧を破壊すると、体表の水に刃が触れる。
その瞬間、炸裂音と衝撃がバハムートとジークの間で生まれる。蒸気が周囲を覆い爆風が両者を吹き飛ばした。
ジークは大太刀に目をやる。依然として刃こぼれはない。
地上の木々が小さく見える雲の上でジークは依然として健在である。大太刀を構え直し、目の前を悠々と泳ぐ彼の竜を見据える。
水を自在に操り、嵐を呼ぶ竜、その姿は竜と言うより魚と爬虫類だが漂わせる力は竜で間違いなかった。
バハムートは大きく口を開ける。何百とある鋭利で長い牙がその切れ味を知らしめるように。
ジークは、静かに、とても静かに息を整える。
風の音が消える。地上に降る雨雲たちはバハムートの元へ集まり始める。それに止まらず今まで感じていた湿気ですら今は砂漠のように乾ききっている。
バハムートは空に海を作り上げようとしていた。
呆気にとられていた瞬間、ジークは回避不能の攻撃を目の当たりすることになった。何が起こったかと言うと、膨大に膨れ上がった水の塊がバハムートの尾ひれの薙ぎ払いと共に津波となってジークに襲いかかったのだ。上にも下にも当然左右どこへ逃げても回避のしようがないほど広範囲に攻撃は広がる。
咄嗟に大太刀から熱気を放ち、龍神演武炎ノ型を展開するが、蝋燭の火で湯船を温めることが出来ないようにジークの炎は無に帰する。
衝撃に飲まれ、渦巻く波の中でジークは体を回し、天地が分からなくなり、もがき始める。無意識に上へ上へと手足で水を掻き分けるが急流がジークの行く手を阻む。もう呼吸は長くは持ちそうに無い。
酸欠状態が続き、徐々に視界が暗くなり始める。ジークは少しでも息が保つように全身の力を抜く。徐々に水の底へ沈み始める。そこでジークは水の流れは上層と下層で違うことに気付く。下層の方が流れが緩やかだった。
ジークは体を翻し、底に向って泳ぎ始める。死ぬか生きるかの瀬戸際で、なんとか水から顔を出すことに成功する。
全身が水から離れるとジークは水の下を進み、バハムートの視界から逃れる。
真下にたどり着くとジークは大太刀を逆手に持ち、左手で水を掻き分け始める。手を伸ばした先はバハムートの口である、そこにぐいっと手を突っ込み喉を掴む。そして刺さる牙を無視して水から引きずり出すとバハムートの眼球目掛けて大太刀を突き刺す。全身を使って地面へと休息落下しながら龍神演武炎ノ型を練り始める。
地面と激突する瞬間、水没した大地は焦土と化した。
刀は膨大な熱を帯び、周囲一帯の水は即座に蒸発し、膨張した体積が地面を駆け、衝撃波を領土に轟かせた。
バハムートは牙と外殻と骨を残し全て灰となっていた。
ジークは刀を鞘に収める。
降り立った大地を見渡す。かつて平原で背の低い緑が一面を覆い長閑だった場所は今、全てを洪水が流し去り、ジークが平原を焼いた。
ほんの数年前まであった景色は色褪せた思い出と成り果てていた。仕方が無いと言い訳は出来たが、それでもこの焦土の光景はジークとバハムートにとって気分の良いものではなかった。
バハムートの亡骸に手を置く。亡骸は崩れ去り、そして光となって消える。
彼の竜は何故戦わねばならなかったのだろう。少なくともこの竜は本来、もっと温厚で人間が好きで、わざわざ厄災を起こすようなことをするようには心底思えた。
ジークが討伐する十二の竜たちの正体をようやく理解した。竜達は全てナトライマグナが無理矢理使役したもので、その本懐に争いなど初めから無かったのだ。むしろその逆で、平和を重んじ、人と共に歩もうと寄り添って歩んだ者たちである。
おそらく呪いの類いによって無理矢理戦わされ、傷つけたくない者たちを傷つける羽目になったのだ。
そしてその呪いは一生解けるものではないと推測できた。少なくともジークが使役する立場ならそうしただろう。万が一でも解呪されでもしたら敵の戦力強化に繋がるからだ。それならいっそ殺してしまうか自分たちでも解くことが出来ないような処置を施すのが一番だからだ。
その上で、十二の竜たちの呵責と苦しみを救うとするなら、それは殺害しかない。
それ以外に方法はない。
奥歯を噛みしめ、激情で腸が煮えくりかえる思いだった。大太刀を握りしめ、ジークはアルスマグナが待つ王城へ向う。
あと十体、途方もないほど長い。
しかし、急がねばならない。
ジークの後ろは澄み渡るほど青々した空と天高く大地を照らす太陽が浮かんでいた。
それは六年振りの晴れであった。
氾濫の竜バハムート、討伐。
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