東の国の狼憑き

納人拓也

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三章 エルクラットから離れて

35 地に伏せる者

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 渓谷の支配者――ズィーガは飛び上がると、昨夜のドラゴン達とは違い空中に舞い上がっているにも関わらず業火を放った。それは〝炎の壁〟と例えるに相応しい勢いと熱量を持って押し寄せてくる。その鬼気迫る光景を前にしてアイラが皆の前へと飛び出し両手を広げた。

「<海神の守人アク・ルループ>!」

 呪文の声と共に炎を防ぐ水の壁が現れる。しかしそれが業火に触れた瞬間、水泡が水の中で踊り、瞬時に沸騰していくのが分かった。地面に水が滴るより先に蒸発し、同時に白い水蒸気が皆と汗と共に風で吹き飛ばされては溢れていく。

「これ……ちょっと厳しいかも……! ってか、いつまで炎吐いてるのあいつ!?」
 打ち消しても打ち消しても炎が治まる気配はなく、水の壁を張り続けてるアイラの表情も次第に焦りが出て来た。
「チェイシー!」
「えぇ」
 呼びかけに答えたチェイシーが一斬の肩を掴むと、すぐさまズィーガの傍へと姿を現す。既に臨戦態勢に入っていた一斬の体は狼へと肉体を変えながら牙を剥く。刀が抜かれ、鱗へとまるで叩きつけるが如く振り上げた。
 ズィーガは炎を吐くのを止め、一斬へと顔を向けるが風切り音と共に鱗へと刀が食い込み――首を狙ったはずの刃先は腕へと振り下ろされ、まるで金属同士がぶつかったかのような鈍い音を立てる。

(――硬い……ッ!)

 鋭い刃先を押し止め、僅かに傷を付けただけだ。岩を斬りつけているかのよう感触――手から伝わり、瞬時にそれを感じ取った一斬は、体重を掛け刀を腕から引き抜こうとする。
 しかし、その一瞬でズィーガ身を捩り、刀ごと一斬を振り解くと空中で体勢を崩した狼に対し丸太のような巨腕を振るう。その体格からは想像が出来ない速さに一斬は身を守ろうと腕を前へと組んだ。
 しかし――

「<暗雲に轟く閃光ダージ・ガダルガ>!」
「<風精の刃フィナ・ギラ>!」

 一斬が腕を躱すより先に空から矢の如く放たれた雷撃が当たり、下から突き上げるような風が吹き、何かに弾かれたが如く腕は狙いを逸らした。風が止むと腕には刃で切り裂かれ、焦げ付いたような痕を付けているが、ズィーガはまるで虫でも払うかのように手を振って見せる。
 その間、空中へ放り出された一斬を再びチェイシーが姿を現して触れ、距離を開けて地上へと着地した。

 捕食者の目を以て捉えたズィーガがさらに追い打ちを掛けようと翼を羽ばたかせるが、飛んできた手斧によって追撃を阻まれる。回りながらも真っすぐと己を狙う――その刃をズィーガは手で受け止めて見せた。
「グルルル……」
 そして手斧を捨て、ズィーガは次の標的へと睨みを利かせた。

「並大抵の武器じゃ駄目そうだ。やーっぱ、一筋縄じゃ行かないねぇ」
 タイタニラは空に飛んでいるズィーガを見て、口笛を鳴らしながらも楽観的とも取れる様子でそう言った。アイラやマット、ミーシャは驚き、リーンシアは呆れている。
「馬鹿ぁ! 一斬達が狙い逸らしてくれたのに!」
「こっちに来るぞ!」
 アイラが悲鳴を上げ、マットが鋭い声で叫ぶ。ズィーガが翼を畳むと勢いを付け降下して来た。タイタニラが背負っていた巨大な斧を構え、迎え撃つかのように前へと踏み出す。

 ――しかし、それより先にミーシャが銃口をズィーガへと向けた。

 驚愕する三人と、何の力も持っていない、魔力すら感じ取れない少女が前に出た事によりズィーガが何かを感じ取ったのか翼を広げて制止しようとする。しかし勢いが削がれる事はない。
 カチン、と引き金を引き、弾の回る音がした後で雷鳴にも似た乾いた銃声が響いた。

「ゴアァァ――ッ!」

 ズィーガが吼えるが、その叫びは痛みに悶える声だ。押さえた左肩からは小さいが傷痕が残り、そこから血が流れていた。目に見えぬほどの速さで何かが己の皮膚を貫き、自身が傷を負ったのだと気づいた瞬間――ズィーガの瞳には憤怒の色が灯り、怒りを籠め鋭い眼差しが少女へと向けられる。
「ガァルルルッ!!」
 再び炎を放とうとするズィーガの背に、狼が猛進しては飛び掛かった。血のにおいに鼻を利かせるとすぐさま傷痕の近くへ牙を立て、振り払われる前に傷を抉るように刀を突き刺す。砲弾かと見紛う速さで飛び付かれ、鋭い剣先が傷を深くした事により、ズィーガの巨体が僅かに体制を崩す。

「<天揺るがす槍ライ・カルナ!>」

 その隙にズィーガの背に眩く青白い閃光を纏いながら、火花を立て雷撃の槍が命中し、赤黒く染まった鱗を焦がす。仰け反り、前へと倒れていくズィーガに畳み掛けるが如く、走り出したリーンシアもタイタニラも己の獲物を振り上げる。
 しかしズィーガもやられているばかりではない。己に牙を立てる狼の体を掴むと、皮膚ごと無理矢理引き離して放り投げる。その巨腕が振るわれた事でリーンシアを牽制し、構わず突き進んで来たタイタニラの斧をもう片腕で受け止めた。
 七人がかりでも与えられた外傷は拳銃で付けられた傷と、先ほど一斬が刀を突き立てた場所だけだ。

 ――だが勝機はそれだけでも十分だった。

 ズィーガの肩に何かが乗った。刀の柄に足を乗せ、見下ろす女の瞳は海より深い色と、氷を這わしたかのように冷ややかなものだった――ズィーガの背に、悪寒が走る。

「<地獄から響くバージ・アル魔女の嘆きゲルナ>」

 たった一言、足先から再び青白い電流が流れ、そのまま刀身を通りズィーガの体内が跳ねる。痛みと熱と、無理矢理動かされる感覚に目を見開き、振り払おうにも電流は体を走って手足の自由を奪っていた。熱傷が、神経を割いて生物に必要な肺や胃を搔き回している。

「ゴ、アァッ! ガガ――ッ!」

 人間では無いがのたうち回る姿を見て、痛みからの悲鳴である事は理解できる。地に倒れたズィーガを見下ろしながらも、女……チェイシーは無言で電流を流し続けた。
 やがて、何度か痙攣した後、ズィーガは目を剥いたまま――掠れた悲鳴を上げ、段々と動かなくなった。そして完全に動かなくなった頃、光が止むとズィーガの体からは熱によって生まれた白い煙が皮膚から上がっている。閉じられなかった口から、だらりと舌が零れていた。

 ――渓谷を支配していた統率者の……想像以上に呆気ない最期だった。
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