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二章 向き合う覚悟
19 追憶:三頁目
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――次に目が覚めた時、泥を搔き回すような、何か咀嚼するような音で目が覚めた。
啜るような、食い漁るような――汚らしい音。一斬が目を開けると、先ほどの化け物が何かを食ってた。その白い肌と、小さな手と、見覚えのある着物……バラバラに落ちているそれが、元は何の姿をしていたのか――想像は難しくなかった。
――傍に落ちていた刀を拾った。持ち主は居なかったが残骸はあった。
――怒りで声も出なかったが、己の喉奥から獣が唸るような声が上がったのは聞こえた。
音もなく忍び寄るように背後へと近寄り、重かったはずの刀を振り上げる。
「ギャッ――!」
獲物を食べる事に夢中になっていた狼は呆気なく背中を斬られ、倒れ込んだ。よく見ると皮膚にはいくつもの傷が残っていた。それから一斬は悶える狼の上に跨って、無我夢中で両手で柄を握っては振り下ろした。何度も何度も、とにかく刺し続けた。無心だった。
「グァ……アァ……」
やがて最後の断末魔を上げて、狼はぴくりとも動かなくなった。だが、それで終わらなかった。狼は、血を吹き出しながら人に戻って行った。見知らぬ男、普通の人間に見えた。少なくとも、日昇国の人間ではない。
男は何が起こったか分からないような顔をしていたが、血だらけになった一斬を見た瞬間に何かを悟ったようだった。
「あぁ……」
血の塊と一緒に出て来た男の声は掠れ、酷く落胆していたようだった。
「俺は……誰か、殺した、のか……」
酷く弱弱しい言葉だ。異国のものなのか、それとも自国のものなのか、それすらも曖昧な言葉の羅列だった。なのに聞き取れる。その事に、今の一斬は疑問を抱かない。男は震える手で、何かを取り出した。今にも手から落ちそうなそれは、美しい金色のペンダントだった。
「頼む……これを、故郷に……西の、カトリアンナに……届けてくれ……頼む……」
一斬は黙って男を見下ろしていた。その表情はただただ静かなものだったが、死の直前を迎えている男の懇願もどう受け止めているのか、一斬本人にすら判断が付かないものであった。胸の内に渦巻いているのは、初めて己が他者の命を奪おうとしているという困惑、家族を失い今すぐにでも嘆き悲しみたい気持ち、そして何より目の前の男に対する――憎悪と怒り。
「お前なんかの頼みを、俺が聞くと思うか?」
「頼む……頼む……」
屈んで冷たく言い捨てた一斬に、男はか細く繰り返して涙を流していた。その場で斬り捨ててしまう事だって出来たはずだった。それでも、倒れかけていく手から一斬はペンダントを拾い上げた。その瞬間、男は安堵したかのような表情のまま、呼吸を静かに止めていった。
「す、まな、かった……」
――その一言で、一斬の中の何かが切れた。
「すまなかった? 俺の家族を皆殺しにしておいて、すまなかっただと……?」
男はもう何も言わなくなっていた。目は空を見上げたまま、濁り切って何も映さなくなっていた。慟哭に似た声を聞く存在はこの場に誰も居なかった。それでも一斬の口から言葉は止まらない。
「ふざけるな!!」
怒りに任せた一斬が刀を振り上げると、既に屍となった男の首を思いっきり刎ねた。真新しい血が飛んだ。首の無くなった死体の傍で荒い息を吐くと、一斬はその場に崩れ落ち、手から刀を離す。静かになってしまったその場には――命のある者は一人だけ。
「なんで俺も食わなかった……! なんで生かしたんだ……!」
泣き出してしまいたくなる衝動が身を包んだ瞬間――咄嗟に押さえた左肩の、噛まれた場所が酷く熱くなっていった。
「ぐっ……!?」
喉から唸り声が聞こえる。骨の軋む音が聞こえた。息が上がり、涎が零れていく。
「断斬ー! 無事かぁッ!?」
そんな声が聞こえ、熱に堪えながら顔を上げる。息を上がらせて男が一人急いでこちらへと駆け寄って来るのが見えた。大剣を背負った大男だ。この男も外から来た人間のようで、顔の作りが違う。男は辺りの惨状に驚き、顔を歪ませた後で一斬の傍へと急いで近づいて来た。
「お前……もしかして、一斬か……? なぁ、俺はお前の兄さんの知り合いだ。こっちで化け物を見たって話を聞いてな……おい、答えてくれよ。一体何があった?」
焦る様子で問い続ける男はどうやら兄の知り合いらしい、と痛みでぼんやりし始めた頭で考えたが、一斬にまともな思考が出来たのはそこまでだった。骨が折れるかと思うような激痛が全身を包み――内側からせり上がり、人の皮膚も肉も押し上げていく。
「ぐ、あぁ、うあぁ……!」
「おい、どうした!? しっかりしろ!」
何か返事をしたいが喉も焼けるように熱く、一斬の体はどんどん人から違う何かに変わっていった。膨張し、服が裂け、骨格さえも曲げていく。男は様子がおかしい一斬の変化に気が付き、距離を離していった。
そうして、不意に一斬の体から熱が止むと月明りと風に混じった鉄の臭いが心地よく感じ、今度は「腹が減った」と感じた。際限のない空腹感で、何かを食べる事しか考えられない。近くに獣の噛み千切っただろう肉が点々と落ちていたが、これを口に含むのは駄目だと考えた。
生きている肉に、目を向ける。暗闇でも光る金の目が男を見つめる。人ではあり得ない輝きに、男が息を飲んだ。
「フーッ……フーッ……!」
「お前……」
一斬が男の方を向くと涎を舐め取りながら、ゆっくりと形の変わってしまった手を地面に付け、獲物を追い詰めるように近づいていく。迫って来る一斬に男は眉を寄せながら、背負っていた大剣を構えた。
――獲物を仕留めれば、この飢えが晴れるのだろうか。
「グワオォオォッ!!」
獣の咆哮と同時に勢いよく立ち上がったと同時に爪が振り下ろされる。だが、男は剣で受け止めた。人ならざる者になった一斬の攻撃を、男は地面を踏み締め受け止め、勢いよく押し返し弾き返す。
「止めろ! 正気に戻れ!!」
そんな呼び掛けも聞こえたが、一斬にはどうする事も出来なかった。空腹感が突き動かすままに何度も爪を打ち込み、牙を向けても男はその身の丈ほどはある剣を軽々と振っては攻撃を防いでいった。地面を抉り取る爪が剣に当たる度に、金属が擦れぶつかる音が暗闇に響く。
だが相手に攻める気がない事を読んでいるのか、大剣の柄の部分を弾き飛ばすように蹴り上げた。大振りな剣に相応しい重さを持つはずのそれは宙へと舞った。
「くそっ――!」
男は悪態を吐くと咄嗟に横へ飛んで牙を躱し、地面に落ちている刀を拾った。背を向けた隙に距離を縮めた獣が、男に向かい口を大きく開ける。男は素早く振り向き、刃の無い峰を牙へと向ける。牙が刀にぶつかり音を立てた瞬間、青白い光が辺りを包んだ。
そして光が治まると、一斬の体から今まで強く感じていた空腹感が急に治まり始めていた。男の目の前で、自分は刀へとなぜか噛み付いている。困惑した様子で牙を外すと、男にもその変化は分かったようだった。
「ウゥ……?」
戸惑いながら漏らした自身の唸り声に驚き、手を見ると鋭い爪、手には黒い毛並みが生えていて……考えたくは無い想像をしては、顔を押さえる。手に触れる感触も薄いが、どう考えても人の顔ではあり得ない。辺りを見渡すと――地面に刺さっている大剣に自分の姿が映っていた。
――先ほど、家族を食らっていた化け物と全く同じ姿がそこにはあった。
――その姿を見た瞬間、大剣に映っていた獣の口が大きく開き、低い悲鳴のような声が上がった。
辺りを見渡すと、死骸がいくつか落ちている。その中に、見覚えのある短刀が一つ落ちていた。妹が持っていたもので、逃げ出す時も抱えていた。恐らく、最期の瞬間まで抜かれなかったろうそれを、一斬は駆け寄って拾い上げた。鞘から引き抜くと、やはり化け物が映っている。
(……もうどうでもいい。どうでも――)
そして、一斬が己の喉に向かって刃先を向けた瞬間――
「――馬鹿野郎!」
飛び出した男が一斬の手から短刀を弾いた。唸り声を上げる一斬の恨みがましい目に対し、男は目を吊り上げては睨み返す。
「お前の兄さんは、誰かを死なせるためにその刀を打ったんじゃねぇ!!」
――なら、どうしろって言うんだ。
「おい……? 一斬、おいっ!」
急に倒れてしまった一斬に対し、男が焦ったように体を揺さぶる。
十五歳の青年が受け止めるには、多くの出来事があり過ぎた。家族の死も、己の肉体の変化も、全てを受け止めるには一斬は成熟してもいなかった。だからこそ再び意識を落としていく時、一斬は願わずにいられなかった。
――全て、全て夢ならばいいのに。
*
次に一斬が目覚めると、そこは見知らぬ部屋だった。見慣れない木の天井、なぜか揺れているように感じる寝床……自分がどういう状況だったのか思い出すと、勢いよく起き上がる。急いで自分の体を確認すると、ちゃんとした人間の体だ。それに、あれだけ獣に痛めつけられていたはずの傷は塞がっているのか、体に痛みはない。
――もしかして、夢だったのだろうか。
「おぉ、起きたか」
そんな一斬の願いは――自分が殺そうとした男が部屋に入って声を掛けて来た事で砕かれた。
(夢じゃ、なかったのか……)
男から目を背け、俯いて黙り込んでしまった一斬に対し、男は自分の頭を乱雑に搔くと椅子に座って話を始めた。
「お前、暴れ回った後に気絶しちまったんだぞ、覚えてるか?」
「なんで……」
「ん?」
「なんで、死なせてくれなかったんだ……!」
声を震わせ、怒り混じりに言い放たれた一斬の言葉を、男は黙って聞いていた。しかし、睨み付ける一斬に対して男の表情は静かなものだった。そして、部屋の隅に置いていた刀と短刀を寝床の上へと置いた。
「お前は……俺の友人の弟だ。あいつの願いは、自慢の刀を親父に認めて貰って、それを弟や妹にやる事だ……刀に、長寿だのなんだの、色んな願いや念を籠めたって言ってたよ。帰ったら、親父とお袋にも打ってやるって言ってな」
語り掛けるような言葉に一斬はますます目を吊り上げ、刀と短刀を掴む。男を睨んだ瞳には涙が浮かんでいた。
「……その家族が全員殺されたんだぞ、俺だってその化け物と今じゃ同じだ! 何の希望があるって言うんだ? 全部が奪われたのに、生きて何になるんだよ!! あんただって見ただろ? 俺が誰かを食い殺すかもしれないんだぞ!?」
「そんな事、俺がさせねぇよ」
声を震わせながら泣き叫ぶように言い放たれた一斬の言葉に、男がハッキリとそう言い返した。その態度に、今まで怒りをぶつけていた一斬が怯む。そんな戸惑っている一斬に対して、先ほどとは裏腹に男は肩を竦めて見せた。
「俺だって綺麗な生き方はしてないからな、お前に死ぬなとは言わないぞ。ただ、死ぬのは全部試した後でも遅くねぇよ、たぶんな。それまでは俺が面倒見てやる」
信じられない気持ちで男の顔を半ば唖然として見つめる一斬に、男は己の胸を拳で力強く叩いて見せた。
「俺の居る国じゃ、お前みたいな訳ありで人間から外れちまった奴も病気扱いして診てくれる奴が居るんだ。まぁ、最初から診せるつもりでお前を船に乗せたんだが」
「……船?」
「これはエルクラット行きの船さ。お前には西術国って言った方が分かり易いか」
「西へ……行くのか?」
驚きで一斬が目を瞬かせた。男は深い溜息を吐いて、言葉を言いあぐねているのか……少し間を空けて話始めた。
「あの国じゃあ人狼はまだ魔物扱いだからなぁ……あのままだと、お前が処刑されかねなかった。お前にとっちゃ残念かもしれんがな」
鼻で笑い、皮肉交じりな男の言葉に、一斬はまた黙った。だが、それでも男は笑顔を見せると乱暴に青年の頭を撫でた。面食らったように、目を丸くする一斬に男は歯を見せて安心させるように肩を叩く。
「いくらでも俺の事は恨んでくれていい。だがまぁ、死ぬ前にもう少し付き合ってくれや」
その言葉にどう返していいのか、一斬は分からず返事は出来なかった。
「そういえば、自己紹介がまだだったな。俺はアンドリュー・ジョルディス。傭兵だ」
男――アンドリューが大きな手を差し出す。一斬は手を伸ばし、一瞬だけ躊躇した後、手を握り返した。
「俺は……大口 一斬だ」
小さく、無愛想ながらもそう答えた一斬にアンドリューは豪快に笑って見せた。
「そうか……改めてよろしくな、一斬。まぁ、まず向こうの言葉を覚えなきゃならんがな」
「……分かった」
その笑い方が、一斬にはどこか兄に似ているような気がした。友人だと言っているだけあって、性格も似ているのかもしれないと思った。
「素直なのは良い事だ。じゃあ、しばらく休んどけよ」
「刀、置いといて貰っていいか」
アンドリューの笑みが一瞬引っ込んだが、すぐに「いいぞ」と頷いた。
「馬鹿な真似はすんなよ」
「しない。そのための刀じゃないんだろ」
「……分かってるならいい。ゆっくり休みな、色々あり過ぎただろうからな」
柔らかく言い聞かせるようにアンドリューはそう言って立ち上がり、部屋から出て行った。部屋にぶら下がっているランプが、船の揺れと一緒に揺れては軋んだような音を立てている。しばらくその音を聞いて、一斬は短刀を抜いてみた。
日昇国の人間の特徴である、一斬の黒い目は塗り潰したかのように金色になっていた。
「うぅ、うぅ……っ!」
――部屋の中には波の音や船の揺れる音に雑ざり、嗚咽が響き始めた。
啜るような、食い漁るような――汚らしい音。一斬が目を開けると、先ほどの化け物が何かを食ってた。その白い肌と、小さな手と、見覚えのある着物……バラバラに落ちているそれが、元は何の姿をしていたのか――想像は難しくなかった。
――傍に落ちていた刀を拾った。持ち主は居なかったが残骸はあった。
――怒りで声も出なかったが、己の喉奥から獣が唸るような声が上がったのは聞こえた。
音もなく忍び寄るように背後へと近寄り、重かったはずの刀を振り上げる。
「ギャッ――!」
獲物を食べる事に夢中になっていた狼は呆気なく背中を斬られ、倒れ込んだ。よく見ると皮膚にはいくつもの傷が残っていた。それから一斬は悶える狼の上に跨って、無我夢中で両手で柄を握っては振り下ろした。何度も何度も、とにかく刺し続けた。無心だった。
「グァ……アァ……」
やがて最後の断末魔を上げて、狼はぴくりとも動かなくなった。だが、それで終わらなかった。狼は、血を吹き出しながら人に戻って行った。見知らぬ男、普通の人間に見えた。少なくとも、日昇国の人間ではない。
男は何が起こったか分からないような顔をしていたが、血だらけになった一斬を見た瞬間に何かを悟ったようだった。
「あぁ……」
血の塊と一緒に出て来た男の声は掠れ、酷く落胆していたようだった。
「俺は……誰か、殺した、のか……」
酷く弱弱しい言葉だ。異国のものなのか、それとも自国のものなのか、それすらも曖昧な言葉の羅列だった。なのに聞き取れる。その事に、今の一斬は疑問を抱かない。男は震える手で、何かを取り出した。今にも手から落ちそうなそれは、美しい金色のペンダントだった。
「頼む……これを、故郷に……西の、カトリアンナに……届けてくれ……頼む……」
一斬は黙って男を見下ろしていた。その表情はただただ静かなものだったが、死の直前を迎えている男の懇願もどう受け止めているのか、一斬本人にすら判断が付かないものであった。胸の内に渦巻いているのは、初めて己が他者の命を奪おうとしているという困惑、家族を失い今すぐにでも嘆き悲しみたい気持ち、そして何より目の前の男に対する――憎悪と怒り。
「お前なんかの頼みを、俺が聞くと思うか?」
「頼む……頼む……」
屈んで冷たく言い捨てた一斬に、男はか細く繰り返して涙を流していた。その場で斬り捨ててしまう事だって出来たはずだった。それでも、倒れかけていく手から一斬はペンダントを拾い上げた。その瞬間、男は安堵したかのような表情のまま、呼吸を静かに止めていった。
「す、まな、かった……」
――その一言で、一斬の中の何かが切れた。
「すまなかった? 俺の家族を皆殺しにしておいて、すまなかっただと……?」
男はもう何も言わなくなっていた。目は空を見上げたまま、濁り切って何も映さなくなっていた。慟哭に似た声を聞く存在はこの場に誰も居なかった。それでも一斬の口から言葉は止まらない。
「ふざけるな!!」
怒りに任せた一斬が刀を振り上げると、既に屍となった男の首を思いっきり刎ねた。真新しい血が飛んだ。首の無くなった死体の傍で荒い息を吐くと、一斬はその場に崩れ落ち、手から刀を離す。静かになってしまったその場には――命のある者は一人だけ。
「なんで俺も食わなかった……! なんで生かしたんだ……!」
泣き出してしまいたくなる衝動が身を包んだ瞬間――咄嗟に押さえた左肩の、噛まれた場所が酷く熱くなっていった。
「ぐっ……!?」
喉から唸り声が聞こえる。骨の軋む音が聞こえた。息が上がり、涎が零れていく。
「断斬ー! 無事かぁッ!?」
そんな声が聞こえ、熱に堪えながら顔を上げる。息を上がらせて男が一人急いでこちらへと駆け寄って来るのが見えた。大剣を背負った大男だ。この男も外から来た人間のようで、顔の作りが違う。男は辺りの惨状に驚き、顔を歪ませた後で一斬の傍へと急いで近づいて来た。
「お前……もしかして、一斬か……? なぁ、俺はお前の兄さんの知り合いだ。こっちで化け物を見たって話を聞いてな……おい、答えてくれよ。一体何があった?」
焦る様子で問い続ける男はどうやら兄の知り合いらしい、と痛みでぼんやりし始めた頭で考えたが、一斬にまともな思考が出来たのはそこまでだった。骨が折れるかと思うような激痛が全身を包み――内側からせり上がり、人の皮膚も肉も押し上げていく。
「ぐ、あぁ、うあぁ……!」
「おい、どうした!? しっかりしろ!」
何か返事をしたいが喉も焼けるように熱く、一斬の体はどんどん人から違う何かに変わっていった。膨張し、服が裂け、骨格さえも曲げていく。男は様子がおかしい一斬の変化に気が付き、距離を離していった。
そうして、不意に一斬の体から熱が止むと月明りと風に混じった鉄の臭いが心地よく感じ、今度は「腹が減った」と感じた。際限のない空腹感で、何かを食べる事しか考えられない。近くに獣の噛み千切っただろう肉が点々と落ちていたが、これを口に含むのは駄目だと考えた。
生きている肉に、目を向ける。暗闇でも光る金の目が男を見つめる。人ではあり得ない輝きに、男が息を飲んだ。
「フーッ……フーッ……!」
「お前……」
一斬が男の方を向くと涎を舐め取りながら、ゆっくりと形の変わってしまった手を地面に付け、獲物を追い詰めるように近づいていく。迫って来る一斬に男は眉を寄せながら、背負っていた大剣を構えた。
――獲物を仕留めれば、この飢えが晴れるのだろうか。
「グワオォオォッ!!」
獣の咆哮と同時に勢いよく立ち上がったと同時に爪が振り下ろされる。だが、男は剣で受け止めた。人ならざる者になった一斬の攻撃を、男は地面を踏み締め受け止め、勢いよく押し返し弾き返す。
「止めろ! 正気に戻れ!!」
そんな呼び掛けも聞こえたが、一斬にはどうする事も出来なかった。空腹感が突き動かすままに何度も爪を打ち込み、牙を向けても男はその身の丈ほどはある剣を軽々と振っては攻撃を防いでいった。地面を抉り取る爪が剣に当たる度に、金属が擦れぶつかる音が暗闇に響く。
だが相手に攻める気がない事を読んでいるのか、大剣の柄の部分を弾き飛ばすように蹴り上げた。大振りな剣に相応しい重さを持つはずのそれは宙へと舞った。
「くそっ――!」
男は悪態を吐くと咄嗟に横へ飛んで牙を躱し、地面に落ちている刀を拾った。背を向けた隙に距離を縮めた獣が、男に向かい口を大きく開ける。男は素早く振り向き、刃の無い峰を牙へと向ける。牙が刀にぶつかり音を立てた瞬間、青白い光が辺りを包んだ。
そして光が治まると、一斬の体から今まで強く感じていた空腹感が急に治まり始めていた。男の目の前で、自分は刀へとなぜか噛み付いている。困惑した様子で牙を外すと、男にもその変化は分かったようだった。
「ウゥ……?」
戸惑いながら漏らした自身の唸り声に驚き、手を見ると鋭い爪、手には黒い毛並みが生えていて……考えたくは無い想像をしては、顔を押さえる。手に触れる感触も薄いが、どう考えても人の顔ではあり得ない。辺りを見渡すと――地面に刺さっている大剣に自分の姿が映っていた。
――先ほど、家族を食らっていた化け物と全く同じ姿がそこにはあった。
――その姿を見た瞬間、大剣に映っていた獣の口が大きく開き、低い悲鳴のような声が上がった。
辺りを見渡すと、死骸がいくつか落ちている。その中に、見覚えのある短刀が一つ落ちていた。妹が持っていたもので、逃げ出す時も抱えていた。恐らく、最期の瞬間まで抜かれなかったろうそれを、一斬は駆け寄って拾い上げた。鞘から引き抜くと、やはり化け物が映っている。
(……もうどうでもいい。どうでも――)
そして、一斬が己の喉に向かって刃先を向けた瞬間――
「――馬鹿野郎!」
飛び出した男が一斬の手から短刀を弾いた。唸り声を上げる一斬の恨みがましい目に対し、男は目を吊り上げては睨み返す。
「お前の兄さんは、誰かを死なせるためにその刀を打ったんじゃねぇ!!」
――なら、どうしろって言うんだ。
「おい……? 一斬、おいっ!」
急に倒れてしまった一斬に対し、男が焦ったように体を揺さぶる。
十五歳の青年が受け止めるには、多くの出来事があり過ぎた。家族の死も、己の肉体の変化も、全てを受け止めるには一斬は成熟してもいなかった。だからこそ再び意識を落としていく時、一斬は願わずにいられなかった。
――全て、全て夢ならばいいのに。
*
次に一斬が目覚めると、そこは見知らぬ部屋だった。見慣れない木の天井、なぜか揺れているように感じる寝床……自分がどういう状況だったのか思い出すと、勢いよく起き上がる。急いで自分の体を確認すると、ちゃんとした人間の体だ。それに、あれだけ獣に痛めつけられていたはずの傷は塞がっているのか、体に痛みはない。
――もしかして、夢だったのだろうか。
「おぉ、起きたか」
そんな一斬の願いは――自分が殺そうとした男が部屋に入って声を掛けて来た事で砕かれた。
(夢じゃ、なかったのか……)
男から目を背け、俯いて黙り込んでしまった一斬に対し、男は自分の頭を乱雑に搔くと椅子に座って話を始めた。
「お前、暴れ回った後に気絶しちまったんだぞ、覚えてるか?」
「なんで……」
「ん?」
「なんで、死なせてくれなかったんだ……!」
声を震わせ、怒り混じりに言い放たれた一斬の言葉を、男は黙って聞いていた。しかし、睨み付ける一斬に対して男の表情は静かなものだった。そして、部屋の隅に置いていた刀と短刀を寝床の上へと置いた。
「お前は……俺の友人の弟だ。あいつの願いは、自慢の刀を親父に認めて貰って、それを弟や妹にやる事だ……刀に、長寿だのなんだの、色んな願いや念を籠めたって言ってたよ。帰ったら、親父とお袋にも打ってやるって言ってな」
語り掛けるような言葉に一斬はますます目を吊り上げ、刀と短刀を掴む。男を睨んだ瞳には涙が浮かんでいた。
「……その家族が全員殺されたんだぞ、俺だってその化け物と今じゃ同じだ! 何の希望があるって言うんだ? 全部が奪われたのに、生きて何になるんだよ!! あんただって見ただろ? 俺が誰かを食い殺すかもしれないんだぞ!?」
「そんな事、俺がさせねぇよ」
声を震わせながら泣き叫ぶように言い放たれた一斬の言葉に、男がハッキリとそう言い返した。その態度に、今まで怒りをぶつけていた一斬が怯む。そんな戸惑っている一斬に対して、先ほどとは裏腹に男は肩を竦めて見せた。
「俺だって綺麗な生き方はしてないからな、お前に死ぬなとは言わないぞ。ただ、死ぬのは全部試した後でも遅くねぇよ、たぶんな。それまでは俺が面倒見てやる」
信じられない気持ちで男の顔を半ば唖然として見つめる一斬に、男は己の胸を拳で力強く叩いて見せた。
「俺の居る国じゃ、お前みたいな訳ありで人間から外れちまった奴も病気扱いして診てくれる奴が居るんだ。まぁ、最初から診せるつもりでお前を船に乗せたんだが」
「……船?」
「これはエルクラット行きの船さ。お前には西術国って言った方が分かり易いか」
「西へ……行くのか?」
驚きで一斬が目を瞬かせた。男は深い溜息を吐いて、言葉を言いあぐねているのか……少し間を空けて話始めた。
「あの国じゃあ人狼はまだ魔物扱いだからなぁ……あのままだと、お前が処刑されかねなかった。お前にとっちゃ残念かもしれんがな」
鼻で笑い、皮肉交じりな男の言葉に、一斬はまた黙った。だが、それでも男は笑顔を見せると乱暴に青年の頭を撫でた。面食らったように、目を丸くする一斬に男は歯を見せて安心させるように肩を叩く。
「いくらでも俺の事は恨んでくれていい。だがまぁ、死ぬ前にもう少し付き合ってくれや」
その言葉にどう返していいのか、一斬は分からず返事は出来なかった。
「そういえば、自己紹介がまだだったな。俺はアンドリュー・ジョルディス。傭兵だ」
男――アンドリューが大きな手を差し出す。一斬は手を伸ばし、一瞬だけ躊躇した後、手を握り返した。
「俺は……大口 一斬だ」
小さく、無愛想ながらもそう答えた一斬にアンドリューは豪快に笑って見せた。
「そうか……改めてよろしくな、一斬。まぁ、まず向こうの言葉を覚えなきゃならんがな」
「……分かった」
その笑い方が、一斬にはどこか兄に似ているような気がした。友人だと言っているだけあって、性格も似ているのかもしれないと思った。
「素直なのは良い事だ。じゃあ、しばらく休んどけよ」
「刀、置いといて貰っていいか」
アンドリューの笑みが一瞬引っ込んだが、すぐに「いいぞ」と頷いた。
「馬鹿な真似はすんなよ」
「しない。そのための刀じゃないんだろ」
「……分かってるならいい。ゆっくり休みな、色々あり過ぎただろうからな」
柔らかく言い聞かせるようにアンドリューはそう言って立ち上がり、部屋から出て行った。部屋にぶら下がっているランプが、船の揺れと一緒に揺れては軋んだような音を立てている。しばらくその音を聞いて、一斬は短刀を抜いてみた。
日昇国の人間の特徴である、一斬の黒い目は塗り潰したかのように金色になっていた。
「うぅ、うぅ……っ!」
――部屋の中には波の音や船の揺れる音に雑ざり、嗚咽が響き始めた。
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エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
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