東の国の狼憑き

納人拓也

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二章 向き合う覚悟

16 裏切者、人ならざる者、人だった者

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「――これは何事か」

 聞こえて来た声に、チェイシーは言いかけていた言葉を止めた。声のする方には、今来たばかりの男――ノグレスが顔をしかめては辺りを見渡す。
「ごきげんよう、ノグレス。もう全てが終わった後だけどね」
 皮肉交じりなチェイシーの言葉にノグレスはますます眉を寄せては近くの壁を指でなぞる。壁や地面には衝撃を与えられて凹んだ跡がいくつも残っており――倒れている人狼に、飛び散った血、何があったのかは明白だった。
「この付近の住民へ避難を呼びかけていただけだ。まぁ――」

「あ……?」

 ふと、地面に水滴が落ちるような音がした。何が起こったのか分からない――そんな声がした方を見れば、一斬の腹部に刃の赤黒いナイフがいつの間にか深々と刺さっていた。そして、ナイフを握り締めているノグレスはそれぞれの目がある中、いきなり一斬の眼前へと現れていた。避ける事すら出来ないまま、一斬は己に刺さったナイフを呆然と見下ろした。

「――私には全て分かっていた事だが」

 そんな高揚している訳でもなく淡々と言葉を続けたノグレスはナイフを回した後、勢いよく引き抜いた。そのまま一斬の体から血潮が溢れ、痛みを感じるより前に力が抜けたのか、一斬の体は膝から崩れ落ちていった。刃を真っ赤に染めたナイフは、刃そのものが赤黒く染まっていく。ノグレスはそれを虚空へと投げ――ナイフは空中で姿を消した。
 バスクやイヒト、そしてミーシャも何が起こったか分からず呆気に取られている中─―真っ先に動いたのはチェイシー、そして次に動いたのはブライバークだった。

 しかしノグレスは電撃を纏ったチェイシーの足を掴み――皮膚が焦げる音を立てて黒ずむのも構わず力を籠めると、そのままブライバークの方へと彼女の体を振り回すようにぶつけた。体躯のいいはずのブライバークは、そのままチェイシーと一緒にいとも簡単にふっ飛ばされて壁へと叩きつけられる。

 ――あまりにも突然で、一瞬の出来事だった。

 状況を飲み込めず、動けない三人を置いて人狼の傍に居たアイラは素早く鎖を飛ばした。重しを付けているそれが不規則に揺れて、重力を無視するかのようにうねりながら、両腕を縛り付けた。

「やぁねぇ……何をそんなにカリカリしてるのかしら、ノグレス様?」
 無理やり作ったような笑みを浮かべて鎖を引っ張るも身じろぎもしないノグレスは無表情のまま、鎖を見つめる。たったそれだけの動作に、なぜかアイラの背中には悪寒が走った。

「<海神の足枷アク・レシャス>!」

 鎖の先へと付いていた錘から水が溢れる。水流となった水は凄まじい勢いでノグレスの体を飲み込み、彼を包み込んで球体へと変わった。もがこうとしたノグレスの腕や足は、まるで誰かに縛られているかのように直立の姿勢へと無理矢理に動かされる。水の中では、まるで海にでも沈んでいるかのように水圧が中心へと向かいながら掛かっている。

 動きを封じた事で一度安堵したかのような顔を見せたアイラは、すぐに表情を強張らせた。

「えっ……」

 水の中に居るノグレスの体が膨らみ、鎧がその肉体を納め切れず外れていく。顔が毛に覆われていき、服が裂けたかと思えばそこから見えた皮膚にも毛が生え揃う――しかしノグレスの表情は苦し気でもなく、静かなものだった。

「あ、あれ、は……まさか……!」

 次々と起こる信じられない光景に言葉を失っていたバスクが、そこで声を震わせ声を漏らした。

 聖騎士団の鎧を破り現れたのは、白い毛並みを生やし人の骨格を残した――巨大な人狼。

 そしてその人狼が大きく口を開けたかと思えば……水が内側から破裂するように弾け飛んだ。次いで聞こえたのはまるで痺れたかのように肌を震わせるような雄たけび。頭が割れるかのような声に思わず両手が耳を塞ぐ。

 その一瞬の隙を付いた狼はまるで体にバネでも仕込んでいるかのように人狼が飛び出すと、アイラと距離を一気に詰めた。気が付いた時には目の前に迫っており――片腕を上げたかと思えば壁へアイラの体を叩きつけた。

「がっ――!」

 喉から呻き声を上げたアイラはそのまま壁伝いに地面へと音を立てて落ち、そのまま動かなくなった。だが、背後に気配を感じ――人狼が振り返る。

「<天揺るがす槍ライ・カルナ>!」

 チェイシーが電撃を集め――槍状にし人狼へとその矛先を向けて背後に迫っていた。人狼の手に何かが光る――すると突如、火花が弾け電撃が霧散むさんしていき、チェイシーの胸に銀色に輝くナイフが刺さっていた。

「魔力吸収が掛けてある。もう抗えまい」

 人狼がチェイシーの体を蹴飛ばすと、青いドレスの切れ端が散った。跳ねるように飛んだ後、地面に落ちて行ったチェイシーの体が、動く様子はない。ミーシャの悲鳴が上がった。

「チェイシーさん……!」
 血溜まりの中で倒れていた一斬の傍ではイヒトが回復魔法を掛け続けているが、イヒトの表情から焦りの色が消えないままだった。
「一斬さん、しっかり……! どうしてこんな……!」
 傷は塞がっているはずだが、一斬はまるで呼吸でも止められているかのように喉を両手で抑え、汗は噴き出し、目は見開いている。口が水から打ち上げられた魚のように何度も開いては閉じるが、呼吸が出来ていない。
「あなたは……何が目的でこんな事を!!」
 イヒトの怒声が廊下を包んだ。人狼は興味が無さそうに、ゆっくりと足音を立ててミーシャ達の方へと歩いて来る。だが――その人狼の目の前に立ち塞がる者が居た。握り締めた剣先が震えているが、必死に押し殺すように人狼を睨む。

「そ、それ以上、彼らに近づくな! 悪魔め……!!」

 声を震わせながらも、バスクは己を奮い立てながら剣を構えた。怯えや恐怖が拭い切れていない様子なのは誰の目から見ても明らかだった。引け腰になりながらも構えを解く様子はない。

「もはやあなたは……お前は、聖騎士なんかじゃない……!!」
「バスクさ――」

 ミーシャが呼び掛けようとした時、彼の体は既に横へ飛ばされていた。鈍い音を立てて、青年の体が地面へ落ちて横たわる。人狼の白い毛並みに赤い血がへばり付いていて、その血を眺めた後、長い舌が爪先の血を舐め取った。

「聖騎士など、何の意味がある。教会の飾りに過ぎないというのに」

 静かにそう零した人狼の呟きには、どこか失望したようなものがあった。それが何か分からないまま、再びミーシャとイヒトに人狼が向き直る。今度はイヒトが立ち塞がった。
「このような愚行……神がお許しになるはずがありません……!!」
「それは人を主観とした不完全な秤を神と呼んでいるだけだ」
 そう切り捨てた人狼はイヒトの胸ぐらを掴んで持ち上げると、彼の口から苦しそうな呻き声が漏れた。皮膚に爪が食い込んで神父服には血が滲む。

「……何の真似かね」

 人狼の見下ろした視線の先にはミーシャが拳銃を構えて人狼へと向けていた。目は見開かれ、彼女の呼吸は荒く、狙いは震えでブレている。

「古代兵器か、面白い物を持っているな。それで私を撃つのか? その勇気がお前にあるのか?」
「わたし、は……」
「なら――撃つといい」
 あっさりイヒトを投げ捨てるように放り投げ、痛みに耐えるような声と咳き込む声が交互に聞こえた。
「どうした」
 喉をさら|け出し、冷たく見下ろす視線に射抜かれてミーシャは深く息を吸った。それでも震えは止まらないが……顔を上げ、人狼に強い眼差しを向ける。怯えが混ざりながらも、臆しているとも言い難い表情だった。

「――あなたには、撃ちません」

 そう言い切ったミーシャは鞄から何かを取り出すと上空に投げ――それに向かって発砲した。すると、廊下一帯が目を潰すほどの閃光に包まれる。直前で強烈な光を放たれ、人狼の目に焼かれるような痛みが走った。思わず目を押さえてうずくまると、その人狼の体を何かが切り裂いた。

「<風精の刃フィナ・ギラ>!」

 それは人狼にとって聞き覚えのある声だ。風切り音が聞こえ、その場から引くように後ろへと何度も飛んでは躱していく。人狼の再生能力ですぐさま回復した目を開くと――男……マットが剣を振り上げていた。

「うおぉおぉぉ――ッ!!!」

 その剣を受け止めるが、剣を触れた先から熱を覚えたかと思えば焦げるように手は黒ずみ、火にかけられたかのように変色していく。当然、それに伴う痛みは手にあるがそれすら無視しているかのように人狼の目は男から逸らされる事はない。マットは踏み込むのを止め、後ろに飛んで体勢を立て直す。

「何故ですか、ノグレス様……!!」

 マットの声は苦し気に、表情はまるで苦痛を味わっているかのように歪んでいた。一瞬、人狼は驚いた顔を見せたがすぐさま表情を戻す。
「……この変わり果てた姿でよく分かるものだな、マット」
「我が聖騎士団の団長、姿が変わっていても分かるものです。信じたくはありませんでしたが」
 ミーシャの傍でリーンシアがレイピアを構えてそう言った。声から感情は拾い難いが、険しい顔つきで眉を寄せていた。
「リーンシアさん……!」
 泣き出しそうなミーシャの声に、リーンシアは二人の様子を探るように視線をやる。一斬の状態は先ほどと比べて落ち着いては居るが、浅く呼吸を繰り返して未だに震えは止まっていない。視界も虚ろで、健全な状態は言い難かった。
「一斬は?」
「ナイフで刺されて、おそらく毒を……」
 ミーシャの言葉にリーンシアはしゃがみ込むと一斬の額へと手を当てた。目を閉じ、手が淡く緑色の光を放つ、そして……光が収まると、驚いたように目を見開いた。
「これは……毒じゃない――」

「――そうだ、呪いだとも」

 リーンシアの言葉に続くように人狼がそう言った。
「解くには魔法具の破壊が必要だが、この場にはもう存在していない」
 突き放すかのように告げられたその言葉に、ミーシャの表情は生気が抜け――そして、体から力が抜けた。リーンシアも唇を噛み締め、立ち上がる。
「よく耐えた」
 ミーシャ達に短く言葉をかけてからリーンシアは人狼へ視線を戻した。いつも表情を浮かばせない顔には、はっきりとした怒りが露わとなっていた。

「ノグレス団長……私の仲間を傷つけた罪、償って頂きます」
「やってみるといい」

 その挑発めいた言葉に弾かれるようにして、リーンシアとマットは怒号を上げながら二人で斬り込んで行った。金属音と獣の唸る声が聞こえる中、ミーシャは視線を下ろす。伸ばした手は汗でへばりついた髪を掻き分けた。一斬の呼吸はどんどん苦し気に、細くなっていく。もはや一刻の猶予もない状態だという事が分かった。

(どうしたら、どうしたらいいのだろう……このままじゃ、一斬さんが……!)

 その時に漂っていた火薬の臭いで、訓練の時に教えられたブライバークの言葉がミーシャの脳裏に蘇った。

 ――救うためには殺さなければならない時がある。

 ――君の覚悟を確かめる訓練だと思えばいい。

「覚悟……」

 呟いた言葉を噛み締めるように、鉄の冷たさを確かめるようにミーシャは両手で拳銃を握り締めると――



 ――その引き金に指をかけた。
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