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一章 人狼の傭兵
5 雨が上がったら
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村に帰ると村人が総出でミーシャ達を出迎えてくれた。そしてラングレーの治療、一斬に何があったのか事情を聴き、ミーシャも泥の汚れを落とすように促され、落ち着いた頃にはすっかり日が沈みかけていた。目まぐるしい一日だったと窓の外を眺め、思い返し、それから暖炉の前のソファアへと腰かける。
――考えれば考えるほど、父も自分も生きているのがまだ信じられない。しかし現実味はない。夢や本を見ているような、想像上の出来事ではないのかとすら思えた。
しかし体のあちこちに出来上がった擦り傷が、あの出来事を本当の事だと思い出させる。そして何より――ミーシャは手の中にある物を転がした。白いコルク栓のようなそれは、一斬から事前に渡された物だった。合計すると四つ。手の平に収まるほど小さな物が自分の命を守ってくれたのは、ほんの数時間前の事――
「ミーシャ」
色々と考えを巡らせていると意外と長い間物思いに耽っていたらしい、近くまで歩いて来た存在に今更気が付き、ミーシャは慌てて顔を上げた。
「い、一斬さん」
「今日はお疲れさん」
そう言って笑い掛けて、一斬もソファアに腰かけた。暖炉の炎が柔らかく頬を照らし縁取っていた。今着ているのは荷物にあった代えの服らしい。
「親父さん、もういいのか?」
「はい。今は解毒剤も飲んで落ち着いて……あの、これ、お返しします」
手の平に転がしていたコルク栓のような物――正確に表現するのなら耳栓を返した。
「いつも持ち歩いてるんですか?」
「仲間がうるさくてな。魔法の効果がある鳴き声やセイレーンの歌も防げるし、意外と便利だけどな。役に立ったようで良かった」
一斬は二組の耳栓を受け取り、確認すると懐の内側に開いたポケットへと仕舞った。
「今日は本当にありがとうございました」
そう言ったミーシャの言葉、そして笑顔に、一斬はまじまじと彼女の顔を眺めた。視線が一点に向けられるとさすがに気恥ずかしいのか、ミーシャは「なんですか?」と困ったように笑った。
「改めて思うが……よくお前は俺を信じたな、あんな光景を見たのに」
あんな光景――というのは、蛙達の事と――目の前で姿を変えた事もあるのだと分かった。
「えっと、あの時は必死で……今でも色々と信じられませんよ。魔物を初めて見た事も、人狼の伝承が本当だった事も……お父さんの話の事も――」
そこで言葉を切るとミーシャは暖炉の揺れる炎を見つめた。そうすると不思議な事に心が安らぐような、そんな気がした。
「――町に行けるなんて、まだ実感が湧かないんです」
戸惑う訳でもなく、悲しむ訳でもなく、静かに呟くようにミーシャは言った。
「なんだか突然で」
「だが、夢だったんだろう?」
「……手紙の事、一斬さんはどこまで知ってたんですか?」
「ブライバーク先生が助手を雇うってとこと、お前の父親が先生の所に居たって話くらいだな」
――準備し終わって、あなたが行く決心が付いたのなら……エルクラットに居るブライバーク先生の所へ行きなさい。
――町で最も医学に長けている方です。話は通してありますから……ミーシャ、今までよく我慢しましたね。
そう父親に告げられたのは、彼が眠る少し前の事だった。
「逆に……その、一斬さんはどうして私達を信じてくれたんですか?」
「先生の知り合いなら、きっと亜人に理解があると思った。まぁ一か八かだったが……結果的に俺の直感は正しかったな」
そう語っている一斬の表情は穏やかなもので、ミーシャは意外そうな顔をした。先ほどとは違う恥ずかしさに、またしても視線を逸らしてしまった。そうしている間にも二人を照らす炎が火の粉を舞い上がらせて、薪を焦がす。その音だけが静まり返った部屋を包んだ。
「お父さん、てっきり私をずっとここに居させるつもりなのかなと思ってました」
それは独り言に近く、ミーシャはそんな言葉を混ぜながら長い息を吐いた。一斬は黙って聞いていたが、同じように炎を見つめた。そして、何かを思い出すかのように目を細めた。
「俺の兄貴も同じ事言ってたよ。親父はいつまで俺をここに置いとく気なんだろう、って」
「お兄さん、ですか?」
意外そうに目を瞬かせたミーシャを一斬は一瞥し、また暖炉の炎へと目をやり……何かを思い出しては笑った。炎を見つめている、というよりはどこか違う所を見ているような、そんな目だった。
「この大陸――マグナシャハルに行かせろってうるさくてなぁ。毎日親父と喧嘩してた。今よりもっと良い刀が作りたいから、修行に行きたいってさ」
そう言って今も腰に下げていた剣を取り出し、鞘から僅かに刀身を見せた。刀の柄に近い部分、それに何か彫られているのに気が付いた。
「結局は親父が折れたんだ。兄貴は修行に行って、何年かしたらこの国の鉱石と俺の国の鋼を混ぜて作った刀を持ち帰って来た。帰って来た日に自慢げにしててさ、俺に渡して――」
「――同じ日に、俺以外の家族は皆死んだ。人狼に殺されてな」
「生き残った俺も、この様だ」
あっさりとした様子でそう言って、一斬は再び刀を鞘へと納めた。ミーシャはどういう言葉を掛けたら良いのか探し切れず、何も話す事が出来ない。語っている本人の表情があまりにも静かだった事もあったかもしれない。しかし、照らされた顔は誰かの死を悼むように刀身を納めた刀を見つめていた。
「町には……俺みたいな訳ありの亜人も居る。中には、外道に堕ちた奴だって居た」
一斬はゆっくりと顔を上げた。柔らかい明かりのはずなのに、それに照らされている瞳はどこか鋭く、ミーシャを見定めるかのようだった。
「今日みたいな事がお前の身には何度も起こるかもしれない。親父さんはたぶんそれを知ってたんだと思う――それでも、町へ行きたいか?」
その瞳に射抜かれ、問われたミーシャは少しの間、言葉を失っていた。暖炉の火が、小さくなる。雨の名残である寒さが部屋を包みだした。だが、重苦しむ部屋を包む空気は決して寒さだけではないのだろう――ミーシャはそう直感した。
――長く感じられる時間の中、少女は重い口を開いた。
「人狼の事、お父さんから聞きました」
目を反らさず話始めたミーシャに、一斬は何も言わず言葉を待った。
「毒でもなく、病でもなく、呪いでもない……どんな解毒剤も解呪魔法も効かず、人にしか感染せずーーまだまだ原因も分からない、苦しい病気なんだって、お父さん言ってました。ブライバーク先生は、お父さんの恩師で……そんな人達を助けようとしてた人だったって。そんな人の所に行けるのは嬉しいんです。けど――」
そこで言葉を少し置いて、まるで言うのを躊躇うかのように視線を逸らすとミーシャは俯いた。少女の横顔は今にも泣き出してしまいそうな――そんな痛々しさがあった。
「この村に住むハンスさんという方には、奥さんが居ました」
そう切り出したミーシャの声は少しだけ震え、先ほどの一斬と同じく、小さくなった火を見つめているのに視線はどこか遠くを見ているようだった。
「でも難産で……奥さんも赤ちゃんも、一緒に亡くなってしまったんです。お父さんも私も手を尽くしました、それでも駄目で……ハンスさんは凄く悲しんで、怒って……私達にこう言ったんです――」
――何が医者だ! どうして二人は助からなかったんだ! 助けられない医者に意味なんかないじゃないか!
「どうしても助からない命もあります。父はそれで何度も何度も机に本を広げて、思い悩んで……ハンスさんも咄嗟に出てしまった言葉で後悔してしまっていて……」
最後の方には声を大きく震わせ、自身を落ち着かせようとしたのか、己の手を固く繋いで祈るように握っていた。暖炉の火に柔く照らされたミーシャの表情が、痛みを耐えるかのように歪んだ。
「私、もう嫌でした。これ以上、苦しむ父を見るのも、苦しむ人を見るのも――もしかしたら、私はこの村から逃げたかったのかもしれません……おかしいですよね、町に行けるのに、今更こんな事を考えてるなんて」
微かに息を吐いて、顔を上げたミーシャは自嘲気味に笑って見せた。そんな少女に対し一斬は何も言わず、ただ言葉を待った。俯いたミーシャは目を閉じ……次に一斬を見る目は――何かを決意したかのような光があった。
「今まで嫌な思いもした事はありますけど……それでも町へ行きたいっていう想いは消えなくて。そこでもっと沢山学んで、限界まで……助けられる人は助けたい。何もしないままで居たらきっと、後悔する事になるから」
最後までその言葉の熱は落ちる事が無く――勢いよく放たれた言葉の後、二人の間にはしばらく沈黙が流れた。何も言わずに凝視している一斬の視線に――ミーシャの額には緊張のせいか汗が僅かに滲んだ。
――しかし、唐突に一斬が顔を伏せた。
突然目の前で震え、体を丸めた一斬に慌てたものの――その顔が笑みを浮かべていると気付きミーシャは呆気に取られた。それ対して、一斬は破顔し、歯を見せ大笑いし始めた。何が起こったのか分からず、口を開けたままのミーシャの前で喉を鳴らし、耐えるように抑えながらも笑い続けている。
「な、なんで笑ってるんです?」
先ほどまでの空気が一転して崩れ去った事に、ミーシャは付いて行けていない。
「いや、凄いもんだなと思ってな。根性がある。先生が助手に欲しがる訳だ」
困惑、そして笑われた事が不服なミーシャは眉を寄せ睨んだ。睨まれても笑いを治めた一斬は悪びれる様子はない。そんな一人納得したような一斬に対して納得がいかなそうなミーシャの表情に、今度は噴き出すように目の前の男はまた笑い出した。
「一斬さん!」
思わずミーシャも抗議するように声を上げるが、その様子には怒り慣れていないのが分かるほど迫力がないものだった。ますますミーシャが頬を膨らませていき、そこでようやく一斬は笑みを浮かべているものの声を出して笑う事は止めた。
「いや悪い悪い。人狼を見て病人扱いなんてする奴、先生以外に久しぶりに見たからさ」
「だからって笑いますか普通……私、真剣だったのに」
「悪かったって……大丈夫さ、お前さんなら良い医者になれる」
拗ねているようなミーシャに対して、子供をあやすように頭を撫でた一斬の表情はどこか嬉しそうにも見えた。
――考えれば考えるほど、父も自分も生きているのがまだ信じられない。しかし現実味はない。夢や本を見ているような、想像上の出来事ではないのかとすら思えた。
しかし体のあちこちに出来上がった擦り傷が、あの出来事を本当の事だと思い出させる。そして何より――ミーシャは手の中にある物を転がした。白いコルク栓のようなそれは、一斬から事前に渡された物だった。合計すると四つ。手の平に収まるほど小さな物が自分の命を守ってくれたのは、ほんの数時間前の事――
「ミーシャ」
色々と考えを巡らせていると意外と長い間物思いに耽っていたらしい、近くまで歩いて来た存在に今更気が付き、ミーシャは慌てて顔を上げた。
「い、一斬さん」
「今日はお疲れさん」
そう言って笑い掛けて、一斬もソファアに腰かけた。暖炉の炎が柔らかく頬を照らし縁取っていた。今着ているのは荷物にあった代えの服らしい。
「親父さん、もういいのか?」
「はい。今は解毒剤も飲んで落ち着いて……あの、これ、お返しします」
手の平に転がしていたコルク栓のような物――正確に表現するのなら耳栓を返した。
「いつも持ち歩いてるんですか?」
「仲間がうるさくてな。魔法の効果がある鳴き声やセイレーンの歌も防げるし、意外と便利だけどな。役に立ったようで良かった」
一斬は二組の耳栓を受け取り、確認すると懐の内側に開いたポケットへと仕舞った。
「今日は本当にありがとうございました」
そう言ったミーシャの言葉、そして笑顔に、一斬はまじまじと彼女の顔を眺めた。視線が一点に向けられるとさすがに気恥ずかしいのか、ミーシャは「なんですか?」と困ったように笑った。
「改めて思うが……よくお前は俺を信じたな、あんな光景を見たのに」
あんな光景――というのは、蛙達の事と――目の前で姿を変えた事もあるのだと分かった。
「えっと、あの時は必死で……今でも色々と信じられませんよ。魔物を初めて見た事も、人狼の伝承が本当だった事も……お父さんの話の事も――」
そこで言葉を切るとミーシャは暖炉の揺れる炎を見つめた。そうすると不思議な事に心が安らぐような、そんな気がした。
「――町に行けるなんて、まだ実感が湧かないんです」
戸惑う訳でもなく、悲しむ訳でもなく、静かに呟くようにミーシャは言った。
「なんだか突然で」
「だが、夢だったんだろう?」
「……手紙の事、一斬さんはどこまで知ってたんですか?」
「ブライバーク先生が助手を雇うってとこと、お前の父親が先生の所に居たって話くらいだな」
――準備し終わって、あなたが行く決心が付いたのなら……エルクラットに居るブライバーク先生の所へ行きなさい。
――町で最も医学に長けている方です。話は通してありますから……ミーシャ、今までよく我慢しましたね。
そう父親に告げられたのは、彼が眠る少し前の事だった。
「逆に……その、一斬さんはどうして私達を信じてくれたんですか?」
「先生の知り合いなら、きっと亜人に理解があると思った。まぁ一か八かだったが……結果的に俺の直感は正しかったな」
そう語っている一斬の表情は穏やかなもので、ミーシャは意外そうな顔をした。先ほどとは違う恥ずかしさに、またしても視線を逸らしてしまった。そうしている間にも二人を照らす炎が火の粉を舞い上がらせて、薪を焦がす。その音だけが静まり返った部屋を包んだ。
「お父さん、てっきり私をずっとここに居させるつもりなのかなと思ってました」
それは独り言に近く、ミーシャはそんな言葉を混ぜながら長い息を吐いた。一斬は黙って聞いていたが、同じように炎を見つめた。そして、何かを思い出すかのように目を細めた。
「俺の兄貴も同じ事言ってたよ。親父はいつまで俺をここに置いとく気なんだろう、って」
「お兄さん、ですか?」
意外そうに目を瞬かせたミーシャを一斬は一瞥し、また暖炉の炎へと目をやり……何かを思い出しては笑った。炎を見つめている、というよりはどこか違う所を見ているような、そんな目だった。
「この大陸――マグナシャハルに行かせろってうるさくてなぁ。毎日親父と喧嘩してた。今よりもっと良い刀が作りたいから、修行に行きたいってさ」
そう言って今も腰に下げていた剣を取り出し、鞘から僅かに刀身を見せた。刀の柄に近い部分、それに何か彫られているのに気が付いた。
「結局は親父が折れたんだ。兄貴は修行に行って、何年かしたらこの国の鉱石と俺の国の鋼を混ぜて作った刀を持ち帰って来た。帰って来た日に自慢げにしててさ、俺に渡して――」
「――同じ日に、俺以外の家族は皆死んだ。人狼に殺されてな」
「生き残った俺も、この様だ」
あっさりとした様子でそう言って、一斬は再び刀を鞘へと納めた。ミーシャはどういう言葉を掛けたら良いのか探し切れず、何も話す事が出来ない。語っている本人の表情があまりにも静かだった事もあったかもしれない。しかし、照らされた顔は誰かの死を悼むように刀身を納めた刀を見つめていた。
「町には……俺みたいな訳ありの亜人も居る。中には、外道に堕ちた奴だって居た」
一斬はゆっくりと顔を上げた。柔らかい明かりのはずなのに、それに照らされている瞳はどこか鋭く、ミーシャを見定めるかのようだった。
「今日みたいな事がお前の身には何度も起こるかもしれない。親父さんはたぶんそれを知ってたんだと思う――それでも、町へ行きたいか?」
その瞳に射抜かれ、問われたミーシャは少しの間、言葉を失っていた。暖炉の火が、小さくなる。雨の名残である寒さが部屋を包みだした。だが、重苦しむ部屋を包む空気は決して寒さだけではないのだろう――ミーシャはそう直感した。
――長く感じられる時間の中、少女は重い口を開いた。
「人狼の事、お父さんから聞きました」
目を反らさず話始めたミーシャに、一斬は何も言わず言葉を待った。
「毒でもなく、病でもなく、呪いでもない……どんな解毒剤も解呪魔法も効かず、人にしか感染せずーーまだまだ原因も分からない、苦しい病気なんだって、お父さん言ってました。ブライバーク先生は、お父さんの恩師で……そんな人達を助けようとしてた人だったって。そんな人の所に行けるのは嬉しいんです。けど――」
そこで言葉を少し置いて、まるで言うのを躊躇うかのように視線を逸らすとミーシャは俯いた。少女の横顔は今にも泣き出してしまいそうな――そんな痛々しさがあった。
「この村に住むハンスさんという方には、奥さんが居ました」
そう切り出したミーシャの声は少しだけ震え、先ほどの一斬と同じく、小さくなった火を見つめているのに視線はどこか遠くを見ているようだった。
「でも難産で……奥さんも赤ちゃんも、一緒に亡くなってしまったんです。お父さんも私も手を尽くしました、それでも駄目で……ハンスさんは凄く悲しんで、怒って……私達にこう言ったんです――」
――何が医者だ! どうして二人は助からなかったんだ! 助けられない医者に意味なんかないじゃないか!
「どうしても助からない命もあります。父はそれで何度も何度も机に本を広げて、思い悩んで……ハンスさんも咄嗟に出てしまった言葉で後悔してしまっていて……」
最後の方には声を大きく震わせ、自身を落ち着かせようとしたのか、己の手を固く繋いで祈るように握っていた。暖炉の火に柔く照らされたミーシャの表情が、痛みを耐えるかのように歪んだ。
「私、もう嫌でした。これ以上、苦しむ父を見るのも、苦しむ人を見るのも――もしかしたら、私はこの村から逃げたかったのかもしれません……おかしいですよね、町に行けるのに、今更こんな事を考えてるなんて」
微かに息を吐いて、顔を上げたミーシャは自嘲気味に笑って見せた。そんな少女に対し一斬は何も言わず、ただ言葉を待った。俯いたミーシャは目を閉じ……次に一斬を見る目は――何かを決意したかのような光があった。
「今まで嫌な思いもした事はありますけど……それでも町へ行きたいっていう想いは消えなくて。そこでもっと沢山学んで、限界まで……助けられる人は助けたい。何もしないままで居たらきっと、後悔する事になるから」
最後までその言葉の熱は落ちる事が無く――勢いよく放たれた言葉の後、二人の間にはしばらく沈黙が流れた。何も言わずに凝視している一斬の視線に――ミーシャの額には緊張のせいか汗が僅かに滲んだ。
――しかし、唐突に一斬が顔を伏せた。
突然目の前で震え、体を丸めた一斬に慌てたものの――その顔が笑みを浮かべていると気付きミーシャは呆気に取られた。それ対して、一斬は破顔し、歯を見せ大笑いし始めた。何が起こったのか分からず、口を開けたままのミーシャの前で喉を鳴らし、耐えるように抑えながらも笑い続けている。
「な、なんで笑ってるんです?」
先ほどまでの空気が一転して崩れ去った事に、ミーシャは付いて行けていない。
「いや、凄いもんだなと思ってな。根性がある。先生が助手に欲しがる訳だ」
困惑、そして笑われた事が不服なミーシャは眉を寄せ睨んだ。睨まれても笑いを治めた一斬は悪びれる様子はない。そんな一人納得したような一斬に対して納得がいかなそうなミーシャの表情に、今度は噴き出すように目の前の男はまた笑い出した。
「一斬さん!」
思わずミーシャも抗議するように声を上げるが、その様子には怒り慣れていないのが分かるほど迫力がないものだった。ますますミーシャが頬を膨らませていき、そこでようやく一斬は笑みを浮かべているものの声を出して笑う事は止めた。
「いや悪い悪い。人狼を見て病人扱いなんてする奴、先生以外に久しぶりに見たからさ」
「だからって笑いますか普通……私、真剣だったのに」
「悪かったって……大丈夫さ、お前さんなら良い医者になれる」
拗ねているようなミーシャに対して、子供をあやすように頭を撫でた一斬の表情はどこか嬉しそうにも見えた。
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