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16話
しおりを挟むルーファスに抱え上げられ、その腕の中で揺られていると、なんだか体の力が抜けてくる。僕は瞼を閉じて、ルーファスの腕に寄り掛かる。ルーファスはそんな僕を抱えたまま廊下を歩き、階段を上がり、建物の端っこへと向かう。
「サッシャ、鍵は?」
しばらく歩いた後、ようやくルーファスは僕に声をかけた。ぼんやりしたまま顔を上げ目を開けると、ルーファスの美しい真っ青な瞳がこちらを見つめている。
「かぎ?」
それはなんだろうかと思い、首を傾げる。ルーファスはそんな僕を見て、足で蹴ってドアを開けていた。軽いドアは簡単に開いてしまう。
「……壊れたら弁償しなくちゃならないんだから、丁寧に開けて」
「わかった。鍵が壊れているようだから、新しいドアをつけよう」
「え?」
部屋の鍵なんて最初から渡されていないが、他の部屋はついているのだろうか。まあ僕の部屋には盗られるような物は何も置いてないから、鍵なんてあってもなくても変わらない。
「鍵、壊れてたの? 僕、弁償とか出来ないんだけど」
学園を卒業して働き始めたら、お給料が出るだろうからそれまで待って貰えるだろうか。
部屋に入ったルーファスは、僕をそっとベットに降ろしてくれる。それから開きっぱなしのドアを閉めに離れてから、また戻ってきた。
「鍵は俺が直す。気にしなくていい」
「僕が壊したかもしれないのに?」
「一度も鍵をかけたことがないのに、壊せないだろう」
「それもそっか」
この時の僕はぽやぽやとしていて、話している内容の半分も理解出来ていなかった。ただ、早く一人になりたくて、ルーファスの動きをじっと目で追う。
「サッシャ、大丈……」
ルーファスの言葉が途中で止まったのは、きっと僕が大丈夫なわけがないと気がついたからなのだろう。僕はルーファスを安心させるように、ニコッと笑う。
「僕は平気だよ。ルーファス、助けてくれてありがとう。それに、ここまで運んでくれて」
「……ああ」
ルーファスは笑っている僕に手を伸ばしたが、途中でその手を止めた。触れることを僕が嫌がるかどうか確かめることすら躊躇するその動きに、ルーファスの優しさを感じる。
「僕は本当に大丈夫」
もう一度言えば、ルーファスはほっとしたように小さく息を吐き出した。その時、ドアがノックされる音が聞こえてきた。
「誰だろう……」
ほんの少し怯えた声になってしまった。しまったと思った時は、もうルーファスが僕を背に庇うように立ち、振り返ってドア越しに誰何する。
その声は僕には向けたことのない、冷たくて温度のない声だった。
「誰だ」
「……キンケイド侯爵令息様、第三王子殿下より温かいお茶をとのことで、お持ちいたしました」
廊下にいる人物は王子の指示で来たようだった。ルーファスは一度僕に視線を向けてからドアに近づき、薄く開けて何かを受け取っている。すぐにドアは閉められ、ルーファスがベッドに戻ってきた。
ベッドの横にある勉強机の上に、受け取った籐籠を置いた。籠の蓋を開けると、クッションに包まれたティーポットとカップが出てくる。ルーファスはテキパキとお茶を入れて、僕に差し出してくれた。
「あり、がとう……」
繊細な草花の描かれた真っ白なティーカップは、割ったらいくらいするんだろうと思うとじっくり見ることも出来ない。
でも入れられた紅茶はいい匂いがして、ソーサーを膝に置くと行儀は悪いだろうが両手でカップを持ってふうふうと息を吹きかけてから一口飲む。温かい液体が喉を通り、胃の中に落ちてそこから温かさが体に広がる。
ほっと息を吐き、湯気をたてるティーカップの中身を見つめながら、どうしてこんなことになってしまったのかと、ぐるぐると答えの出ない考えが回り始めた。
(あ、これ良くない兆候だ。頭、空っぽにしなきゃ……)
こんな風に決して答えが出ないことを考えるのは、精神衛生上忌避すべきことだ。僕はそれを経験上良く知っていた。前世だけど。
「ルーファス、お茶をありがとう。あの……」
もう帰っても大丈夫と言う前に、目の前に小さな皿が出された。そこには焼き菓子……、クッキーが乗っていた。絞った生地にドライフルーツとナッツが乗っている見た目も綺麗で可愛いクッキーだ。食欲はなかったが、差し出されるまま一つ摘んで食べれば、サクサクして香ばしく、甘くてとても美味しかった。
(これが普段ルーファスが食べてるクッキーかぁ……)
僕が作ったクッキーなんて、クッキーじゃない。ただ小麦粉とバターと卵、砂糖を混ぜて焼いただけの物だ。こんな美味しいクッキーを食べ慣れているルーファスが、僕のクッキーを美味しいと言ってくれたのは、優しさなのだろうと思う。
それなのに、お礼にまたクッキーを作ってあげようなんて烏滸がましいことを考えて、その所為でこんなことになってしまった。
「サッシャ?」
考え込んでしまった僕に心配げなルーファスの声が聞こえる。僕はにこやかに見えるよう唇を笑みの形にして答えた。
「このクッキーすごく美味しいよ。ルーファス、クッキー好きでしょ? 食べてみなよ」
「……」
ルーファスは僕と勉強机の上にあるクッキーの入った缶を見つめて、それから腕を伸ばしてそれを掴む。何故か眉間に皺を寄せながら、齧っている。
「美味しい?」
僕の問いにルーファスは首を横に振る。
「サッシャのクッキーが美味しい」
ルーファスは本当に優しい。僕が嬉しくなる言葉をいつだってくれる。今日、ルーファスは寮の部屋に戻って外に出ないでくれと言っていた。その約束を破って、厨房に行ったからこんなことになったのに、責めるような事は一言だって口にしない。
あの見習い料理人は、僕が誘ったとか言っていたのに、一瞬だってそれを信じなかった。僕のことを、信じてくれていた。
この件で僕が悪いなんて全く思わないけれど、それでもルーファスに迷惑をかけてしまったと思う。
右手で摘んでいたクッキーの残りを口に放り込み、左手に持っていたカップから紅茶をごくごくと飲み干す。ふう、と肩で息を吐いてから、僕はカップをソーサーに戻して手に持つとベッドから立ち上がる。床に足が着いた途端、少し揺れてしまったが、もう足は震えていなかった。元気になれたのは、全部ルーファスのおかげだ。
「紅茶とクッキーをありがとう。あ、そうだ」
僕はカップとソーサーを勉強机に置く。そしてポケットを探って、昨日ルーファスに借りたハンカチを取り出した。きちんと手洗いしてアイロンもかけて、ピカピカのハンカチだ。
「昨日借りたハンカチ、ちゃんと洗ったから大丈夫だと思う」
綺麗なハンカチは肌触りもよく、高価な物なのだろう。涙を拭いてくれた時、少しもざらついたりせず、柔らかで肌に優しかった。
「ありがとう、ルーファス」
「……」
ルーファスはじっとハンカチを見つめていて、その後、ゆっくりと僕の手からハンカチを受け取ってくれた。
「もう泣かないか?」
静かな声だった。
「……泣かないよ」
声が震えないようにするので精一杯で、それ以上何も言えない。
「これは?」
ルーファスの手が伸びて、目の下の濡れた場所を指の腹で拭ってくれる。
「泣いてない!」
「ああ、そうだな」
ルーファスは一歩僕に近づいて、後頭部に手を回して引き寄せた。温かいルーファスの体に包まれて、抱き締められたら嗚咽が漏れる。
「……っ」
ゆっくりと背を撫でられる。優しくて温かくて、ルーファスの腕の中はとても安心出来た。ひと撫でごとに手が触れている場所から温もりが染み込んで、冷えた心を温めてくれる。おずおずと腕を伸ばしてしがみつくように、ルーファスの体を抱きしめた。
ますます強く抱きしめられ、僕は涙が決壊したように、ルーファスの服をびしょ濡れにしたのだった。
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