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十章

夜明け

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 繰り返す波音が耳底を打つ。吹き抜ける風が頬を撫で髪を揺らす。浮き立つ心に駆け出したいが、リリアルーラはサジャミールが搦めた指にしっかりと繋ぎ止められている。
 手を繋いで歩いているだけなのに、たまらなく幸福だ。隣を歩く美丈夫は、熱の籠もった視線で秒毎に愛を告げてくれる。繋いだ手から伝わるぬくもりは、優しくも穏やかなのに狂おしく熱いようにも思える。
「サジャミール様、大好きです」
 ためらうことなく口にすれば、サジャミールはうっとりするような笑顔を浮かべた。
「風に凪ぐあなたの髪は、羽のようだ。こんなに近くにいるのに、どこかへ飛んで行ってしまいそうにも思える」
 だが、その瞳は紺碧に沈んでいて、ひどく痛ましい。どうしてそんなに悲しそうなのだろう? どうしてそんなことを言うのだろう? 自分は今、愛を告げたのに。
「どこかへ飛んでいってしまいそうなんて、そんな。私――」
 突然視界が切り替わり、一切の光がない暗闇に包まれていた。一瞬どこにいるのかわからず息を呑み、ごとごとと揺れる馬車にリリアルーラは我に返る。夢を見ていたのだ。
「私、寝てたのね……」
 座椅子にもたれた背中と腰が軋む。いつの間に眠ってしまったのだろう。
「夢、なのね……」
 耳底には未だ波音が響いている。鮮烈な風の匂いも思い出せる。だがあれは夢で、リリアルーラは今、砂漠にいるのだ。海――サジャミールの王宮からは秒毎に離れ続けている。
「どこにも行きません、なんて、言わなくて良かったわ」
 ぽつりと呟いた途端、身体の芯から凍るような絶望が湧いた。夢の中でもサジャミールには嘘をつきたくないなんて、今さら何を。嘘をつくよりひどいことをしたのに。
 あまりの寄る辺なさに、「夜の砂漠は寒いから」とイルマが用意してくれた外套ごと自分を抱きしめた。だが、ぶ厚くも軽く優しい布地は心まであたためてくれない。行儀が悪いのは承知で靴を脱ぎ、座席に深く座り込んで膝を抱えた。
 その時、足首に走ったひんやりとした感触にリリアルーラは戦慄した。たった数日で身体に馴染みきっていた足輪が、忘れるなとばかりに存在を訴えてくる。
(魔除けと守護を果たし、あなたに幸運をもたらすように) 
 サジャミールの声が蘇った。夜闇にも明るい碧の瞳が一瞬で潤む。あの時から彼はリリアルーラの幸福を祈ってくれていたのだ。きっともう、あの時には愛されていた。初めての謁見の時から彼は、リリアルーラに運命を感じたと言っていた。それを信じなかったのは、軽んじたのは――。
「あ、あ、ああ……」
 ぼろぼろと大粒の涙が零れ落ち、喉奥から嗚咽が溢れる。バイフーラに戻るまでは、絶対に泣かないと決めていたのに。
 サジャミールの元を去ることに後悔はない。それ以外選べなかった。キリアから恐ろしい言葉をぶつけられた。リリアルーラを忌む呪詛を、たった一日でうんざりするほど耳にした。もしリリアルーラが砂漠の出身なら――いや、「禍の姫君」などという呼び名を冠していなければ違ったかもしれない。だが、仮定の話をしたところで現実は覆らない。
 あのまま王宮に残れば、必ずやリリアルーラは争乱の種となっただろう。ただでさえ不穏なシャファーフォンに、大いなる戦禍をもたらすかもしれない。
 離別は耐え難く、心だけでなく全身がばらばらになりそうな痛みを覚えている。サジャミールはリリアルーラの運命、生涯ただ一人の恋人。彼以外には決して誰も愛せない。
 バイフーラに戻ったら、修道院へ入ろうと決めている。そうして、サジャミールとシャファーフォン王国の幸福を祈って暮らすのだ。不名誉な呼び名を持つ姫君が嫁ぎもせずにのうのうとのさばっていてはバイフーラに禍を呼ぶ。リリアルーラは「禍の姫君」だから。
(幸福になるための運命以外、捨ててしまえばいい)
 ルーユアンの声を思い出したリリアルーラの胸を、更なる痛みが貫いた。運命に出会えば幸福になれると思っていた。永劫続く幸福に包まれると信じていた。
 しかし耳をすまし目を見開きすべてを見定め、愛の本質と痛みを知り、かつての自身が間違っていたと知った。その上で、愛した。全身全霊で、愛した。
 だからリリアルーラは、サジャミールを守ることを選んだ。それこそがリリアルーラの運命で、愛だと。自らの幸福と引き換えに、すべてを捨て去ることなどできないから。
 今にも叫び出しそうな自分を、リリアルーラは必死で堪える。今すぐ馬車を降りて王宮へ駈けていきたい想いを殺す。
 堪えきれない嗚咽が喉を震わせ、干上がるのではと思うほど涙が落ちる。泣きすぎたせいか、割れんばかりに頭が痛む。後悔はなくとも未練はある。もう二度と会えないと思えば、このまま息絶えてしまいたいと思う。だがそんなこと、彼女自身許せるはずもない。
 しゃくり上げた拍子に、小窓に掛かるカーテンが揺れた。かすかに覗いた外に明るさを認め、リリアルーラは腰を上げる。
 うす青い光が砂漠を満たしている。地平線の彼方は濃い青に染まっているが、たなびく雲はオレンジ色を帯びている。
「もう、朝……」
 深夜を随分と回ってようやく、王宮を出られた。兵の目をかいくぐったわけではなく、正式な手順を踏んだ分だけ時間がかかったのだ。あれから数時間しか過ぎていないのに、果てしなく遠くへ来た気がする。もう、リリアルーラの足では絶対に王宮に戻れない。
 ひたひたの絶望が胸を蝕む。枯れることのない涙が頬を濡らす。しかし、はっと息を呑んだリリアルーラの涙が止まった。濃い青に染まっていた遠い地平線が白とオレンジを帯びている。窓に張りつきその根源を確かめると、はるか後方に金の光が見えた。
 夜明けだ。うす青い世界に金が瞬く。刻一刻と夜が去っていく。
「海、だわ」
 碧の瞳から涙が噴き出した。風紋たゆたう砂漠に、金の光が舞う。サジャミールと並んで見た夜明けの海、きらきらと瞬いていた波のように。
「サジャミール、様……」
 愛しい王の名を呼んだリリアルーラを、滂沱の涙が濡らす。会いたい。会えない。二度と会わない。決して忘れはしないけれど。いついつまでも、どんな瞬間も愛するけれど。
(愛してる、リリアルーラ、私の小鳥……)
 リリアルーラはしゃくり上げた。本当に、小鳥だったら良かった。そうしたら何も気にせずサジャミールの元へと飛べた。
「あ……」
 唐突な天啓がひらめいた。サジャミールの肩帯に踊っていた一羽の小鳥。あれは、リリアルーラの部屋の天蓋で翼を広げていた小鳥と同じ意匠ではなかったか?
「あ、あ、あ……」
 ただの偶然かもしれない。あるいはリリアルーラの思い込みかもしれない。だが、サジャミールが王として身に纏った肩帯に、小鳥が縫い取られていたのは確かだ。小鳥――リリアルーラ。信じられない程深い愛を注がれていたことを今更思い知る。
(魂はいつもあなたの傍に)
 この世の誰より愛しい声が、こだまのように脳裏に響く。リリアルーラは目を見開き小窓の外に広がる青空を焼きつけた。バイフーラの空へと繋がる砂漠の空を。
「サ……じゃ――」
 狂ったように号泣するリリアルーラはもうまともな言葉を紡げず、サジャミールの名さえ呼べない。だから心で強く思う。
 魂の一部をここに置いていこう。そうして、遠い空の果てから幸いを祈ろう。翼はないけれど、心は自由に飛べる。小鳥はいつもあなたの傍に。私の愛は砂漠の王のもの。
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