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7章

サジャミールとリリアルーラ、ルーユアン あるいは婚約について

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「それは無理だね」
 すぱっとルーユアンが言い切り、リリアルーラは目を剥いた。兄王太子は今も麗しく優美な笑顔を二人に向けている。だが、今しがたその口から放たれたのは拒絶以外の何ものでもない。
 三人は青の間、紗幕が下ろされた内側――玉座(とリリアルーラが思い込んでいる)の辺りに座っている。今日はクッションのようにふかふかした素材は敷かれておらず、ぶ厚い絨毯のみが敷かれていた。
「ああ、そう剣呑な顔をしないでいただけるかな。僕が無理だと言ったのは婚約発表の件であって、きみたちの婚姻自体は否定しない。リリアルーラが決めたことだからね」
「何故、発表が無理だと?」
 サジャミールの声は穏やかで、剣呑さは微塵もない。そっと目を上げ隣に座る彼の表情を窺ったが、声と同じく穏やかにしか見えなかった。
「式典は明後日です、サジャミール陛下。初めて国外からの賓客を迎える式典なればこそ婚約発表をとのお気持ちは重々理解できますが、バイフーラの父王の元に使者を届ける時間がありません。王女リリアルーラの婚姻に関しては選択権が彼女に委ねられておりますが、国と国の結びつきに関することならば、国王代理たる私でも容易く許可を致しかねます」
「これは失礼した、ルーユアン殿下。確かにあなたの仰るとおりだ。今すぐ早馬を出しましょう。無論明後日までに使者が着くことはないでしょうが、できるだけ早く……発表できるように」
「それは、婚約発表に関しても相談に乗って欲しい、ということでよろしいでしょうか?」
「話が早くて素晴らしい。ルーユアン殿下の聡明さには頭が下がります」
 リリアルーラはドギマギしながら兄王太子とサジャミールを代わる代わる窺う。二人ともかすかに笑みを浮かべ穏やかな口調で話しているが、どうにも雰囲気が恐ろしい。これが「剣呑」ということなのだろうか。あるいは政治的な話は常にこのような緊張感に包まれているのだろうか。王女と言えどもそうした場には出席できなかったから、彼女には何もわからない。
 アーニャがいてくれたら、とリリアルーラは心底思う。彼女ならこの場をやんわりと宥めてくれただろうし――いや、いつまでも頼っていてはいけない。結婚してバイフーラを離れたら、彼女とも離ればなれになる。もしかしたら着いてきてくれるかも――だから、頼ってはいけない。
「あの、早馬って、どれくらいでバイフーラに届くのでしょう」
 思いの外甲高い声になってしまった。恥じ入るリリアルーラを、サジャミールがやさしく見つめる。ルーユアンの目も心なしか和らいだ。
「そうですね……四日……いえ、三日で届けるように申しつけます。一週間もあれば返信をいただけるかと」
「ええっ」
 先ほどよりも甲高い声に、リリアルーラは思わず口許を覆った。はしたないにも程がある。だが、驚きの一言に尽きた。途中でイーガンシア帝国を経由したとは言え、こちらへの移動にはのべ十日を要した。それが、三日。
「シャファーフォンで最も速く強い馬と、頑健な兵士を向かわせます。必ずや期待に応えてくれるでしょう」
「無理を、させるのは……」
「時には無理も必要です。……あなたは本当に可愛らしいですね、リリアルーラ」
「ところで」
 見つめ合う恋人同士をぶった切るように、ルーユアンの声が響いた。ハッと前を向けば、空色の瞳が彼女をまっすぐに見つめている。
「は、はい、お兄さま、なんでしょうか」
「リリアルーラはサジャミール陛下を運命だと認めたんだね?」
「はいっ、サジャミール陛下こそが私の運命と……」
「間違いない? 初めて謁見した後はわからないと言っていただろう」
 リリアルーラはあたふたと首を振った。だが、あの日のことを詳しく話せはしない。夜明け前に部屋を抜け出し海へ行き偶然の出会いを果たしたことは勿論、謁見の際のあれやこれやも絶対に。
 しかし「一目でわかる」のが運命の相手なのだから、兄の指摘はもっともだ。致し方なく、リリアルーラは一度自身に言い聞かせた想いを口にする。
「サジャミール様があまりにも魅力的なので、誰しも……運命を感じて当然かもしれないと思ったんです。それに、あんな思いに囚われたこともなくて、私」
「もういいよ、わかった。やれやれ、可愛い妹の恋の話を聞くのがこうも胸にクるとはね……知りたくもなかった発見だ。父王には僕からも書状をしたためよう。僕の妹は骨抜きだってね」
「お兄さま!」
 ルーユアンはリリアルーラの抗議をいなし、サジャミールを見つめた。
「共に届けていただいてもよろしいでしょうか、サジャミール陛下」
「ええ、勿論」
「では、申し訳ありませんが一度部屋に戻らせていただきます。書状が書け次第サジャミール陛下にお届けしましょう。この後は執務室にいらっしゃいますか?」
「はい、変更があればお知らせします」
 サジャミールが答えるやいなや、ルーユアンは立ち上がった。紗幕をさっと引き上げる。リリアルーラは慌てて口を開けた。
「お兄さま、アーニャは今日も忙しいと聞いたけれど、少しも時間は取れない?」
「うーん、時間が取れるとしても夜中になるだろうね。アーニャには僕から話しておくよ。寂しくさせてごめんよ、リリー。明日の朝こそ、三人で朝食を食べよう」
 ウインクをしてルーユアンが去って行く。声をかけることさえ憚られるような早足だ。すぐに扉が開いて閉まる。
 ふ、とサジャミールが息を吐いた。
「発表が遅れるのはともあれ、認めていただけて、何よりでした」
「……反対されることはないとわかってましたが、私も、ほっとしました」
 二人は幸福な表情で見つめ合う。伸びてきたサジャミールの腕がリリアルーラをかき抱き、すっぽりと包むように膝に載せた。口づけの雨を降らせる。
「サジャミール様、くすぐったい……」
「少しだけ、お許しを。今日はもう、あなたが起きている間にはお会い出来ないでしょうから」
 途端、リリアルーラは我に返る。明後日が式典なのだ。そんな忙しい時ならば、この時間を取ることすら難しかっただろう。
「夜中、あなたの部屋を訪ねることを許していただけますか? あなたの隣で眠りたい。今夜は起こしたりはしませんから」
「ずっと、ずっと、お待ちしております」
「駄目ですよ。あなたが起きていては、いけないことがしたくなります」
 くすくすとサジャミールが笑い、甘さがリリアルーラの胸をひたひたに満たしていく。あふれんばかりの想いはしかしリリアルーラの胸を突き破ることなく、ただただ深さと広さを拡げていく。
 星が散るように煌めく青い瞳をじっと見つめ、星が散っているのはサジャミールの瞳ではないとリリアルーラは気づく。彼女の視界の全てが、輝かしくも瞬いている。
 思えばリリアルーラは、恋の美しい側面を初めて目の当たりにしているのだ。つらさや悲しさは今やすべて霧散し、揺るぎない想いだけがここにある。そうして、恋人も同じ思いであることを、熱烈な眼差しが告げている。その幸福と喜びよ。 
「それでは、夢の中でお待ちしております……」
 恥じらいと愛情に満ちた言葉が、サジャミールの唇に吸い込まれた。
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