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三章
謁見(失神)
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顔を上げたリリアルーラを、胡座をかいて座った美丈夫が射貫く。後ろに撫でつけられていた金髪は、頭に巻き付けたターバンに覆われているが、金獅子の名にふさわしい金色がかすかに覗いている。
リリアルーラの心臓は、今や呼吸すら苦しいほどに脈打っていた。眩暈に似た感覚が足を竦ませる。
『退け。誰も通すな』
リリアルーラに話しかけたのとはまるで違う強い調子で、国王はシャファーフォン語で言い放った。短く答えた兵士たちが扉を目指すと同時に、イルマの気配が遠ざかる。
正直リリアルーラも一緒に逃げ去りたい。このままでは脈打ちすぎた心臓が止まってしまいそうだ。そもそも何故国王は、皆を退出させたのだろう。
「リリアルーラ姫、どうぞこちらへ」
国王は柔らかく微笑み、自らの隣を示した。国王の隣? だがそこは玉座のはずだ。様々な感情がリリアルーラの胸に去来するが、誘いを断る術は見つからない。震える膝に力を込め、玉座へと歩む。
「靴は脱がなくて……いえ、脱いでいただいてもよろしいですか?」
「失礼いたします」
リリアルーラの口はカラカラに乾いていて、返した声も掠れていた。立ったまま靴を脱ぐのははしたないだろうと赤い布に覆われた床に膝をつくと、まるでクッションであるかのように深く沈み、リリアルーラは姿勢を崩してしまった。
「きゃっ」
「おっと。大丈夫ですか? リリアルーラ姫。足元が沈むと最初に伝えておくべきでした」
リリアルーラの細い肩を、大きな掌が支えている。逞しさにすっぽりと包まれるような安心を感じたのも一瞬、とんでもない失態だと慌てる。絨毯に手を付き、恐る恐る身体を引こうとして――手を放してくれない国王を見上げた。
「シャファーフォン王国国王陛下、みっともないところをお目にかけて、申し訳ございません……もう、大丈夫ですから、お手を」
「サジャミールと呼んでください」
「サジャミール陛下、手を」
「陛下を付けなくても結構です」
愉快そうな調子は、リリアルーラの混乱を楽しんでいるかのようだ。もう、どうしていいかわからなくなってきた。そうだ、靴、靴を脱ぐのだ――肩を取られたままでは動けない。八方塞がりだ。
「手を、放していただかなければ、靴が脱げません。サジャミール様、どうか、手を……きゃああああ」
リリアルーラの肩を支えていたサジャミールの手が脇へと移動し、彼女をふわりと抱き上げた。急に身体が浮いた衝撃に思わず叫んでしまったリリアルーラだが、次の瞬間、あらゆる声を失った。
サジャミールの膝の上に、横抱きに座らされている。
「あなたの髪は羽のようだと言いましたが、身体も羽のように軽いんですね」
本能的に縮こまった身体をぶるぶる震わせるリリアルーラは、楽しげな声にも反応できない。
だが、見下ろしてくるサジャミールの瞳が、先ほどよりも深い青に沈んでいることに気づいた。頭に巻き付けられたターバンから垂れた布が、影を作り出しているのだ。夜明け前の海に似ていると感じたことを思い出したリリアルーラは、こんな時に何をと、ようやく我に返った。
「サジャミール様、お戯れはお止めください」
やっとのことで声を絞り出せば、サジャミールはくっきりとした眉を軽く上げた。
「リリアルーラ姫は、私が気まぐれに女性を膝に載せて楽しむ不埒な男だと思っておられるのですか?」
そんなことを問われても、実際リリアルーラは承諾もなしに彼の膝に抱かれている。これが戯れ以外のなんだというのだろう。だいたい、男性の膝に抱かれたことなど今までない。父王にされたとしても、リリアルーラが物心つく前だ。
「肩から手を離さなければ靴が脱げないと仰ったので、そんなことはないと伝えたかったのですが」
にこやかな笑顔で言いきり、サジャミールは手を伸ばしてリリアルーラの足首に触れた。そのまま大きな手を滑らせ、リリアルーラが履いた靴の踵を掴む。
片方の靴がするりと脱げた。
「ね? 簡単でしょう?」
そうですね、と笑って返せるだけの度量も経験もリリアルーラにはなく、今や彼女の目には涙の薄い膜が張っていた。リリアルーラは、シャファーフォン王国国王陛下への謁見に訪れたはずだ。たった一人でも、王女らしく振る舞い挨拶をこなすつもりだった。
それがどうして、こんなことに。
何よりリリアルーラを動揺させているのは、サジャミールの手が離れた今なお、じんじんと痺れるような足首だ。爆発しそうな心臓より、そちらの方が気にかかる。呼吸が苦しいのは、変わらないのに。
「私が怖いですか、リリアルーラ姫」
リリアルーラは、どう返していいかわからない。
こんなことをされているのに、なぜか恐怖は感じていないのだ。怖いというなら、自分の方が恐ろしい。何故、彼の逞しい太腿に支えられた臀部まで痺れ始めているのだろう。何故、彼の声はこんなにも甘く聞こえるのだろう。
「怖くはありませんが、困ります……」
消え入りそうな声で告げるのが精一杯だ。だが、これでわかってくれる気もした。サジャミールとて国王、嫁入り前の王女に対し、過ぎたいたずらをしかけていることなど承知だろう。
「怖くないなら、良かったです」
リリアルーラは愕然とする。何ひとつ、伝わっていない――。それどころか、サジャミールは嬉々として彼女の手を取り、にっこりと微笑んだ。
柔らかく細められた青の瞳に、星が舞っているようだと思う。いや、星は、視界のすべてに散っている。握られた手首が熱い。下半身の痺れが加速し、疼きに変わっていく。
「リリアルーラ姫、あなたに怖がられたくはありませんから」
サジャミールの声は甘い毒のようだ。
そんな風に見つめないで欲しい。眩しすぎる。手首が、いや、全身が熱い。耳から流れ込んだ毒が、上半身に回っている。下半身はとっくに、感覚すら定かではないのに。浅い呼吸を繰り返すリリアルーラの鼻腔を、高貴な香りが冒す。熱がますます高まってきた。
「サジャミール、様……」
リリアルーラは息も絶え絶えに国王の名を呼んだ。止めてくれ、と言いたいのに、それ以上続けられない。名を呼ばれたサジャミールが、幸福そうに微笑んでいる。何がそんなに幸福なのか。リリアルーラは、今にも死んでしまいそうなのに。
じっとリリアルーラを見つめているサジャミールが、青い瞳を眇めた。
「お願いがあるのです。リリアルーラ姫」
「なんでしょうか……」
シャファーフォン国王の願いなら、聞かざるを得ないだろう。姿勢を正すついでに、取られた手首を引こうとしたリリアルーラが凍りつく。手首に感じる柔らかくも温かな感触。サジャミールが、彼女の手首に口づけている。
もう、限界だった。リリアルーラの視界に瞬いていた星が一斉に爆発し、彼女の意識を失わせる。
だからリリアルーラには、サジャミールが続けた言葉が聞こえていなかった。
「私の妻になっていただけませんか?」
リリアルーラの心臓は、今や呼吸すら苦しいほどに脈打っていた。眩暈に似た感覚が足を竦ませる。
『退け。誰も通すな』
リリアルーラに話しかけたのとはまるで違う強い調子で、国王はシャファーフォン語で言い放った。短く答えた兵士たちが扉を目指すと同時に、イルマの気配が遠ざかる。
正直リリアルーラも一緒に逃げ去りたい。このままでは脈打ちすぎた心臓が止まってしまいそうだ。そもそも何故国王は、皆を退出させたのだろう。
「リリアルーラ姫、どうぞこちらへ」
国王は柔らかく微笑み、自らの隣を示した。国王の隣? だがそこは玉座のはずだ。様々な感情がリリアルーラの胸に去来するが、誘いを断る術は見つからない。震える膝に力を込め、玉座へと歩む。
「靴は脱がなくて……いえ、脱いでいただいてもよろしいですか?」
「失礼いたします」
リリアルーラの口はカラカラに乾いていて、返した声も掠れていた。立ったまま靴を脱ぐのははしたないだろうと赤い布に覆われた床に膝をつくと、まるでクッションであるかのように深く沈み、リリアルーラは姿勢を崩してしまった。
「きゃっ」
「おっと。大丈夫ですか? リリアルーラ姫。足元が沈むと最初に伝えておくべきでした」
リリアルーラの細い肩を、大きな掌が支えている。逞しさにすっぽりと包まれるような安心を感じたのも一瞬、とんでもない失態だと慌てる。絨毯に手を付き、恐る恐る身体を引こうとして――手を放してくれない国王を見上げた。
「シャファーフォン王国国王陛下、みっともないところをお目にかけて、申し訳ございません……もう、大丈夫ですから、お手を」
「サジャミールと呼んでください」
「サジャミール陛下、手を」
「陛下を付けなくても結構です」
愉快そうな調子は、リリアルーラの混乱を楽しんでいるかのようだ。もう、どうしていいかわからなくなってきた。そうだ、靴、靴を脱ぐのだ――肩を取られたままでは動けない。八方塞がりだ。
「手を、放していただかなければ、靴が脱げません。サジャミール様、どうか、手を……きゃああああ」
リリアルーラの肩を支えていたサジャミールの手が脇へと移動し、彼女をふわりと抱き上げた。急に身体が浮いた衝撃に思わず叫んでしまったリリアルーラだが、次の瞬間、あらゆる声を失った。
サジャミールの膝の上に、横抱きに座らされている。
「あなたの髪は羽のようだと言いましたが、身体も羽のように軽いんですね」
本能的に縮こまった身体をぶるぶる震わせるリリアルーラは、楽しげな声にも反応できない。
だが、見下ろしてくるサジャミールの瞳が、先ほどよりも深い青に沈んでいることに気づいた。頭に巻き付けられたターバンから垂れた布が、影を作り出しているのだ。夜明け前の海に似ていると感じたことを思い出したリリアルーラは、こんな時に何をと、ようやく我に返った。
「サジャミール様、お戯れはお止めください」
やっとのことで声を絞り出せば、サジャミールはくっきりとした眉を軽く上げた。
「リリアルーラ姫は、私が気まぐれに女性を膝に載せて楽しむ不埒な男だと思っておられるのですか?」
そんなことを問われても、実際リリアルーラは承諾もなしに彼の膝に抱かれている。これが戯れ以外のなんだというのだろう。だいたい、男性の膝に抱かれたことなど今までない。父王にされたとしても、リリアルーラが物心つく前だ。
「肩から手を離さなければ靴が脱げないと仰ったので、そんなことはないと伝えたかったのですが」
にこやかな笑顔で言いきり、サジャミールは手を伸ばしてリリアルーラの足首に触れた。そのまま大きな手を滑らせ、リリアルーラが履いた靴の踵を掴む。
片方の靴がするりと脱げた。
「ね? 簡単でしょう?」
そうですね、と笑って返せるだけの度量も経験もリリアルーラにはなく、今や彼女の目には涙の薄い膜が張っていた。リリアルーラは、シャファーフォン王国国王陛下への謁見に訪れたはずだ。たった一人でも、王女らしく振る舞い挨拶をこなすつもりだった。
それがどうして、こんなことに。
何よりリリアルーラを動揺させているのは、サジャミールの手が離れた今なお、じんじんと痺れるような足首だ。爆発しそうな心臓より、そちらの方が気にかかる。呼吸が苦しいのは、変わらないのに。
「私が怖いですか、リリアルーラ姫」
リリアルーラは、どう返していいかわからない。
こんなことをされているのに、なぜか恐怖は感じていないのだ。怖いというなら、自分の方が恐ろしい。何故、彼の逞しい太腿に支えられた臀部まで痺れ始めているのだろう。何故、彼の声はこんなにも甘く聞こえるのだろう。
「怖くはありませんが、困ります……」
消え入りそうな声で告げるのが精一杯だ。だが、これでわかってくれる気もした。サジャミールとて国王、嫁入り前の王女に対し、過ぎたいたずらをしかけていることなど承知だろう。
「怖くないなら、良かったです」
リリアルーラは愕然とする。何ひとつ、伝わっていない――。それどころか、サジャミールは嬉々として彼女の手を取り、にっこりと微笑んだ。
柔らかく細められた青の瞳に、星が舞っているようだと思う。いや、星は、視界のすべてに散っている。握られた手首が熱い。下半身の痺れが加速し、疼きに変わっていく。
「リリアルーラ姫、あなたに怖がられたくはありませんから」
サジャミールの声は甘い毒のようだ。
そんな風に見つめないで欲しい。眩しすぎる。手首が、いや、全身が熱い。耳から流れ込んだ毒が、上半身に回っている。下半身はとっくに、感覚すら定かではないのに。浅い呼吸を繰り返すリリアルーラの鼻腔を、高貴な香りが冒す。熱がますます高まってきた。
「サジャミール、様……」
リリアルーラは息も絶え絶えに国王の名を呼んだ。止めてくれ、と言いたいのに、それ以上続けられない。名を呼ばれたサジャミールが、幸福そうに微笑んでいる。何がそんなに幸福なのか。リリアルーラは、今にも死んでしまいそうなのに。
じっとリリアルーラを見つめているサジャミールが、青い瞳を眇めた。
「お願いがあるのです。リリアルーラ姫」
「なんでしょうか……」
シャファーフォン国王の願いなら、聞かざるを得ないだろう。姿勢を正すついでに、取られた手首を引こうとしたリリアルーラが凍りつく。手首に感じる柔らかくも温かな感触。サジャミールが、彼女の手首に口づけている。
もう、限界だった。リリアルーラの視界に瞬いていた星が一斉に爆発し、彼女の意識を失わせる。
だからリリアルーラには、サジャミールが続けた言葉が聞こえていなかった。
「私の妻になっていただけませんか?」
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