実結と恋と青春の謎

壱ノ瀬和実

文字の大きさ
上 下
33 / 35
想いは燃ゆる。

♯7

しおりを挟む
 夜になって、実結さんは私にこう言った。

「やっぱり、一人は、怖いです」

 私は実結さんを助手席に乗せて車を走らせた。日没の早い冬。映えるのは、時折見えるコンビニの明かりと、対向車のハイビーム。それは眩しく見えて、けれど少し寂しい。

 相変わらずガタガタとうるさいおんぼろ車。だけど、嵐の前の静けさには必要な騒音のようにも思えた。

 実結さんは全てを話してくれた。今回の事件のこと。その推理。経緯。夏に解かれた謎。

 予行演習がしたいんだ、と私は思った。間違いがないか。本当に犯人は、そうなのか。

 そして否定出来なかった。麻衣が、犯人であることを。

 物的な証拠があるわけではない。状況証拠もそれほどない。それでも、当事者だけにしか分からない要素を積み重ねて、とうとう否定が出来なくなってしまった。

 私はこれまでの実結さんを思い出していた。

 もしかして、実結さんは最初から、麻衣が犯人だと思っていたんじゃないだろうか。それを否定しうる材料としてアリバイがあり、被害者を知らないという事実があった。それが、覆された。

 だからこそ、この冬の実結さんは、考えが鈍かったのではないだろうか。

 つまりこれまで、私と実結さんが費やしてきた時間の意味はこうだったのだ。

 ――いかにして、犯人が河田麻衣である可能性を否定するか。

 今にして思うと、そうだったのではないだろうか。


     ○


「あの夏、わたしは間違ったのではないでしょうか」

 実結さんの目に溜まっているのはきっと涙なのだろう。流さないよう必死に堪え、力強く麻衣を見つめる実結さんは、長い袖の中で小さな拳を握っているように見えた。

「人はそう簡単に人を嫌いにならない生き物だと信じています。だからこそ、わたしに思い当たるのはそれだけでした」

 車内で聞いた限りでは、麻衣は今夏、交際している男性の浮気を疑った。携帯に届いたメールなどを元に、実結さんはそれを否定した。浮気をしているのではなく、離婚し、離ればなれになった子供に会いに行っているのだと。

 つまりは、それを誤ったのでは。実結さんはそう考えていた。

 麻衣は目を閉じ、黙った。

 口を開かない。動かない。ただ立ち尽くしたまま、時折白息を吐いた。

「ねえ、憶えてる? 実結」

 ようやく漏れ出す声。響く言葉。背筋に氷を当てられたように冷たいそれは、鼓膜を揺らす度にぎゅっと心を締め付ける。

「あの時のアイスね、溶けてなかったんだよ。溶けきる前に、実結にあげちゃったの。とけきってなかったんだよ、あの時の、アイスは」

 実結さんが息を呑んだ。それが分かった。胸が痛い。私の胸が、この上なく痛い。

「あいつね、結局、浮気してたの。誰とだと思う? 笑っちゃうよ」

 実結さんはその答えを持っていた。けれど麻衣には、それを言わなかった。

「元奥さんだよ。初めて分かった時さ、もう笑っちゃってさ。でも、声は出なかったよ。子供に会いに行ってるのは本当だった。でも会いに行く内によりを戻そうってなったってさ。で、なんだかんだで夏前にはもう浮気してた。どう思う、実結」

 二人を繋ぐ架け橋をその想いと言葉によって断ち切っている。その過程を見せられているかのようだった。

「ワタシ、もうバカバカしくなってさ。あの時に分かっていられたらって思ったよ。それからの二ヶ月、恋人でいた時間、全部無駄だった。ねえ、実結。ワタシ、凄く嫌だったよ。全部。全部。全部!」

 怒声が飛んだ。木々に、空気に、本堂に、墓地に。そして、彼女の心に。

「そのとき別れてられたら、こんな想い、しなくて済んだのにね。ねえ、あのときワタシを引き留めたのって誰だっけ。分かるよね。ねえ実結。そう、あなたなんだよ、実結」

 それは、河田麻衣の自白だった。

 胸が痛い。実結さんの顔が見られない。苦痛に歪むその表情が、辛い。

「あんたはさ、最初から浮気を否定してたよね。最初から、希望的観測がどうとかでさ。だから見えなかったんだ。あいつがメール来る度にニヤついてたこととかさ、その辺、実結は考えに入れてなかったよね。入れると、あの不思議が解決しないこと分かってたんだよ。そのメールは、元奥さんからのメールだった。子供の写真だったよ。けど、頻繁に子供の写真送ってくるってことは、関係が修復されてたってことだよね。
 先月だったかな。携帯見たの。それで全部分かっちゃった。ワタシといつ別れるか、なんてことまで話してたよ。最悪だよ。ねえ。何、なんでこんなに苦しい思いしなきゃならないの。全然とけてなかったよ。何もかも。おかげで、もうワタシ、おかしくなっちゃったよ。ねえ、実結……実結!」

 私は何度も目を逸らしたくなった。

 キイキイと鳴る狂気の声は、麻衣の感情の爆発だった。それに対峙する実結さんに、私の勇気が追いつかなかった。呟くように、私は実結さんの名を呼んだ。山門に背を預けながら、聞こえないことは分かっていて、呟いた。

 けれど、実結さんは頷いた。私の声が聞こえたのか、それとも、何かを決心したのかは分からない。

 月夜に潤む彼女の目から、雫が落ちた。

「だから、今回の事件を起こしたのですね。わたしを、許せなかったから。わたしに……復讐を、するために」

 残響はない。空気と共に。白息と共に。それはとけて、消えていく。

「あの時は間違えたのに、なんで分かっちゃうのよ」

 冷えた声に宿る静かな狂気が肌を突き刺す。麻衣は、穏やかさというナイフを急に纏って、それを構えているようだった。

「あの日、わたしは間違えてしまったのかもしれない。そう思ったからこそ、願望の一切を切り捨てて、わたしは今日を迎えました。希望的観測は、希望にはなっても真実にはならないと感じました。だからこそ、逃げないと誓ったのです。立ち向かわなければならない真実が例え望まないものであっても、決して逃げない、と。あなたの犯行ではないかと思った時、わたしはそう思いました。とても、とても、とっても苦しかった。けれど、逃げませんでした。この瞬間から、逃げませんでした」

 私の頬を涙が伝った。あの優しい笑顔が、あの素敵な声が、見たくもない現実に侵されているような感覚だった。けれど、私はこの光景を目に焼き付けよう決めた。

 麻衣は、恋人が浮気していることを夏に知ることが出来ていたなら、きっとその男と別れていただろう。覚悟していただけに、その傷は深手にはならなかったかもしれない。けれど、実結さんという希望が、そのやさしさによってそれを否定し、希望をつなぎ、しかしそれは、絶望を先送りしただけに過ぎなかった。

 恋は惚れた方が負けだ。拗らせて、煮詰めて、黒くなって。惚れてしまうと、歯止めは利かないのだろう。麻衣もそうなってしまったのだ。

 色恋と言う名のデリケートで厄介なそれが、全てを引き起こした。苦しいのは分かる。麻衣の気持ちも、分からないでもない。

 でも。それでも。

「わたしにも責任はあります。ですが、麻衣ちゃんがしたことは、絶対にしてはいけないことなのです。わたし一人を傷つけるのではなく、周囲の方々を傷つけることを、わたしは、赦すわけにはいかないのです」

 麻衣は唇をつり上げた。笑みではあったが、曇っていた。

「だって実結、それが一番嫌でしょ」

 実結さんは他人の幸せを自分のことのように喜ぶ人だ。そして、他人の苦しみを、自分のことのように悲しむ人だ。それを麻衣は知っていた。だからこその犯行だった。なんて卑怯な、と私は思った。

「で、どうするの。ワタシを警察に突き出すの? まさか自首しろなんて言わないよね。だって、悪いのは、ワタシじゃないもの」

 麻衣は麻衣の正しさで行動した。それは大いなる間違いだが、それでも、彼女の信念は間違った方向にまっすぐだ。

 私は、実結さんの覚悟を知っている。苦しみ抜いて、戦い抜いて、葛藤を越えて、彼女はここで、全てを終わらせると言ったのだ。

 それは、実結さんの友を、多くの友人を救うことでもあった。

「わたしは、報道の度に不安に思われた多くの方々のために、非情にならなければならないのです。悲しいです。苦しいです。それでも、この覚悟は、揺らぎはしないのです。揺らがせては、いけないのです」

 そして、数分の後。

 けたたましい赤色灯が、夜の町で瞬いた。
 サイレンは嫌に静かで、気味が悪いほどだった。

 大勢の男たちが境内に入り込む。砂利の音が喧しく鳴った。

 麻衣は光一つない目と、口許の笑みで、実結さんを見下ろす。

「最低だね、あんた」

 実結さんは、答えなかった。

 涙を拭うこともせず、目の前で行われるそれを、ただ見つめ続けていた。

 不適に笑む麻衣も。去って行く麻衣の背中も。

 そして、静まりかえった境内で、実結さんは砂利に膝を落とした。

「分かっています。分かって、います」

 声も、肩も、瞳も、全てを震わせながら。

 実結さんは、この瞬間を、己に刻みつけるように言った。

 私の心は、釘を打たれたように痛かった。



 何が解決したのかと問われれば、きっと何も解決はしていない。

 遠柿市の住民に不安を募らせた放火魔が逮捕された。それだけだ。翌日には皆が忘れ、聖夜の宴に酔いしれるのだろう。

 何も変わらないのだ。全貌を知らないこの街は。

 終わってしまえば、そこに残るのは、森閑な寺と、咽び泣く実結さんと、ただ見ていることしか出来ない無力な私だけだった。

 青春や恋はほろ苦いのが相場だと言うが、それはきっと間違いだ。これはほろ苦いのではないのだ。苦くて、痛くて、息が出来ない。

 こんな幕引きだった。

 こんな幕引きを想像出来たから、実結さんは遠回りをしたのだ。実結さんはこの結末から逃げなかったけれど、この結末から逃げようと必死だった。

 何分経ったのかは分からなかった。夜は深まることを知らずに、ただその濃い藍色を空に浮かべて、月は雲に隠れて見えなくなっていた。

 今は夜だ。明けを待つ他に、暗闇から抜ける方法はない。

 崩れ落ちた実結さんの小さな躰。時折こぼれ落ちる、自責の言葉。

 その度に締め付けられる私の胸は、大粒の涙を流すだけでは緩んでもくれない。

 実結さんの痛みは、きっとこれの比ではないのだ。それを実感して、私は実結さんの背中に手を置いた。私に出来る精一杯だった。震えが伝わってくる。暖かさと冷たさが私の中にも入ってくる。

 掛けられる言葉さえ持ち合わせていない私だけれど、この瞬間、実結さんが立ち上がるには支えが必要だと感じた。それが私である必要などないのだろう。けれど、この光景を黙ってみていることしか出来なかった私が、実結さんのために出来ることは、これくらいしかなかったのだ。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

ずぶ濡れで帰ったら彼氏が浮気してました

宵闇 月
恋愛
突然の雨にずぶ濡れになって帰ったら彼氏が知らない女の子とお風呂に入ってました。 ーーそれではお幸せに。 以前書いていたお話です。 投稿するか悩んでそのままにしていたお話ですが、折角書いたのでやはり投稿しようかと… 十話完結で既に書き終えてます。

幼なじみとセックスごっこを始めて、10年がたった。

スタジオ.T
青春
 幼なじみの鞠川春姫(まりかわはるひめ)は、学校内でも屈指の美少女だ。  そんな春姫と俺は、毎週水曜日にセックスごっこをする約束をしている。    ゆるいイチャラブ、そしてエッチなラブストーリー。

思惑

ぴんぺ
ミステリー
はじめまして、ぴんぺと申します。 以前から執筆に興味があり、この度挑戦してみることにしました。 さて、僕の処女作の紹介に移らせていただきます。 主人公の荒木康二(あらきこうじ)は塾講師を生業としているフツーの男 妻の沙奈(さな)とはこれまたフツーの生活を送っています。 そんなある日、2人は思いもよらない事件に巻き込まれてしまいます。その事件によりあらわになる2人の秘密… 紹介はこの辺にしますね 上にも書きましたが初めて取り組む作品なので見苦しい点が多々あると思います。 でも、最後まで読んでいただけるとうれしいです。 皆さんのご指導ご指摘よろしくお願いします あ、そうだ 僕、WEARでコーディネート投稿してます。 よかったらそちらも遊びに来てください^^ 「ぴんぺ」で検索です^^

後悔と快感の中で

なつき
エッセイ・ノンフィクション
後悔してる私 快感に溺れてしまってる私 なつきの体験談かも知れないです もしもあの人達がこれを読んだらどうしよう もっと後悔して もっと溺れてしまうかも ※感想を聞かせてもらえたらうれしいです

この満ち足りた匣庭の中で 一章―Demon of miniature garden―

至堂文斗
ミステリー
――鬼の伝承に準えた、血も凍る連続殺人事件の謎を追え。 『満ち足りた暮らし』をコンセプトとして発展を遂げてきたニュータウン、満生台。 巨大な医療センターの設立を機に人口は増加していき、世間からの注目も集まり始めていた。 更なる発展を目指し、電波塔建設の計画が進められていくが、一部の地元住民からは反対の声も上がる。 曰く、満生台には古くより三匹の鬼が住み、悪事を働いた者は祟られるという。 医療センターの闇、三鬼村の伝承、赤い眼の少女。 月面反射通信、電磁波問題、ゼロ磁場。 ストロベリームーン、バイオタイド理論、ルナティック……。 ささやかな箱庭は、少しずつ、けれど確実に壊れていく。 伝承にある満月の日は、もうすぐそこまで迫っていた――。 出題篇PV:https://www.youtube.com/watch?v=1mjjf9TY6Io

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

真夏のサイレント

澄海
ミステリー
高1の夏からクラスのいじめの対象になってしまった春香(ハルカ)。クラスメイトからは「人殺し」と呼ばれる日々…そんな春香を支える幼馴染の真人(マナト)には双子の弟の嗄凪人(サナト)がいたが春香と放課後に家へ帰る帰り道に踏切で電車との接触事故によりこの世を去ってしまう。真人より嗄凪人を愛していた双子の両親を悲しませないために双子の見分けがついていなかった両親に死んだのは"真人"だと思い込ませ真人は嗄凪人として生きて行く。しかし、それは単なる事故ではなかった。自殺だった?殺人だった?複雑な関係、思いが絡み合って3人の招いてしまった悲劇が人生を大きく狂わせる!?

処理中です...