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想いは燃ゆる。
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他言無用の秘密。二人だけの秘密。表情が緩むのには十分過ぎるくらいの響きを有したそれは、不謹慎と知りながら、翌日になっても尚、私の心を躍らせた。
真奈加が勤める会社は月曜日がお休み。なので、今日は真奈加が家にいる。デートをするでもなく、だらだらと過ごして、遂に夕方になった。実結さんとの約束の時間だ。
「車、借りてもいい?」と訊くと、当然ながら、「なんで?」と返ってきた。
冗談交じりに「浮気してくる」と言うと、さすがにムッとされたけれど、深くは追求されなかった。実結さんと会うことを察したのかもしれない。
そんなこんなで、私は助手席に実結さんを乗せて、初めてのドライブデートと相成った。
心臓が激しく跳ねる。緊張が全身を覆った。実結さんとこの狭い車内に二人きり。緊張するなという方が無理だった。
「す、すみません。ぼろぼろの中古軽自動車で」
ガタガタと音を立てる車に、実結さんの表情はやや不安げだ。
「いえ。そんな」
「心配しなくても大丈夫です。ボンネットから煙が上がったり、走ってると変な音がしたり、今月の三日に買い替えたばかりのスタッドレスタイヤ、翌朝にはパンクしてましたけど、問題なかったんで」
「それは……心配、ですね」
「あ、すみません。余計でした」
不安を取り除くつもりが逆効果。話題を誤った。
「そういえば、実結さんは免許持ってないんですか」軌道修正。
「ええ。運転、怖いんです。法定速度を守っても早すぎると思ってしまうくらいなので」
「か、かわいい……」
「そんな。臆病なだけです」
ちょこんと座るお人形さんのような実結さんに、私は前方不注意で事故を起こすのではと恐ろしくなった。
「ところで、目的地はどこなんでしょう。とりあえず走ってるだけなんですけど」
「二件目とされている不審火の被害に遭われた、高校の後輩の家です。お話を聞きに行こうかと」
事件解決の手助け、とは言いつつ、何をするのか分からないでいた私だったが、ようは免許を持っていない実結さんの運転手を努めることこそが手助けらしい。
車は田舎を走った。暖房の効きが悪いのは、それだけ外が寒いからだろう。雪が降らなければいいのだが、この町のことだ、突然降って、すぐ積もってしまうかもしれない。
○
実結さんナビゲートによって到着したのは、同市とはいえ、他の町を跨いだ飛び地だった。市街地から二十分ほど走り、国道という名に疑問符を付けたくなるような山道に入ってさらに十分。エンジンを止めたのは山間の集落。目の前に見える立派な日本家屋が後輩の実家らしい。
夕暮れの下、実結さんは表札を確認しながらインターフォンのボタンを押した。すると、玄関の戸を横滑りさせながら出てきたのは、ブレザータイプの制服を着た男子高校生だった。まさか後輩というのが男性だとは思わず、私は戸惑った。表札曰く、倉橋というらしい。
「お久しぶりです、先輩」
「お久しぶりです、と言うほどでもないかと思うのですが」
「あ、ああ、そう、ですよね。すみません」
あたふたする倉橋くんは、なんだか目線をうろつかせて、いかにも挙動不審だった。
「どうぞ、上がってください。古い家で、畳の部屋しかないのですが」
「いえ。素敵だと思いますよ」
「そう言っていただけると嬉しいです」
見るに、どうやらアポイントメントは取ってあったらしい。私は紹介される間もなく、勧められるがままに土間でブーツを脱ぎ、上がり框を上って、実結さんの後に続いた。立派な和室に通され、ふかふかの座布団に正座すると、五〇〇ミリリットルのペットボトルのお茶を三本持った倉橋くんとやらが台所から戻ってきて、下座に座った。
「で、僕は一体どんな話をすれば」倉橋くんは怖ず怖ずと訊ねる。
制服を着たままということは、きっと彼は学校から帰ってきたばかりなのだろう。近くにあったバス停から走りでもしたのか、倉橋くんは汗を袖で拭い、お茶を一気に飲んだ。
「不審火が起きたのはちょうど一週間前ですよね。当時の状況、もしくは事件前後に何かおかしなことがなかったか、気付いた限りでいいので、教えていただけないでしょうか」
「おかしなこと、ですか」倉橋くんは「うーん」と唸りながら考え込んだ。
挨拶も出来ないまま本題が始まってしまい、どうにも落ち着かない私は、不躾ながら部屋を軽く見回した。立派な和室には腰くらいの高さの棚があって、本が並べられていた。小難しそうなものが多かったので、恐らくは両親の物だろう。彼は文芸部時代の後輩とのことだったから、もしかすると倉橋くんの物でもあるのだろうか。だとしたら相当である。
「あの、父が言ってたことなんですけど、それでもいいですか」
倉橋くんの声と表情は、なんとも自信なさげだった。
「はい。気付いたことなら、なんでも」実結さんは少しだけ身を乗り出す。
「父が転職する前なんですけど、一度だけ、同じ車がずっと付いてきている感じがして気持ちが悪い、って言ってたんですよ。気のせいだってことになったんですけど。まあ、親父をストーキングする物好きもいないでしょうし」
「相手の車種は」
「すみません、分かりません」
「で、すよね」実結さんは後ろから見てやっと分かる程度に肩を落とした。
「あと変なことって言うと、それこそなんで車が燃やされたんだろう、って思ったくらいですかね。他にも燃えやすそうなものなんていくらでもあったのに。被害が大きくなるのが嫌だったのかな、なんて考えたりはしましたけど」
確かに、などと思いながら、しかし私はこの話題に集中しなかった。
倉橋くんが実結さんの後輩と言うことは、彼は高校時代の実結さんを知っているのだ。なんてうらやましい……そんなことを考えていたからだ。
「被害に遭われた車は、さすがに今はないですよね。どのような被害だったのですか」
「表面に焦げ跡が付いたくらいです。火種を置いた、くらいの感じでしたね。寝る直前に焦げ臭さに僕が気付いて、すぐに消すことが出来たので、大事にはならずに済みました」
「ということは、倉橋くんが、報道における第一発見者とされる住人」
「ええっと、ええ、まあ、恥ずかしながら」
この瞬間の倉橋くんを見て、なるほど、気付いてしまった。
この子、実結さんのことが好きだ。さっきからあまり実結さんと目を合わせないのも、手汗をかいているのかズボンで何度も拭っているのも、全ては好きな人を目の前にした人間の反応だ。よく知っている。私そっくりだ。端から見るとこうも分かりやすいとは。
「あの、それで、そちらの方は?」言いながら、倉橋くんは私に目を向けた。
「あ、武廣麗奈と言います。実結さんの友人、です。訳あって実結さんのお手伝いをしていて」
「そうなんですか。いや、一度、どこかでお見かけしたことがあるような気がしていて、もしかしたら、会ったことがあるのかな、と」
「特徴のない顔なので、きっとどこかの誰かしらには似ていると思いますけど、はじめましてですね」
「そう……ですよね。気のせいですよね。すみません」
実結さんが首を傾げているが、そうしたいのは私だった。典型的なナンパ方法だったから、彼も彼でなかなかに不埒だな、と思ったりもしたからだ。気のせいでよかった。
○
私はともかく、二人は旧知の間柄。どんな本を読んだか、なんて話題は随分と盛り上がっていた。蚊帳の外というのはなかなかに辛く、二人が互いに笑い合った瞬間に愛想笑いを浮かべるのがやっとだった。
白い息を吐きながら空の下に出てみれば、一帯はすっかり夜になっていた。街灯のないこの場所では家の形さえおぼろげで、もはや表札の文字さえも読めない。木々の影が巨人のように聳える。まだ家の明かりが零れてくるけれど、夜中ともなれば、この暗闇はより色濃くなるだろう。
「こんな暗さじゃ車を狙いたくなるのも分かりますね。可燃物が転がっていても気付きませんよ」
「そう、ですね。夜中ともなると尚のことでしょうし」
実結さんは言いながら、玄関先に立つ倉橋くんににっこりと微笑んだ。
「すみません。夜分遅くにご迷惑をお掛けしないよう夕方にしたのに、すっかり遅くなってしまって。ご両親によろしくお伝えください。あの、ちなみになのですが、六日夜は何をしてらっしゃったか憶えていますか? 火曜日です」
「たぶん、家で勉強してたと思いますけど」
「では、十五日、木曜日の夜は」
「基本的に夜は出掛けないので、ずっと家ですよ。バス、八時までしかないですし」
「ですよね。すみません、急に変なことを聞いてしまって。では、お暇します」
倉橋くんはあからさまに残念がって、わざとらしい作り笑顔で言葉を返す。
「いえ。来てくださって、嬉しかったです。本当に」
それはそうだ。その人が家の床を歩いてくれるだけで嬉しくなるのが、恋というものだ。
倉橋くんは受験生らしい。実結さんはそれとなく彼を応援し、彼は照れて、恋というのは惚れた方の負けだということを改めて実感した。
気持ちは分かるよ倉橋くん。恋って、幸せで、苦しいものだよね。よーく、分かるよ。
○
夜道は視界が悪い。そのくせ、信号の少ない田舎道と侮って快走するやんちゃドライバーが数台もいたものだから、ペーパードライバーを自称する私は日中以上に慎重に慎重を重ねてハンドルを握った。
実結さんに訊ねたところ、どうやら倉橋くんというのは、実結さんが人生で初めて告白された相手らしい。私の見立ては間違っていなかったようだ。
「私の意見、率直に言ってもいいですか」
私は、実結さんが事件を解決するための手助けをすることを約束した。ならば、思いついたことはどんなに些細なことでも伝えるべきだろう。ハンドルを握る手に力が入った。
「大体こういった事件というのは、色恋沙汰が発端であることが多いような気がするんですよ。例えば、好きな人を取られたとか、フラれた腹いせに復讐しようとした、とか」
「分かります。倉橋くんは被害者ですが、否定材料が一つだけならば、それはないものと思った方がいいかもしれません。幾つも重なって、初めて否定出来うるものになります。そうでなければなりません」
「やっぱり、そうでしたか」
帰り際、実結さんが倉橋くんに訊ねたのは、一件目と三件目の不審火が起きた日のアリバイだろう。聞いたと言うことは、疑いは捨てていないということだ。それが被害者であっても、なお。
私は実結さんの交友関係を知らない。そんな私に、そもそもこの件で協力できることがあるのかという点で私は悩んでいた。倉橋くんが犯人たり得るのかどうかも、私にはなんとも言えない。
「考えてみれば、私、実結さんこと何も知らないですね。告白されたことがあるとか、今初めて知りましたし」
「訊かれれば案外話すのですが、近況はともかく、さすがに自分から過去を話すようなことはしませんね」
「それが普通ですよね。ところで、」
信号が赤になった。ここぞとばかりに実結さんの横顔を見て、疑問をぶつける。
「あの倉橋くんというのは、どうして私を顔見知りだと思ったんでしょう」
「おそらく、本当にお見かけしたことがあるんだと思いますよ」
「一体どこで」
「バスだと思います。倉橋くんのお家の近くを通るバスは一路線しかありません。麗奈さんのご自宅近くの停留所を通る、あの一路線のみなんです。なので、登校時に同じバスに乗っていた可能性は高いかと」
「確かに、高校生はいたことありますけど。それこそ実結さんと初めて会った時に乗ったバスにも、変わった制服の高校生が」
「変わった制服、ですか」
「ええ、その、ブレザーの襟の内側が赤く縁取られていて……」
「あ、もしかしたら、それが倉橋くんかもしれませんよ」
「でも、今日と制服が違いましたよ」
「もしかしてその時、イヤホンから漏れてくるような音は聞こえませんでしたか?」
「憶えてないですけど、もしかしたらしてたかも」
実結さんは小さくてかわいらしい手を口許に当て、小さく笑った。
「両耳にイヤホンをしてそのコードが下に垂れ下がると、ブレザーの襟に色が沿っているように見えることがあるんです。在学時には誰も理解してくれませんでしたが、わたしもその勘違いをしたことがありまして」
「ってことは、あのかわいいと思った制服は勘違い、ってことかあ。残念だなあ」
「そういえば、その時真奈加ちゃんとそんなお話してましたね」
「そんな前のこと憶えてるんですか」
「はい、もちろんです。素敵な思い出の、一つなので」
青信号。私はアクセルを踏んだ。
「私にとっても、凄く大切な一日ですよ、実結さんと出会えた、あの日は」
実結さんは微笑んで、
「はい。よく、存じていますよ」
○
軽自動車は暗闇にて再びそのエンジンを止めた。実結さん曰く、ここは連続不審火事件の三件目とされている現場、友人が住むというアパートだ。駐車場の端には住人用のゴミ捨て場。あれが現場だろう。
しかし、ここに来た目的を果たせたかどうかで言えば、徒労だった。
「ご在宅ではないようですね。電気も点いていません。麻衣ちゃんは確か、自宅近くにバスが通っていないから大学へは車で通っていると仰っていましたから、今ここに車がないという点でも、留守のようです」
「アポは取らなかったんですか?」
「なかなか連絡が付かないのです。先月から大学にもあまり来られていないようですし。普段学内で会う程度で、プライベートでお話しすることはないので、詳しくは……。以前は書店によく来られていたのですが、ここ一ヶ月は来られてないようですし」
さすがは客を観察することでおなじみの実結さん。把握しているのか。
「あの、それ友人、ですかね?」
「プライベートでは、夏に一度アイスを食べた仲、くらいでしょうか」
「本当に友人ですか?」二度言った。
「おそらく、学内では比較的仲良くさせていただいているとは思うのですが」
なんとも表現しがたい関係の相手らしい。
自宅を訪ねるのも初めてらしく、ここの住所も、その友人の親友という人から聞いたという。又聞きしなければ家も分からない関係を友人と言うのかはともかく、少なくとも今日に関しては調査終了、と言うことになるだろう。
「彼氏さんの家に行っているのかもしれません。明日は火曜日で、確か彼氏さんのお仕事はお休みですから。そうだと、いいのですが」
「友人の彼氏の休日まで把握してるんですか」
「夏にいろいろとご相談を受けたので、憶えていただけですよ」
その記憶力は別の何かに活かすべきなのでは、と思わなくもない、そんな冬の夜。
吐く息は白い。実結さんの頬はピンク色。空には星もなく、おそらくは雲が覆っている。乾燥した冬独特の空気が好きな私は、寒空も気にせずに大きく息を吸った。冷たさが鼻を通って全身を駆け巡っているような気がした。
「あの、今度はどうしましょうか。実結さんのご都合に合わせますよ」
「では、お言葉に甘えて、また明日もお会いできますか?」
この私が首を横に振るわけがない。
「喜んで」
そして、初めてのドライブデートは、実結さんをご自宅まで送り届けて、何事もなく、本当に何事もなく終わった。少しだけアフターを期待した不埒な私は、帰宅後の真奈加からの叱責に怯えながら、おんぼろの車を走らせた。
真奈加が勤める会社は月曜日がお休み。なので、今日は真奈加が家にいる。デートをするでもなく、だらだらと過ごして、遂に夕方になった。実結さんとの約束の時間だ。
「車、借りてもいい?」と訊くと、当然ながら、「なんで?」と返ってきた。
冗談交じりに「浮気してくる」と言うと、さすがにムッとされたけれど、深くは追求されなかった。実結さんと会うことを察したのかもしれない。
そんなこんなで、私は助手席に実結さんを乗せて、初めてのドライブデートと相成った。
心臓が激しく跳ねる。緊張が全身を覆った。実結さんとこの狭い車内に二人きり。緊張するなという方が無理だった。
「す、すみません。ぼろぼろの中古軽自動車で」
ガタガタと音を立てる車に、実結さんの表情はやや不安げだ。
「いえ。そんな」
「心配しなくても大丈夫です。ボンネットから煙が上がったり、走ってると変な音がしたり、今月の三日に買い替えたばかりのスタッドレスタイヤ、翌朝にはパンクしてましたけど、問題なかったんで」
「それは……心配、ですね」
「あ、すみません。余計でした」
不安を取り除くつもりが逆効果。話題を誤った。
「そういえば、実結さんは免許持ってないんですか」軌道修正。
「ええ。運転、怖いんです。法定速度を守っても早すぎると思ってしまうくらいなので」
「か、かわいい……」
「そんな。臆病なだけです」
ちょこんと座るお人形さんのような実結さんに、私は前方不注意で事故を起こすのではと恐ろしくなった。
「ところで、目的地はどこなんでしょう。とりあえず走ってるだけなんですけど」
「二件目とされている不審火の被害に遭われた、高校の後輩の家です。お話を聞きに行こうかと」
事件解決の手助け、とは言いつつ、何をするのか分からないでいた私だったが、ようは免許を持っていない実結さんの運転手を努めることこそが手助けらしい。
車は田舎を走った。暖房の効きが悪いのは、それだけ外が寒いからだろう。雪が降らなければいいのだが、この町のことだ、突然降って、すぐ積もってしまうかもしれない。
○
実結さんナビゲートによって到着したのは、同市とはいえ、他の町を跨いだ飛び地だった。市街地から二十分ほど走り、国道という名に疑問符を付けたくなるような山道に入ってさらに十分。エンジンを止めたのは山間の集落。目の前に見える立派な日本家屋が後輩の実家らしい。
夕暮れの下、実結さんは表札を確認しながらインターフォンのボタンを押した。すると、玄関の戸を横滑りさせながら出てきたのは、ブレザータイプの制服を着た男子高校生だった。まさか後輩というのが男性だとは思わず、私は戸惑った。表札曰く、倉橋というらしい。
「お久しぶりです、先輩」
「お久しぶりです、と言うほどでもないかと思うのですが」
「あ、ああ、そう、ですよね。すみません」
あたふたする倉橋くんは、なんだか目線をうろつかせて、いかにも挙動不審だった。
「どうぞ、上がってください。古い家で、畳の部屋しかないのですが」
「いえ。素敵だと思いますよ」
「そう言っていただけると嬉しいです」
見るに、どうやらアポイントメントは取ってあったらしい。私は紹介される間もなく、勧められるがままに土間でブーツを脱ぎ、上がり框を上って、実結さんの後に続いた。立派な和室に通され、ふかふかの座布団に正座すると、五〇〇ミリリットルのペットボトルのお茶を三本持った倉橋くんとやらが台所から戻ってきて、下座に座った。
「で、僕は一体どんな話をすれば」倉橋くんは怖ず怖ずと訊ねる。
制服を着たままということは、きっと彼は学校から帰ってきたばかりなのだろう。近くにあったバス停から走りでもしたのか、倉橋くんは汗を袖で拭い、お茶を一気に飲んだ。
「不審火が起きたのはちょうど一週間前ですよね。当時の状況、もしくは事件前後に何かおかしなことがなかったか、気付いた限りでいいので、教えていただけないでしょうか」
「おかしなこと、ですか」倉橋くんは「うーん」と唸りながら考え込んだ。
挨拶も出来ないまま本題が始まってしまい、どうにも落ち着かない私は、不躾ながら部屋を軽く見回した。立派な和室には腰くらいの高さの棚があって、本が並べられていた。小難しそうなものが多かったので、恐らくは両親の物だろう。彼は文芸部時代の後輩とのことだったから、もしかすると倉橋くんの物でもあるのだろうか。だとしたら相当である。
「あの、父が言ってたことなんですけど、それでもいいですか」
倉橋くんの声と表情は、なんとも自信なさげだった。
「はい。気付いたことなら、なんでも」実結さんは少しだけ身を乗り出す。
「父が転職する前なんですけど、一度だけ、同じ車がずっと付いてきている感じがして気持ちが悪い、って言ってたんですよ。気のせいだってことになったんですけど。まあ、親父をストーキングする物好きもいないでしょうし」
「相手の車種は」
「すみません、分かりません」
「で、すよね」実結さんは後ろから見てやっと分かる程度に肩を落とした。
「あと変なことって言うと、それこそなんで車が燃やされたんだろう、って思ったくらいですかね。他にも燃えやすそうなものなんていくらでもあったのに。被害が大きくなるのが嫌だったのかな、なんて考えたりはしましたけど」
確かに、などと思いながら、しかし私はこの話題に集中しなかった。
倉橋くんが実結さんの後輩と言うことは、彼は高校時代の実結さんを知っているのだ。なんてうらやましい……そんなことを考えていたからだ。
「被害に遭われた車は、さすがに今はないですよね。どのような被害だったのですか」
「表面に焦げ跡が付いたくらいです。火種を置いた、くらいの感じでしたね。寝る直前に焦げ臭さに僕が気付いて、すぐに消すことが出来たので、大事にはならずに済みました」
「ということは、倉橋くんが、報道における第一発見者とされる住人」
「ええっと、ええ、まあ、恥ずかしながら」
この瞬間の倉橋くんを見て、なるほど、気付いてしまった。
この子、実結さんのことが好きだ。さっきからあまり実結さんと目を合わせないのも、手汗をかいているのかズボンで何度も拭っているのも、全ては好きな人を目の前にした人間の反応だ。よく知っている。私そっくりだ。端から見るとこうも分かりやすいとは。
「あの、それで、そちらの方は?」言いながら、倉橋くんは私に目を向けた。
「あ、武廣麗奈と言います。実結さんの友人、です。訳あって実結さんのお手伝いをしていて」
「そうなんですか。いや、一度、どこかでお見かけしたことがあるような気がしていて、もしかしたら、会ったことがあるのかな、と」
「特徴のない顔なので、きっとどこかの誰かしらには似ていると思いますけど、はじめましてですね」
「そう……ですよね。気のせいですよね。すみません」
実結さんが首を傾げているが、そうしたいのは私だった。典型的なナンパ方法だったから、彼も彼でなかなかに不埒だな、と思ったりもしたからだ。気のせいでよかった。
○
私はともかく、二人は旧知の間柄。どんな本を読んだか、なんて話題は随分と盛り上がっていた。蚊帳の外というのはなかなかに辛く、二人が互いに笑い合った瞬間に愛想笑いを浮かべるのがやっとだった。
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「こんな暗さじゃ車を狙いたくなるのも分かりますね。可燃物が転がっていても気付きませんよ」
「そう、ですね。夜中ともなると尚のことでしょうし」
実結さんは言いながら、玄関先に立つ倉橋くんににっこりと微笑んだ。
「すみません。夜分遅くにご迷惑をお掛けしないよう夕方にしたのに、すっかり遅くなってしまって。ご両親によろしくお伝えください。あの、ちなみになのですが、六日夜は何をしてらっしゃったか憶えていますか? 火曜日です」
「たぶん、家で勉強してたと思いますけど」
「では、十五日、木曜日の夜は」
「基本的に夜は出掛けないので、ずっと家ですよ。バス、八時までしかないですし」
「ですよね。すみません、急に変なことを聞いてしまって。では、お暇します」
倉橋くんはあからさまに残念がって、わざとらしい作り笑顔で言葉を返す。
「いえ。来てくださって、嬉しかったです。本当に」
それはそうだ。その人が家の床を歩いてくれるだけで嬉しくなるのが、恋というものだ。
倉橋くんは受験生らしい。実結さんはそれとなく彼を応援し、彼は照れて、恋というのは惚れた方の負けだということを改めて実感した。
気持ちは分かるよ倉橋くん。恋って、幸せで、苦しいものだよね。よーく、分かるよ。
○
夜道は視界が悪い。そのくせ、信号の少ない田舎道と侮って快走するやんちゃドライバーが数台もいたものだから、ペーパードライバーを自称する私は日中以上に慎重に慎重を重ねてハンドルを握った。
実結さんに訊ねたところ、どうやら倉橋くんというのは、実結さんが人生で初めて告白された相手らしい。私の見立ては間違っていなかったようだ。
「私の意見、率直に言ってもいいですか」
私は、実結さんが事件を解決するための手助けをすることを約束した。ならば、思いついたことはどんなに些細なことでも伝えるべきだろう。ハンドルを握る手に力が入った。
「大体こういった事件というのは、色恋沙汰が発端であることが多いような気がするんですよ。例えば、好きな人を取られたとか、フラれた腹いせに復讐しようとした、とか」
「分かります。倉橋くんは被害者ですが、否定材料が一つだけならば、それはないものと思った方がいいかもしれません。幾つも重なって、初めて否定出来うるものになります。そうでなければなりません」
「やっぱり、そうでしたか」
帰り際、実結さんが倉橋くんに訊ねたのは、一件目と三件目の不審火が起きた日のアリバイだろう。聞いたと言うことは、疑いは捨てていないということだ。それが被害者であっても、なお。
私は実結さんの交友関係を知らない。そんな私に、そもそもこの件で協力できることがあるのかという点で私は悩んでいた。倉橋くんが犯人たり得るのかどうかも、私にはなんとも言えない。
「考えてみれば、私、実結さんこと何も知らないですね。告白されたことがあるとか、今初めて知りましたし」
「訊かれれば案外話すのですが、近況はともかく、さすがに自分から過去を話すようなことはしませんね」
「それが普通ですよね。ところで、」
信号が赤になった。ここぞとばかりに実結さんの横顔を見て、疑問をぶつける。
「あの倉橋くんというのは、どうして私を顔見知りだと思ったんでしょう」
「おそらく、本当にお見かけしたことがあるんだと思いますよ」
「一体どこで」
「バスだと思います。倉橋くんのお家の近くを通るバスは一路線しかありません。麗奈さんのご自宅近くの停留所を通る、あの一路線のみなんです。なので、登校時に同じバスに乗っていた可能性は高いかと」
「確かに、高校生はいたことありますけど。それこそ実結さんと初めて会った時に乗ったバスにも、変わった制服の高校生が」
「変わった制服、ですか」
「ええ、その、ブレザーの襟の内側が赤く縁取られていて……」
「あ、もしかしたら、それが倉橋くんかもしれませんよ」
「でも、今日と制服が違いましたよ」
「もしかしてその時、イヤホンから漏れてくるような音は聞こえませんでしたか?」
「憶えてないですけど、もしかしたらしてたかも」
実結さんは小さくてかわいらしい手を口許に当て、小さく笑った。
「両耳にイヤホンをしてそのコードが下に垂れ下がると、ブレザーの襟に色が沿っているように見えることがあるんです。在学時には誰も理解してくれませんでしたが、わたしもその勘違いをしたことがありまして」
「ってことは、あのかわいいと思った制服は勘違い、ってことかあ。残念だなあ」
「そういえば、その時真奈加ちゃんとそんなお話してましたね」
「そんな前のこと憶えてるんですか」
「はい、もちろんです。素敵な思い出の、一つなので」
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実結さんは微笑んで、
「はい。よく、存じていますよ」
○
軽自動車は暗闇にて再びそのエンジンを止めた。実結さん曰く、ここは連続不審火事件の三件目とされている現場、友人が住むというアパートだ。駐車場の端には住人用のゴミ捨て場。あれが現場だろう。
しかし、ここに来た目的を果たせたかどうかで言えば、徒労だった。
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「アポは取らなかったんですか?」
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さすがは客を観察することでおなじみの実結さん。把握しているのか。
「あの、それ友人、ですかね?」
「プライベートでは、夏に一度アイスを食べた仲、くらいでしょうか」
「本当に友人ですか?」二度言った。
「おそらく、学内では比較的仲良くさせていただいているとは思うのですが」
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自宅を訪ねるのも初めてらしく、ここの住所も、その友人の親友という人から聞いたという。又聞きしなければ家も分からない関係を友人と言うのかはともかく、少なくとも今日に関しては調査終了、と言うことになるだろう。
「彼氏さんの家に行っているのかもしれません。明日は火曜日で、確か彼氏さんのお仕事はお休みですから。そうだと、いいのですが」
「友人の彼氏の休日まで把握してるんですか」
「夏にいろいろとご相談を受けたので、憶えていただけですよ」
その記憶力は別の何かに活かすべきなのでは、と思わなくもない、そんな冬の夜。
吐く息は白い。実結さんの頬はピンク色。空には星もなく、おそらくは雲が覆っている。乾燥した冬独特の空気が好きな私は、寒空も気にせずに大きく息を吸った。冷たさが鼻を通って全身を駆け巡っているような気がした。
「あの、今度はどうしましょうか。実結さんのご都合に合わせますよ」
「では、お言葉に甘えて、また明日もお会いできますか?」
この私が首を横に振るわけがない。
「喜んで」
そして、初めてのドライブデートは、実結さんをご自宅まで送り届けて、何事もなく、本当に何事もなく終わった。少しだけアフターを期待した不埒な私は、帰宅後の真奈加からの叱責に怯えながら、おんぼろの車を走らせた。
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それに腹が立った私は法律で定められている罰なんかじゃ物足りず、自分自身でも復讐をすることにしました。その結果、思っていた通りの修羅場に…。その時のお話を聞いてください。
にちゃんねる風創作小説をお楽しみください。
10年後の君へ
ざこぴぃ。
ミステリー
2020年8月。千家春彦はある事がきっかけで、2010年8月にタイムリープする。
そこで自殺したはずの同級生、南小夜子から連絡が入る。それは春彦の人生を狂わせていく事になる……。
………
……
…
――無邪気に笑う真弓を見て、なぜか懐かしさを感じる。僕の元いた世界は2020年。今から10年後だ。でももうほとんど覚えていない。今いるこの世界に元から産まれ育った感覚さえある。
車椅子を握る手に力が入る。この世界でも真弓と2人で歩んで行きたい……。
「あっ!いたいた!おぉい!真弓!春彦!」
「美緒!遅い!どこまでトイレ行ってたの!もう!」
「ごめんごめん!あまりに混んでたから道路向かいのコンビニまで行ってた!」
「おかげで私達はめでたく結婚しましたぁ!」
「え!?ちょっと!何その指輪!!春彦!もうプロポーズしたの!早くない?」
「してないしてない。それはくじ引きの景品だ」
「あぁ、そうなんだ。はいはい良かったでちゅねぇ、真弓ちゃん。よちよち」
「春彦君!何でバラすの!もう!」
「えぇぇぇ……」
「ぷっ!あははは!」
こんなに笑う真弓を見るのはいつぶりだろう。胸の奥で熱くなるものがある。
………
……
…
「手を!!手を伸ばせ!!もう少し!」
「もう駄目……私の事はもういいから……春彦君だけでも……お願い――」
「うるさい!!もう少し――!!」
「うぅ……!!」
彼女はもう助からない。そんな気はした。それでも僕は必死で手を伸ばしている。
それは罪滅ぼしなのか、自己満足なのか……?
――そして彼女は最後に笑って言った。
「ありがとう……」
と。
「いやだ……いやだぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
いつか夢で見た風景がデジャブとなり目の前で起きている。「夢なら覚めてくれ!」そう願うがそんな奇跡も起こることは……無かった。
◆◇◆◇◆
執筆2023.11.17〜12.25
公開2023.12.31
本編
『10年後の君へ』
著・雑魚ぴぃ
番外編
『10年前のあなたへ』
著・桜井明日香
挿入歌
『Akaneiro』『光が見えるとき』
著・桜井明日香
マクデブルクの半球
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ミステリー
ある夜、電話がかかってきた。ただそれだけの、はずだった。
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