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できれば隠しておきたくて。
♯3
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加賀谷哲雄先生は高校時代の恩師だった。
周囲との学力の差に悩む俺を、加賀谷先生はいつも励ましてくださり、その時分、随分と助けられた。先生がいなかったら、俺は早々に人生を諦めていたか、今以上に無気力な日々になっていたと思う。いや、そうだと断言出来る。
今日は加賀谷先生の命日だった。
五年前に亡くなられた時、肉親の死以上の悲しみに襲われたことを明確に憶えている。
以来、毎年十二月二日は、必ずここを訪れるようにしている。
「先生、お久しぶりです。と言っても盆以来なので、それ程でもないですね」
俺は仏壇の前に正座し、加賀谷先生の遺影に手を合わせ、囁くような声で、先生に語りかける。
「そちらはどうですか。平和ですか。自分はと言うと、相変わらず仕事に追われる毎日です。ですが、最近は会社も有給休暇を消化しないといけないと言って来るようになりまして、おかげで今年は、日も高いうちにこうして挨拶に伺うことが出来ました。今までは遅い時間でしたし、さぞご迷惑でしたでしょう。先生はお休みになるのが早かったですもんね」
目を閉じたまま、涙だけは流さないようにと深呼吸した。これ以上話してしまうと、堪えきれないような気がした。
「では、そちらでもお酒はほどほどに、ご自愛ください。お好きだった金華堂の苺大福、お供えさせてもらいますので、そちらでゆっくり召し上がってください。では失礼します。また来年、盆に参りますので」
徐に目を開き、写真に映るその姿に在りし日を思い起こす。優しいお声と、温かな人柄と、時に厳しい、そのお心を。
俺は手元に置いておいた苺大福の箱を供え、また手を合わせた。
そして振り返って、俺は頭を下げた。
「いつもごめんね。実結ちゃん」
そこには、可憐な少女がいる。
松岡実結ちゃん。加賀谷先生のお孫さんだ。
先生にご兄弟はなく、奥様は先生が逝去された翌年に亡くなられた。一人娘の実有紀さんも既に亡くなっていて、先生のご家族は、その実有紀さんの一人娘である、実結ちゃん一人だった。
実結ちゃんは小さな顔に微笑みを浮かべ、首を横に振った。
「最近はすっかり訪ねてくださる方も少なくなって、祖父も寂しい思いをしているでしょうから、鷹箸さんが来てくださって本当に嬉しいんです。きっと、祖父も」
「いや俺なんて、迷惑を掛けてばかりの生徒だったから。草葉の陰で愛想尽きてやしないかと」
「そんな。祖父も、慕ってくれる人がいるというのは教師冥利に尽きる、とよく言っていましたから」
俺は照れ隠しのような気持ちの悪い笑い方をした。
「そうだと、嬉しいね」
「あ、そういえば」
実結ちゃんは、両手を顔の前で合わせながら可愛らしく俺の目を見つめた。
「お昼前で申し訳ないのですが、頂き物の柿があるんです。召し上がって行かれませんか」
「そんな、お気づかいなく」
「実を言うと、あまりにもたくさん頂いたので、一人では食べきれないんです。是非」
おにぎりでお腹も膨れていることだし、昼食は抜きにしようと考えていたところだ。果物くらいなら、お腹にも優しいかもしれない。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
○
この古い日本家屋に、普段は誰も住んでいないのだと言う。実結ちゃんが通う大学はここからは遠く、アパートを借りているらしい。
俺が先生に手を合わせたいと連絡をすると、実結ちゃんが鍵を開けて待っていてくれている。わざわざ自分の為に、と思うと、申し訳ない。
実結ちゃんには加賀谷先生の面影があった。顔が似ているとかではなくて、柔らかな物腰や、優しい声音に、俺は先生を重ねていた。こんなことを言うとさすがに怒られるだろうか。
「もう五年になるんだね」
畳の上で胡坐をかきながら、立派な座卓の角の辺りに置かれた柿に手を伸ばした俺は、思わずそう口にしていた。
「そうですね。そう言えば、鷹箸さんと初めてお話したのは、祖父のお葬式でした」
斜向かいに座る実結ちゃんはそう言った。
当時まだ中学生だった実結ちゃんは、先生のお葬式で、一人気丈に振る舞いながら、弔問に訪れる人々に対応していた。多くの人は「えらいねえ」などと言っていたが、なんて痛々しい姿なんだ、と俺は思ったものだ。
「もうすぐ二十歳なんだね。あの時とあまり変わってないように見えるけれど」
「そんなことありませんよ」
実結ちゃんは少しだけ頬を膨らませた。
幼さはあるが、実結ちゃんもまた、あれから五年の時を経ているのだ。
「そっか……そっかあ、そうだよね。あっという間なんだよね。時間が経つのって」
「ええ。あっという間です。毎日が目まぐるしくて、気付いた時には、もう大人でした。大人と胸を張って言えるかと言うと、まだ少し自信はないんですけどね」
謙遜するようにそう言う実結ちゃんが見せる表情は、確かにお葬式の時の彼女とは違っていた。老成したと言うと失礼だが、なんだか年頃の女の子にはないような、憂いを帯びたものだった。
しかし思い出される、あの日の少女。
悲しい目をして、皆に微笑む少女。
葬儀を終え、夜も更けた頃。人影もなくなり静かになっていくこの家で、少女は一人、声もなく涙を流していた。俺はそれを見て、つい声を掛けてしまったのだ。
「大丈夫?」と。
すると彼女は、涙を拭って、俺に微笑みかけた。
「はい。わたし、強いので」と言った。
この子は、自分の弱さを他人には見せない。中学生の頃からそうだったのだ。
少し大人になった彼女に、俺は手にしたフォークをテーブルに置いて、訊ねた。
「実結ちゃん、何か、その、大変なこととかない?」
「大変なこと、ですか。そういえば先日、アルバイト先の社員さんが転職されまして、シフトの回数が少し増えた、くらいでしょうか」
「いや、まあ、そういうことも含めてさ。生活とか、色々。手伝えることがあったら言ってくれて良いんだよ。金銭的なこととか特に。ほら、俺独身だから余裕はあるし、言ってくれれば、どれだけでも……」
「いいんです。鷹箸さん」
実結ちゃんは、いつでもこう返してくる。
「わたしは、わたしの身の丈に合った毎日を過ごしています。決して楽ではありませんが、これはこれで、悪くないんです。大学もアルバイトも楽しいですし。大丈夫ですよ、わたし、強いので」
笑顔を見せる実結ちゃんは、あの日と同じだった。
俺は、鞄から封筒を取り出し、机の上に置いた。
「これは?」
「きっと君は受け取らないだろうから、お金じゃあないよ。これは、その、商品券だ」
「商品券?」
「そうだ。現金じゃない」
「ほぼ同じものだと思うのですが」
「ほぼ、だ。全く同じじゃあない」
「ですが」
「受け取って欲しい」
精いっぱいの気持ちだった。俺に出来ることは、これくらいしかないのだ。
「もし自分の為に俺が無理をしている、と思ってしまうなら、考えを改めてくれ。これは加賀谷先生への御恩返しだ。それを君が受け取る。それだけだ。君はそれをお仏壇に供え、処分に困ったら、勿体ないからと使う。それでいい。……それじゃあ、駄目かい?」
俺は実結ちゃんの目を真っ直ぐに見つめた。決して逸らさず、述懐した。
実結ちゃんは小さく頷いた。
「はい。では、祖父にお供えします。しばらくの後、祖父に伺いをたてて、使わせていただきます。ありがとうございます、鷹箸さん」
彼女はそう言ってくれた。
俺は安心して、「はあー」と大きく息を吐いてしまった。
実結ちゃんは、先生のような優しい表情で、しかしちゃんと女の子をして、「ふふ」と笑った。
だが、直後に実結ちゃんは、小首を傾げた。
「あの、鷹箸さん」
「ん、何だい?」
実結ちゃんは机の上を指差した。
「この茶封筒には、鷹箸壌市郎さまへ、と書いてあるのですが、よろしいのですか?」
「茶封筒? おかしいな、俺が昨日用意したのは確か白い封筒の筈……あれ、これ、なんだったかな」
どうやら焦って違う封筒を取り出してしまったらしい。
「あ、そうだ。出掛けるとき、玄関に置きっぱなしだった仕事鞄に封筒が入っていて、訳も分からず持ってきたんだ。うーん、何だろう……ごめんね、ちょっと中、見てもいいかな」
「ええ、もちろん」
低頭し、俺は封筒を手にして中を覗いた。
紙が入っている。取り出して、縦に四つ折りされた紙を開くと、やけに綺麗な字が見えた。文字数はそう多くはない。
そのせいか、真っ先に飛び込んできたのは、こんな文字だった。
『好きです。わたしと、付き合ってください』
その瞬間俺は「んぐがぁ」と変な声を喉から発した。
それを聞いた実結ちゃんは「どうしました?」と手紙を覗き、そして言った。
「まあ、素敵」と。
周囲との学力の差に悩む俺を、加賀谷先生はいつも励ましてくださり、その時分、随分と助けられた。先生がいなかったら、俺は早々に人生を諦めていたか、今以上に無気力な日々になっていたと思う。いや、そうだと断言出来る。
今日は加賀谷先生の命日だった。
五年前に亡くなられた時、肉親の死以上の悲しみに襲われたことを明確に憶えている。
以来、毎年十二月二日は、必ずここを訪れるようにしている。
「先生、お久しぶりです。と言っても盆以来なので、それ程でもないですね」
俺は仏壇の前に正座し、加賀谷先生の遺影に手を合わせ、囁くような声で、先生に語りかける。
「そちらはどうですか。平和ですか。自分はと言うと、相変わらず仕事に追われる毎日です。ですが、最近は会社も有給休暇を消化しないといけないと言って来るようになりまして、おかげで今年は、日も高いうちにこうして挨拶に伺うことが出来ました。今までは遅い時間でしたし、さぞご迷惑でしたでしょう。先生はお休みになるのが早かったですもんね」
目を閉じたまま、涙だけは流さないようにと深呼吸した。これ以上話してしまうと、堪えきれないような気がした。
「では、そちらでもお酒はほどほどに、ご自愛ください。お好きだった金華堂の苺大福、お供えさせてもらいますので、そちらでゆっくり召し上がってください。では失礼します。また来年、盆に参りますので」
徐に目を開き、写真に映るその姿に在りし日を思い起こす。優しいお声と、温かな人柄と、時に厳しい、そのお心を。
俺は手元に置いておいた苺大福の箱を供え、また手を合わせた。
そして振り返って、俺は頭を下げた。
「いつもごめんね。実結ちゃん」
そこには、可憐な少女がいる。
松岡実結ちゃん。加賀谷先生のお孫さんだ。
先生にご兄弟はなく、奥様は先生が逝去された翌年に亡くなられた。一人娘の実有紀さんも既に亡くなっていて、先生のご家族は、その実有紀さんの一人娘である、実結ちゃん一人だった。
実結ちゃんは小さな顔に微笑みを浮かべ、首を横に振った。
「最近はすっかり訪ねてくださる方も少なくなって、祖父も寂しい思いをしているでしょうから、鷹箸さんが来てくださって本当に嬉しいんです。きっと、祖父も」
「いや俺なんて、迷惑を掛けてばかりの生徒だったから。草葉の陰で愛想尽きてやしないかと」
「そんな。祖父も、慕ってくれる人がいるというのは教師冥利に尽きる、とよく言っていましたから」
俺は照れ隠しのような気持ちの悪い笑い方をした。
「そうだと、嬉しいね」
「あ、そういえば」
実結ちゃんは、両手を顔の前で合わせながら可愛らしく俺の目を見つめた。
「お昼前で申し訳ないのですが、頂き物の柿があるんです。召し上がって行かれませんか」
「そんな、お気づかいなく」
「実を言うと、あまりにもたくさん頂いたので、一人では食べきれないんです。是非」
おにぎりでお腹も膨れていることだし、昼食は抜きにしようと考えていたところだ。果物くらいなら、お腹にも優しいかもしれない。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
○
この古い日本家屋に、普段は誰も住んでいないのだと言う。実結ちゃんが通う大学はここからは遠く、アパートを借りているらしい。
俺が先生に手を合わせたいと連絡をすると、実結ちゃんが鍵を開けて待っていてくれている。わざわざ自分の為に、と思うと、申し訳ない。
実結ちゃんには加賀谷先生の面影があった。顔が似ているとかではなくて、柔らかな物腰や、優しい声音に、俺は先生を重ねていた。こんなことを言うとさすがに怒られるだろうか。
「もう五年になるんだね」
畳の上で胡坐をかきながら、立派な座卓の角の辺りに置かれた柿に手を伸ばした俺は、思わずそう口にしていた。
「そうですね。そう言えば、鷹箸さんと初めてお話したのは、祖父のお葬式でした」
斜向かいに座る実結ちゃんはそう言った。
当時まだ中学生だった実結ちゃんは、先生のお葬式で、一人気丈に振る舞いながら、弔問に訪れる人々に対応していた。多くの人は「えらいねえ」などと言っていたが、なんて痛々しい姿なんだ、と俺は思ったものだ。
「もうすぐ二十歳なんだね。あの時とあまり変わってないように見えるけれど」
「そんなことありませんよ」
実結ちゃんは少しだけ頬を膨らませた。
幼さはあるが、実結ちゃんもまた、あれから五年の時を経ているのだ。
「そっか……そっかあ、そうだよね。あっという間なんだよね。時間が経つのって」
「ええ。あっという間です。毎日が目まぐるしくて、気付いた時には、もう大人でした。大人と胸を張って言えるかと言うと、まだ少し自信はないんですけどね」
謙遜するようにそう言う実結ちゃんが見せる表情は、確かにお葬式の時の彼女とは違っていた。老成したと言うと失礼だが、なんだか年頃の女の子にはないような、憂いを帯びたものだった。
しかし思い出される、あの日の少女。
悲しい目をして、皆に微笑む少女。
葬儀を終え、夜も更けた頃。人影もなくなり静かになっていくこの家で、少女は一人、声もなく涙を流していた。俺はそれを見て、つい声を掛けてしまったのだ。
「大丈夫?」と。
すると彼女は、涙を拭って、俺に微笑みかけた。
「はい。わたし、強いので」と言った。
この子は、自分の弱さを他人には見せない。中学生の頃からそうだったのだ。
少し大人になった彼女に、俺は手にしたフォークをテーブルに置いて、訊ねた。
「実結ちゃん、何か、その、大変なこととかない?」
「大変なこと、ですか。そういえば先日、アルバイト先の社員さんが転職されまして、シフトの回数が少し増えた、くらいでしょうか」
「いや、まあ、そういうことも含めてさ。生活とか、色々。手伝えることがあったら言ってくれて良いんだよ。金銭的なこととか特に。ほら、俺独身だから余裕はあるし、言ってくれれば、どれだけでも……」
「いいんです。鷹箸さん」
実結ちゃんは、いつでもこう返してくる。
「わたしは、わたしの身の丈に合った毎日を過ごしています。決して楽ではありませんが、これはこれで、悪くないんです。大学もアルバイトも楽しいですし。大丈夫ですよ、わたし、強いので」
笑顔を見せる実結ちゃんは、あの日と同じだった。
俺は、鞄から封筒を取り出し、机の上に置いた。
「これは?」
「きっと君は受け取らないだろうから、お金じゃあないよ。これは、その、商品券だ」
「商品券?」
「そうだ。現金じゃない」
「ほぼ同じものだと思うのですが」
「ほぼ、だ。全く同じじゃあない」
「ですが」
「受け取って欲しい」
精いっぱいの気持ちだった。俺に出来ることは、これくらいしかないのだ。
「もし自分の為に俺が無理をしている、と思ってしまうなら、考えを改めてくれ。これは加賀谷先生への御恩返しだ。それを君が受け取る。それだけだ。君はそれをお仏壇に供え、処分に困ったら、勿体ないからと使う。それでいい。……それじゃあ、駄目かい?」
俺は実結ちゃんの目を真っ直ぐに見つめた。決して逸らさず、述懐した。
実結ちゃんは小さく頷いた。
「はい。では、祖父にお供えします。しばらくの後、祖父に伺いをたてて、使わせていただきます。ありがとうございます、鷹箸さん」
彼女はそう言ってくれた。
俺は安心して、「はあー」と大きく息を吐いてしまった。
実結ちゃんは、先生のような優しい表情で、しかしちゃんと女の子をして、「ふふ」と笑った。
だが、直後に実結ちゃんは、小首を傾げた。
「あの、鷹箸さん」
「ん、何だい?」
実結ちゃんは机の上を指差した。
「この茶封筒には、鷹箸壌市郎さまへ、と書いてあるのですが、よろしいのですか?」
「茶封筒? おかしいな、俺が昨日用意したのは確か白い封筒の筈……あれ、これ、なんだったかな」
どうやら焦って違う封筒を取り出してしまったらしい。
「あ、そうだ。出掛けるとき、玄関に置きっぱなしだった仕事鞄に封筒が入っていて、訳も分からず持ってきたんだ。うーん、何だろう……ごめんね、ちょっと中、見てもいいかな」
「ええ、もちろん」
低頭し、俺は封筒を手にして中を覗いた。
紙が入っている。取り出して、縦に四つ折りされた紙を開くと、やけに綺麗な字が見えた。文字数はそう多くはない。
そのせいか、真っ先に飛び込んできたのは、こんな文字だった。
『好きです。わたしと、付き合ってください』
その瞬間俺は「んぐがぁ」と変な声を喉から発した。
それを聞いた実結ちゃんは「どうしました?」と手紙を覗き、そして言った。
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