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3.私の勇者さま、と言いたいのに。
ナイ、スライムも食わない目に合う
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その夜のことだった。シシィの父親に頼まれた薬――主に酔い覚まし――を届けるため、ナイはランタン片手に通りを横切って酒場兼宿屋へと向かっていた。
――勇者さまはちゃんと北の祠の情報を手に入れられたかしら。そんなことを考えながら、酒場の玄関先にある階段を上がって扉を開けようとした時だった。
「――このぉ、ロクデナシがっ! お足が無かったら、一昨日おいでっ!」
「だから、俺がちょっと外に出て魔物を倒してくれば、ここの勘定ぐらいすぐに払えるんだって……おっと!」
扉を開けたナイの前に突如として現われたのは、幅広の大きな背中だった。ナイは避け切れずに鼻っ柱をぶつけ、思わずその場に蹲る。一瞬、目に星が飛んだ。
「それまで酒代はつけといてくれって……おっ、ナイちゃん大丈夫か?」
「だ、大丈夫で……」
そう言おうとしたナイの足元に、ぽたぽたと赤黒い染みが広がる。
「大変だっ、ナイちゃんが流血したっ!」
口いっぱいに鉄の味が広がって、ナイは鼻血を噴いたことに気付いた。こんなことは、幼い時にいじめっ子の投げた石が鼻に当たって以来である。
「…………」
酔客やシシィの父親の気の毒そうな視線を受けながら、ナイは不覚にも剣士マシューに横抱きにされ、厨房の奥にある長椅子に頭を上げて寝かされる羽目になった。
鼻に当てた手拭きがみるみる赤く染まる。
「なんつー乱暴な女だ。年頃の女の子の鼻が曲がっちまったらどうするんだ?」
「鼻血なんてそのうち止まるわよ。大体アンタが酒代を払わないから――」
そう言いながらも、シシィは真新しい手拭きをナイの鼻にあてがう。
シシィとの長い口論の末にようやく店の外に叩き出されたマシューと、ちょうど鉢合わせてしまったらしい。
店内の酔客達のうんざりしたような気配が伝わってきて、ナイは何だか申し訳ないような気持ちになった。せめて負傷者らしくと目を閉じる。
二週間ほど前、酒場で初めて姿を見たマシューは酒に酔っていて、シシィに馬乗りされ殴られていたことを思い出す。それ以来、酒場ではシシィと『酒場の剣士』の掛け合いが名物となっていた。もっとも、誰も見たいものではないようだ。
――たしか、スライムも食わない、だったっけ? 意味が違ったかな。
ちなみにスライムと言えば、草原の掃除屋と異名を取る屍肉を漁ることで有名なジェル状の魔物だ。ナイも薬草採取でちょいちょい見掛けるが、基本的には動作が遅く、生きている人間には興味が薄い。ただ、魔除けの鈴も無しに怪我を負って動けなくなってしまったとしたら――正直、危ない。
「――――!」
肉を叩くような、小気味良い音が響く。様子を窺っていると、どうやらシシィのお尻を撫でようとしたマシューが、先に平手を食らったようだ。酒場の娘として物心付く前から酔客の相手をしているシシィである。世間知らずな自分とは違い、多少のことには動じないはずだが、マシューに対してはいつになく容赦がなかった。
マシューに北の祠の辺りで助けて貰ったことや、その剣裁きの凄まじさなどをシシィに語って聞かせたのだが、さも興味がないように聞き流された。むしろ、そんな危険な場所まで二人と一匹で行ったことを叱られてしまった。
そして、殴られても上機嫌で酒を飲み続けるマシューは、自分達を魔物から助けてくれた人物と同じとはとても思えない体たらくだ。ついこの間、魔物を山ほど倒したばかりだというのに、まさかその稼ぎを全て飲んでしまったのだろうか。
鎧を外した楽な格好ではあったが、マシューの身に付けているシャツは簡素ながらも貴族が着るような上質な絹で仕立てられている。その上、カウンターの椅子に腰を下ろして組み替える細身のトラウザーズの足が、また長くて様になっているといったら。収支の釣り合いや所作が庶民からかけ離れ、ナイには得体がしれなかった。
ナイがそんなことをつらつら考えながら休んでいると、二階の客室から古い階段をぎしぎしいわせて誰かが降りてくるのに気付いた。どこの村も同じで、酒場の二階は宿屋になっていることが多く、勇者やマシューだけでなく行商人や冒険者達が逗留しているのだ。個室だけでなく、懐の寂しい者達が雑魚寝する大部屋などもある。
下の騒ぎに酒でも飲みたくなった客かと、興味本位に目を開けると、
「!」
なんと、それは駆け出し勇者ライルだった。しかも鎧を脱いだ半袖半ズボンの姿で、ますますもって村の少年のように見える。ナイは血まみれの手拭を鼻に当てたまま起き上がったが、眩暈を覚えてまた長椅子に倒れ込んだ。
――なぜこんな時間に? 勇者さまは日の暮れと共に休まれるはずなのに。
一瞬垣間見えた勇者の思い詰めたような表情が気になったナイは、シシィの父親の怪訝そうな視線をよそに厨房の床を這い、カウンターの端から顔を覗かせた。
ちなみに勇者の個人情報は、酒場兼宿屋の娘であるシシィから仕入れた。決して勇者をつけ回しているわけではないと、ナイは誰にともなく声を大にして言いたい。
「あの……」
勇者の緊張に震える声に、酔客の喧騒が一瞬静まる。
十六歳で成人とはいえ、どう見ても子供にしかみえない少年が勇者としての過酷な運命を背負っていることは、村の誰もが知っていた。
「なんか用かい。勇者さま」
マシューの前で立ち止った勇者の足元では、夜のように黒く艶やかな毛並みの大猫が横になり、寸暇を惜しんで身繕いし始める。
勇者は意を決したように顔を上げ、
「あの、僕と一緒に、北の祠に行って貰えませんか?」
ナイは思わず声を出しそうになった。すでに勇者は北の祠の情報を得ていたのだ。
――天啓によって定められた、勇者さまの相棒。
そのことを考えると、ナイの胸はキリキリと痛んだ。大猫が守りナイが育てた勇者をマシューが鍛えてくれたなら、剣の腕前は飛躍的に向上するだろう。もしかしたら、魔王を再封印することも夢ではないかもしれない。
しかしそれは同時に、勇者がこの村を去ることを意味する。
相反する気持ちに板ばさみにされ、ナイは困惑した。だが、そんなナイの気持ちなどお構いなしに、マシューは麦酒を一息で飲み干してから、
「断る。女神の天啓だか宣託だか知らないが、顔洗って出直してくるんだな」
と吐き捨てるように言った。勇者の顔が驚愕に歪む。まるで泣き出す寸前の子供のような表情だった。マシューも恐らく、女神の天啓を得ているはずではあったが。
「大体だな、女の子と猫ちゃんに頼りっぱなしのお子さまに、世界が救えると思うか? それでいいなら『酒場の剣士』にだって魔王を倒せるってもんだ」
魔王と聞いて、勇者の顔色が変わる。
未熟であることは、勇者自身が一番わかっているはずだ。
勇者の気持ちに寄り添うあまり、ナイの心にはマシューへの殺意すら湧いてきていた。薬を買いに来たら、ものすごく苦いのを一個だけ糖衣を剥いで渡してしまおうかしら。いや、ダメダメ。医に携わる者の端くれとして、そんなことしちゃ。
勇者は俯いて下唇を噛み、きびすを返して足早に酒場を出ていった。
酒場はすぐに喧騒を取り戻した。ナイは可憐な榛色の瞳を精一杯に見開いてマシューを威嚇したが、頭の中では昼間、シシィに言われた言葉がぐるぐる回っていた。
――挫折したら、田舎に帰っちゃうかもよ。
「追い掛けなさいな、ナイ」
それと同じ声が、カウンターの後ろで蹲るナイを現実に引き戻す。くびれた腰に手を当て、引っ詰めた長い銀髪の下のエメラルドの瞳が力強く輝いていた。
「何ごとも、後悔しないようにしなさい」
「……なんつーか、俺、ナイちゃんに嫌われてんじゃね?」
――ナイちゃんの清らかな瞳で睨まれると、地味に凹むんだよなぁ。そう言って頭を掻くマシューを、シシィが手にした木の盆の角で殴りつけた。地味に痛そうだ。
「うんっ、ちょっと勇者さまの様子を見てくるね!」
ナイは立ち上がり、シシィに力強く頷き返す。なぜか酔客達の暖かく励ますような眼差しを感じつつも、勇者のあとを追って店の外に出た。
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