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エピローグ:二人だけの秘密
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そして長いようで短いゴールデンウィークが明け、再び学校が始まった。
もっとも部活動で生徒の出入りはあっただろうし、帰宅部の俺にとっては久し振りというだけだ。四、五日休んだぐらいで、何かが劇的に変化するわけもない。
「実は長谷川さんは、中国の奥地で幼女になる池に落ちてしまったんだーっ!」
「「「うおおおおおおー」」」
そう叫ぶ石井のネタを受け、どよめく野郎共。二年一組はとうとう幼女好きの巣窟となり果てた。女子生徒達が渋い顔をしている。
「落ちたら幼女になる池とか最悪だな。熟女になる池なら良かったのに」
「なにアンタ、バカなこと言ってんのよ。どのみち、そんな池なんか無いわよ」
「こはるちゃんは夢も希望も無いなぁ」
「なんでこっちのクラスに来てんだよ、遠藤」
「アンタ達のくだらないせっ、いへ、きの話がうちのクラスまで聞こえてくるから、止めさせに来たのよっ!」
「せっ……なんだって? もう一回言ってみ?」
こはるは問答無用で秋山の頭をパパンッと緑の便所スリッパで叩いた。ついでに石井の坊主頭も叩かれた。何故か石井と秋山の掛け合いより、こはると秋山の言い争いの方が激化する傾向にあり、理由は不明だ。こはるはピチピチの女子中学生なので、秋山のテリトリー範囲外のはずなのだが。俺はこてりと頭を傾げた。
そして上田先生の見合い結果は分からないが、結婚の噂は流れてこなかった。
相変わらず長谷川さんを追い掛け回し、長谷川さんは大人(?)の余裕でのらりくらりとかわし続けている。
俺もやはり、気がつくと井上のじーさんと一緒に朽ちた焼却炉傍の大穴を埋め戻していたり、涙目の長谷川さんに頼まれてコピー機の紙詰まりを直している自分に気付くのだ。俺はどうにも学校へ勉強ではなく働きに来ている気がしてならないが、長谷川さんに尋ねるとまたまたー、とはぐらかされるのが常だった。
俺はもう長谷川さんの赤い首輪を見ても、古い記憶を探ることはしない。
あのセピア色をした幸せの呪縛から、自分自身を解き放っていこうと思う。
確かにあの時の俺は、仲睦まじい両親の元で妹の面倒を見る良き兄として幸せだった。とても幼くはあったけれども。
失ったものは取り戻すことができないが、この先いくらでも築いていけるはずだ。
人生至る所に青山ありと上田先生も言っていた。二十代後半で目覚めた先生の性癖は、ぶっちゃけどうだろうとは思うけれど。
そんな穏やかに過ぎていく五月の、とある放課後のことだ。
保健室の前を通り掛かった俺は、偶然にも長谷川さんの声を聞き付けた。引き戸の向こうから漏れてくる会話を、たまたま耳にしたのだ。
「そういや、樹里っちのところにも同窓会のハガキ来た?」
「来てる来てる、返事どうするー?」
樹里っちというのは、保険医の小池さんが長谷川さんを呼ぶ時の愛称だ。
…………同窓会ということは、長谷川さんと小池先生は(略
黙って回れ右をした俺は、そのまま歩き出す。身体から不快な汗が噴き出した。
俺の耳は貝の耳、人の言葉は分からない。男達のささやかな妄想を守るために足早に去ろうとした俺の腕を、ちょいちょいと引っ張る何かがいる。
恐る恐る振り返ると、いつもの白地に小花を散らした袖付きエプロンを着た長谷川さんだった。心持ち首を傾げ、小さな人差し指を可憐なピンクの唇に当てている。
「おっ、俺は、何も聞きませんで――」
何も言わず、長谷川さんはにっこり笑って背伸びをした。
自らの人差し指を、俺の唇にそっと押し当てる。数秒とも永遠ともいえる時間が過ぎ、何ごともなかったようにサンダルをパタパタ鳴らしながら行ってしまった。
俺は自分の唇から柔らかな指の感触が無くなるまで立ち尽くす。
なんだかずきゅーんと、ヤられた。
長谷川さんと俺だけの秘密だと、そう言われた気がした。
―― 了 ――
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