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Ⅴ:クリスマスの夜に。
父親の声と本当の気持ち*
しおりを挟む地下のエレベーターホールで、澄雨は立ち姿も様になる赤猫を睨み付けた。
「待ちくたびれたって、どういうことよっ!」
幹也は最初から気付いていたのだ。このビルに入ってきた時から、エレベーターに反応していたではないか。完全に自分の読み間違えだと、澄雨は下唇を噛む。
だがそんな不穏な空気の二人にかまうことなく、買物を終えた客達は我先にと争うようにエレベーターへ乗り込んでいく。隣に小さなサイズのエレベーターがあるが、そちらは途中の階で止まっていた。いつもの通りのおかしさだ。
「力のある、良い目だね」
しばらく澄雨を眺めてから、仕留めた獲物に満足した狩人みたいな口調で言った。
「だけど、どうして僕を犯罪者みたいな目で睨むんだい? 確かに人ではないが」
「赤猫さんは、みんなが死んじゃうのを、傍で黙って見てるだけじゃないっ!」
「だって、それが僕の仕事だからね」
しれっと答える赤猫を見て、澄雨は頭を振った。分かっている、この男とは住む世界が違うのだ。抱き締めて優しい言葉を掛けてくれても、すこぶる顔が良くても人ではない。硫黄の息を吐く地獄の住人、化け猫火車なのだ。
「大人しくついてくる気はなさそうだね。なら、なんのためにここに来たんだい?」
「わっ、私は人間だし! 人間だったら、人間同士助け合うしっ! 事故が起こるって分かっていたら、助けないわけないじゃないっ!」
声を震わせて叫ぶ澄雨を、赤猫は腕を組んだまませせら笑った。
「君らをクリスマスの夜に徘徊する哀れな子供だと思いつつも、平気でエレベーターから追い立てる彼らを助ける? 君が懸命に訴えても誰一人耳を貸そうとしない。無視されるか、警備員でも呼ばれるのが関の山なのに?」
「なんでそうネガティブに取るかなっ!」
澄雨は怒鳴りながら、赤猫の背後で扉を開たままのエレベーターに気付く。すぐに『閉まる』のボタンを押せばいいのに、みな表情がうつろで突っ立ったままだ。
――なんで? しかもこの臭いって!
そしてエレベーター内部から、強い硫黄の臭気が漂ってくる。なぜかそれが、硫黄の臭いが自分にまとわりつくような気さえするのだ。
「そう、これがシノニオイだよ」
赤猫が澄雨の背後へ視線を飛ばす。
「君の弟はとても利口だ。僕の間合い――香りの届く範囲には決して入らない」
澄雨が振り返ると、幹也が必死に手を振っていた。謎のお手ふりパワーで、シノニオイを追い払えると信じているのだ。
「だけど、君の中には僕がシノニオイをたっぷり吹き込んでおいたから――おいで、澄雨」
「い、いったい、わたしに、なっ」
赤猫の目が縦の金の虹彩に輝いていた。怒鳴り飛ばそうにも舌が回らず、頭の芯が痺れて考えも纏まらない。抵抗する意識とは裏腹に、澄雨は赤猫の手を取っていた。
そしてこの過積載状態のエレベーターに、二人してすっぽり納まってしまう。
――この先、どうなるんだろう。
澄雨はぼんやりする頭で懸命に考える。
買物を終えた客達でぎっしりのエレベーター。
途中で変な揺れ方をしたり、ボタンを押してもなかなか降りてこなかったり――。
「お父さんに会わせてあげるよ」
誰かが押していた『開く』ボタンが離されて、扉が閉まろうとした瞬間だった。
いつかの夏の日に、幹也と食べたかき氷の冷たさが頭にキーンと突き刺さるような痛みと共に、ひとつのメッセージが捻り込まれる。
『澄雨、しっかりしなさい!』
父親の声だった。ただ一度きりの。
あの日、父親が一年の療養を経て、初めて職業安定所に向かって家を出た日。
ようやくこれで普通の家族に戻れると、満面の笑みで死出の旅路へ送り出してしまった自分が、父親の声を聞き間違えるはずはなかった。
澄雨は頭の痛みを堪えながら、締まり掛けた扉にガッと肩を割り込ませる。
どうしたら、買物客達を正気に戻せるだろうか。全員にビンタして回るわけにもいかず、正直に死神が狙っていると言っても誰も信じない。自分の身に直接降り掛かる、生理的に受け付けたくないような内容は――。
「そっ、そうだっ!」
「いったいどうしたんだい、澄雨?」
にわかにシノニオイの呪縛から脱した澄雨に驚いたのか、赤猫が慌てて顔を覗き込む。その端正な甘いマスクを指差し、澄雨は大声で叫んだ。
「この人、変質者ですっ! 包丁を隠し持ってます! 脅されてエッチなことされそうに……っていうか、ぶっちゃけされたっ、ファーストキスだったのに、酷いっ!」
「……変質者って、僕のことかい?」
けれど、これだけの人数がいても場が凍り付くような静けさである。
効果がないのかと諦め掛けた時、いつの間にか姿の見えなかった幹也が、アルバイトらしい若い店員を引っ張ってきた。
その店員にはシノニオイの効果が薄いようで、訝しげにこちらを見ている。
「ボク、どうしたの? 迷子?」
次の瞬間、凍り付いていた空気が床に落ちて粉々に砕けた。
買物客達が、我先にエレベーターの外へと逃げ出し始めたのだ。”刃物を持つ変質者”というパワーワードが、ようやく心に染みてきたらしい。
「ちょっと、さっさとどいてっ!」
「押さないでよっ! 誰か、助けてっ!」
誰も『開く』ボタンを押さないので何度も締まり掛ける扉に、買物客達がパニックムービーさながらに体当たりし続けている。
「なんてことだ……シノニオイが霧散してしまった。親子共々やってくれるね」
人波から逃れるためとっさに澄雨の腕を引きエレベーターの隅に逃げていた赤猫は、いつものスタイルを崩して頭を掻いている。なおも出ようとする買物客達にぐいぐい身体を押されながら、澄雨はほくそ笑んだ。
――カードを『引っ繰り返して』やった。
いつかの保健室で、拾ったタロットカードを誤って逆向きで置いてしまった時、
『逆さまだったら意味が引っ繰り返るカードがあるのよ、どのカードもってわけじゃないんだけどね。ちなみに死神の逆位置は、再生とか挫折から立ち直るとか』
最低最悪の死神のカードも、引っ繰り返せば良い意味になるという。ならば縁起の悪い事故の幻視も、他人を助けるチャンスが出来たと思えばいいのだ。そして予言の邪魔をした結果シノニオイは散り、誰も死なずに済んだ。
買物客達がみな逃げ去り、エレベーターには澄雨と赤猫以外は乗っていなかった。
自分達は勝ったのだと、澄雨は確信する。
「手ぶらで地獄に帰ってね、赤猫さん……」
だが寂しげな赤猫を残して降りることに一瞬だけ、躊躇してしまった。
本当にコンマ一秒以下。けれど、それが命取りだった。
降りようとした澄雨の目と鼻の先で、扉が無情にも音を立てて閉まった。当たり前といえば当たり前だが、誰も『開ける』ボタンを押していないからである。
エレベーターはすぐに上昇を始める。
「あああっ、ウソウソッ!」
買物客達のパニックが遅れて乗り移ったように、澄雨は操作盤のボタンを滅茶苦茶に押しまくった。しかし、上の階をあっさり通過した暴走エレベーターは、さらに上昇し続ける。非常用の呼び出しボタンも通じない。
「無駄だよ。まだ君ひとりぐらい閉じ込めるだけのシノニオイは残っていたらしい」
背後からは事実のみを告げるような淡々とした赤猫の声。
「君は酷い子だ。見えないだろうけど、集まってきていた同業者達が、悪態を付きながら退散しているよ。人が大勢、死に損なったから」
「いっ、いい気味だわっ!」
どうしよう、幹也がまだ地下に残ってるのに。本当に連れてくるんじゃなかった!
幹也に何かあったら、お母さんが泣いちゃう! っていうかその前に、私が死んじゃう。歯の根も合わない、膝も震えている。自発的に死のうと思ったことなど一度もないが、自分は思ったよりも往生際が悪いらしい。
「僕のために、残ってくれたんだね」
それだけは、絶対に違う! そんなつもりなんて、これっぽっちもなかった!
「何も怖いことなんてないよ――」
赤猫はうっとりしたような声で、後ろから澄雨を抱き竦める。
澄雨はうなじに、硫黄の匂いのする熱い吐息がふいごのような勢いで吹き付けられるのを感じた。背筋がゾクゾクと震える。
「痛いなんて思う間もない。ああ、君を乗せて車を曳けるなんて、夢みたいだ」
「…………」
「それとも、僕と一緒に行くのがそんなに嫌なのかい?」
自分を抱くスーツの袖が、みるみるうちにごわごわした赤毛の生えた獣の腕に変化するのを目の当たりにし、澄雨は一瞬息を詰める。
けれど、不思議と怖いとか気味が悪いとは思わなかった。ただ、赤い皮毛が炎のように綺麗だと思ってしまった、澄雨の口をついて出たのは、
「何でもっと早く……ううん、出会ったあの時に、私を連れて行ってくれなかったの?」
「……それはどういうことだい?」
言ってしまえ、恥ずかしい私。どうせ助からないのだ、いまさら隠してどうなる。
「あの時……火葬場のロビーで出会ったあの瞬間だったら、心の真っ黒な私が好きだと言ってくれた赤猫さんに、ノコノコついて行ったよ。でも私はもう、新品のセーラー服を着ていた心細げな女の子じゃない……」
私には支えなきゃならない、守らなきゃならない連中がうぞうぞいるんだから――言いながら澄雨は泣いていた。赤猫と初めて出会った中学生の時のように。化け猫の腕が、フィルムの逆回転のように元のスーツの袖に戻る。
「……そうか、遅過ぎたのは僕の方か」
――あの時の君は、確かに僕のものだったのに。
赤猫はまだ認めたくないという表情のまま僅かに首を振り、澄雨の薄い肩に初めて触れるようにおずおずと手を掛け、正面に向き直させる。
「ねぇ、気になっていたんだけど、ひとつ聞いていいかい?」
「……何を?」
「君らの婚姻可能年齢って、確か十六歳だったよね。昔も今も」
少し考えてから、澄雨は首を横に振る。
「え、違った?」
「最近、民法が改正されて、婚姻可能年齢は十八歳に引き上げされたの」
十六歳は社会的には子供扱いだけど、私のおさんどん生活は大人と同じだけどね、と澄雨は続けた。
「あちゃー。僕はてっきり……」
「てっきり?」
「僕は十六歳になったら、大人になった君を浚っていいもんだと思っていたよ」
社会的には二年早いし本質的には遅過ぎたねぇと、澄雨のおでこに額をくっ付け、赤猫は溜め息を付いた。
そして、まだしゃくり上げている澄雨の真っ赤な耳に、そっと唇を寄せ、
「そういえば、この間は悪かったね。君はどんなのがいい?」
「どっ、どんなのって……ふっ、普通の……じゃなくて、何言わせん」
それは、唇が離れてから勘違いだったかなと思うほどの、淡い淡い口付けだった。
目を閉じる余裕もなかった澄雨に、
「でも僕は、君に会う口実が欲しかっただけなのかもしれない――じゃあ、ね」
一瞬のことだった。あれだけ叩いても反応しなかったエレベーターの扉が突然開き、澄雨は背中から外へ転がり出ていたのである。
そこは六階、次は最上階の屋上だった。
なおも上昇するエレベーターのランプを、澄雨は立ち上がって呆然と見上げた。
赤猫がなぜか、自分をエレベーターの外に押し出したのだ。そうでなければ、いまも赤猫と一緒にエレベーターに閉じ込められているはずだった。
澄雨が見ている前で、急にランプが一斉に点灯し、消えた。
次いでキリキリと、限界まで引っ張られた何かが引き千切れる音が、エレベーターの扉の向こうから聞こえた。一瞬、澄雨の心臓が捻り上げられたように痛んだのち、扉の向こうを何かが通り過ぎていくのが分かった。上から下に向かって。
すぐに腹の底にどんとくる、ビル中を揺るがす重低音が響き渡った。
「いや……赤猫さんがまだ乗って……」
澄雨は悲鳴にならない声を上げ、六階エレベーターホールの床に崩れ落ちる。
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