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 温めた牛乳にチョコレートを入れて溶かし、事前に水で溶かした粉ゼラチンと混ぜ合わせる。別のボウルに生クリームを入れ六部立てに泡立てたら、それらを少しずつ混ぜ合わせていく。綺麗に合わさったらあとはカップに均一に注ぐだけだ。
 そのババロア一つもらってもいいですか、と凍城が訊ねてきたのはちょうど作り終えたころだった。パットに並べたステンレス製の型にはすでに液を流し込んでいる。あとは冷蔵庫に入れて、固まったころにココアパウダーを振りかければ完成だった。黒瀬は冷蔵庫のドアを閉めながら頷いた。凍城は礼を言った。
「今日、宇洞さんが来るんですよ」
「うとうさん?」
「うちのオーナーですよ」
 おーなー、と黒瀬は復唱した。すんなり頭に入ってこなかったからだ。意味を理解したところで、思わず「えっ」と声を上げる。
「この店、凍城さんのものじゃないんですか?!」
「形式上は雇われ店長ですよ。好き勝手にやってますが」
「……大丈夫なんですか、それ」
「好きにやっていい、って言われてるんですよ。だからたまに覗きに来る程度です。黒瀬くんのことも紹介しますからね」
「どんな人なんですか?」
「いい人ですよ。私も散々お世話になってます。怒るとちょっと怖いですけど」
 ちょっととはいったいどの程度なのか。十四時半に来ますからねとつけ加えて凍城は仕事に戻ってしまう。偉い人への挨拶などしたことがない。困っている黒瀬をよそに、バックヤードから「おはようございます」とよく通る声が聞こえてくる。早番の愛川だった。黒瀬と凍城も挨拶を返す。黒瀬は慌てて時計を見た。早番が来たということは、もう開店準備を始めなければならない。ババロアは作り終えたがカウンター内は材料と器具でまだ散らかっていた。
 レジ現金の入ったクッキー缶を持った彼女が黒瀬の顔を覗きこんでくる。
「すみません、すぐ片付けます」
 謝る黒瀬に、愛川は「いや、そうじゃなくて」と眉をさげた。
「顔が強張っているよ。大丈夫かい?」
 指摘されて黒瀬は両頬に手を当てた。原因はいったいどれだろうか。そんなことは分かり切っていた。
「お嬢様たちが帰ってくるまでにリラックスするんだよ。片付けはゆっくりでいい」
 先輩にまかせてくれたまえ。お礼はそのお菓子で構わないよ。愛川は芝居がかった様子で開きっぱなしのレシピ本を指差した。多めに作っておいてよかったな、と黒瀬は胸をなでおろした。
 掃除、レジセット、在庫チェック、その他開店準備。それぞれを三人で分担したのち今日の予約確認。いつもどおりの朝が始まった。夏休みの黒瀬は早番多めのシフトになっている。ピークタイムは夕方だ。だから予約も当然夕方が一番多い。客足が少なく新規やフリーの受け入れも多い午前や昼に接客できるようにするためだった。普段なら凍城と早番一人で午後から他のメンバーが出勤するのだが、夏休みの愛川は鬼のように働いていた。本人曰く「今が稼ぎどき」らしい。就活が本格化すればバイトをする時間が大幅に減る。さらに就活は金がかかる。だから今のうちに貯金を作っておくのが大切らしい。「黒瀬くんもちゃんと貯めておくんだよ」と前にアドバイスをくれた。王子らしからぬ発言だった。
 今日もやはり愛川の指名予約は多く、それを見るたびに黒瀬は焦燥感に襲われるのだった。
 世間は夏休みとはいえまだお盆前なこともあり、やはり午前は客足も少なめだった。忙しさに駆られることもなく仕事をこなして昼休憩をとり、午後出勤の三神もやってきた。黒瀬は再度予約画面が表示されているタブレットを見た。十三時半の時間軸に宇洞の名前がある。黒瀬がさらにタブレット上部の時計表示を見たと同時にドアベルが鳴った。黒瀬は反射的に姿勢を正してドア方向へ向き直る。入口の前には既に凍城が居て「おかえりなさいませ」と深々頭を下げていた。そこに立っていた人物は黒瀬の想像と大きく離れていた。背丈は凍城と同じ程度で、ベージュのスーツにワイン色のネクタイを締めている。ウェーブ掛かった栗色の髪は首の横で纏められており毛先が胸元まで落ちている。怒ると怖いなどと凍城が言うせいで、黒瀬はてっきりガタイのいい厳つい人が来るとばかり思っていた。慣れた様子で凍城に案内されながら、彼は店の一番奥の席へ座った。一礼した凍城が足早に黒瀬の元へやってくる。
「ダージリンのポットと、黒瀬くんが作ったやつ。出来上がったらそのまま黒瀬くんが持ってきてください」
 黒瀬の返事も待たずに凍城はまた足早に宇洞の席へ戻っていった。これはおそらく挨拶をしろということだろう。黒瀬は背後の棚からポットとカップを取り出した。無心で紅茶の準備をする。出来上がったものをトレンチへ置き、冷蔵庫を開けた。黒瀬が朝作ったババロアがいくつか並んでいる。昼休憩で食べた愛川は美味しいと言ってくれた。一つ取り出してそれも一緒にトレンチへ置き、しっかり両手に持って席へ向かった。
「おまたせいたしました」
 とにかくいつも通りを心掛けて黒瀬は口を開いた。凍城と楽しげに話していた宇洞が向き直る。合った視線の先は柔らかな目元をしていた。
「聞いているよ。君が新人だね」
「はい。黒瀬と申します」
 黒瀬は一礼してから持ってきたものをトレンチからテーブルへと置いていく。その横から凍城がやはり楽しげに口を開いた。
「黒瀬くんが作ったんですよ、これ」
「へえ、すごいねこの店にもついにパティシエの登場か」
「いえ、そんな大層なものでは……」
 慌てて謙遜する黒瀬に被せて、凍城が「どれも美味しんですよ。彼の作るお菓子は」と褒める。
「勤務態度もいいですし、私としては長く働いて欲しいものですね」
「いい子を捕まえたね。大学生だっけ?」
「はい、一年です」
「そうかい。指名は取れてるの」
「まだあまり。そこは今頑張ってます」
「ちょっと増えてきてますよ。今日も二人入ってますよね。一人は見たことない名前ですけど。黒瀬くんどこから引っ張ってきてるんですか?」
「マッチングアプリです」
 黒瀬がそう言うと二人して「あー」と声を上げる。
「どこで知ったんですかそんなの」
「三神さんに教えてもらいました」
「あいつか。新人に教えるなよそんなの」
「だめでした?」
「だめではないですけど、まあ、程々にね」
「トラブルは起こさないようにな」
「はい」
 その後は大学やら地元やらの当たり障りない世間話をしていたが、未菜の来店時間が迫ってきているため黒瀬は席から離れることになった。入口の前で待機しながら、黒瀬は再度宇洞の席を見る。彼と会話している凍城はいつになく楽しそうだ。店内の客たちも彼の席をちらちらと見ており、それは中年男性が執事喫茶に一人で来ていることへ対する物珍しさなのか、凍城をよく知る客が彼の弾む様子に驚いて見ているのかのどちらかなのだろう。ぼうっと眺めながら考え事をしていた黒瀬だったが、ドアベルの音で引き戻されて慌てて頭を下げる。現れたのは当然、指名客である未菜だった。

 初めての指名客を覚えていますか、と先輩たちに聞いて回ったことがある。四人の返事はイエスであった。今も来てくれてますか、と続けて黒瀬は尋ねると四人とも首を振った。
「初指名客なんてそんなものですよ」
 と言ったのは凍城だった。初めて指名をもらうときなど新人のころに違いなく、最初から客を満足させて長続きさせることは難しい。一対一のころは問題がない。しかし指名客が増えてたときが問題らしく、指名予約が取りにくくなったり、同じ時間帯で指名がかぶり今までと同じ料金なのに会話できる時間が減る時期にどうしてもトラブルになるそうだ。こちら側も新人だからまだ未熟で対処が難しく、客側も一対一で時間を使って大切にされていた時期があったからこそ落差で怒りやすい。だからそこで切れてしまうのが一般的らしい。だから彼女もいつか来なくなる日がくるのだろうか、と黒瀬はたまに考えてしまう。とはいえきっとそれはずいぶんと先のことだろうな、とも同時に思う。あれからマッチングアプリで会った女性を何人か店まで引っ張ってきたが、その後自分で予約を取って来店してくれたのはまだ二人だけだった。夏休み中に五人、という先輩たちと立てた目標は達成できるのだろうか。今日も一人、シフト終わり三十分前の十八時で予約を入れてある。ここが一番の正念場であることに黒瀬は最近気づいた。ここが一番切られやすいのだ。こうして必死に集客するようになってから、黒瀬は未菜のありがたさに気がつくようになった。勝手に気に入って定期的に通ってくれているのだ。もはやビギナーズラックのような存在だろう。予約画面で彼女の名前を見ると安心する。
「平日なのにめずらしいですね」
「有給使っちゃった」
 平日の昼間ってこんなに空いてるんだね、と店内を見回す彼女の顔はいつもより暗い。これはなにかあったな、と黒瀬は内心身構えた。
「……本当は彼氏とディズニー行く予定だったの」
 一礼をして紅茶を作りにカウンターへ戻ろうとしていた黒瀬は動きを止めた。ここで離れてはいけない。咄嗟に凍城を見ると、察してくれたのか宇洞の席から離れてカウンターへ向かって移動してくれる。
「ケンカでもしちゃったんですか?」
「今月の売り上げ低いみたいで、ディズニー行く金あるなら店で使え、って。あ、彼氏ホストなんだけど」
 それは本当に『彼氏』ですか、と言いたくなるのを黒瀬はぐっと堪えた。十中八九違うのだろうが、未菜が彼氏だと言っているのだから未菜の中では彼氏なのだ。しかしホストクラブへ通っている話は初耳だった。普通の昼職と聞いていたがその金はどこから出てきているのだろうか。身なりに掛ける金を削っているようには見えない。実家が太くて仕送りがすごいのか、こちらに言っていないだけで夜職も兼任しているのか。思考を巡らす中で黒瀬は一つの案が浮かぶ。もしそのホストを切らせることができれば、こちらに通う回数も使う金も増やすことができるのではないか。
 それは酷いですね、と同意したが最後、怒涛に溢れ出る『彼氏』とやらの愚痴をひたすらうなずきながら黒瀬は聞く。話を聞くに店の外で会うことは稀らしい。だからこそ今日のデートをかなり楽しみにしていたようだ。可哀想に、と思うと同時にやはり彼氏ではないな、とも思う。愚痴が止むより先に凍城がトレンチを持ってやってくる。黒瀬は礼を言って受け取った。
「これでも食べて元気だしてください」
 ティーセットとババロアを机に置くと、未菜は「わあ!」と歓喜の声を上げた。
「今日のも美味しそう!」
「恐縮です」
「黒瀬くんだけだよ。私のために何かしてくれるの」
 そんな悲しいこと言わなくてもいいのに、と黒瀬はこっちが切なくなる。
「こんなのでよろしければいつでも作りますよ」
「ほんと? 日曜日も来るからまた作ってくれる?」
「いくらでも」
 未菜は笑ってくれたがやはりどこか寂しそうであった。

 営業中の内緒話は客から見えない冷蔵庫の前、と言うのがこの店の基本である。未菜が帰って数時間後、客が少なくなった瞬間を見極めて黒瀬は三神に相談してみた。
「百パー彼氏じゃねーな。全財産賭けてもいい」
「ですよね」
 三神の全財産とはいくらだろうか。あんまり貯めてるイメージ無いな、などと黒瀬は失礼なことを思わず考える。
「で、なに? お前は助けてあげたいとか思ってんの?」
「いや、ホスト切らせてこっちに通う回数増やせられないかなと」
 三神は一瞬、目を見開いた。それから数秒悩むように顔を伏せる。三神は数歩黒瀬から離れてカウンターから顔を出して店内を見回した。戻ってくると先程より半歩近づいて小声で呟いた。
「あのさ黒瀬。この店、ぶっちゃけ指名に対するバック少ないんだよ。……だから稼ぎたいなら他紹介するぜ?」
「いや別に金はどうでもいいです」
「じゃあなんでそんな躍起になってんの?」
「なんで、って言われても。多いほうがいいでしょう店的に」
「それはそうだけど。別に指名少ないからって怒られたりしないぞ。凍城さんなんかやたらお前に甘いし」
「え、まじですか。凍城さん俺に甘いんですか」
「なんでそこに食いつくんだよ」
 変なやつ、と三神は呆れた顔でいった。
「話戻すけど、変に介入しようとしないほうがいいと思うぞ。来たときに慰めてやればいいよ。こっちの好感度上げてじっくり待っとけばいい。そうすれば切れたときに向こうから勝手に来るから」
「そんなものですか」
「この店、一人から搾り取るより広く浅くって感じだから。お前今日もアプリから新規引っ張ってきてるだろ。予約見たぞ」
「はい。もうすぐ来ます」
「初来店?」
「はい」
「じゃあそっちに集中しとけ」
 黒瀬の肩をぽんと叩いて、三神は店内へ戻っていった。黒瀬はポケットからスマホを取り出す。ロックを解除すると十五分ほど前にやりとりしたLINEのトーク画面が開いたままになっていた。
『ごめんバイト十八時であがれなくなった』
『三十分残ってくれって』
『りょ! じゃあ駅に着くの四十分ごろ?』
『うん。ごめん』
『よかったらうちの店で待つ? 奢るよ』
『喫茶店だっけ?』
『そう。ここの三階』
『今日来れば俺の手作りババロアが食べられるよ』
『じゃあいく』
『店の前まで来たらLINEして』
 ここから返事はまだ来ていない。看板の執事喫茶の文字を見て逃げられたのだろうか。黒瀬は冷蔵庫の前でしゃがみ込んだまま追加でメッセージを送るか悩んでいると、頭上から声が降ってくる。
「黒瀬くんなに携帯いじってるの」
 咄嗟に顔を上げればそこにいるのはやはり凍城であり、案の定冷たい目で睨みつけられている。久々に見たなと思いつつ黒瀬は慌ててスマホをしまった。
「予約入ってるでしょう。入口で待機しなさいよ」
「来る前にLINEくれることになってるんですけど、返事こないんですよ」
 ちょっと外覗いてきます、と黒瀬は逃げるようにカウンターを出た。そのまま入口へ向かいドアを開ける。そこにはスマホを持った待ち人がいた。はるか、二十一歳大学生。実家暮らしでバイトは居酒屋。会うのは今日が四回目だ。
「なんだ、来てるじゃん。LINEしてよ」
「……いや、本当にここであってる? って思って」
「あってるよ。三十分だけ待ってて」
 黒瀬はサッと彼女を店の中へ入れた。
「おかえりなさいませ、お嬢様」
 マッチングアプリから迎え入れるのはこれで八人目だった。
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