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二話

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 二十一時を過ぎるとこのコンビニは客足が遠のく。これは住宅街という立地のせいだろう。駅から少し離れているうえに住人はファミリー層が多い。こんな時間はもう自宅で家族団らんのんびりしている人が大半であり、そうでない人も駅前のコンビニで済ませてしまう。混んでいるからといって時給が上がるはずもなく、バイト労働者にとって空いていることはイコール喜ばしいことである。本来ならそのはずであった。
 蛍光灯にカンカンと照らされた店内は静かであり、ときおりレジに立っている先輩バイトのあくびが柊の耳まで届いてくる。その柊はモップで床掃除をしていた。すでに一度箒で履いたにもかかわらず砂やら土やらがまだ出てくる。土足で歩くから仕方がないのだが、毎日やっていてこれなのだからどうにかならないものかと柊は考えていた。床を掃除しながら陳列棚も流し見し、乱れがあれば手を止めて直す。そうして店内を一周してレジへ戻ると先輩はまた大きなあくびをした。柊はちらりと時計を見る。時刻は二十一時三十分を少し過ぎたところであった。
「まだ降ってるねえ」
 先輩は自動ドアの先を見ながらそう言った。外はとっくに暗闇であったが、それでも店内から分かるほど強く雨が降り注いでいる。梅雨入りが宣言されたのは三日前のことだ。例年通り六月の前半であった。客が少ないのはこの雨のせいもあるのだろう。ここから大量の客が押し寄せてくることはまずありえない。あとは上がり時間までぼんやりと過ごすのみである。
「俺、裏でサボってていい?」
「どうぞ」
 助かるーといいながら先輩はそそくさとバックヤードへ引っ込んでいく。柊はレジに立ったまま今日の夕食に悩んでいた。以前は天気が悪いと嫌々まっすぐ帰宅していたが、最近はイートインスペースを借りて食べている。雨の日は客も少ないからちょうどいい。ありがたいことに従業員がここを使うことにクレームをつけてくる客もいない。レンジもあるしパスタにするかな、などと思案していると自動ドアの開く音がした。柊は反射的に「いらっしゃいませ」と挨拶をする。そこにいたのは姫ヶ谷であった。湿気で重たい空気など一切気にもとめない様子で「やあ」と手を上げてくる。
「少し早かったか?」
「バイト先に押しかけてくるなよ」
「昼に会いに行ったら校舎裏にいなかったからな」
「雨に振られながら飯食うバカいねえよ」
 件の話が解決して以降、姫ヶ谷はコンビニにも校舎裏にも、公園にも現れることはなかった。今後も絡まれるのではと心配していた柊は胸をなでおろしていた、その代わりに校内で見かけるたびに手を振ってくるので困っていた。別に挨拶程度ならこちらも気にしないが、人目も憚らず両手を頭より高く上げてブンブンと振ってくるものだから柊もとにかくリアクションに困る。幸いにも姫ヶ谷の容姿は目立つので、最近は見かけ次第全力で隠れるようにしていた。それでも先に見つかると遠くから嬉しそうな顔で腕を振り、それを見た周囲の生徒がクスクス笑いながら相手を探し出すので始末に負えない。柊のスタンスとあまりにも合わなかった。なんにせよ話しかけてはこないのでまた厄介事を頼んでくる気はないのだろうと踏んでいたが、ここにきてわざわざ出向いてきた。柊は正直嫌な予感しかしなかった。姫ヶ谷はキョロキョロと店内を見回して「一人か?」と尋ねてきた。先輩は裏でサボっていることを伝えると、うなずいて真面目な顔になった。ああ、これはまためんどくさいことを頼まれるんだろうな、と柊は直感的に分かってしまった。
「夜の校舎に一緒に忍び込んでくれないか」
「やだ」
 そんな漫画みたいなことは陽キャのクラスメイトとでもやればいいのだ。学校での生活を最低限にしてバイトに明け暮れる自分に頼むことではない。だから柊は間髪入れずに断った。
「三年B組の教室に幽霊がいる。だれも居ない時間に話しかけにいきたいんだ」
「放課後や早朝は?」
「行ってみたが、自習室代わりに使っている三年生がいるから無理だ。受験生だからな」
「……一ヶ月半待てば夏休みだぞ。補講や部活の生徒に混ざっていけば日中普通に入れる」
 姫ヶ谷は首を振った。「流石に遅すぎる。そこまで放置するのは嫌だ」
「話しに行くんだよな。俺が着いていく意味は?」
 柊がそう尋ねると、姫ヶ谷はさも当然とした顔で言った。
「夜の学校なんて怖いに決まってるだろ。一人で行けと言うのか?」
 信じられない言葉に柊はぽかんと口を開けた。
 そもそも夜の学校が恐怖の対象となっているのはなぜか。当然それは怪異、つまり幽霊やそれに準ずるものを連想するからである。人気のない暗がりなら見えないはずのそれが見えてしまうのではないか、という錯覚が恐怖心を煽るのだ。であれば日中でも見える姫ヶ谷が夜の校舎に恐怖を覚えるのはどう考えてもおかしい。むしろ普段から見えない柊のほうがよっぽど怖いのだ。だからその柊をわざわざ連れて行こうとする意味が理解できなかった。
「とりあえずバイト終わったら直行でいいか?」
「いい訳がないだろ。あんまり遅くなりすぎると親が絡んでくるんだよ」
 むしろお前はそんなに遅くまでうろついて大丈夫なのかよ、と柊は聞き返す。姫ヶ谷は曖昧にうなずいた。
「じゃあ君のバイトが休みの日に行こう。次はいつだ?」
 三日後の木曜日が休みであることを伝えると姫ヶ谷は嬉しそうにうなずいた。
「その日なら俺も暇だ。校舎が閉まるのは八時半だから、その時間に校門前に集合しよう」
 だからなぜ自分がついて行かなければいけないのか。再度反論しようと口を開いたところで運悪く自動ドアが開いた。柊は反射的に挨拶をする。別の客が居ては話の続きはできない。せめてもの抵抗のつもりで柊は姫ヶ谷を睨んだ。その本人は楽しそうにホットスナックを眺めていた。
「フライドチキンとアメリカンドッグを一つずつ! あとカフェオレも」
 レジ前の冷凍庫からコーヒー用カップを取り出しながら嬉しそうに姫ヶ谷は言う。柊はとげとげしい声で「ありがとうございます」と返した。
 じゃあ向こうで待っているから、と会計を済ませた彼はさっさとイートインスペースへ向かっていった。話は終わったのではなかったのか。柊は疑問に思いながらその背を視線で追った。先ほど入ってきた客はおにぎりの棚とパンの棚を交互に行き来して眺めている。明日の朝ご飯用だろうか。それとも今日の夜食だろうか。自分の夕食はミートスパかカルボナーラのどちらにしようか、柊はレジに立ったまままたぼんやりと思考しだした。そのうちに客がレジへやってきた。おにぎり二つで決め売ったらしい。会計を済ませて彼が出て行くと、店内はまた静かになった。その十分後、しっかり休んだらしい先輩がのろのろと店内へ出てきた。
「そろそろ時間だから代わるね。今日は何食べるの?」
「ミートスパにします」
「うちのパスタ、安くてでかいよね」と先輩は笑った。「じゃあ今日はなにも揚げなくていいかな」
 柊はうなずいてから「上がります」と挨拶をしてバックヤードへ下がることにした。
 さっさと着替えて荷物を持ちタイムカードを押す。二十二時三分。柊は店内へ戻りパスタの棚へ直行した。大盛りミートスパゲティと書かれたそれを手に取って、レジにいる先輩へ会計してもらった。一瞬で温め終わったそれを受け取ってイートインスペースへ向かう。すでに食べ終えたらしい姫ヶ谷は、テーブル席で現代っ子らしくスマホをいじりながらカフェオレのストローを咥えていた。柊は無言でテーブルにパスタを置いて向かいの椅子を引いた。椅子の脚と床の素材は相性が悪いらしく、引きずる音がいつも通り大きく響いた。柊は買った夕食を一瞥した姫ヶ谷は「おいしそうではあるが……」と苦言を呈した。
「君は野菜を取ろうという意識はあるか?」
「野菜に金払うの嫌い」
 農家に謝った方がいいぞ、と姫ヶ谷がさらに言う。そもそも自腹で野菜を買う男子高校生などこの世に存在するはずがないので、議論するまでもなく姫ヶ谷の意見が間違っている。だから柊はそれ以上触れずに話題を変えた。
「マジで忍び込むのか?」
「ああ」
 と姫ヶ谷は大真面目な顔でうなずく。早朝や放課後はすでに試したと言っていたのだから、姫ヶ谷からしたら最終手段を決行する心境なのだろう。百歩譲って自分のような素行のよろしくない生徒ならともかく、特進クラスかつ生徒会所属の姫ヶ谷が学校の忍び込むのはとにかくリスクが大きい。柊なら叱られたり数日の停学になったところで別に大した損害はない。しかし姫ヶ谷は言わずもがな大学進学を考えているのだろう。もしかしたらうちの大学にそのまま上がるつもりなのかもしれない。それなら内申点や教師からの印象は人生を左右するレベルで重要なものになる。なんにせよこんなにリスクの高いことを無計画でやるはずがない。それなりに下調べしてばれずに忍び込む方法も考えてきているはずだ。柊はまずそこを知りたかった。
「で、どうやってばれずに忍び込むんだ?」
「周囲に人がいないことを確認して門を乗りこえる」
 見られなければ大丈夫だろ、と姫ヶ谷は平然とした顔で言った。特進クラスとは勉強が得意なやつのためのクラスであり、別に頭がいいやつのためのクラスではないらしい。柊はため息をつきながらパスタを開封した。トマトと挽肉、そしてニンニクの匂いが周囲に広がった。「とにかく接触して会話したい。一度話して好意的になってもらえれば、それこそ昼に校舎裏へ来てもらうよう頼めば二回目以降は忍び込まずに話せるようになる」
 その辺はきちんと考えているらしい。柊は相づちを打ちながらフォークを袋から出して食べ始めた。姫ヶ谷はそのまま現状分かっている情報を話し出した。三年B組の教室の、裏黒板の前にぽつんと立っていること、女子生徒であること、そしてうちの学校とは違う制服を着ていること。
「うちの生徒じゃないってことか? どこの制服なんだよ」
「それが分からないんだ。どこかで見た記憶はあるんだが……」
 うちの女子生徒の制服は、男子とよく似通ったベージュのブレザーに緑色のチェックスカートである。教室にいると聞いた時点で勝手にうちの生徒だと思い込んでいた柊は驚いてフォークを止めた。
「緑色のブレザーに茶色のチェックスカートなんだ。そこに赤いネクタイをしている。三駅隣の女子校の制服に似ているが、あそこはリボンだろう?」
「ああ、じゃあうちの生徒だよ」
 四年前に変わったんだよ、うちの制服。と柊は続けて言う。今度は姫ヶ谷が驚いた顔をしていた。中学からエスカレーター式に入学してきた柊にとっては常識だが、高校から来た姫ヶ谷はピンと来ていなかったらしい。
「では四年以上前の生徒ということか」
「なあ、幽霊って死んだときの姿で現れるのか?」
 だとしたら高校在学中に死んで、四年以上も一人で教室に立っていることになるのだろうか、と柊はとっさに考えてしまった。柊は下を向いたままパスタを巻き取って大きく口を開く。まだ温かいそれをひたすら咀嚼した。
「いや、そうでもないぞ。前回の吉田さんだって亡くなる直前は寝たきりだったんだ。俺が見た彼女は自分の足で立っていた。はっきり分かっているわけではないが、おそらく未練と関わりが一番深い時期の見た目に戻るのではないかと思っている」
「じゃあ卒業後に亡くなった人が高校生の姿に戻ってる可能性もあるのか」
 そうだな、と姫ヶ谷はうなずいた。
「なんにせよ未練は高校、ないし高校時代にあるのだろう」
 話してすぐ分かればいいが、と姫ヶ谷は呟く。結局柊は着いて行くだけであって、話すのは姫ヶ谷である。彼もまだ見かけただけであって分かっている情報は少ない。未練がなんなのか、どうすれば成仏できるのかを考えるのは接触してからだな、と柊はのんきに考えていた。

 そして来たる木曜日の夜。雨こそ降っていないもののどんよりと重い雲が空を覆い、星も月も隠していた。どちらの明かりもない校門前はとにかく暗い。待ちぼうけを食らいたくない、そしてなんか早めに到着していると乗り気みたいで癪に障る、という理由から柊は五分ほど遅刻をしていった。予想通り門の前には姫ヶ谷が一人で立っており、目立つ金髪を隠すためか黒いキャップを目深く被っていた。それでも長身のせいで十分に存在感はあるのだが、本人が影を薄くしようと考えていることは伝わったのでわざわざ指摘してやる必要性は感じなかった。それよりも柊が気になったのは姫ヶ谷の後ろにそびえ立っている門である。金属製の格子状になっているから登れない訳ではないが彼よりもさらに五十センチは高い。よじ登るだけでも一苦労なうえ人に見られたら一髪で通報されるに違いない。
「なあ、俺やっぱり帰ってもいいか?」
「いいわけないだろう」
 ほら行くぞ、とろくに周囲も確認しないまま姫ヶ谷は門に手をかける。案の定ガシャンと金属音が響いた。柊はぎょっとしながら周囲を見回す。幸いにも人影は見当たらない。
「多分誰もこないぞ。十分前からここに居たが誰一人通らなかった」
 声を抑えるでもなくいつも通りの音量で平然と言いながら姫ヶ谷はぐんぐん上へと登っていく。柊も観念して門へ手をかけた。腕の力を使ってひたすら上を目指し、柊が頂点をまたいだころに下からドスンと音がする。先行していた姫ヶ谷が飛び降りた音であった。つられて下を見るとそこそこ高く、柊はとっさに目をそらして慎重に降りた。入ってしまえばなんということはない。明かりがないだけでいつも通っている学校そのものである。二人そろってまっすぐ校舎へ向かってグラウンドを進んだ。近づいてくる校舎を見て柊は重要なことに気がついた。
「なあ、これどうやって校舎に入るんだ? 鍵閉まってるだろ」
「そこは大丈夫だ。施錠直前に入って一年A組の一番後ろの窓を開けてある」
 さすがに対策してくれていた。ノープランだったらどうしようかと焦ったが杞憂であった。そのまま昇降口ではなく外側から一年A組の教室を目指す。当校は一年生の教室が一階、二年生が二階、そして当然三年生が三階に設けられている。そして一番端のAクラスがいわゆる特進クラスである。校舎の端まで来たところで姫ヶ谷はためらいなく窓に手をかけた。彼が言ったとおり鍵はかかっておらず、あっさりと開く。そのまま靴を外にそろえて脱いでから、乗りこえて入っていく姫ヶ谷に続こうと柊も窓枠の前に立った。電気一つ着いておらず、そうぜん外から入る光もない。真っ暗でがらんとした教室は柊の目にはひどく不気味に映った。気をつけろよ、と言って姫ヶ谷が中からスマホのライトで照らしてくれる。姫ヶ谷と同じように靴を脱いで、胸程度の高さを乗りこえながら中に入った。やはり柊は息をのんだ。本当になにか出そうな雰囲気がある。そもそも今から自分たちは幽霊に会いに行くのだ。出そう、ではなくすでに居ることは確定事項であった。ためらいなく教室から廊下へ向かおうとする姫ヶ谷の後ろ姿に、柊は話しかけた。
「なあ、幽霊がいるのって三Aの教室だけだよな?」
「把握しているのは今のところ一人だけだな」
「……じゃあ到着するまでは幽霊に遭遇しない、ってことだよな?」
 姫ヶ谷は首をかしげてこちらを眺めていたが、数秒後に理解したらしくちょっと笑いながら言った。
「道中は出ないから大丈夫だし、日中見えないやつは夜だろうと見えないし、もしいたとしても真っ先に俺が気づくから大丈夫だぞ」
 柊はほっと胸をなで下ろして彼の後ろをついて行くことにした。
 二人は教室を出てまっすぐ廊下を進んでいく。一年の廊下を渡りきるとすぐ左手に昇降口が現れた。そしてその反対側に階段がある。目的地は当然三階にある三年A組の教室だ。そのまま左手に曲がって階段を上がっていく。姫ヶ谷の持っている明かりだけでは足下が不安なので柊もスマホを取り出して照らした。校舎内は当然静まりかえっていた。二人とも靴下一枚のせいで足音もしない。こうも静かでは小さな音さえ聞き漏らすことなく耳に届いてしまう。それがたとえ聞こえてはいけない音だったとしても自分たちの耳に届いてしまうのだろう。そう考えると柊は背がひんやりとした。いつも饒舌なくせに姫ヶ谷は無言で先行していく。三階は右手側が三年の教室、左手側にトイレがあってその奥にはほとんど使われていない視聴覚室があり、最奥に図書室が設けられている。姫ヶ谷はためらいなく右へ曲がった。その突き当たりにA組の教室がある。各教室の扉は当然閉じており、反対側にある窓の外は相変わらず月明かりすら見えない。奥から二番目の扉、つまりA組教室の後ろ側の扉の前で姫ヶ谷は足を止めた。後ろを歩いていた柊も同じく立ち止まる。この中に幽霊がいる。柊は全力で悩んでいた。幽霊がいるのが分かっていて入っていくのはいやだし、かといってこの暗い廊下で一人で待っているのもいやだ。柊の恐怖心は隠せていなかったらしく、じっと顔を見ていた姫ヶ谷が不思議そうに尋ねてきた。
「なあ、吉田さんのときは大丈夫だっただろう? なんで今回はそんなに怖がっているんだ?」
「あんときは信じてなかったし、あと見えないの分かってたし」
 そもそもあのときは一人でしゃべっている姫ヶ谷そのものが怖かった。だから幽霊と言われたときは、信じたかどうかはともかく「幽霊と話していた」というもっともらしい理由にむしろ安堵したのだ。一緒に会いに行ったときも自分に見えないことは確定していた。場所の影響もあるのだろう。夜の公園は柊にとって通い慣れた場所であった。しかし高校は日中の賑わっている様子しか知らない。数時間前との落差がより柊の恐怖心を煽ってくる。
「お前は日中に見てるんだよな? 見た目怖いか?」
「いや全く怖くない。普通の女子高校生だ」
「血みどろとか、目玉が飛び出してるとか」
「ないぞ。五体満足で血も内蔵も出ていない」
「……じゃあ着いていく」
 それなら仮に見えてしまっても怖くはないだろう。一人でこの真っ暗な廊下にいるほうがよほど恐ろしい。柊が中に入る決心をしたところで姫ヶ谷は教室の扉を引いた。柊の教室と同じくガラガラと大きな音がする。姫ヶ谷の後について柊も中へ入った。入るなり姫ヶ谷はすぐに立ち止まって「こんばんは」と挨拶をした。
 教室の作りはどの学年もどのクラスも同じである。東側に黒板があり、その前に教壇、窓際に教師用の大きな机が置いてある。そして教壇の前から後ろに向かってずらりと生徒用の机と椅子が規則正しく並び、後ろには連絡用の小さな黒板と生徒用の小型ロッカーが備え付けられ、窓際は背の高いロッカーが一つ置かれている。掃除用具が入っているはずだ。公立高校とも大して変わらない、どこにでもある普通の教室である。そこに異質なものは何一つない。にも関わらず平然と空虚に向かって姫ヶ谷が話しかけたことに柊は安堵した。この瞬間、自分には見えないことが確定したからだ。
「ええ、見えてます。あなたと話しに来たんです」
 それと同時に自分が手持ち無沙汰になることも確定した。公園のときもそうであったが、柊が見聞きできない以上、姫ヶ谷が幽霊と会話をしている間にできることは非常に少ない。何を尋ねているかより、それになんと答えているかが重要なのにそこが分からないのだから後から姫ヶ谷に教えてもらうしかない。そしてあとから教えてもらうのだから今ここで姫ヶ谷の言葉や反応を見て幽霊の言動を推測することにあまり意味はない。「彼は付き添いです。残念ながらあなたのことは見えないんですよ」と姫ヶ谷がこちらを指す手振りをする。前回も似たようなこと言っていたな、と思いながら柊はあたりをつけて空虚に軽く頭を下げた。三人でいるはずなのに一人だけ会話に入れない状況はどうにも居心地が悪い。二人はそのまま会話を続けているようだったが、柊は堪らず姫ヶ谷に「なあ」と話しかける。会話を遮られた姫ヶ谷は一瞬驚いた表情をしたが、ちらりと空虚の様子を窺ってから柊へ向き直った。
「まじで俺なんで連れてこられたんだよ」
「言っただろう一人だと怖いと」
「いや、お前全然怖がってないだろ。普通に会話してるし」
 彼女は怖くないが夜の校舎はそれなりに怖いぞ、と姫ヶ谷は言うが目はそらされた。実際ここまでの姫ヶ谷は怖がるそぶりを微塵も見せていない。柊は無言で姫ヶ谷を凝視した。さすがに通用しないことに気がついたらしい。姫ヶ谷はひどく小さな声で呟いた。
「一人で悪いことしたくなかった」
 つまり共犯者が欲しかっただけである。柊はため息をついた。しかし実際、男子高校生が二人以上いればバレたときに悪ノリという言い訳が発動できる。それで許してもらえるかどうかは別の話であるが、一人きりで実行した場合言い訳に困るのも事実だ。とにかく理由がそれであれば柊はすでに役目を果たしている。だからこれ以上なにかをする必要はない。
「話し終わったら声かけろよ。俺時間潰してるから」
 柊は、先ほど入ってきた扉に一番近い席の椅子を引いた。完全に見えなかったことで恐怖心は薄らいだが決して居心地のいい空間ではない。ポケットからスマホを取り出してSNSを開く。柊はSNSの検索欄に「猫 かわいい」と入力した。今自分が欲しているのは癒やしであることを柊はよく理解していた。小柄でかわいらしい子猫の写真、塀から落ちる運動神経の悪い野良猫の動画、飼い主に三角帽子をかぶせられて不満げな顔の家猫。たまに混ざる猫耳をつけた露出の多い女性の写真を載せたアカウントを片手間にブロックしながら、柊は画面の中へ意識を意図的に集中させた。最新のものから遡っていき、昨晩見た投稿までたどり着いたあたりで背後に気配を感じて振り返る。姫ヶ谷が後ろからがっつり画面をのぞき込んでいた。
「終わったなら声かけろよ」
「いや、終わったのではなくてな、彼女も見たいらしい」
 姫ヶ谷は自分の隣を指さした。おそらくそこに今幽霊が立っているのだろう。そう言われてもどう見せたらいいのか。こちらが幽霊の位置を把握できない以上、幽霊側に合わせてもらうしかない。
「どんなのが見たいの」
「……子猫の動画、と言ってる」
 柊は「子猫 かわいい」と入力して検索をしなおす。マナーモードを切り替えてから音量を絞った。スマホを持つ手を下げて、横からでも見やすいよう左側へ動かす。検索で出てきた動画をタップして再生した。三十秒ほど見たところで柊は振り返って姫ヶ谷を確認した。彼はスマホではなく柊の左側を見て嬉しそうな顔をしている。きっと幽霊が喜んでいるのだろう。視線を戻すと動画が終わっていたのでスクロールしてまた別の動画を再生した。それを五回ほど続けたところで姫ヶ谷が「ん?」と言い出す。柊が振り向くとやはり姫ヶ谷は左方向、おそらく幽霊が居るであろう方向を見て会話をしていた。
「かぎしっぽのやつか?……まだいるぞ、なあ柊」
 なあと言われても何のことだがさっぱり分からず柊は首を傾げるほかなかった。
「ああ、すまん。校舎裏の黒猫だ。彼女が通っていたときからいるらしい。お前が餌をあげているやつだろう」
 ああ、あいつか。と柊は頷いた。
「昼にな、こいつが餌をあげている。もうかなり大きいが。……そうだったのか。是非見に来てくれ。天気が良い日は俺たちもいる」
 また校舎裏に人が増えるのか、と柊は思ったが、夜間潜入しなくても彼女と会えるならそのほうがいいだろう、と思い直してとりあえず頷いておいた。そのまま姫ヶ谷は熱心に彼女を誘っている。柊は手持ち無沙汰にスマホへ視線を戻した。先ほどまで見ていた動画が一時停止されている。小さな黒猫が猫じゃらしで遊んでいる姿だ。校舎裏の猫とは色以外似ているとは思わないが、これは柊が今の成猫姿しか知らないせいなのだろうか。子猫時代はこの動画に似ていたのかもしれない。それも見たかったな、と柊は彼女を羨ましく思った。未だ会話が途切れないので柊は暇つぶしに姫ヶ谷を眺める。優等生が深夜の教室で見えないものを一生懸命ナンパしている姿はなかなかにシュールであった。そういえば姫ヶ谷の浮いた話は聞いたことがない、と柊は気がついた。なにかと目立つので彼女の一人でもできればすぐに噂になりそうなものだが柊の耳に届いたことはない。うまく隠しているのだろうか、と考えたが、彼女がいる男子高校生が幽霊を追っかけ回すことに時間を使うとは思えない。だから多分いないのではないだろうか、としょうもないことを考えているうちに自然とあくびが出る。スマホへ視線を戻すと上部に二十一時三十四分と表示されていた。
「なあ姫ヶ谷、もう結構な時間だぞ」
 柊がそう言うと姫ヶ谷はポケットから自分のスマホを取り出して画面をつけた。スマホの光で下から照らされた顔は堀が深いこともあってなかなかにホラーである。しかしよく考えたら先ほどまでの自分も同じようになっていたはずだ。光量を落とすべきだったな、と柊は反省した。
「そろそろお暇するか」
 明日は是非校舎裏に来てくれ、と姫ヶ谷は続けて空虚に向かって話しかける。柊も椅子から立ち上がって一応頭を下げた。彼女の反応は分からなかった。
 案の定真っ暗な廊下へ出て、来た道を戻っていく。一階までたどり着いて一年A組の窓から外へ出た。校庭を横切って門を越えれば後は家へ帰るだけである。隣を盗み見ると姫ヶ谷はずいぶんと満足げで機嫌の良さそうな表情をしていた。幽霊と接触して日中にも話せるようにする、という当初の目的を完全に果たせたのだから当然だろう。それはそれとして柊としては少し不満であった。はやり自分が着いてきた意味があまりなかったこと、なにより「夜の校舎に忍び込む」というわりと一大イベントだったのに特にこれといって面白いことが起こらなかったことが原因である。しかし姫ヶ谷は柊のそんな不満など知るよしもない。機嫌良くいつもどおりの大股で校庭をずんずん進んでいく。侵入時に空へかかっていたどんよりした雲はいつの間にか消え去っており、校庭には月明かりが届いていた。校舎の前に等間隔で植えられた広葉樹の葉を、湿った風が揺らす音が耳に届く。夜の校舎内はがらんどうとしていて恐怖心を覚えたが、校庭はいつも行く公園に少し似ていた。校門まで一直線に歩いて、入ったときと同様に柵をつかんで乗りこえる。地面に飛び降りると同時にガシャガシャという金属音も止んだ。公道に立つ高校生が二人。これで非日常は終了である。
「では明日、校舎裏でな」
「晴れてたらな」
 姫ヶ谷は手を上げてさっさと立ち去った。柊はその背を見送ってから反対方向へ歩き出す。ポケットからスマホを取り出して明日の天気を調べた。ひたすらに曇りのマークが並んでいた。

 校舎裏にはまだ誰もいなかった。多分いないと思う。柊は一応周囲を見回してからいつもの位置に腰を下ろした。幸いにも昨晩から一切の雨が降らなかった。地面は乾いている。先ほど水を汲んだケトルを置いた。鞄からいつもどおり猫缶を取り出そうとして、やめた。彼女が来てからのほうがいいと思ったからだ。もしかしたらすでにいるのかもしれないが、柊がそれを知るすべはなかった。かわりにシングルバーナーを取り出してその上にケトルをセットする。着火すると青い炎がケトルの底を熱しだした。どちらも以前、姫ヶ谷にもらったものである。まだお試しに数える程度しか使っていない。本領を発揮するのは寒くなってからだろう。それでも新しいガジェットというのはどうにも面白いもので、つい使ってしまいたくなるのだ。ましてや校舎裏で火を使うのはちょっとした後ろめたさと比例したワクワク感がある。決して不良のつもりはないが、そのへんの感覚は所詮「男子高校生」だな、と柊は自嘲した。夜の学校に面白さを求めていた時点で分かるだろう、とも思った。
 手持ち無沙汰に湯が沸くのをひたすら待つ。もらい物のケトルは決して新品のような美しさはない。底は縁に沿って黒くなっているし、持ち手の部分も塗装がすり減っている。しかし目に見えた傷や凹みは一切なかった。丁寧には扱われていたのではないだろうか。姫ヶ谷はこれを父のものと言っていた。ちゃんと人にあげると伝えてあるのだろうか。自分が大切にしていたものを息子が使っている、なんて勘違いをしていないだろうか。よその家庭に首を突っ込むつもりはないが、もし自分の手に渡ってしまったことで彼の父が悲しんでいなければいいな、と柊は考えてしまった。そして慌てて首を振った。自分の父親とすら最近はろくに会話をしていないのだ。よその父親の心配をするのはお門違いにもほどがある。わざわざ自分の傷へ触れるようなことを考える必要はない。柊は顔を上げた。姫ヶ谷はまだこない。「また明日な」と言ったのはあいつではないか。柊はいらだちを覚えるより先にケトルのなかからボコボコと音がし、注ぎ口から湯気が細く昇り始めた。柊は慌ててカップ麺のフィルムを剥いで蓋を開ける。こぼさないようゆっくりと注ぎ込んで蓋を戻すとやっと姫ヶ谷がやってきた。いつものでかい保冷バッグを片手に、とくに急ぐでもなくこちらに向かって歩いてくる。
「ああ、二人とも来てくれてるな」
 よかった、と笑いながら柊の隣へ腰を下ろす。柊はとっさに顔を上げて周囲を見回した。
「え、もう来てたのか。どこ?」
 姫ヶ谷はちょうど自分が座った反対側を指さした。つまり柊は彼と幽霊に挟まれて座っているらしい。柊は彼女がいるであろう方向に、曖昧に頭を下げた。別に意図的に無視をしていたわけではないが、すでに来ていたのに気づかなかったのはなんだか申し訳がない。
「猫は?」
「今日はまだ見てない」
 柊は鞄からいつもの猫缶を取り出して開けた。自分たちの前方へそっと置く。すぐに来ると思うぞ、などと空虚に向かって明るく言う姫ヶ谷を無視して柊はおとなしくカップ麺ができあがるのを待つことにした。姫ヶ谷も隣で弁当を取り出している。そしていつものでかい弁当箱の蓋を姫ヶ谷が開けた。そぼろがかかった大盛りのご飯が右手側に敷き詰められており、左には鯖らしき焼き魚とミニトマト、半分に切られたアスパラの豚肉巻きが綺麗に立っており、一番左手にはいつもの卵焼きが二つ並んでいる。相変わらずうまそうだなと横目で盗み見していると「にゃあ」と鳴きながら黒い猫が柊の前に現れる。すっと猫缶を前に差し出すとガツガツと食べ出した。数十秒で平らげて、面を上げて柊を見上げながらもう一度鳴く。柊が頭を撫でると首を少し傾けながら猫は目を閉じた。
 カップ麺ができあがるまで、と柊が猫を撫でまわしている間、やはり怖いらしく姫ヶ谷はすこし距離を取って弁当を食べていた。柊は当然遠慮することなくそれを放置していた。喉を撫でるとゴロゴロと鳴くのが非常にかわいらしく、柊は自分の顔が緩むのもお構いなしにひたすら猫をかまっていた。そのうち後ろで姫ヶ谷が「お疲れ様です」と挨拶をする声が聞こえてきた。校舎裏で一体誰に挨拶などするのか。柊が顔を上げるとそこに立っていたのは担任の横溝であった。柊が気を取られているうちに猫は一鳴きして去ってしまう。読めない表情をした横溝はそれを目で追い、姿を消したのを確認して視線を柊の足下へ戻した。そこにある猫缶とシングルバーナーをじっと見てから彼はため息をついて柊の名を呼んだ。一番嫌なやつに見つかったな、と思いながらも柊は「はい」と返事をした。
「野良猫に餌付けするのはよくない」
「……はい」
「それから、そんなもの学校に持ち込んだやつは初めて見たぞ」
「カップ麺が食えるんですよ」
「お湯なら学食にもあるだろ。没収はしないでおくけど、今後は持ってくるなよ。火事にでもなったらどうする」
 そういいながら横溝はちらりと横目で姫ヶ谷を気にしていた。彼が柊と一緒にここにいる理由が気になるのだろう。特進クラスかつ生徒会の優等生と、赤点ギリギリ問題児一歩手前の要注意生徒。端から見たら異端な組み合わせだ。それどころか柊自身すら未だ姫ヶ谷と自分がつるんでいることに違和感を覚えている。気にされている本人と言えば、真剣な顔をして空虚を見ていた。場所と視線の高さから察するに、立ち上がった幽霊の顔を見ているのだろう。そちらになぜか気を取られている姫ヶ谷、とりあえずこれ以上怒られたくないので最低限の反省オーラを出しておく柊、そしてなぜここに二人でいるのか聞きたいが切り出しかたがおそらく思いつかないのであろう横溝。三者三様に無言でそこに立っていた。その中で幽霊がどうしているのかは柊には当然分からなかった。
 最初にしびれを切らした横溝だった。「降り出す前に校舎に戻れよ」と言ってその場を立ち去ろうとする。柊は慌ててその背中に声をかけた。
「先生、こんなところに何しに来たんですか」
 振り向いた横溝は「あー」と言いながら頭をかいた。なにやら言いにくいことでもあるらしい。
「校舎の点検だよ。ちょっといろいろあってな。あんま気にすんな」
 深掘りするなと言わんばかりに横溝は軽く手を振りながら去って行く。もしや昨日忍び込んだのが気づかれたのではないだろうか。それこそ横溝になどバレたくない。柊は内心ひやひやしながらその背を見送った。姿が見えなくなったところでやっと姫ヶ谷が口を開いた。
「横溝先生となにかあったのか?」
 別に何かってほど、と柊が言いかけたところを姫ヶ谷は手で制した。
「いや、柊ではなくて」
 姫ヶ谷の視線は未だ先ほどと同じ場所を向いている。ああ、幽霊に言ったのか、と柊はやっと察した。柊は黙ってそちらを見ていると、姫ヶ谷は無言のまま時折小さく頷いている。制服からして彼女は四年以上前の生徒だ。そして横溝はたしか本校に勤めて七年目だったはずだ、と柊は記憶から引っ張り出す。ならば彼女が横溝を知っていてもおかしくはない。
 姫ヶ谷は神妙な面持ちで空虚を見つめながらときおり頷いている。何を言っているのかさっぱり分からない柊は仕方なくこれまた神妙な面持ちで姫ヶ谷と空虚を交互に見比べていたが、数十秒後にやっとカップ麺の存在を思い出した。二人の邪魔をしないよう音を立てずにそっとカップ麺を持ち上げて蓋を剥がす。明らかに膨張している麺を見て顔をしかめてしまった。袋から割り箸を取り出して開封し容器へ突き立てる。一通りかき混ぜて箸で持ち上げると柔らかすぎて短く千切れていた。おのれ横溝、と心の中で恨み節を吐きながら口へ入れる。食感こそ悪いが味は普通のカップ麺であった。重たい空気の中、柊は黙々と伸びた麺を食していく。半分ほど食べ終えたところで姫ヶ谷が「彼女はもう来てくれないかもしれない」と呟いた。
「帰ったのか?」
「ああ」
 来たことにも気づかなかったが、帰ったことにも気づけなかった。見えない聞こえないというのはなんとも不便である。隣に座る姫ヶ谷は明らかに落ち込んでいるが、具体的な内容が一切分からないので慰めかたも分からない。ついでにいえばどの程度深刻なのかも柊には当然分からなかった。どう声をかけるべきか、困った柊は姫ヶ谷の様子を観察する。手元の弁当はほぼ手付かずであった。
「とりあえず飯食えば? 時間ないぞ」
 姫ヶ谷は小さく頷いてゆるゆると箸を持った。口に運ぶべく取り分けた米はダイエット中の女子ばりに小さい。
「で、なんて言ってたんだよ」
「……明日話す。お前は明日も来るだろう?」
「晴れてたらな」
 ちまちまと飯を食う姫ヶ谷の横で、柊は残りのカップ麺を啜った。
 ここまでが昨日の出来事である。
 昨晩から降った雨は十時頃に上がった。空にはまだ雲がかかっているが、降り出す気配はない。乾かず湿ったままであるアスファルトにレジ袋を敷いて、柊は腰を下ろした。さっそくシングルバーナーを着火して湯を沸かす。昨日のリベンジである。炎の揺らめきをぼうっと眺めているとドタドタとこちらに駆け寄ってくる音がして、柊はそちらを向いた。案の定姫ヶ谷であった。
「来てくれたのか!?」
 彼はこちらにたどり着くなり柊の隣へ向かってそう叫んだ。柊もつられてそちらを見る。どうも隣にはすでに幽霊がいるらしい。なにが「もう来てくれないかもしれない」だ。お前よりも先に来てるじゃないか。姫ヶ谷はなにやら熱心に頷いて「もちろん構わないぞ。お安いご用だ!」と胸を張った。そして「ちょっとまってくれ。書き取るから」と保冷バッグと一緒に持っていたノートを開いた。胸ポケットからメタリックなボールペンを取り出して構える。柊は横からそれを覗いた。「横溝先生に手紙を書いて渡して欲しいそうだ」と小声で姫ヶ谷が教えてくれた。姫ヶ谷はそのままノートへ文章を書き付けていく。机もなく聞き取りながら書き取るのは大変らしく、以前見た字よりずいぶんと乱れている。
 お久しぶりです。大学進学後、ろくに連絡もせず申し訳ありません。お元気でしょうか。先生にどうしても伝えたいことがあって、この手紙を代筆してもらっています。
 文章そのものはすでにきちんと考えてきてくれているらしい。姫ヶ谷がノートに書き付けたそれを見ながら、柊はこれなら楽勝だな、と考えていた。後は書き直して横溝の手に渡るよう仕向けるだけである。柊はさっさと視線を外してケトルを確認した。すでに中でぐつぐつと煮える音がしている。持ち上げてカップ麺の中へ注いだ。スマホのタイマーを起動して三分のカウントダウンを始める。これなら邪魔が入ってもアラームがカップ麺の旨さを守ってくれるはずだ。柊はもう一度ちらりとノートを覗いた。姫ヶ谷はまだ一生懸命に書き付けている。死してなお教師という存在に伝えたいこととは、いったい何なのだろうか。彼らとの関わりなど、よほどのことがない限り最長で三年間だけであろう。こうして死後にまで彼を気にしているのだからきっと彼女の人生において横溝はなにか大きなものを残したに違いない。横溝はきっと彼女のクラスを受け持っていたのではないか、と柊は考えていた。部活の顧問という線はほぼあり得ない。横溝は長いこと野球部を受け持っており、そもそもそれは横溝が高校時代に選手としてなかなかの成績を残していたからである。プロになれるほどの実力はないが野球にまつわる仕事はしたい。それが横溝が高校の教師を職務に選んだ理由であり、我が校の生徒はそれを当然のように知っていた。だから当然柊も知っていた。そんな訳で横溝は野球部の指導に大変熱心で、別にほかの仕事の手を抜いているとは思わないが、たとえば受け持ちでもなければ野球部と関係ない生徒に熱心に手を焼くようなまねをする教師ではないのだ。だから多分、横溝は彼女のクラスを受け持っていて、そこでなにか心残りになるようなことがあったのだろう。……もしかしたら彼女は横溝のことが好きだった可能性もあるぞ、などと柊は邪推した。旧制服時代なら横溝はまだ二十代だったわけで、なんか教師のことが恋愛的な意味で好きな女子って二クラスに一人くらいの割合でいるよな。うちのクラスにも一人居る。あんまりしゃべったことがない俺すら知ってるレベルではしゃいでる。だから姫ヶ谷が今必死に書き取っているのはラブレターかもしれない。などと考えたら柊は俄然中身が気になってきた。もう一度覗いてみようかと腰を上げようとした瞬間に柊のスマホから気の抜けた音が鳴る。アラームは阿呆みたいな妄想からもカップ麺の旨さを守ってくれる。別に今見なくても、後から姫ヶ谷に見せてもらえばいいか。と柊は昼食を優先することにした。
 柊が文句なしのカップ麺をずるずると食べ終わったころ、隣で姫ヶ谷がパタリとノートを閉じた。
「きちんと清書して、責任を持って横溝先生に届けよう」
 自信満々に言う姫ヶ谷を尻目に、柊は汁を飲み干す。まるでスーパーマンのような見た目の姫ヶ谷が自信ありげに言い切る姿はずいぶんと相手に安心感を与える。姫ヶ谷自身が意図的にやっているかどうかまでは分からないが、人助けを行うに当たって有利に働くのは間違いないだろう。柊はそれを少しだけかっこいいと思っているし、ほんの少しだけ羨ましくも思っている。当然口に出す気はない。柊は手持ち無沙汰に猫缶を開封した。地面に置くと同時に黒猫がすっ飛んでくる。姫ヶ谷は小さく悲鳴を上げて三歩後ずさり、身を縮こませながら弁当を食べ出した。その姿を見て柊はちょっとだけすっきりした。
 またしても秒で平らげた猫を構っている間、姫ヶ谷は静かにしていた。おそらく幽霊も猫を見ているのだろう。それにしても今回は自分の出番は無さそうだ。予鈴五分前になったので二人は教室へ戻ろうと立ち上がった。校舎裏から中庭へ戻ったところで姫ヶ谷から呼び止められる。
「次の休みも木曜日か?」
「そうだけど」
「じゃあ放課後、一緒に本屋へ行こう。レターセットを買わなくては」
「俺が着いてく意味は?」
「女子が好きそうな便箋を俺が選べると思うか?」
「俺だって分かんねーよ」
 それでも俺一人よりマシだろう、と姫ヶ谷は難しい顔をして言った。確かに彼女も女兄弟もいない男子高校生には難問である。かわいそうなので柊は付き合ってやることにした。

 午後五時のファミレスは若者が多い。駅前なのでなおさらだろう。制服姿で賑やかに談笑する高校生と、ノートパソコンを開いて何やら熱心に打ち込んでいる大学生らしき客に挟まれた席で二人、腕を組んで唸っていた。先ほどドリンクバーから注いできたオレンジジュースの中で氷がカランと音を立てる。そのコップと姫ヶ谷が注いできたウーロン茶のコップの間、つまり机の真ん中には先ほど買ったばかりのレターセットとペンが置かれている。
「本当にこれでいいのだろうか」
「分からん。何も分からん」
 この辺で一番有名なチェーン店本屋の本店は、ビルが丸々一つ本屋になっている。そこの三階に文房具フロアがあり、案の定大量のレターセットが並んでいた。そこで柊と姫ヶ谷が顔を見合わせたのは今から一時間前のことであった。なんか女子っぽくて良い感じのやつ。絶望的にふんわりした基準だけをひっさげてたどり着いた二人はその量に圧倒されていた。結局二人が選んだのは黒猫が描かれたファンシーなものだ。彼女が猫を好きなことは知っていた。それ以外はなにも分からなかった。ついでにいちごみるくみたいな色のインクが入ったペンも買った。女子ってなんか馬鹿でかいペンケースを持っていて、なんか馬鹿みたいにいろんな色のペンを持っているから、多分手紙も黒いボールペンでは書かないんじゃないか、と柊が提案した。レターセットを持ってレジへ向かう途中に、カラフルなボールペンを陳列した棚が目に入ったからだ。そこでもまた二人で顔を見合わせながら、解像度の低い「かわいい」という概念を頼りに一本選んでみた。その二つを買って斜向かいのファミレスへ来たのだ。とりあえず机の上に置いて、ドリンクバーで飲み物を注いで、今に至る。
「とりあえずこれに書いて、一度彼女に見せよう。怒られたらまた考えよう」
 そうだな、と柊は頷いてオレンジジュースを飲む。向かいの姫ヶ谷はベリベリとレターセットを開封して便箋を一枚出した。それとボールペンを「はい」と柊に差し出してくる。
「俺が書くの?」
「あたりまえだろう。俺の字はあまりにもかわいくない」
 予想外で柊は困惑した。たしかに姫ヶ谷の字はうまいけどかわいさのかけらもない。とはいえ自分の字だって別にかわいくはない。
「女子っぽくかわいい感じでたのむぞ!」
 姫ヶ谷は鞄からノートを取り出してこちらに渡してきた。柊は無茶ぶりに顔をしかめながらもノートを開く。そこで初めて、先日姫ヶ谷が必死に書き取っていた手紙の全文を読むこととなった。

 お久しぶりです。大学進学後、ろくに連絡もせず申し訳ありません。お元気でしょうか。先生にどうしても伝えたいことがあって、この手紙を代筆してもらっています。
 受験の際は大変お世話になりました。私が私らしく生きていける大学を、先生が一生懸命に探してくれたことを覚えていますか?
 でもそこは当時の私には見合わない、相当背伸びをしなければ届かない大学でしたね。
 偏差値を見て怖気づく私に、先生がかけてくれた激励の言葉は今でも忘れません。
「いいか山田、人と違う生き方をしたいなら、人より努力しなければできない。少ない選択肢を自分でつかまなくてはいけない。周りの反発も自分ではね除けるしかない。それでもやるなら俺は最後まで応援するぞ」
 先生にとって私はどんな生徒でしたか。
 進学後、私の生活は一変しました。今まで見えなかったものがたくさん見えるようになりました。それでもやはり「人とは違う」というのは難儀ですね。認めてもらえないことがたくさんありました。それでも先生の言葉を思い出して突き進みました。
 先生がたくさん調べて探してくれたおかげで、進学先の大学ではたくさんのことを学ぶことができました。
 高校生のころよりずっとかわいくなりました。綺麗になりました。もしかしたら先生は、私だって分からないかもしれません。
 大学に入学して二年ほど経ったころ、先生に会いに学校の前まで何度か行きました。でもグラウンドで、熱心に指導するあなたの姿を見ただけで帰ってしまいました。
 でもやっぱり、声をかけておけばよかったな、と少し後悔しています。
 先生と話していたら、きっと違う結末を迎えていたことでしょう。
 私達が顔を合わせる機会はもう作れません。だから最後にこれだけ伝えさせてください。
 先生のことが好きでした。
 野球部の指導、頑張ってください。体にご自愛ください。
 そしてほんの少しでいいから、私のこと忘れずに覚えていてください。
 お世話になりました。

 姫ヶ谷らしくない殴り書きのそれに一度すべて目を通した柊は「……これを横溝に渡すのか」と呟いた。向かいで姫ヶ谷が頷いていた。
「姫ヶ谷さ、これ読んでどう思った?」
「当時言えなかった想いを綴った、切ないラブレターだな」
 だからかわいく書いてやってくれ、と姫ヶ谷は真剣な顔をして言った。柊は頷いてペンのキャップを外す。レターセットの一番上に、ゆっくりと「横溝先生へ」と書き付けた。誤字のないよう一文字一文字確認しながら、柊はフリクションにしなかったことを後悔した。向かいから姫ヶ谷の視線を強く感じてとても気が散る。スマホでもいじっていてほしい。右隣のはしゃぎ声と、左隣のタイピング音、そして手持ち無沙汰に姫ヶ谷がウーロン茶を飲むたびになる氷の音をBGMに柊は黙々と文字を書き付けた。
 全ての文章を写し終え、最後に差し出し人の名前を書こうとしたところで柊は手を止めた。顔を上げて姫ヶ谷へ尋ねる。
「なあ、名前なんて言うんだ?」
「名前?」
 姫ヶ谷は少し驚いた顔をして、数秒後に「知らんな」と呟いた。名字は本文中に出ているから分かる。しかし山田よりではありふれすぎていて誰なのか通じない可能性すらある。
「とりあえず空白でいいか?」
「そうだな。後で聞いて書き足そう」
 柊はOPP袋から封筒を取り出して、横溝先生へ、と大きく書いた。便箋を二つに折ってその中へしまう。柊は大きく息を吐いてソファへ沈んだ。手紙の代筆など初めての経験であった。姫ヶ谷が向かいでニコニコしながらそれを鞄へしまう。
「明日確認してもらおう」
「いや、今夜行こう。また忍び込むぞ」
「わざわざそんなことしなくてもいいだろ。明日も来てくれるはずだ」
 当然反対してくるよな、と柊は思った。明日の昼に確認してもらって、それを横溝の手に渡るようにして、それでこの話は完結する。しかし柊にはどうしても気になることがあった。そして幽霊と対話するためには、どうしても姫ヶ谷の通訳が必要になる。
「なあ、幽霊って怒るとどうなるんだ?」
 バトル漫画に出てくる悪霊を柊は思い浮かべていた。
「怒らせたことはないから分からないが……」といいながら姫ヶ谷は、柊の前に置かれたままのノートを引き寄せる。それを読みながら姫ヶ谷は終始首を傾げていたが、「分かった」と頷いた。
「なにか気にかかるのだろう。行こう」
 悪いな、と柊も頷いた。姫ヶ谷はノートを閉じて鞄へしまい、代わりに別のノートと教科書を取り出した。
「なら夜までここで勉強でもするか」
「絶対やだ」
 慌てて鞄をひっつかんで柊は立ち上がる。逃げ出すよりも先にがっつりと腕を捕まれて閉まった。
「教えてやる。夕食も奢ってやる」
 馬鹿力に負けて柊は座り直したが、姫ヶ谷を無視してスマホを取り出す。なにが楽しくて自習などしなければいけないのか。上機嫌でペンケースを取り出す姫ヶ谷に、柊は解せないと言わんばかりの視線を向けた。

 一度目が一番怖くて一番ぎこちない。悪行だろうが善行だろうが二回目以降は慣れたものである。スクールバッグを高く放り投げて内側へ落とし、二人はためらいなく門を登っていく。頂点を跨いだらある程度の高さから飛び降り、地面から鞄を広いあげた。やはりためらいなく校舎へ向かって歩いて行く。
「なあ、今日は窓開けてないぞ。どうやって入る気だ?」
「あー、どっか開いてんだろ」
 などと言いながら一階の教室の窓を一つ一つ確認してまわった。慣れたを通り越してもはや舐めている。案の定鍵のかけ忘れを見つけたのでさっさと中へ入る。先週の自分はいったい何があんなに怖かったのか。明かりのない校舎の階段を二人はためらいもなく上がっていった。三階の一番奥、A組教室後ろ側の引き戸を先行していた姫ヶ谷が開ける。そのまま正面に向かって「こんばんは」と彼は挨拶をした。ためらいなく入室するのでその後を追う。柊は一応、振り返って戸を閉めた。その間に姫ヶ谷がドアから二番目にある席の椅子を引いて座り出す。柊もその隣へ座ることにした。
「書き上がったぞ。どうしてもこいつが今日中に見せたいと言ってな」
 肩にかけていた鞄を机の上に下ろして、姫ヶ谷はジッパーを開ける。柊はその様子をただじっと見ていた。取り出した封筒からさらに便箋を取り出して、姫ヶ谷は空虚に向かってそれを見せる。三十秒ほどしてからまたそれを封筒にしまった。
「OKが出たぞ」
 よかったな、とこちらに向かって姫ヶ谷は笑顔を見せた。「このまま職員室へ行って、横溝先生の机に置いてこようか」
 立ち上がろうとする姫ヶ谷を、柊はそっと手で制した。先ほどまで姫ヶ谷が手紙を見せていた場所をじっと見据える。当然、柊に幽霊の姿は見えない。それでも彼女に聞かねばならないことがあった。
「なんでこれを横溝に渡したい? 在学中に横溝と何があった?」
 協力しているんだからそのくらい教えてもらってもいいよな、と柊は続けた。姫ヶ谷が作ろうとした和やかな空気を壊すように声のトーンを下げて真顔で言う。自分の視線がしっかりと彼女を捉えているかどうかだけが不安であった。隣の姫ヶ谷は驚いたのだろう。なにも言えないままこちらへ不安げに視線をよこした。しかしはっとした表情で柊と反対の、幽霊が居るであろう方向へ慌てて視線を戻した。そのまま小さく二回頷くと、また不安げな顔のまま柊へ視線を向ける。柊は彼のほうを見ずに、空虚から目をそらさないようにしながら「そのまま言えよ」と伝えた。
「横溝先生は三年のときの担任だった。私は死んでしまったけれど、あのときは間違いなく先生にお世話になった。ただお礼が言いたかった」
「世話になった、って具体的には? お前はいつどうして死んだ?」
 おい柊、と隣から飛んできた声は若干の怒りを帯びていた。止めさせたいであろう姫ヶ谷に負けないよう、柊は即座に彼の手から手紙をひったくる。
「納得できる理由を説明されない限り、これは横溝に渡さない」
「なんでそうなる。先生に渡すだけでこの件は解決するんだぞ」
「生者と死者は交わらない、って言ったのはお前だろ!」
 手紙を取り返そうと手を伸ばしてくる姫ヶ谷から逃げるため、柊は椅子から立ち上がる。勢いに負けた椅子は倒れ、暗い教室に大きく嫌な音を響かせた。柊はそのまま姫ヶ谷から距離を取る。今は空虚ではなく姫ヶ谷をしっかりと見据えていた。
「言っておくけど、俺だってまだ幽霊なんて完全には信じてないぞ。俺が信じてるのはお前だ。お前があれこれ真剣にやってるから、ああきっと居るんだろうな、って間接的に信じてるに過ぎない。渡したらこいつは成仏するんだろうな。でも横溝はどうなるんだよ。ああ死んだ教え子の幽霊から手紙が届いたうれしいなあ、ってなるか? なるわけないだろ。死人の名を騙った悪質ないたずらを疑うのが普通だ」
 姫ヶ谷はなにも言わない。ただ先ほどまで寄っていた眉間のしわは消えていた。鋭かった眼光はいつものように丸くなっていた。
「見えないんだよ。ほとんどの人にとっては居ないものなんだよ幽霊って。お前には分かんないかもしれないけど」
 姫ヶ谷を説得してからが本番である。そう思って数時間前から身構えていた柊の予想はあっけなく崩れた。十数秒の沈黙の後、「えっ」と姫ヶ谷が声を上げる。柊は前を睨みつけたまま尋ねた。
「なんて言ってる?」
「……成仏した」
 状況が理解できていないのだろう。姫ヶ谷は未だ驚いた表情であたりを見回している。柊は肩の力を抜いた。柊の想像よりずっと良心が残っていたのだ。突然のことに放心する姫ヶ谷を急かして教室を後にする。成仏したのならそれでいい。後は二人で答え合わせをするだけであった。

 意味が分からん! と姫ヶ谷が吠える。同時に先ほど買ったばかりのペットボトルの底を机に叩きつけた。夜のコンビニは相変わらず人がいない。当然イートインスペースを使っている人もいなかった。明らかに様子がおかしいであろう二人が入店したとき、先輩はレジ越しに「ポテト揚げたてだよ」と言った。無言の姫ヶ谷を引き連れてお茶を二つ取り、ポテトと一緒に購入する。一番奥の席へ座ったところで終始無言だった姫ヶ谷はやっと口を開いた。「で、最後なんて言ってた?」
「いないもの、か。そっか、そうだよね。私が間違ってた」
「聞き分けよくてびっくりしたわ」
「いないもの、は酷いだろう。彼女はたしかにあそこにいたのに」
「お前さ、今回の件、どういう話だと思ってる?」
 未だ温かいポテトを一つつまみながら、柊は尋ねた。向かいの席でお茶の蓋を開けながら姫ヶ谷はやはり怒った様子で答える。
「若くして亡くなってしまった女性が、当時好きだった高校時代の恩師にどうしてもお礼と告白がしたかった。それだけだろう」
 こいつは人を疑うことを覚えたほうがいい。ポテトのちょうど良い塩気に柊は先輩の技量を感じた。
「俺にはあの手紙、お礼の文章には見えなかったぞ。嫌みったらしい恨み節にしか読めなかった」
「そんなわけがないだろう」
 柊はポケットにしまった封筒を取り出す。雑に入れたせいで角が折れ曲がってしまっている。それを姫ヶ谷に向かって差し出した。
「分かることは三つ。自殺で、横溝を恨んでいて、そんであいつ多分男だ」
 姫ヶ谷はひったくるように封筒を受け取った。ためらいなく中身を出して読み出す。読み終わるまで柊はのんびりとポテトを囓って待った。スマホを取り出して一瞬だけ画面をつける。九時四十五分。あまり長居はできないな、と思った。
「……いまいち分からんな。特に男って部分が分からん」
「横溝は女子生徒を名字呼び捨てで呼ばない。さん付けで呼ぶ。そんで追い込むようなことも言わない。だからあいつは男だよ。少なくとも高校生のころは男で間違いない」
 
「たぶん、応援の仕方が間違ってたんだろうな。女子感出てる文章で書いてるから横溝は知ってたんだろ。で、そうやって生きられる進路へいけるように指導した。でもその指導の仕方は横溝が男子生徒にするときのそれで、要は男扱いなんだよな」
「……そもそも男女で指導に大きな差があるのは差別に思えるが」
「そんなこと今はどうでも良いんだよ。打ち明けたのに男扱いのままだったのが問題なんだろ」
「この『かわいくなりました。綺麗になりました』っていうのは、女性扱いされたいなら努力して見目をよくしなければならない、みたいな感情なのか」
「たぶんな」
 そこに関しては柊もよく理解できた。周囲から張られたレッテルと違う扱いを望むことの難しさには自身も悩まされた経験がある。柊は遮断する道を選んだが、努力しろ自分でつかみ取れと指導された山田は違う選択をとったのだろう。最終的にそれが重荷になり、枷になった。自死の原因になったかどうかまでは定かではないが、少なくとも死後にこうして悔恨となって残るほどには苦しんだようだ。
「俺には女性にしか見えなかったがなあ」
「別にしっかり生前の姿になるとは限らないだろ。願望とか混じるんじゃないか。少なくとも今回は女子の制服着てたんだし。でもまあ、横溝を嫌ってたわけではないのかもな。最後聞き分けよかったし」
「……好きだったのだろうな。だからこそ扱いに苦しんだし受けた言葉も彼女の中で大きかったのだろう」
「まあ、その可能性は否定しない」
 好きと嫌いは必ずしも対ではないし、加害と嫌いもやはりセットとは限らない。姫ヶ谷は再度手紙に目を通しだした。柊は机の上に置いたままのスマホを触る。十時八分。そろそろ帰らねばならない。
「根っから嫌ってなくて助かったな。俺のせいで悪霊みたいになったらどうしようかと」
「そういうのは見たことないぞ」
「そっか」
 なら、いい。と柊はポテトが入っていた紙コップを握りつぶす。そういうことにならないのは大変喜ばしいことだと、本心から思った。
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