信長の室──小倉鍋伝奇

国香

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五・悲しき女たち(壱)

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 結局、親子ということだろう。似ているものだ。

 浅井久政は織田家になぞ断じて降伏するものかと、やはり最後まで戦う道を選んだ。

 和睦は成らず。

 だが、辛うじて長政がお市を織田家に返してくれる気になったことは、救いであろう。

 お市は長政との間に三人の娘を儲けていたが、その姫たちと共に城を出た。

 長政には男子が数人いる。お市が産んだわけではないが、長男の万福丸だけをお市に託して、残りの男子はこっそり城の別の門から落としてやった。長政としても、男子の、しかも織田家の血を引いていない者は、信長は助けてくれないかもしれないと思ったのだ。

 藤掛三蔵とその母・笠松殿に守護されて、お市、万福丸、三人の娘たちは信長の陣中に無事に到着した。

 だが、信長はお市たちを一瞥するや、ふいとよそへ行ってしまった。あわてて笠松殿が追い、陣幕の外で呼び掛ける。

 信長は立ち止まって、不快げに問うた。

「長政は降伏しなかったか!」

「はい、なれど、長政をお許しになるおつもりだったのでしょう?どうか、幼い和子たちは……」

「降伏したならば、長政は助けるつもりでおった。当然、幼子とてな。だが、降伏せぬならば、話は別よ。長政の長男は殺す」

「ですが!あの子の母は平井殿の姫!」

 長政は生まれた時から六角家の監視下に置かれていた。初名は六角義賢(承禎)の片諱から賢政と付けられ、妻も六角家から押し付けられたのだ。六角家の重臣・平井定武の娘である。

 しかし、ある日突如として名を長政に改め、六角家から独立した。以降、度々六角家との間で戦闘に及んでいる。

 後に、足利義昭の仲介で、織田家よりお市を妻として迎えるが、この時既に長政には嫡男がいた。それが万福丸である。生母は最初の妻・平井の娘であった。

「ふんっ、平井がこの世で最も憎む男は長政であろうよ。長政めは子を産んだ母親から子を取り上げ、子に追い縋る母親を蹴飛ばし、妻であるその女を捨て、一方的に離縁して、お市を妻に迎えた。平井は娘をそんな目に遭わされて、さぞ恨んでいよう。万福丸は確かに平井の孫ではあろうが、さような憎っくき男の子ども。愛着がわこうか?」

 信長は笠松殿の懸念に対してそう答えた。

「長政の長男を殺したところで、平井はたいして嘆くまい。当然のことと思うであろう」

「それでお屋形様が平井殿に恨まれないならば、宜しゅうございますが――」

 なお笠松殿は案じていた。

「俺には孫はおらぬ故、祖父の心理というものは知らぬが、おそらく世の祖父というものは、孫は可愛いものなのに違いない。が、孫か我が子かと言われたら、間違いなく我が子が大事だろう。平井の娘は長政の非情を恨んで、若くして死んでいったというではないか。まあ、一言、平井にはことわってはおくがな」

 万福丸を殺すと、信長はそう決めた。

 かつて、信長が足利義昭を将軍にするべく、上洛した折、従わない六角家を踏み潰したが、この時、平井定武は真っ先に六角家を見限り、信長に臣従した。

 以来、平井家は織田家に仕えている。

 当初は織田家と浅井家は同盟関係にあり、信長は妹のお市を長政に嫁がせてはいたが、家臣となった平井の外孫であるから、万福丸が浅井家の嫡男であることには、文句などつけたこともなかった。

 そもそも、お市が長政に嫁ぐことになったから、平井の娘は離縁になったので、申し訳ない気持ちもある。足利義昭の仲人とはいえ。

 お市も母として万福丸を世話してきたし、将来、万福丸が浅井家の家督を継ぐものだと思っていた。

 万福丸は信長も認める、れっきとした浅井家の嫡男なのである。長政が降伏勧告を無視して戦う道を選んだのだから、嫡男は敵将の子として殺す。

 さて、そうしている間にも、小谷城は刻一刻と追い詰められて行く。

 先ず浅井久政が自害して果てる。

 翌日の八月二十九日、長政は最後の決戦に及んだ。

 本丸に兵五百。

 信長自身が率いる織田軍が本丸に迫り、浅井軍を殺戮して行く。

 長政はこうなることは最初から承知していたし、これが長政の望んでいた形でもある。

 彼は最後の一人になるまで織田軍と戦い、城と命運を共にできることを喜んで、本丸の中にある赤尾屋敷に入った。そこでついに自刃し、本望を遂げたのである。

 二十九歳であった。

 浅井家もついに滅亡した。

 南近江に続いて、北近江も織田家のものとなった。とうとう信長は近江一国を丸々我が物とすることができたのである。

 織田家の領地はこうして京の都に接することになった。

 信長は小谷城周辺の北近江の支配を秀吉に任せ、また、万福丸を殺すよう命じると、お市とその所生の娘たちを連れて、岐阜に向かった。

 ところが、途中で思いもよらず、お鍋からの使者に出会った。三崎殿である。

 小倉家の武人どもを供にして、自身で馬を飛ばしてきた三崎殿は、息つく暇さえなく、まくし立てた。

「鯰江城に六角義治が隠れ住んでおります!」

 お鍋は酌出産後、しばらくは相谷城にいたが、その後、小倉城に移っていた。どうしたわけか、小田城には帰らずにいたのだが、三崎殿は今にしてなるほどと思っている。

(逃亡し、行き場をなくした六角義治が、雨風をしのぐために、乞食のように鯰江城に住みつくことを、御方様は予想しておられたのではないか?)

 だから、鯰江城を監視するため、小倉城に居座り続けていたのではないかと思ったのだ。

「ちっ!またしてもか。懲りない奴よ!」

 信長は舌打ちした。

「奥方が石部城にいることは、風の便りに聞き知っているでしょう。なれど、石部城には今、御台様がおわし、織田家の兵で溢れておりますれば、石部城には行けなかったのでございましょう」

 三崎殿の予想に同意してから、信長は義治の近況を確認する。

「鯰江城は権六や蒲生が破壊し尽くしたはずだ。辛うじて壊れた屋根が一部残っているくらいではなかったか?」

「さようです。石垣も塀もなく、中の様子も丸見えとか。義治は、乞食の如き一向衆の百姓数名に、食糧を運ばせ、風に吹かれながら、崩落した櫓の瓦礫の隙間に籠っているそうで。承禎や左京はおらぬようです」

「義治のみが、冲羅に未練を残して戻ってきたか。まあいい。左京や承禎がまことにいないか、今一度確認しよう。佐和山へ行くぞ」

 信長は予定を変更して、南下し、佐和山城に入った。

 佐和山城にはお市と娘三人も従っている。

 信長の興味はすっかり、鯰江城に潜むという六角義治に向いている。

 しかし、お市は執拗に万福丸の助命を乞うていた。暇さえあれば、信長の後を追っている。

「何卒、兄上、年端も行かぬあの子をお助け下さい」

 まただ。もうこれで何度目だろう。さすがに信長もうんざりしてきた。

「生かして何とする?そなた、浅井家を再興する気か?」

 信長は膿んだ表情。眉間の皺を深くする。猜疑の眼差しだ。

「またぞろ北近江の支配権を得ようとするのか?北近江は秀吉に任せた。浅井の出番なぞ二度とないぞ」

「兄上!何故にございます、何故!秀吉に……六角の子はお助けになるのに、何故万福丸はならぬのです?」

「そなたが秀吉の支配を認めようとしないからだっ!」

 信長は苛立ちをそのまま声にし、追い縋るお市を払いのけて、廊下をどかどか歩いていく。

 お市はその美しい顔を般若の如く凄ませて、その背中に怒声を浴びせていた。

(お市よ!そなたがすっかり浅井の女に成り下がったからだ!)

 廊を歩きながら、信長は歯軋りした。

(そなたは俺の妹という立場を利用し、いずれ万福丸が成長したあかつきには、我が儘を押し通すつもりなのだろう?浅井家再興を叫び、北近江を返せと声高に叫び、残党を活気づける気だろう?だから、秀吉を悪口するのだ。そなたなら、力ずくで秀吉から北近江を奪い返そうとするに違いない。俺の妹のそなたがそんな我が儘を叫べば、同調する輩があとをたたなくなるではないか!)

 万福丸が生きていて、それをお市が旗頭に掲げれば、浅井の残党だけでなく、織田家の中からも、お市の運動に賛同する者が現れるだろう。

 それに、万福丸は平井定武の外孫だ。南近江の者たちの中にも、お市に賛同する者が出てくるかもしれない。

 お市は浅井家の正室であり、信長の妹なのだ。かよわい女でも、侮れない権威を持っている。

(秀吉の支配が危うくなれば、近江がまた荒れる。近江は磐石でなければならん!浅井は滅ぼす。六角とは違うのよ)

 六角家の旧臣たちは早くから織田家の支配を受け、織田軍として何度も六角義治と戦ってきた。そして、早くに六角家は南近江の支配権を放棄している。

 たが、浅井家は今の今まで北近江の主であったし、家臣たちも昨日まで長政に忠実だったのだ。織田軍として、浅井と戦った経験もない彼らなのである。

 そんな彼らと北近江の地とを、秀吉は治めていかなくてはならないのに、前の持ち主の正室であり、主君の妹であるお市が秀吉を悪口し、秀吉から北近江を取り上げるの、万福丸に返させるだのと叫んでは、織田家の根本にさえ響きかねない。

「平井定武を呼べ」

 廊下を曲がり、お市の姿が見えなくなったところで、後ろにつき従っている小姓に命じた。

 万福丸の殺害は絶対である。外祖父の平井も、信長の考えを理解するであろう。仮に、彼にとっては可愛く思える孫であっても――。

 小姓が承って去って行くと、信長はまた歩き出した。三崎殿と話がある。

 信長は執拗なお市に悩まされていたが、わざわざ佐和山に来たのは、鯰江城に用があるからである。六角義治のこととなれば、石部城にいる冲羅のことも気がかりだ。すぐに、濃姫からも何か言ってくるだろう。

 信長としては、そちらについて考えたい。だが。

「兄上!兄上っ!」

 お市の声が迫ってくる。信長をどこまでも追いかけるつもりらしい。彼女の要求が通るまで、彼女は信長に眠る暇さえ与えず、訴え続けるのだろう。

「ちっ!」

 信長はそこの部屋に入った。

 すると、お市が押し掛けてきて、部屋のど真ん中に陣取った。

 信長が聞こえよがしに大きなため息をついた時、小姓がやって来て、信長に耳打ちした。瞬時に信長は助かったというような顔になり、小姓に頷いた。

 小谷城攻めに加わっていた柴田勝家の軍勢は、佐和山を経由して、すでにおのおのの領地に帰っていたが、なお帰らず信長のもとを訪ねてきた者がある。

 通せという意味だ。小姓は信長が首を縦に振ったのを見て、さっと頭を下げると、風のように廊下の向こうに消えていく。

「ほれ、客だ、下がれ!」

 信長が辟易とお市に言った。来客をこれ幸いと、お市に向かって手で払うような仕草をする信長に、かちんときたか、お市は余計にしつこく言い募る。

「いいえ、兄上が万福丸を生かすとおっしゃるまで、決して離れませぬ!」

「市!」

 信長の困惑を通り越した声が佐和山城の床板に響いた時、軽やかな足音がして、蒲生忠三郎が現れた。

 蒲生軍は柴田勝家の与力として小谷城攻めに加わっており、忠三郎も父と共に戦っていたが、父の賢秀はすでに自軍を率いて日野に帰っている。忠三郎だけが佐和山にいたのだった。

 そのやけに爽やかな足取りがお市の癇に障ったらしく、ぎっと振り返るや、廊下に現れた忠三郎に凄んだ。

「誰っ?許しなく、勝手に参るとは、不作法者!」

 ぎょっと忠三郎は立ち尽くした。

 忠三郎も少年から青年という様子になりかけている。だが、足音が軽いのは、なお少年らしく小柄で敏捷なためだろう。

 彼は初めて会うこの女性こそが、義叔母のお市御寮人であると、瞬時に理解した。

「……これは……ご無礼を致しました……また後で参りまする」

「構わぬ。こっちへ来い」

 信長が大きなため息を吐き出し、手招きする。

「兄上!私の話はまだ終わっておりませぬ!」

 すかさずお市が喚くが、信長は家臣たちを前にした時の彼のように厳かな顔をして、彼女を睨んだ。お市もはっと口をつぐむ。

「無礼はそなただ、市、妹の分際で――。これなるは我が婿殿なるぞ、挨拶くらいしたらどうだ」

 忠三郎が躊躇いがちに部屋に入ってくる。下座に両手をつかえ、信長に平伏し、次いでお市の方へ頭を下げた。

「御寮人様には初めてお目もじかないまする、冬姫様の婿・蒲生忠三郎賦秀と申しまする。何卒よしなにお見知りおき下さりませ」

 お市はさすが信長の妹、冬姫の叔母ということか。どこやらに冬姫の面影というか、雰囲気がある。

 冬姫は今はまだあどけないが、将来こんな凄惨な顔をするようになるのではないかと、忠三郎は幼妻の愛らしい笑顔を頭に浮かべ、その頭を下げながら冷や汗を覚えた。実際、冬姫はどうしてなかなか芯が強い。決して泣かない姫だ。

 お市も挨拶を返してきたが、忠三郎に対する態度は硬い。思えばお市は、信長の妹である前に長政の妻であり、小谷城の女主だ。その小谷城攻めに加わり、多数の浅井兵を血祭りに上げた忠三郎に、にこりともしないのは当然だろう。

「そなたが六角方からの人質だった者か」

「はっ、さようでございます」

 忠三郎が頭を上げると、値踏みするようなお市の視線と合う。

「冬姫のねえ。あの子、元気かしら?昨今は六角が蜂起させた一向一揆に危ない目に遭わされていたと聞くけど、怯えていないか心配だわ」

「はっ……お健やかであらせられまする」

「そうなの」

 気のない返事をしてから、再び忠三郎を見たお市を、忠三郎は正視し難かった。

「冬姫を迎えて以後、蒲生家が六角家の代わりに旧臣達を纏めているのでしょう?南近江を実質束ねている婿殿に、私からお願いがあるわ」

「市、そのくらいにしないか。忠三郎は日野に帰らずわざわざ残ったのだ、俺に用があるからだぞ」

 信長のたしなめも気にとめず、お市は澄ましている。本当に美しいの一言に尽きる女性なのだが。

「私だって兄上にご用があるから、こうして御前に参っているのです。それに、せっかく婿殿に会えたんですもの。ねえ、冬姫の婿殿、六角旧臣を束ねるそなた、平井定武殿とも親しいわよね。平井殿のためにも、万福丸を守るべきではないかしら?六角旧臣達揃って、万福丸の助命を嘆願して欲しいのよ。私のことは何やらお気に召さない兄上だけど、可愛い婿殿の要求なら、聞き入れて下さるんじゃない?そなた、旧臣達を纏め、これが南近江の意見だとして、兄上に万福丸の助命を願い出てちょうだい、六角旧臣の代表として」

「……は……」

 聡明なことで有名な忠三郎だが、さすがに何と返答してよいのかわからず、困惑している。

「夫浅井長政は南近江で育ち、六角旧臣達とは親しかったとか。夫が六角家から独立した後も、六角義治の暗愚ぶりに呆れ果てた六角家臣達は、夫に寝返ったり、密かに誼を通じていたと聞く」

 そこでお市の明眸が光った。

「義治が後藤殿を害した時には、義治に対して謀叛し、浅井方に寝返って、夫を南近江へ導き入れた人々ばかりであったと。平井殿が先頭に立ったとも聞いているわ」

 次第に忠三郎の表情が険しくなっていく。困惑からのこの変化。

 お市はわかっていて、わざと言っているのか。

「その時、六角家の重臣たちは思ったはずよ。南近江を浅井長政にくれてやっても構わないと。暗愚の六角義治よりは、万福丸の父である浅井長政の方が良いと思ったのでしょう。あるいは、浅井長政は気に食わなくとも、いずれ万福丸が家督を嗣ぐならばと思ったはず。平井殿は万福丸が南近江も含め、いつか近江一国の主となるならばと、率先して夫に寝返ったのでしょう。他の重臣たちも、平井殿の外孫の支配ならば受けても良いと思っての、謀叛だったのだと思います。だから、今でも南近江の六角旧臣たちが、万福丸が浅井家を再興することを、阻止する理由はないでしょう?そなたが率先して――」

「いい加減にしないか!忠三郎はそなたにじゃない、俺に用があるのだ」

 信長はついに癇癪を起こしてお市へ叫ぶや、そのまま忠三郎に顔を向けた。信長の小姓をした経験のある忠三郎でも、あまり目にしたことのない信長の不機嫌さだった。

「用があるんだろう?何だ?」

「はっ!」

 間髪入れずに、忠三郎が床に手をつく。さすがにお市も口を挟まない。

「鯰江城には、お屋形様が直接まかられるのでございましょうか?でしたら、それがし、御供致しとうございまする」

「であるか」

「はっ」

 床に平伏する忠三郎。

「そうせよ」

 信長は許可すると、さっと脇から出て行った。お市がはっとした時には、もういなかった。

 お市は苦々しげに忠三郎を振り返った。忠三郎はゆっくり頭を上げたところだった。

「ふん、冬姫の婿とな。気品はある。端正な顔立ちでもある。でも、兄上に気に入られるほどの、世に双びなきほどの美男というわけではない。そなたは余程兄上をたらしこむ術を心得ているようね。いったいどう振る舞い、何を言ったらそんなに気に入られるのか、教えてもらいたいものだわ」

「それがしは、何も……」

 何故信長に気に入られているのか、それは忠三郎本人にもわからない。

「六角義治の忠臣、いえ旧臣。そなたの妻となった冬姫は義治の妻のいとこ。冬姫の婿のそなたが供をしたいと言ったら、兄上が喜ぶはずね」

 お市が嘲笑するような目を向けた。先程の、六角義治による後藤賢豊殺害の騒動の話、その顛末をお市が知らないはずがない。

「でも、兄上は心配でないのかしら?そなたをもとの主に会わせたりして――」

「それがしには母がおりませぬ」

 蒲生家のその時の動向を、お市は知っているのだ。

 忠三郎の瞳に強い光が見えた。炎とも見える。忠三郎はその目でお市を射ぬいてから、すっと平伏した。

(何この子?)

 お市は驚き、しかし、その意志の強い目に、なるほど信長が冬姫を託したほどのものがあると理解した。

 忠三郎は人質だった頃から、信長相手でも物怖じしない少年だった。最初はお市にたじろいだが、今はもうそうではない。

「後悔なさっているのですか?」

 そんな立ち入ったことを訊くのである。

「女人はあくまで実家に属しているものよ」

 忠三郎は顔を上げたが、お市と目が合っても、彼女を見てはいない。彼は脳裡に浮かんでいる母の姿を見ていた。

 だから、お市のこみ上げてきた涙を見ることはなかった。

 お市の涙。忠三郎の一言で、不意にどうにもならない悲しみと喪失感に襲われたからだ。

 お市はいつでも織田家のために生きてきた。夫を愛していたし、夫も彼女を大事にしてくれた。

 だが、長政という男は万福丸の母にあのような仕打ちをした男である。姉(実の叔母)の近江の方にだって、ひどい仕打ちだ。彼の前には、婚姻による同盟など、あってないようなものだった。

 そんな男だから、確かに愛しい夫ではあっても、お市も織田家の姫という意識を持ち続けることができたのだろう。お市はずっと織田家のため、信長のために浅井家で尽くしてきたのだ。

 長政が初めて信長を裏切った時、いち早く信長に危険を知らせたのはお市だった。信長が金ヶ崎から無事逃げてくることができたのは、お市が夫の裏切りを兄に伝えたからである。

 思えば、今日の浅井家の敗戦はこの時のお市の行動に始まったのかもしれない。浅井家の滅亡の陰には、織田家の間者としてのお市の奮闘がある。

 そうだ。お市の手によって浅井家を滅ぼしてしまったのだ。

 そのことを後悔しているのかと、忠三郎に問われて、お市は愛する夫との別れの辛さに、今さらながら涙した。

(嫁いだ女はずっと実家のために尽くすもの。でも……私が万福丸を助けたいのは、きっと罪滅ぼしがしたいのよ、私……)

 それにしても、お市の心の奥底を言い当てた忠三郎、随分薄気味悪いではないか。

 お市は先程同様、泣き声にならないように喉に力を込めて、ことさらつんけんと言った。

「そうよ、女はずっと実家のものなのよ。冬姫だって織田家の娘よ。そなたが六角義治に会いたがっていると知れば、きっと私のように……」

「あり得ませぬ」

 忠三郎はきっぱり言った。今度はお市の顔をしっかり見ている。

「姫様を織田家と蒲生家との間で苦悩させることなど、あり得ませぬ」

「あら。そなたの父上は後藤殿の妹婿だったじゃないの。他の重臣たちが夫を南近江に引き入れて、六角義治に謀叛したのに、それでも蒲生家は義治を助けた。蒲生家はそれほど六角義治に忠義の者なのに、おかしなことを言うのね、そなた」

 お市は俄かに忠三郎に興味を持った。涙など心の奥からさえ消え去った。

 忠三郎は六角への忠心を隠し、信長の役に立ちたいと偽って、鯰江城に行こうとしているのだ。

 義治と親い関係にあることを利用して、信長のために義治と交渉しようとしている――信長はそう思ったから、鯰江城へ行くことを許可したのだろう。だが、実際の蒲生家は六角家の忠臣故に、忠三郎は義治に会いたい一心なのだろうと、お市は思うのである。

 だから、忠三郎が織田家の冬姫を困らせることなどあり得ないと、どうしてそう言いきれるのか。

 いや。彼女は閃いた。

(ひょっとしたら――。蒲生は六角に忠義の者、でも、この子は何事か秘めている?義治をよく思っていないとか?もしもこの子に、蒲生家と関係ない彼個人の事情で、義治を良く思っていないようなことがあるならば、平井殿、後藤殿に心を寄せているならば、万福丸のことも――?)

 彼は自分にとって使える人間かもしれない。見極めてみようと思った。

 万福丸を生かし、浅井家再興のために使えそうな者は、何でも使わなくてはならないのだ。
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