信長の室──小倉鍋伝奇

国香

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織田家の室

十二・信長の子

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 こうした緊迫の中。それでも敵に晒されない岐阜城には、日常の風が吹いていた。

 しかし、その日、岐阜城の奥では慌ただしく。お鍋の屋敷にはまさに戦場のような緊張感が漂っていた。

 お鍋に陣痛が訪れたのだ。

 終始落ち着きなく、濃姫は自室に立ったり座ったりしていたが、ついに堪えられなくなり、お鍋の様子を見に行ったところで、産声が上がった。

「生まれたか!」

 廊下でその声を聞き付け、濃姫は走り出す。

 お鍋には三人目の出産となる。存外早かった。

(母子ともに無事なのであろうな?)

 安産だろうと思い、それでも不安に押し潰されそうになりながら廊下を進むと、侍女が産所から転がり出てきた。

「ご無事か?」

 濃姫は叫ぶ。侍女は額に汗しながら、大きくうなずいた。

「母君、御子様ともに、お健やかにございます。麗しき姫君様のご誕生にございます!」

「姫か!そうか。ご無事か。よかった……」

 濃姫はほっと崩れるように、くにゃりとその場に腰をおろした。自然に涙が溢れてくる。

 いつも。どの側室が出産しても、綺麗な涙に洗われる。新たな命の誕生という、清らかな感動。

 お鍋にとっては初めての娘であった。

 信長との間に生まれた初めての子。しかも、初めての姫。お鍋には感慨もひとしおだった。

 産所でぐったりしながらも、比較的短時間だったこともあり、前の二人の時よりは楽だと感じていたお鍋は、生まれた娘との対面に、自然と頬がゆるんだ。

「女の子って、やはりどこか違うのね……」

 顔立ちや皮膚の様子などが、確かに前の二人と違う。それは男子と女子の違いなのか、それとも父親が違うからなのか。

「綺麗な子に育ってくれるとよいのだけど……」

「御方様の姫様ですもの、麗しい姫様にお育ちになること間違いございませぬ」

 産婆が目を皺にしてそう言った。

(織田家の姫だもの。きっと大丈夫よね?)

 お鍋は頷き、娘のやわらかい頬に指先で触れた。やはり、松寿の肌とは違った。

 古より、産後九日目に名前が付けられるものだが、信長が出陣中なので、それも無理だ。出陣前に名前を決めて行ったわけでもないので、この姫は信長の帰還を待たなくてはならない。

 それまで、しばらく名前は決まらなかった。

 お鍋も姫も順調に日々を過ごして行く。

 お鍋が出産していたまさにその時、伊勢と尾張の国境周辺は危機的状態であった。

 伊勢長島の一向一揆。

 願証寺の数万もの信徒が武器を手にとり、大軍となって、長島城に押し寄せたのだ。

 一揆勢を率いているのは、本願寺から派遣された下間頼旦。一揆は長島で起きているとはいえ、完全に本願寺の指揮の下にあり、本願寺によって実行されている戦なのである。

 一揆勢は、あっという間に長島城を攻め落とすと、次に織田信興の尾張・小木江城を攻撃。信興は信長の弟だ。

 一揆勢の勢いは凄まじく、信興は城を奪われ、自害した。

 さらに桑名城に迫った一揆勢は滝川一益を敗走させたのである。

 長島城、小木江城、桑名城を奪われた織田家は絶体絶命。しかし、朝倉・浅井と対峙し、さらに三好勢や本願寺にも睨みをきかさなければならない信長は、動けない。

 信長が長島に来ないとなれば、一揆勢は益々意気軒昂となり、北伊勢の諸氏は浮き足立つ。

 次は自分たちの城が標的になるのではないか。だが、信長は助けに来てくれない。また、近江から、六角勢も誘ってきている。

 そもそも、つい二、三年前に無理矢理制圧された信長に、そこまでの思いはない。

 ならばと。

 北伊勢の諸氏までもが、信長を裏切り、一揆に加担し始めたのだ。

 この状況では仕方のないことなのかもしれないが。問題は――。三七丸を養子に迎えた神戸家でさえ、雲行きがあやしくなってきたことだ。

 六角承禎の使者が、関盛信のもとにしきりに出入りしている。その関盛信、相婿の神戸具盛との行き来は頻繁だ。

 北伊勢の諸氏の一部が完全に織田に反旗を翻し、それに続きそうな家もまだ幾つもある。彼らに強い影響力のある関、神戸家がこのように不審な動きをしていたら、北伊勢四十八家、全て願証寺側に寝返ってしまうだろう。

 三七丸と共に神戸家に入った織田家の家臣たちが、神戸家に疑いを持ち、警戒し始めた。

 三七丸の親族でもある坂仙斎は、信長は勿論、岐阜城の濃姫のもとへも知らせを出した。

 さらに、神戸・関両夫人の実家である蒲生家へも、警戒を促す使者を出した。といっても、仙斎は蒲生家をも疑っているので、冬姫の女佐達のもとへ遣わしたのである。

 信長は仙斎に、くれぐれも神戸家の動向に注意するよう、また、神戸家を裏切らせないよう努めよと命じた。濃姫は北伊勢がそこまで切迫しているのかと不安を覚え、その影響が蒲生家にも及ぶ可能性を考えて憂えた。冬姫の身を案じて、女佐たちへ問い合わせてきている。

 忠三郎は今、蒲生領内にまで迫る近江東南の一揆の鎮圧に出陣中である。賢秀も一緒で、日野には定秀がいるだけだった。

 だが、冬姫の奥家老の加藤次兵衛は、この定秀にこそ疑いを持っていた。

「関家がしきりに六角承禎と接触しているとか。それもあってか、神戸家が願証寺に従いそうな気配とのこと」

 冬姫も混ぜて、連日、次兵衛は織田家から来た女佐衆とこっそり密談に及んでいた。

「関家、神戸家、何れの奥方も、大殿・快幹軒(定秀)様の姫でござる。快幹軒様も神戸家に同調遊ばすかもしれませぬぞ」

「この日野の領内の五ヶ寺、一向宗にござれば、門徒衆が一揆に合流する恐れあり。一揆せねば、破門にすると、顕如上人が檄を飛ばしておるゆえ」

「六角の起こした一向一揆に、領内の宗徒が加担するか。さすれば、快幹軒様も六角に帰参するやもしれぬ」

「先日も六角から、帰参を促す使者が来ておったのう。関家からも、共に六角に靡こうと言ってきているのではないか?」

「これは蒲生を潰す口実ができたとも――」

 などと言い合う女佐衆。

 大人の話を聞いて、冬姫は幼いながらも危険を感じた。

「待って下さい、次兵衛!」

 冬姫が口を開くと、いくら子供とはいえ、主君であるから、大人は皆黙って、恭しく冬姫の言葉を待った。

「近頃、蒲生家を誘う使者や書簡が、六角から何度も来ていることは確かですが、いつも蒲生家は断っていたではありませんか。先日などは、六角から遣わされた使者を斬ったと。次兵衛は忠三郎様が使者を斬ったのを見たのでしょう?それ以来、六角からの誘いもなくなっているではありませんか。今も忠三郎様はお義父上様と共に、他ならぬその一揆鎮圧のため、出陣なさっているのですよ。六角と戦っておられるのに――」

「勿論、それがしとて忠三郎様を疑うわけではございませぬ。留守を預かる、快幹軒様が何か企むかもしれないと申しているのです。あの方は六角家中一の忠臣だった方。また、神戸殿、関殿の舅でございます」

 何か仕掛けるならば、賢秀、忠三郎が留守である今だと言うのだ。

「なれば、姫様の御身、極めて危険。何としてもお守り致さねば!いっそ、仕掛けられる前に――」

「いやいや、仕掛けられた方が神戸、関、蒲生まとめて潰せる」

「では、仕掛けてくるよう仕向けるか?」

 女佐衆がこんな具合なので、冬姫はほとほと困り果てた。

「今の近江の状況……織田家にとっては、蒲生家こそが頼りなのに……蒲生家に見限られたら、困るのは父の方ではないの?」

 そのような折も折、冬姫が一人でいた時に、美濃出身の老女が声をかけてきた。

 彼女の夫は斎藤道三、次いで義龍に仕え、そのまま美濃にいたので、今は信長に仕えていた。また、彼女自身は、嫁ぐ以前の濃姫の侍女だったことがある。

 老女は夫と共に、連日の次兵衛の会談に参加していたが、困り果てた様子で冬姫に相談した。

「私は御台様が織田家に嫁がれた後も、しばらくお城におりました」

 義龍の頃まで仕えていたが、龍興の時代になって辞し、信長と濃姫が岐阜城に入ると、再び出仕するようになった彼女。

 だから、義龍の息女である六角義治の妻のことはよく知っていたし、彼女の女佐とも親しかった。

「六角家中にいるその女佐が接触して参りまして……それが驚くべきことに――」

 冬姫は、自分に従って織田家からきた者達が、まさか六角義治と繋がりを持っていたとは思いもよらず、動転した。

「ご心配なく!我ら美濃の出の者は皆、御台様をお慕いして参りました。斎藤家にお仕えしたとはいえ、山城守(道三)様亡き後の斎藤家など。義龍、龍興父子など主と思うてもおりませぬ。故に、御台様の岐阜ご帰還、織田家によるご支配を心より喜んでいるのです。我らは織田家の家臣。姫様、何卒お心安らかに遊ばしませ」

 老女も他の美濃衆も、冬姫に従っている者は皆、織田家の者という自覚を持っている。

 しかし、六角家の女佐は、彼らを斎藤家の同輩と見て、

「敵の織田家に仕えるは、さぞ不本意でござろう」

と、今でも斎藤家を慕っているものと勝手に解釈していた。

「ここは織田信長に一泡吹かせる好機ぞ。蒲生家を六角家に帰参させ、領内の一向衆と一揆を起こさせ。親族の神戸家をも一揆に加担させれば、六角のお屋形様は貴殿らを重用遊ばす」

 そのようなことを言ってきているのだ。まさに、先日義治が計画した通りである。

 先に蒲生家に遣わした赤佐が斬られ、何度誘っても蒲生家は六角家に帰参せず、逆に一揆鎮圧に乗り出し、六角家と刃を交えているので、義治は次の作戦に移行したらしい。妻と冬姫の女佐を使って蒲生家を誘うという――。

 蒲生家の六角家への帰参、神戸家の同心は、三七丸・冬姫兄妹の死を意味する。

「信長は息子と娘を失い、急速に失墜するぞ」

 六角家の女佐は涎を垂らして、蒲生家の帰参を待っているという。

 老女からことの次第を聞いた冬姫は、目眩を覚えた。

「まさか、それ、次兵衛などの尾張衆の女佐たちに知られていないでしょうね?」

「知られてはまずいので、姫様にご相談致しました」

 老女の答えにほっとすると、冬姫は、

「それで、六角方には何と返事したのです?」

「返事はまだ致しておりませぬ。当然、同意なぞ致すわけがございませぬ。我らは織田家の者。冬姫様に命を捧げるものです。それ故、姫様に包み隠さずご報告致しました。姫様のご指示を賜りとう存じます」

 冬姫はしばし考えてから、

「返事をしていないのは良かった。このまま向こうと繋ぎを持っていて下さい」

と言った。

 直後、ついに蒲生領内でも一揆が起こった。

 出陣中の忠三郎は無論のことだが、留守を預かる定秀も青ざめた。

「このままでは、蒲生家はとり潰される!何とかせねば!」

 一揆鎮圧と、一揆勢との話し合いに奔走した。定秀も六角に帰参する気はなく、引き続き織田家の支配を受けるつもりだったと見える。いや、次兵衛たちの思惑が見えていたのかもしれない。

 絶体絶命に、冬姫は岐阜の濃姫、さらには出陣中の信長に、六角家との和睦を打診した。

 少女に何ができるかと信長は苦笑したが、信長にとって、非常にまずい状態が続いていることは確かだ。

 そして、近江の一揆は日野にまで及び、冬姫の身が危険にさらされている。信長は願証寺の一揆勢によって弟を殺されたばかり。

 それほど、一向一揆の力は凄まじく、決して侮れないのだ。日野の小さな城など、すぐに奪われ、冬姫もあっけなく殺されかねない。

「よし、やれ」

 信長は六角家との和睦を進めた。

 六角左京が役に立った。

「公方様も今ならお許し下さる。六角家はもはや御敵ではない」

 左京が御敵でないと約束したのは大きかった。

 また、冬姫が自身の美濃衆の女佐を使って、六角家の女佐と交渉した。

 六角家の女佐は、六角と共に織田を討って、仇をとろうと言ったが、冬姫付きの美濃衆が逆に、共に濃姫に従おうと誘ったのだ。

 濃姫。彼女を慕う者は六角家の女佐衆の中にも確かにいた。彼らが心動かされたことは間違いない。

 さらに、和睦の条件として、信長が提示してきたもの。

「六角殿北ノ方は信長御台の姪である。北ノ方は御台が預かる」

 しかも。六角家が出す人質は義治夫人ということになるが、驚いたことに、彼女を観音寺城に住まわせると信長は言う。

 織田家の申し出に最も反応したのは、夫人本人だった。

「織田家の叔母、蒲生家の従妹からも色々言ってきています。私も二人に会いたい」

 彼女だけでも観音寺城に戻れるならばと、義治も和睦に応じた。承禎は承知していない。

 だから、すぐにこの和睦は反古になる。だが、とりあえずは和睦が成り、近江東南地域の一揆は収まった。再び一揆が勃発するのは、年が明けてからのことである。

 蒲生領内の一向宗徒は、長年の蒲生家との付き合いを重視して、一揆は起こさなくなった。定秀がよほど見事に交渉したと見える。

 ただ、破門を恐れ、宗徒たちは、蒲生領内で一揆を起こさない代わりに、兵として本願寺に赴き、また兵糧を送るなどの後方支援は行った。

 だから、なお蒲生家は危ない橋を渡り続けていたのである。次兵衛に付け入らせる隙が、あちこちあった。




 六角家との和睦が成った頃。北陸は雪に閉ざされる季節となっていた。

 朝倉義景は越前に帰りたがっていた。雪が降ったら、帰ることもできなくなる。兵糧も不足するのに、このまま織田軍と対峙を続けることは不可能だ。

 そのような折、朝廷が動いた。

 朝廷が動いたことにより、ようやく己は朝敵であるという認識を得たものと見える。

「天下静謐を乱す戦を、これ以上続けるのはやめよ。幕府と和睦せよ」

 幕府と和睦すれば、御敵を解消され、朝敵でもなくなる。何より、もう帰りたい。

「承知!」

 ついに信長と朝倉義景・浅井長政との間で和睦が成り、信長の長い危機は終わりを告げた。

 十二月十七日。信長はようやく岐阜に帰った。




 お鍋はもう普段着で過ごすようになっている。しかし、真冬の雪積もる中、産後一ヶ月程の身で出歩くのは良くないというので、専ら寝所で過ごしていた。

 帰還した信長と会ったのは、信長が帰ってきた翌日の昼下がり。朝から晴れていたのに、ちょうど時雨れて、小雪が舞い散っていた時だった。

 お鍋は寝所でぬくぬくと暖まりながら、座って我が子を眺めていた。

 松寿と生まれたばかりの姫。二人ともすやすやと昼寝中。

 兄妹を並べて寝かせていたところに信長が現れたので、お鍋は慌てた。

(小倉家の子なんかと、お屋形様の姫とを並べたら、まずいわよね!)

 あたふたと姫を抱き上げようとしたが、御簾が巻き上げられ、信長がのっそり顔を覗かせたから、もう遅い。信長は兄妹の寝姿をしっかり見てしまっている。

(怒られる!!)

 強く目を瞑った。

「ふうん、可愛いもんだな」

 意外なくらいのんびりとした声が降ってきた。

 お鍋が恐る恐る目を開けると、驚くほど甘い顔をした信長が立っている。

 信長はそのまま足音を忍ばせて、お鍋の隣にやって来た。

(誰?)

 そう言いたくなるほど、お鍋が初めて見る信長の表情。

 何か気持ち悪いわと、半ば仰け反り、隣に座った信長から身を離すようにした。

「赤子の頃の五徳姫に似てる。器量良しの姫だな」

 歌うように囁いて、信長はそっと眠る姫を抱き上げた。やたら抱き方がうまい。やたら慣れた手つきだ。

 お鍋は、ついまじまじと見てしまった。

「……」

「――何だよ?」

 ずっと見つめていたい――そんな目付きで姫を愛でていた信長だったが、さすがにお鍋の視線が気になったらしい。痛そうに眉をゆがめて、お鍋に目を向けた。

「こんな可愛い姫を産んだのは自分なんだと言いたいのか?自分を褒めろってか?」

「……いえ」

 語尾にため息を混ぜてお鍋は目を背けた。

(……ま、松寿のことで叱られなかったもの。感謝しなきゃ。以後、気をつけよう……)

「でかしたぞ」

「へ?」

 不意に言われて振り返れば、信長は穏やかにお鍋を見ていた。

「綺麗な姫を、よく産んだな。ありがとう」

 固まった。目を抉じ開けたように見開いたまま。お鍋は――。

「くっ、失礼な奴だ。貴様、相変わらずだな。今日は槍でも降ると思ってるだろう?」

「……思ってます」

「ぎゃっはっ!」

 甲高く笑い出した信長。やたら大きな声。

 お鍋は慌てたが、何故か松寿も姫も起きないで、気持ち良さそうに眠り続けている。

(松寿って、もともとよく寝る子だったけど……もしかして、馬鹿なの?)

 二人の行く末に不安を感じていると、信長はまだ笑いながら、姫を松寿の脇に置いて、ほわほわの頭を撫でた。

「ぐくくくっ、貴様は変わらんなあ、何だか嬉しいよ」

「はあ?」

「それでこそ小倉鍋。俺は貴様といつもこうやって過ごしたいんだよ。いつもそうやって俺を笑わせろよ」

 言いざま、ぱっと振り返って、お鍋の両頬を両手で摘んだ。

「いっ?」

「うむ、こうすりゃ貴様も不細工だ」

「に?」

「はあ、しかしなあ……」

 ため息をつきながら手を離すと、信長はお鍋の感触の名残を、指を擦りながら味わい。

「姫の肌と違ってがさがさだな」

「……」

 次は何と言ってからかう気かと、お鍋が身構えていると、さりげなく。

「赤子に栄養全部持っていかれたのだ。それに、産む時、精魂全て出しきって、殻になったのだ。精のつく物を用意させよう。よく食べて寝ろよ」

 信長は幼い子にするように、ぽんとお鍋の頭に手を置くと、御簾の外に出て行った。そして、隣室に出ていた硯の前に向かう。

 何やらさらさら書いていたが、すぐに戻ってきて、立ったままお鍋の前に書いた紙を掲げた。

 紙には、ただ一文字、「鶴」と書いてある。

 お鍋はまじまじと信長の手元を見つめていたが、やがて、眉をゆがめたまま彼を見上げた。

「はあ?鶴?何です?」

 信長は驚いたように、ひらりとその紙をお鍋の膝にやって、座り込む。

「ああん?名前に決まってるだろう?」

「名前?」

「姫の」

 顎をしゃくって、我が子の姫を指す。

「姫っ?」

 お鍋は忙しげに姫と膝の紙とに視線を交互にやる。

「鶴。鶴姫だ」

「……鶴姫」

「松には鶴だろ」

 信長はにんまりと、赤子たちを見下ろす。

 寝返りをうった松寿の手が、傍らで眠る姫のお腹の上に乗っている。

「鶴は松の木に宿るもんだからな」

「まさか……」

 姫が松寿の脇に並んで眠っているのを見て、鶴と思いついたのだろうか。

 松寿の妹だから、鶴と名付けようと思いついたのだろうか。

(松には鶴だからって……)

 安直過ぎるだろう。

 信長が我が子にいい加減な名前を付けることは知ってはいた。だが、いざそれに直面すると、何それと腹が立たずにいられない。

 それに。

 お鍋の脳裏に、若松の杜に舞い遊ぶ鶴が思い浮かぶ。鶴とはいっても、それは袖を翼のように翻らせる人の子で。

(ぎゃあ!日野の若松の杜を駆け抜ける鶴千代!)

「お屋形様!いくら何でも姉婿に肖るのはないと思います!」

 食らいついた。

「あ?姉婿だ?」

「松に鶴では、蒲生家の忠三郎殿になってしまいまする!」

「なんだ、そなたまだ蒲生が気に食わないのか?忠三郎は可愛いじゃないか」

「いや、そうじゃなくて……」

 お鍋も忠三郎は可愛いと思うし、忠三郎には恨みも憎しみもないけれど――。

 そこではたと気づいた。

(私……やっぱりまだ蒲生家が、快幹軒殿が――?)

 蒲生家を未だに許せずにいるのだろうかと思った。

「かわいそうな婿殿だな。こんな執念深い女に呪われて……そなた、いつぞやと同じで、貴船参りしそうな顔してるぞ」

「何おっしゃってんですか」

 お鍋がばちんと信長の腕を打つと、信長は大袈裟に痛がりながら。

「わかったわかった、じゃあ蒲生が嫌なら、どうすりゃいい?小倉は梅鉢紋だから、鶯姫にでもするか?」

「鶯姫?何ですかそれは?」

「梅には鶯だ」

「せめて、梅姫にして」

「鍋には釜だな、蓋とか。――釜姫!」

「絶対嫌!」

「贅沢な奴だ」

 げらげら笑った。

 信長の、この毎度の通りのいい加減な命名で、結局この姫の名は鶴に決まってしまったのである。




 翌日には、濃姫が祝いにやって来た。

 お鍋は寝所から出て、平服で居間で会った。乳母に鶴姫を抱かせて。

 濃姫は鶴姫を優しげな眼差しで見て、微笑んだ。

「お名が決まったそうで、お慶び申し上げます。鶴姫ですか。よいお名ですね」

 鶴姫。確かにめでたい名だが。

「ですが。お屋形様はいかにも思いつきといったご様子で、適当にお名付けになられたのです」

 命名の状況を思い出して、お鍋はぷんぷん。濃姫もくすくす笑い出した。

「松寿と姫とをご覧になって、松には鶴だと仰せられ、松の妹だから鶴でよかろうと」

「まあまあ、そんなことくらいで怒っていたら、茶筅丸はどうすればよいのです?皆、名のことでは気の毒な思いをしているのですよ」

 奇妙丸とか。ひどい名だ。

「冬姫様は冬にでもお生まれになったのですか?」

「あの子は革命が起こるとされる辛酉の年に生まれたので。酉は金性で冷たく、辛もまた金の弟で、冷たい金である上に陰の方の弟なので、辛酉の年には人の心、冬になると。それで冬と名付けたのだとか、言い訳、しておいででした」

 言い訳という所で、濃姫はおかしくて堪らず、吹き出していた。

 適当な中にも、信長の中の理はあるらしい。お鍋はそれではと、また訊いた。

「三七丸様と五徳姫様、お二人併せて注連縄とか?」

「まさか!」

 濃姫はいよいよ笑い転げた。

「お鍋様ったら、面白い!ほほほほ、お屋形様もお鍋様の発想には完敗ですね。五徳はお鍋様から名付けたので……」

 はっとした。おかしくて、つい口を滑らせてしまったが。

 まずいと濃姫は気づいたが、遅い。

(五徳をのせた鍋……丑の刻参りするお鍋様、なんて言えないけど、どう誤魔化そう……)

「私?何です?初めて伺うお話です」

「ええ、それはあれです……」

 しどろもどろになりながら、濃姫は自分の機知に挑んだ。

「……ほら、あの、昔。私がお産の後に、しばらく小倉家のご厄介になったことがあったでしょう?」

 背中に汗を覚えるべきは濃姫なのに、何故か顔に冷や汗を浮かべたのは、お鍋の方だった。

「えっと、あの?……ああ、それでね、小倉家の皆様、特にお鍋様にお世話になりましたから、そのことを忘れてはならないと。私がお屋形様のもとに帰ってすぐに生まれた子に、お鍋様からのご恩を忘れないよう、五徳と名付けようと、お屋形様が命名遊ばしました……」

(って、それでどうして五徳なのかって聞かれたら……どうしよう。鍋には五徳だから……この説明で納得するかしら?)

「……ほほほ……鍋には五徳というわけで、お屋形様ったら、単純でしょう?」

 濃姫がどうにか言って、お鍋の顔を初めて意識すると、なんだかお鍋は思い詰めていて。

「はあ、そうなんですか……」

 上の空。

「どうかなさったのですか?」

 濃姫は訊いてはみたものの、お鍋が食いついてこないことを、これ幸いと思っているので、あまり気にとめない。

(貴船へ丑の刻参りする女は五徳を頭に被いているだなんて……五徳を被いたお鍋様だなんて……言えるわけないもの……)

 濃姫はこの時、お鍋が、濃姫の娘を呪い殺したのだと思い込んでいることについて思考しているなどとは、夢にも思っていない。

 だが、お鍋は度々こうして、この思いに苛まれてきた。

(私、御台様にこうして鶴姫を見せびらかして……最低だわ。私が御台様の姫を殺したのに、私の娘をこれ見よがしに――。こともあろうに、同じお屋形様の娘を――。御台様の娘を殺しておきながら、御台様に負けたくないとか、本当に最低の感情しか起こらない私……私、やっぱりここにいたらいけないんじゃないかしら?)

 幸せになる資格もないのに、信長と相思相愛の濃姫に対抗心を燃やして、信長に見返りを求めず一方的に尽くして愛して、それで勝とうとしている。

 馬鹿だと思った。
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