お鍋の方

国香

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激動

四・再会

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 蒲生家は挙兵して進軍すると、甲津畑に布陣した。和南山を前にして、それ以上は進まず、右京亮のもとに使者を遣わしてくる。

「ご子息はすでに六角家の手から離れておられる。観音寺城より中野城へお移り頂いている。安心なされよ。ご子息と小倉良親を交換しようではないか。良親を当方へ渡されよ。さすればご子息はお返し致そう。お屋形様よりすでにお許しは頂いておる。どうかな?貴殿にしばし時間を差し上げる」

 蒲生方は使者にそう言わせ、甲津畑から全く動く気配を見せなかった。

 お鍋は松寿を連れて、無事逃げきっている。まだ八尾城には到着していなかったが、きちんと右京亮とも連絡がとれている状態だ。

 お鍋が佐久良城から逃亡したことは、蒲生方にも知られているはずである。

 しかし、不思議なことに、蒲生方はお鍋のことについては一切触れなかった。

 逃亡を許さぬでもなければ、返せでもない。お鍋が逃げた替わりに甚五郎をどうこうするでもない。

 どうやら、見逃してくれたらしい。そう察して、右京亮は、逆にこのままお鍋の行方はうやむやにしておいた方がよいのではないかと考えた。

 彼は、道なき道を行くお鍋のもとへ、迎えの兵を差し向ける予定でいたが、急遽彼等に行き先の変更を命じた。

「お鍋と合流したら、あれをこの城には連れ帰るな。しばらく身を隠しているように伝えよ。その間、しっかりとあれの身を守ってくれ」

 右京亮はそう言って、手勢十数騎をお鍋のもとに送り出した。

 お鍋は蒲生軍が甲津畑に向けて進軍したので、それと出くわさないよう、慎重に藪の中を進んでいた。

 やがて、右京亮が差し向けた兵と合流することができたが、彼等からの説明を受けると、於巳が言った。

「なれば、小倉家や高畠家とは関係のない所に潜んでおりましょう」

 お鍋がいかにも行きそうな場所は、蒲生軍が捜しに来るかもしれないので、念のためだ。

「ではどこに?」

 於巳はしばし考えてから、お鍋に、自身の腕の中の松寿、右京亮が寄越してくれた兵たちを見回した。

「これだけの人数ならば、少し遠出しても大丈夫でしょう。石田村の私の親戚の家はいかがでしょう?」

 昔、『胡琴教録』を借りに行った家である。

 お鍋は一度頷いてから、念を押すように、兵どもに確認した。

「甚は本当に中野城にいるのね?良親殿と交換できるのね?殿は良親殿を捕らえて、蒲生家に差し出すのね?」

「はい。間違いございませぬ」

 彼等は右京亮からのお鍋宛の文を預かってきたが、その文にも確かに、良親を捕らえて甚五郎と交換する、蒲生方とは戦はしないと書いてある。

 そもそも今回のこの事態は、六角承禎入道(義賢)の勘違いか言いがかりである。小倉良親が織田につくよう、小倉一門の間を説得して回っているだけであり、右京亮はそれに応じていない。

 小倉家の一族の中には、すでに良親の誘いに乗った者もいるかもしれないが、右京亮は違う。

 本来ならば、小倉一門中、織田方になった者のみを討つべきである。だが、六角家には、それが誰かはっきりと判明していないので、小倉一門全体を対象に、追討令を出したのであろう。

 蒲生家は今、誰が味方で誰が裏切り者なのか、見極めているところなのであろう。右京亮に対して、さほど厳しくない態度なのも、そのためだと思われる。

「良親殿は今どこなの?八尾城を訪ねてきているの?」

「いえ、時々お越しですが、今日は来ておられませぬ。おそらく右近大夫の所でしょう。しかし、蒲生家が挙兵したのですから、この機に必ず、織田に従い蒲生軍を迎え撃てと言ってくるはずです」

 近々必ず良親は八尾城に現れるだろうと、兵の一人は答える。

 右京亮はその時すかさず良親を捕らえ、蒲生家に引き渡すだろう。

 これで右京亮は戦わずにすむ。だが、良親にはあまりに気の毒なことだ。

(どうにかできないものかしら?)

 そう思いつつ、

「わかったわ。石田村に行きましょう」

と、お鍋は大きく頷いた。

 先ずは石田村に行き、それからどうすべきか考えよう。

 石田村には馬で移動したため、その日のうちに着けた。

 ここに来るのは久しぶりである。嫁ぐ前。そう、あの永禄二年の初春以来のことだ。九年振りだろうか。

「十年近く来ていなかった、懐かしいわ」

 感慨深げに於巳に言った。

 数日間ということもあって、於巳の親戚は快く間借りさせてくれた。だが、あまり大人数で住まうのも申し訳ない。乳母は連れてこなかったが、今から呼び寄せるつもりもなかった。

 お鍋と於巳が少女の頃の思い出に浸りながら、当時と変わらぬ庭の姿を眺めていると、ふと松寿がむずかった。

「ごめんね、お腹すいたのね」

 乳母不在ならば、お鍋自らの乳を与えねばなるまい。兵たちはすぐに下がって行き、部屋には於巳だけが残った。

 襖や障子を閉め、さらに几帳で衝立をしていく於巳。準備が整うと、お鍋はすっと襟をくつろがせて、白く綺麗な乳房を松寿に与えた。

(くふっ。かわいいわ)

 くすぐったそうに声をあげ、我が子に目を細める。夢中で乳を貪る赤子のその必死さがとてつもなく愛しい。

(甚とはこういう時間が持てなかったもの……)

 甚五郎に注げなかった分の愛情まで、この子に一心に注いでいる。

(甚、大丈夫かしら?)

 無事だとはいうが。蒲生家で、今頃は鶴千代に遊んでもらえているだろうか。

(お桐様……)

 甚五郎とは一緒にはいられないが、松寿とはこうして幸せに暮らせる。だが、鶴千代の母は子供たちとは一切一緒にいられないのだ。

 気がつくと、松寿がもう飲み終えていた。

「お済みでしょうか?」

 几帳の外から於巳も声をかける。

 胸元を整えながら、

「ええ、もういいわ」

と答えると、すぐに於巳が現れた。

 松寿の背を叩く。それを見ながら、於巳は案じたような顔をした。

「どうかなさいました?」

「え?」

「お顔が暗いような……やはりこちらはお嫌でしたか?」

 信長と出会って失恋したことでも思い出したかと、於巳は思ったようだ。

「いやだ、そんなわけないじゃないの」

 お鍋は於巳の誤解に、すぐにけたけたと笑い出した。もう信長に失恋したことで、心が痛むことはない。

(それでも、まだ覚えているけれど……)

 今でも信長への気持ちが残っている不思議。

 松寿が不意にあくびした。

 夫の子である松寿は、無条件に愛しい。

「ああ、そうだ……」

 信長といえば、思い出した。

「明日にでも成菩提院にお参りに行こうかしら……」

(あの人はこんなに愛しいものを、こうしてずっと胸に抱き続けることもできず……乳もあげられず……)

 濃姫も。桐だけではない。

(そう。私のせいだわ。私が奪ったのよ……)

 かつて濃姫が、成菩提院で姫を失ったことを思った。

 お鍋が信長に恋をして。嫉妬に狂って。

 その怨念のために、その姫は亡くなったのだと──。

(私は何て残酷なのだろう)

 お鍋はそう思った。

 母になり。赤子を取り上げられて。そして、今、赤子に乳をふくませて抱きしめて。

 濃姫の苦痛がどれほどか、自分の心の残酷さが身にしみた。

(信長の姫──ちゃんとお参りに行かなくちゃ駄目だわ!)

 たとえお鍋の怨念が原因で亡くなったのでなくとも。一瞬でも小さな命を呪う心があったことは事実だ。

(こんなに小さなものを。こんなにか弱い無抵抗な愛しいものを。私は……)

 松寿に思わず頬ずりした。

 一瞬でも忘れてはいけなかった、姫のこと──。




 翌日、於巳と平服に戻った兵数名を連れて、お鍋は成菩提院に向かった。

 赤子の我が子を姫の墓前に連れて行くのは、何だか見せびらかしているようで、姫に対して気が引けた。だから、松寿は置いて行った。

 成菩提院に着くと、そこの僧侶たちは、もう随分昔のことだというのに、お鍋や於巳のことをよく覚えていて、歓迎してくれた。やはり、火事を消火してくれた恩人のことは、いつまでも忘れないものなのだ。

「あの時、一緒に消火した織田様──あの方の姫君がこちらに埋葬されていると伺いました。お参りしたいのです」

 お鍋が言うと、僧侶たちは快く案内してくれた。

「偶然でしょうか、今日は月命日でございますよ」

と、その奇遇に驚きながら──。

「月命日ですか!」

 お鍋もそれに驚いたが、

(たまたまお参りに来てみれば、月命日とは。姫のお引き合わせね)

と、偶然には思えなかった。

 墓所まで案内してくると、僧侶達は下がって行く。お鍋は於巳と墓前に進んだ。兵たちは少し離れた所に待機している。

 墓は非常に管理が行き届いていて、綺麗であった。それでも、風によって運ばれた埃がややある。お鍋はまず手を合わせると、すぐに墓石を拭い始める。

 まるで、その石が姫であるかのように、やさしく丁寧に拭いた。

 しばらくして、すっかり綺麗に磨かれると、お鍋は再び墓前に向かい、今度は長いこと合掌していた。共に合掌した於巳がその手を解いて起き上がっても、お鍋にはやめる気配はなかった。

 姫と話しているのだ。於巳はそう思った。

 懺悔。確かにお鍋はごめんなさいと詫び続けている。

 何やらいたたまれないような気持ちになってきて、於巳も再び合掌すると、俄かに背後が騒がしくなり、すぐに一人の人間の足音が近づいてきた。

 於巳が振り返って見ると、若い男が一人、こちらに向かってきている。

 そして、彼方で、その男の従者と思しき者数名が、小倉家の兵たちと何事か話し合っているのも見えた。もめている感じではないので、於巳がこちらに近づく男に視線を戻すと、見覚えのある顔だと思い至った。

 男は於巳の目の前に進んでくると、そっと会釈した。於巳も同時に同様にしたが、頭を上げた時、男もあっという顔をした。

「これは珍しや、於巳殿ではござらぬか?」

「……藤八郎、殿?」

「お久しぶりです。少しもお変わりになられぬなあ」

「藤八郎殿はご立派になられて」

 於巳は頗る驚いた。だが、もっと驚いているのは藤八郎の方である。

 彼は墓前に合掌する身分の高そうな女性の背中に、まさかと於巳に尋ねた。

「小倉の姫、鍋御前様では?」

 於巳は頷いた。お鍋はなお一心に祈っている。

「あの折お世話になったばかりか、今でも姫君様の御墓参りに──。何と有り難いことか……」

 まさかお鍋が信長の姫の墓参りに来ているとは、想像だにできなかったと、藤八郎は、それでも感激を混ぜさせている。

 二人の会話に、ようやくお鍋も現に返って、目を開けると振り返った。

 見知らぬ若い男が於巳と親しげにしているのが不思議で、首を傾げると、藤八郎は恭しくその場に片膝をついた。

「織田様のご家臣です。九年前は小姓でいらしたのですよ」

 於巳が男を紹介した。

 九年前のこの寺で、突然お鍋と朝食を摂りたいと言った信長。その旨を於巳は信長の小姓に伝えに行った。その時の伝えた小姓がこの藤八郎だ。

 そして、ここを出立する時、濃姫の出産を助けてくれと、名医を紹介してくれと藤八郎は於巳に頼み込んだ。

 その時親しくなり、いざ信長が八風越えをするとなった時、於巳と藤八郎は色々折衝したのだ。

 お鍋もちらりと藤八郎の姿は見たはずだが、言葉を掛け合ったわけでもないし、信長の供廻りは多数いたので、藤八郎のことは覚えていなかった。

 だが、信長に協力してくれた小倉の姫のことは、信長の供全員がその姿を胸にとどめ、しっかり覚えている。

 藤八郎も懐かしげに、お鍋を見やった。

「お久しぶりでございます、姫君。当家の姫のために、かたじけのうございまする」

 お鍋は首を横に振る。

 しかし、信長の近衆がこの墓にいるというのはどういうことだろう。

 お鍋の思考を読み取ったわけではあるまいが、藤八郎は言った。

「姫様の御命日は先月でございましたなれど、二月に北伊勢を平定し、その後処理などに追われて、御命日には間に合いませず、参ることかないませんでした」

 祥月命日には来られなかったので、一ヶ月遅れの月命日の今日、やって来たというわけだ。

 お鍋は立ち上がると、墓石の脇に逸れて、藤八郎に墓前を譲るようにしながら、

「御命日には毎年参られるのですか?」

と訊いた。

 片膝ついたまま、

「はい、そうです」

と答えた藤八郎は、失礼しますと頭を下げてから立ち上がり、頭を低くしたまま姫の墓前に進んで行く。

 墓石の真っ正面に来て跪き、深く一礼すると合掌した。その間、お鍋は於巳の隣にまで下がっている。

 お鍋は藤八郎の背中を眺めながら、信長の愛情を思った。

(生まれて僅かで亡くなった姫のために、毎年近衆を参らせるなんて。余程大事な姫なのね。ご正室腹の姫だから?ううん、ご正室が大事だからよね……)

 ちくりと胸が痛む。濃姫への想いからということに気付いた時、なお心が波立つのは、自分でも理解できなかった。

(信長は姫に一度も会えなかったのに!)

 その娘を思う信長に、嫉妬するとは、何と浅ましいのか。お鍋はぎゅっと目を瞑って、頭を振った。

「いやあ、綺麗だなあ。綺麗に掃除して下さったんですね」

 不意に藤八郎の明るい声が響いた。目を開けると、藤八郎が墓石に手を触れている。

 立ち上がってお鍋の方を振り返った彼は、感嘆した様子の明るい顔だ。

「綺麗に拭いて下さったんですね。有難うございます」

 藤八郎が頭を下げる。お鍋は首をそっと左右に振った。

「毎年、藤八郎殿が参られるのですか?」

 於巳が訊いた。

「そうですなあ、それがしが参ることが多いかもしれませぬ。他の者が参ることもありはしますが。いずれにせよ、主夫妻は、姫様のことをお忘れになることはなく、いつもご自身で参られたいと仰せになります。そういうわけにもいかないので、涙をのんで、我等を代わりにお遣わしになられまするが……」

「そんなに大事な姫様で。いいえ、お子はどなたにとっても大事なもの。このお鍋様とて」

 於巳はそう言った。

 藤八郎は姫の墓前から下がって、お鍋たちのもとに戻ってきた。

「以前、御寮人様も、まだややであられた若様を人質に取られたと伺いました。若様のために、尾張に逃げず、おん自ら敵の城に乗り込まれたと。そういう御寮人様なればこそ、うちの姫様のこともお気にかけて下さるのでしょうなあ」

 藤八郎は、お鍋が信長の姫の墓参りをする理由を、そのように独り合点して頷いた。

 於巳はため息をつく。

「あの時、お鍋様の代わりに尾張に落ち、織田家にお世話になった小倉良親殿が、戻ってきておられまするが──」

 藤八郎は明るく頷く。

「はい。是非とも小倉一族の皆様方と盟友の契りを結びたく。かつて主を八風峠にご案内下さり、敵の刺客から救って下さった皆様ですから」

「それがために、またお鍋様は和子様を人質にとられておられまする」

 於巳がため息とともに言うと、藤八郎の表情が一変した。

「え?人質ですと?それはどうして?」

「小倉家は六角家にお仕えしています。織田家から内応するよう誘われたら、それは六角家の怒りに触れましょう。六角家は蒲生家に命じて、小倉家を討伐しようと、和子様を人質に──」

 信長の姫の墓前でするような話ではないが、ふとお鍋は二人の会話を聞いて思った。

(殿が良親殿を捕らえて蒲生殿に差し出したら、甚は無事に返してもらえるし、攻撃もされなくなる。でも、そうなったら、良親殿はどうなるの?きっと殺されるわよね。それではあまりに──)

「止めて」

 於巳の話の内容に青くなった藤八郎へ、お鍋が唐突に訴えた。

「織田様を止めて!」

 藤八郎にもすぐに言いたいことはわかった。

「息子を失いたくない。でも、その代わりに良親殿を死なせるようなことはしたくないの。夫が息子のために六角家を選べば、織田家との間にも決定的な亀裂ができてしまうわ。私達のことは、どうか放っておいて!」

「お気持ち、よくわかります。されど……」

 上洛を目指す織田家には、聞き入れられない相談だ。

「どうして!新しい公方様に従わない気なの?」

「それがし如きには何とも……」

 信長の考えていることなど、想像もつかない。信長の目指しているその何かを、家臣の分際で考え直すよう言う非礼が、どうして許されようか。

(恐いのね)

 信長に意見したら、殺されるとでも思い込んでいるのだろう。

 織田家の内情を知らないお鍋は、信長のことをよく知らない彼女は、単純にそう思い、目の前の男が歯がゆかった。

 急にお鍋に驚くべき思いつきが湧き上がった。内心興奮していたからか、そのままそれが口をつく。

「わかった!じゃあ、私が直接織田様にお願いする。岐阜へ連れて行って下さい!」

「お鍋様?」

 仰天して、傍らの於巳がお鍋の袖を無意識に掴む。藤八郎も驚いていたが、お鍋は気にせず続ける。

「一日あれば岐阜には行けるでしょう?藤八郎殿、もうご用はお済み?それとも、まだどちらかへ行かれるのかしら?」

「いえ、それがしはもう岐阜へ帰るだけです」

 一緒に岐阜を何人かで出てきた。彼らは越前へ行ったり、浅井家に出向いたりしているが、藤八郎はただ墓参りだけを命じられている。だが、他の者を待ち、その首尾を聞いて、場合によっては対策を施してから帰るつもりではあった。

「蒲生軍はもう甲津畑に布陣しているの!一刻を争うのよ!二、三日中に良親殿は捕らえられる。猶予はないのよ。すぐに岐阜へ連れて行って。それが駄目なら、すぐにそなたが岐阜に戻って、織田様に私の訴えを伝えて下さい!」

「わ、わかりました!」

 言い募るお鍋に、藤八郎は了承した。朝倉や浅井のことは、他の者に任せればよい。

「お鍋様本気ですか?本気で岐阜に行かれるおつもりですか?」

 まだ袖を握っている於巳に、覚悟を決めてしまったお鍋は、むしろ晴れ晴れとさえした顔を向けた。

「ここは柏原よ、ここからならば、岐阜はそう遠くないわ。三日で往復してみせるわよ」

 於巳は呆気にとられたような、あきれたような表情で腕を脱力させ、手は袖から離れていた。

 お鍋は一旦宿としている家に戻ると、俄かに支度した。於巳と松寿、それに小倉の兵半分を岐阜に連れて行くことにする。残り半分の兵はここに残すことにした。

 だが、この時、平六という兵がいなくなっていることに、誰も気づかなかった。

 平六は以前から右京亮に仕えていた者だが、ずっと蒲生家の強さを恐れ、それに逆らうことに一貫して否定的だった。最近、右京亮が佐久良城にお鍋を訪ねる時は、いつも供奉しており、佐久良城の面々とも顔見知りだ。

 お鍋は平六のことに気づかず、皆を引き連れ出発すると、途中で待っていた藤八郎主従と合流した。藤八郎は若葉の美しい柿の枝を懐に挿していた。

「それは?」

「寺から頂いてきました。以前の火事の時、我が主や御寮人様ご主従の奮闘の甲斐あって、大事に至らずに済みましたが──それでも、この柿の木がなかったら、隣の堂に燃え移っていたでしょう」

 お鍋はあっと思った。

「延焼を遮った柿の木?それはその木の枝なの?」

 あの九年前の成菩提院の火事の時、消火に夢中だったのでよく覚えていないが、確か柿の木があった気がする。そちらまで火の手は回っていたのだったか。

 柿の枝ほど新緑の美しいものはない。お鍋はその緑に目を細めつつ、出発した。

 馬での移動だが、松寿の身は主に藤八郎が背負っていることが多かった。

 お鍋には生まれて初めての美濃国である。隣国だが、来たことはない。思えばこの乱世、女がそうそう己の領地の外に出ることなど難しい。

 初めて見る景色に、実は切迫した事態だということも一瞬忘れる。

 長良川の流れに大きく息を吐いて、そして岐阜へ至った。

 お鍋たちは先ず、岐阜城下の藤八郎の屋敷に入った。

 赤子連れの女の旅姿というのは憐れにでも映るのか、屋敷の人々のもてなしは厚い。さっそく風呂を馳走され、旅の疲れを癒やしている間に、藤八郎は柿の枝を持って、登城していた。

 柿の若葉の萌黄色は鮮やかなまま。藤八郎は萎れぬうちに信長に献上し、お鍋のことも伝えるのだ。

 一方、その間のお鍋。

 食事も出て、疲れから眠気を催していた。見れば、松寿は、ぐったりという表現が的確な様子で寝ている。

「松寿、大丈夫?」

 顔を覗き込み、熱など出ていないか、体のあちこちに触れてみる。

 どうやら熱はないらしいが。

「でも、まだわからないわ。今夜にでも熱を出すかもしれない」

 不安を於巳に訴えた時、屋敷の表が騒がしくなり、すぐに小者が現れた。

「主がお城へ上がりますと、運良くすぐそこをお屋形様が通られたそうで、御寮人様の御事をお伝えできたそうです。すると、お屋形様はすぐにも御寮人様との対面を許すとのこと。お疲れでありましょうが、お支度下さい」

「え?今から?」

 お鍋も於巳も耳を疑った。

「はい。今からお城へお上がり頂きます」

「だって、今からじゃ夜になってしまうでしょう?」

「お屋形様はそういうお方でございますれば、さ、お早く」

 短気で気分屋の信長を恐れるように、小者は急かす。

 信長が今すぐ会うと言っているのだから、すぐに行かないと大変なことになるのだ。

「それがしがご案内致しますので。では」

 藤八郎は城で待っているという。小者はお鍋に支度を急ぐよう告げ、一旦下がって行った。

「……なんというか、信長だわね」

 変わっていない。於巳など、呆れを通り越して笑っているではないか。

 いつまでもその顔から笑みが消えず、そのまま支度を手伝ってくれる。髪を梳いてくれている間に化粧をしようと、鏡を覗くと、にやけた於巳の顔が背後にあった。

 支度を済ませ、表に行く。松寿は具合が悪いのかよくわからないが、連れて行くことにした。

 表には輿が用意されていた。松寿を抱いて、それに乗り込むと、すぐに出発となった。

 間もなく町中に出る。松寿がむずかって泣いたが、その声が全く聞こえない。

 日本のどこよりも早く、楽市令を布いた観音寺の城下は、大小様々な商人たちで絶えずごった返していた。その賑わいを日常に感じていた六角家配下のお鍋は、誰もが仰天する岐阜の賑わいには特別驚きもしないが、話しもできず、通じないほどのこの喧騒にはさすがに閉口する。

(赤子の癇癪をかき消すって、どれだけうるさいのよ!)

 人の多さ、その人々の活気を表している。六角家の商業政策よりも、信長の楽市楽座はより発展をもたらしているということだろう。

 金の流れ、豊さを象徴するように、信長の築いた館は豪勢さを極めていたのだが、その威容さは輿の中からは見えない。

 お鍋が輿から下ろされた時、そこはすでに館の大御殿の前庭だった。

 いきなり見たこともないような煌びやかな御殿が、目の前に聳え立っていたのだ。

 お鍋は岐阜に来て初めて腰を抜かした。

「お鍋様、大事ございませぬか?」

 気がつくと、松寿を抱いて於巳が傍らに立っていた。

「あ、あ?あ?於巳、そなた、何でそんなに普通なのよ!」

 平然としている於巳に、ついそう言ってしまう。しかし、於巳は己の額の端を示して言った。

「平気なわけないではないですか、我を保てているのか心配です」

 額の端の髪の生え際から汗が流れていた。

「あら」

 くすくす笑ってしまった。それで少し落ち着いたか。それくらい威容さを誇る建物なのである。

「お待ちしておりましたぞ!」

 そうしているところへ、藤八郎が駆け寄って来た。柿の枝は持っていない。

「さ、こちらへ」

 巨大な御殿の中へ上がるよう促す。信長が客人を接見するための建物らしく、正門から近い、表側にある建物らしい。

「主がお待ちしております」

 藤八郎が自身、お鍋を案内していく。

 御殿の中も目も眩むような豪華さだ。それで、信長に会うことへの戸惑いも期待も、不安も心配もすっかり忘れた。そういう感情は、仰天した瞬間に体から吹っ飛んでいた。

 大広間までの距離がこれまたやたら長い。松寿を抱えて、背後の於巳は息があがっているのではあるまいか。ふと気になり、振り返ると、於巳は何を思っているのか、顔を青ざめさせ、額に汗をいくつも浮かせていた。

「こちらでござる!」

 その時。どうやら接見の間についていたらしい。

 藤八郎の後に続いて入室する。金銀だらけで目がおかしくなりそうな広間だ。

 藤八郎の斜め後ろに座るべく、膝を折りかけた時である。どかどかと特徴のある足音が彼方から響いてきた。

 どんどんこちらに近づくそれは、遠い昔にも聞いた覚えのある音。

(信長!?早いっ!)

「お鍋様!」

 背後から於巳に注意され、慌ててやや雑に座り、両手をつく。その瞬間、ずらずらと数人中に入ってきた。

 お鍋の真向かいの上座に、人の座る気配がした。
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★☆★ 第10回歴史・時代小説大賞〈あの時代の名脇役賞〉受賞作 ★☆★ https://www.alphapolis.co.jp/prize/result/853000200  天保三年。  尾張藩江戸屋敷の奥女中を勤めていた辰は、身長五尺七寸の大女。  嫁入りが決まって奉公も明けていたが、女人禁足の山・富士の山頂に立つという夢のため、養父と衝突しつつもなお深川で一人暮らしを続けている。  許婚の万次郎の口利きで富士講の大先達・小谷三志と面会した辰は、小谷翁の手引きで遂に富士山への登拝を決行する。  しかし人目を避けるために選ばれたその日程は、閉山から一ヶ月が経った長月二十六日。人跡の絶えた富士山は、五合目から上が完全に真冬となっていた。  逆巻く暴風、身を切る寒気、そして高山病……数多の試練を乗り越え、無事に富士山頂へ辿りつくことができた辰であったが──。  江戸後期、史上初の富士山女性登頂者「高山たつ」の挑戦を描く冒険記。

土方歳三ら、西南戦争に参戦す

山家
歴史・時代
 榎本艦隊北上せず。  それによって、戊辰戦争の流れが変わり、五稜郭の戦いは起こらず、土方歳三は戊辰戦争の戦野を生き延びることになった。  生き延びた土方歳三は、北の大地に屯田兵として赴き、明治初期を生き抜く。  また、五稜郭の戦い等で散った他の多くの男達も、史実と違えた人生を送ることになった。  そして、台湾出兵に土方歳三は赴いた後、西南戦争が勃発する。  土方歳三は屯田兵として、そして幕府歩兵隊の末裔といえる海兵隊の一員として、西南戦争に赴く。  そして、北の大地で再生された誠の旗を掲げる土方歳三の周囲には、かつての新選組の仲間、永倉新八、斎藤一、島田魁らが集い、共に戦おうとしており、他にも男達が集っていた。 (「小説家になろう」に投稿している「新選組、西南戦争へ」の加筆修正版です) 

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