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乱声

五拍・恋の重荷(玖)

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 その深更、信時朝臣は己が陣中に戻ってきた。無事である。

「お喜び下さい。援軍がもうすぐそこまで来ております。南殿の時間稼ぎは成功しました」

 時光は喜々として、信時を出迎えた。

「そうか。よかった」

 ほっと安堵したような微笑を浮かべたが、何だか信時は元気がないようである。

「どうかなさいましたか?」

「いや、疲れただけだ」

「敵陣に乗り込んで行ったわけですものね、それはお疲れでしょう。それにしても、南殿は流石ですね。よく釈教が対面するとわかりましたね。素晴らしい洞察力です」

 それは、釈教が兄の時憲ではないかと思ったからだ。兄なら、信時が会いたいと言えば、会うだろうと思った。そして、信時には、朝廷に訴えたいことを述べるに違いない。信時はそう睨んだのだ。

 だが、信時はそうは言わず、ただ微笑み、

「時光。暫く都へ参る。ここはおことに任せる。援軍と協力して、敵と戦ってくれ」

と、命じた。

「は?それがしが?」

「頼んだぞ。朝廷と直に話をしなくてはならぬ。私が行かねば。すぐに戻ってくる故、それまで頼む」

 信時は夜が明けると、すぐに都へ向かった。

 時光は援軍と合流して、釈教軍にあたる。

 援軍は三河介、それとその弟の若狭介であった。追討軍は、三河介・若狭介兄弟軍と合わせて三万四千の大軍となった。

 都へ向かった信時朝臣は、逆賊・釈教の書状を朝廷に届けた。

 さっそく大相国の号令で公卿達が集まり、逆賊の書状が開封された。

 総大将則顕と釈教の連名で書かれたその要求。それは。

 畏れ多くも、帝の退位と太政大臣俊久公(大相国)の解官を求めるものだった。さらに、先年の四辻事件のことにも言及して、このような間違いを犯す帝は、帝に相応しからずと書いてあった。

「何をふざけたことを!」

 大相国は怒り、

「信時朝臣、これはどういうことか?こなた、直接逆賊めに会い、これを受け取ったと言うたな。いったい、こ奴は何がしたいのだ?」

と、尋ねた。

 信時は神妙に答えた。

「四辻殿の事件の調べ直しを求めているようにございます」

「何故?」

 信時は少し躊躇いつつ。

「大臣(大相国)への逆恨みにございましょう。先年来、大臣の荘園やご親族の出雲守が害されたのは、その逆恨みがための由」

「何故逆恨みされなければならぬ?」

「大臣が亡き烏丸の大臣のご子息なるが故です。逆賊は、かの四辻事件は誤りだと申しております。烏丸の大臣は誤って処罰したと。それ故に恨んでいるのです」

「馬鹿馬鹿しい!」

 その時、隣に座っていた六条左大臣殿が口を開いた。

「逆賊はかの四辻の大臣に縁の人なのかな、信時朝臣?ときのりという名には聞き覚えがあるが、もしや?」

「お察しの通りです。捕らえられたのに逃亡した判官時憲です」

「やはりそうか」

 左大臣殿は納得したが、大相国が頷けるわけもない。帝も同様だった。

「盗賊如きが朕の政に異を唱えるとは、無礼なり!」

と、地団太踏んで歯軋りした。帝の凶暴性が、近頃再び増してきている。

 当然、賊徒の要求など受け入れられなかった。

 帝の退位も大相国の解官もない。まして、四辻事件の再調査など、あるわけがなかった。

 信時はすぐに近江に帰された。

 信時の留守中、追討軍は賊軍と戦って、それなりの成果を上げていた。

 釈教いや時憲は、このままでは負けると、何やら策を練り始める。

 そこに信時が到着した。




 信時朝臣が再び異母兄・時憲と戦い始めた頃、上野の貴姫君は寝込んでいた。

 体が弱い彼女は、ちょっとしたことですぐ疲れて、体調を崩す。熱が出ることもしばしばだった。

 今回も風邪か、さほどひどいわけでもないが、熱を出していた。

 枕元には常に、信時から貰った二つの玉が置いてある。

 朝方は熱が下がりやすく、楽である。夕方になるとまた上がってくるのだが。

 今朝も殆ど平熱に近かった。

 よく晴れて気持ちのよい朝だ。だが、辰の刻過ぎから風が出てきて、巳の刻には随分強くなった。

 貴姫君は気分がよかったので、病床に起き上がって座ったまま、庭を眺めていた。皆を遠ざけ、ゆっくりと。

 思うは、遠き近江の戦場で命をすり減らしている信時のこと。海の青と同じ色をしたあの空は、近江の空まで繋がっている。

 貴姫君は枕元の玉を手に取って、そのままきゅっと胸に抱きしめた。空を見つめて。

 どうか、無事で━━そう祈りながら。

 それにしても、風は強い。そろそろ戸を閉めた方がよいのではあるまいか。

 時折、ぴゅうと渦を巻いた突風が、庭の土を巻き上げながら通り過ぎて行く。と、急に部屋の中まで強風が入り込んできた。

「あっ!」

と、貴姫君は思わず目を瞑り、体を縮めて手をぎゅっと握りしめた。

 同時に玲瓏と手の内で鳴って、石が割れるような感触があった。

 風は一瞬通り過ぎただけ。すぐに何事もなかったように、もとの静けさに戻る。

 姫はそっと目を開け、体を開いた。そして、違和感のある右の手のひらを開いてみる。

「あっ?」

 玉が、一つだけ半分から割れていた。

 まさか。水晶が。こんな堅いものが割れるものか。

「信時の君!」

 すぐに姫は不吉な予感に襲われた。

 この玉は信時の命。信時が姫に分けてくれた命。

 それが割れるとは!

 その暫く後。

 侍女がその部屋に行った時には、貴姫君の姿はなかった。慌てて皆で探したが、どこへ消えたか、姫は見つからない。

 この日より、貴姫君は行方不明となってしまったのだった。




 逆賊・時憲は、兵数をどうにか確保しようと画策していた。敵を離間させ、一方をこちらの味方に引き入れるのである。

 若狭介の侍大将に、武力は無双だが、尊大な男がいた。時憲はこれは使えると考えた。

 若狭介がこの侍大将を、

「大した能力もないのに、態度ばかり大きい。己を何と思っているやら。ただの匹夫とも知らず、扱い難いことよ」

と、周囲へ愚痴していたという噂を、追討軍の間に流した。

 さらに、次第にその噂に尾鰭まで付けた。つまり、この侍大将はいつか若狭介を裏切るかもしれない。少なくとも、若狭介はそう思っている。

「だから、裏切られる前に、殺しちまおうと画策なさっているのよ」

と、いうのである。

 巧い調略であった。侍大将は見事、時憲の術中に嵌った。

「我に従う者は多い。我を信頼し、ついて来る者は三千も四千もいよう。時を見て、それ等を引き連れ、寝返り致す」

 侍大将は時憲へそう言ってきた。時憲は大いに喜び、さらに一案を授けた。

「なるほど、承知。その通りにやらせて頂こう」

 侍大将は約束した。
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