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乱声

五拍・恋の重荷(壱)

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 深草の姫君が六条左大臣殿の邸に来てからというもの、一家はすっかり明るさを取り戻していた。まるで清花の姫君が生きていた頃のような。右大将殿にも時々、昔の陽気な人柄が垣間見えることがある。

 この姫君は希望。

 それは、敏平にとっても同じことであった。

 姫君が来てからというもの、彼の琴道は再び輝き始めた。それは、東の御方にも嬉しいことだった。明星の訃報に再度絶望した敏平が、ようやく本来の才能を発揮し始めたのだ。弟子にとっても誇らしい限りである。

 敏平の評判も近頃高まりつつあり、それをやっととの思いで、東の御方は喜んでいた。

 さて、やはり左大臣殿は敏平に、姫君に琴を教えるよう命じた。そして、それには案の定、右大将殿が反対した。

 敏平としては教えたい。だが、右大将殿の心配は尤もだ。敏平も肝に銘じている。深草の姫君を亡き師の姫君と重ねてはならないと。それでも、やはり二人の縁を感じてしまう。やはり、姫君は亡き師なのではないか。亡き師の魂も才能も、身に秘めているのではないか。

 そんな愚かな期待と、右大将殿の忠告の間で出した彼の苦肉の策。

 それは、東の御方に姫君の指導を委任することであった。

「なんだと?」

 左大臣殿も右大将殿も、どちらもそう問い返した。ただ、二人の「なんだと?」は、正反対の感情から出ているものなのであるが。

 敏平は澄まして答えた。

「琴はそれこそ手取り足取り。入門したての頃は、特にそうです。師は弟子の指に実際に触れ、正しき手の形、正しき按所に直してやらなくてはなりませぬ。弟子の手に触れずに指導するは、難しきこと。何れにせよ、御簾越しや几帳越しというわけには参りませぬ。男の身の私が、大臣の姫君のおましにずかずかと入り、御手をとってご指導申し上げるは、宜しくありませんでしょう。手が掛からなくなるまで、初心のうちは女人がご指導するが宜しいかと。東の御方は高貴の女人。和琴血脉にも御名刻まれし楽才です。琴もかなり上達なさいました。才能は間違いない方です。初心の姫君を指導するに、何の障りもありませぬ。十分な指導をして下さるでしょう」

「なるほど」

 左大臣殿は少々納得したようだった。

「下見は東の御方にお願いして、私は数ヶ月に一度程度、御簾越しに聴かせて頂いて、気付いたことをご助言申し上げます。それで如何でしょう?」

「それでもよい」

 左大臣殿は頷いた。

 だが、右大将殿はやはり不安そうである。

「だが」

と、そこで左大臣殿は念を押した。

「初心のうちはそれでよいが、上達して手がかからなくなったら、こなたが指導してくれるのであろうな?」

 敏平の指導を受けられる程度にまで、姫君は上達するだろうかと、右大将殿は思った。

「はい」

 敏平は返事した。

 こうして、東の御方が姫君の下見の師を務めることになった。

 嵯峨の若君、加えて家名卿の若君・しも八などの幼い弟子もあり、敏平の琴門も活気づいてきた。

 そこへさらにもう一人、入門者が現れた。これはかなりの才女である。

 大和守頼時(やまとのかみよりとき)の息女で、つい先日まで民部卿局(みんぶきょうのつぼね)とて、宮中に出仕していた女房である。内侍(ないし)の経験もあるのか、諱は宗子(むねこ)とかいうそうだ。

 民部卿局はまだうら若い人だが、非常にしっかりした琴を弾く。

 初心者ではない。既に二人の琴士に師事した経験があった。

 一人は南唐琴門の五琴仙・賀茂別雷神社の兼保であり、いま一人は信利(のぶとし)という数寄者だった。信利は敏平の父ということになっている大夫房雄と同門であった。彼等の師は大学寮の役人で、明法博士伊定の孫弟子である。

 つまり、民部卿局は呉楚派も南唐派も、どちらも学んでいたのだった。二人の師に相次いで死なれたため、新たな師を求めて、敏平の所へやって来たのである。

 民部卿局はどうしてこんなに琴に熱心なのか。それは、彼女の血統にあった。

 彼女は頼時が大和守として下向した折、その国庁の官人の娘との間にできた子であった。民部卿局の母は、娘の非凡を喜び、この才能を田舎に埋もれさせてはならないと思っていた。それで、早くから娘を都に上らせようとしていたのだった。しかし、頼時には都に北ノ方もいるし、そこへ妾腹の娘が入っても、疎まれるだけである。

 そこで、頼時の父・民部卿公頼(きんより)が、孫娘を引き取って養女にしたのだった。

 公頼の妹は基実(もとざね)朝臣の北ノ方であるのだが、基実朝臣は南唐琴門の五琴仙・蔭元朝臣とは同母兄弟であった。基実・蔭元兄弟の母方の従兄弟は大学助を務めた経験もあり、呉楚派の琴人でもあった。

 周囲には琴に親しむ者が多くいた。そのような環境で民部卿局は育ったのである。蔭元朝臣は早く死んでしまったから、その刎頸の友たる兼保に師事したが、彼女は幼い頃から兼保と親交があったのだ。さらに、大学寮で流行っていた呉楚派も容易に学べる環境にあったのである。

 だが、民部卿局が琴の灌頂を志す理由は、それだけではなかった。

 彼女の養母、つまり、実の祖母、実父の母なる人は、かの七絃七賢・帥殿大納言の姪であったのだ。かの帝の護持僧・顕明長者は、その弟である。

 帥殿の血筋故に、民部卿局にもその才能が受け継がれていた。それで、実母も養父母も期待して、民部卿局自身も天下第一の琴人にならばやと、日々精進しているのである。

 民部卿局には輝けるものがあった。また、よく弾きこなす。それを鼻にかける様子もない。ただ、自分はかなり弾けるという自負はあった。

 顕明の姉の養女、顕明の甥の子が!

 敏平にそういう蟠りがないこともない。いや、どこかにあったことは事実だ。

 だが、それよりも寧ろ、まだ未熟、これからだと思うからこそ、灌頂などとんでもないと思うのである。

 民部卿局にとっては、敏平はとても陰険な師だった。

「もっと丁寧にさらいなさい」

 胃の腑を抉らるるような、実に嫌な感じを民部卿局は受けているに違いない。

 だが、敏平はねちねちとした口調で文句ばかり言った。はっきり言って嫌いだ。嫌な演奏なのだ。耐え難い音。

「綺麗に弾いて。音をよく聴いて。自分の出している音に責任を持って。あなたが演奏しているのを、私が代わりに聴いて均衡に粒を揃えて、綺麗にしてあげられるわけではないのですから。あなたが聴くより他ないのですよ。よく耳を使って、丁寧に。そんなふうに雑に弾いたら、曲を作った人に失礼です」

 いったい、家でどんな練習の仕方をしているのだろうか。雑なのだろうなと決めつける。

 民部卿局は毎日、朝から夜中まで琴に向かっているのだが、こんな叱られ方をすると、練習したのが全て無駄であるように思えてくる。あれだけ練習したのに、あの練習はいったい何だったのだろう。これなら、全く練習せず、さぼっていたのと変わらない。

「雑なさらい方ばかりしているのでしょう」

 敏平の小言は続く。

 民部卿局は彼女なりに丁寧に練習しているつもりなのだが、

「甘い。もっと丁寧に丁寧にさらい込まなければ駄目。全然雑、汚い」

と、敏平は取りつく島もない言い様。

「自分は弾ける、才能あると思って、怠けているのだと思われても、仕方ありませんよ。そんなんじゃ」

「……」

「あなたのような人は初めてですよ。右大将殿の若君のような幼い人だって、もっと綺麗に弾きますよ。しも八の君でもできることが、あなたは全く身についていないなんて。もう信じられない。どうやったらそんなふうに弾けるんです?」

「……」

「凸凹。最悪ですよ、今日持ってきた曲」

「……はい」

「いちいち一音ずつ、私が全部注意してあげなきゃならないんですか。もう自分で聴いて、自分で耳使ってやって下さい。はい、今日はもう終わり」

「……はい……有難うございました」

 五つ六つの人でさえできることが、自分にだけできない。前代未聞の弟子。このように言われ続けて、民部卿局は、師に最低の人間だと思われているに違いないと思い込んでいた。

 琴の演奏が雑で、練習も雑にしかできない。音は濁って汚く、粒は不揃い。

 そんな演奏しかできない自分を、師は私生活もだらしないと思っているのではないか。部屋は散らかっていても平気。髪が乱れていても気にしない。そんなふうに。

 琴も雑だから、日常生活も雑だと師に思われているだろうと、民部卿局は被害妄想した。

 だから、彼女は意識して生活するようになっていた。もともと神経質な上に、注意して生活していたから、病的なまでに潔癖である。和歌の料紙も、寸分違わず積み重ねなければ気が済まぬし、塵屑の紙も、角をきちんと合わせて綺麗に折り畳んでから捨てる。

 神経質な彼女なのに、雑と言われるのは心外の極みだった。

 口惜しい口惜しい。民部卿局は常に口惜しい思いに耐えていた。それでも、師に褒められるような演奏を目指して、日々ひたすら励んでいたのである。

 敏平がこんなに嫌な態度で教えるのは、民部卿局だけであった。何故だか、彼女の稽古の時だけは無性に腹が立つ。あまりに過ぎて、悲しくなってくることさえある。

 深草の姫君になんて、かわいそうで絶対こんなふうにはできないが。
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