上 下
25 / 109
正声

八拍・新院の六の宮(下)

しおりを挟む
 四辻内府の御娘・寛子女御は新院の御子を身ごもっていた。

 この女御が寵愛を受けるようになったきっかけ。それは。

 新院は父帝の皇后宮の御子として育ったが、実は生母は小宰相局という人であった。小宰相局は新院を産んで間もなく亡くなったので、院は皇后宮に養われることになった。

 ところで、生母・小宰相局は四辻内府の叔母であった。だから、昔から院は、四辻殿とは親密だった。

 そういう関係から、四辻殿は娘の寛子を在位時代の新院に参らせ、侍かせた。そして寛子は新院の最愛の女性となり、院退位後、彼女に女御宣下があったのであった。

 その寛子女御から生まれるのが男皇子ならば、世に異変が起こるに違いない。

 世の中は烏丸左大臣に牛耳られているが、彼に疎まれ、累進の望みのない人々の多くが、院司となっていた。

 今上は烏丸左大臣の姉の御腹。東宮は今上の一の宮だが、その御母は烏丸左大臣の娘の明子(あきらけいこ)皇后。

 今上は次の御位には当然東宮を就けるつもりでいる。

 だが、ここで、父院の寵姫が出産することになったのだ。

 今上としては、父院を信じたい。だが、最愛の女が産んだ子供が、他のどの子よりも愛おしいのではなかろうか。

「院司どもに唆されて、産まれてくる宮を、次の帝に据えると仰せられたら……」

 今上は女御の御子が女宮であることを、祈り続けている。

「朕も人の子の親。母后の敵である女御の産む弟宮を、憎むまではないにしても、我が子の東宮より大事に思うことはできないであろう。やはり、朕にとっての宝は東宮なのだ」

 何としても東宮を御位にと望んでいる。

 東宮が即位するのは、当たり前のことだ。東宮がありながら、それを廃し、別の皇子を御位につけさせるということは、あり得ない。

 だが、今、政権を担っている治天の君は新院なのであって、帝ではない。変な話だが、帝には力がなかった。

 日頃から、自分がただの飾りであるように感じている。

 さらに、皇后の父の烏丸左大臣にも逆らえないのだ。完全に操られている。それが何とも不甲斐ない気持ちだ。

 寛子女御は四辻殿の娘だが、この四辻殿は烏丸左大臣の政敵。

 四辻殿自身は穏やかな人だが、異母兄の風香殿がよくない。

 風香殿は完全に烏丸左大臣を嫌い、憎み、左大臣の方でも、「いつか必ず滅ぼさむ」と思っていたのだ。

 悪いことに、風香殿は新院の別当。左大臣に対立する院司達のまとめ役である。

 この風香殿率いる不満分子どもが、寛子女御の御子を東宮にしようと動くことは必然だ。新院も最愛の女性の産んだ最愛の宮のことならば、逆賊どもの奸計にのせられてしまうかもしれない。今の東宮を廃位しようとするかもしれない。

 今上は親心としても、東宮の地位を守りたかった。そして、君主として、世の中が乱れることを憂え、やはり女御は姫宮を産むべきだと願った。

……のであったが。

 夏の終わり。

 四辻内大臣の邸に里下がりして女御寛子が産んだのは、やはり男皇子であった。六の宮である。

 新院の六の宮はとても健やかなよい皇子で、数多の人々の異常な歓喜の中、この世に迎えられた。

 盛大な産養(うぶやしない)が行われた。

 三日の夜は祖父となった四辻内大臣殿、五日の夜は風香殿と中納言殿(内大臣殿の嫡子)、七日の夜は御父・新院、九日の夜は本院とその后宮(きさいのみや・太皇太后宮)とが御産養をした。新院の殿上人は残らず参集して、恐ろしく熱気に満ちた祝宴となった。

 今上も弟宮を祝いはしたが、み心に曇りがなかったわけではない。院司達の熱烈さは、やはり今上を不安にさせる。

「……孫は可愛いものだ。だが、子への思いは特別。子と孫とは比べようがない。自分の命そのものだ、子は。院が、東宮よりも六の宮を大事に思われるのは、当然のことではあるまいか」

 九日目の御産養の日にも宮中に参内していた烏丸左大臣殿へ、今上はそう言った。

 それに対して、左大臣殿、

「院の庁の人々が、あらぬことを企まぬか、案じられてなりませぬ。あの異様な熱狂ぶり。東宮を廃し奉るよう、院へ進言するかもしれませぬ。院もその奸計にのせられないとも限りませぬ」

 慰めるどころか、烏丸左大臣殿はこのように奏上したのだった。

 実は腹の中でほくそ笑んでいることを、今上は気づいていない。




 法真阿闍梨は縦目なりとて、その異形を恐れられていた。

 だが、それよりも。その験力の凄まじさは、帝をさえ震え上がらせる程であった。

 味方に引き入れれば恐るるものは何もないが、敵に回せば、命さえ奪われる。そう信じられている。

 四辻内大臣はこれを懐内深くに抱き入れていた。それが、帝に疑念を抱かせる要因となっていた。

 今回の女御のお産に、法真阿闍梨も日夜護摩を焚き、安産祈願の御法を施していた。

 帝の護持僧(ごじそう)顕明(けんみょう)は、法真に日々、対抗心を燃やしていたから、讒言は日常的なことであった。烏丸左大臣殿が去った後の夜中。顕明は奏上する。

「かの縦目阿闍梨は、荼枳尼天の秘法を自在に操る人身を逸した超人です。四辻内府、かの怪僧の妖術にすっかり騙され、正を正、邪を邪と見定める正しい眼を失われました。かの者の妖力は、人一人の命を奪うは容易い、大乱を招き、ついには国を滅亡させることでしょう。腹の子を女から男に変えさせる呪法など、指一本でやってのけるでしょう」

「何が言いたいのか」

 今上、目を眇めて顕明に問う。

 顕明がせいせいと答えるには。

「四辻内府は彼奴に誑かされて、もはや昔の四辻殿ではございませぬ。風香殿もしかり。拙僧、以前、秘法を行いて女御の御腹の御子を見るに、それ、姫宮であらせられました」

「なに、では女御の産みし御子は誠は女であると?それを男と偽っておるというのか、内府は?」

「いえ、お生まれになったは確かに男皇子。紛れもなく、主上の弟宮でございます。これ、すなわち、法真に誑かされて、あらぬ考え抱くようになりし四辻殿が、法真に命じて、女御の御腹中の御子を男皇子に変える呪法を行うたに他なりませぬ。四辻殿、院近臣の方々には、女御の御子は必ず男宮でなければならなかったのでございます。これで縦目の壮大なる野望と、四辻殿の叛心とが、お解りになったやに存じまするが」

「……おことは何故、左府と同じことを言いやるか」

 帝、怖じ気付いたように小さな声で言った。

 それに対し、顕明は胸を反らし気味。声も朗々と。

「事実にございますれば」

「では、縦目は内府を傀儡に、何がしたい?」

「何になりたいかと、お尋ねになるべきでしょう」

「では、何になりたいのか」

「蚕叢(さんそう)は縦目なりと申します。又、燭龍(しょくりゅう)も縦目なりと申します。燭龍が目を開けば昼となり、目を閉じれば夜となるとか。蚕叢は古代蜀国の君主。燭龍は昼と夜、季節を司る神にございます」

「帝王にして、神なる存在……それが法真がならんとするものか」

「そもそも縦目とは、瞳の飛び出でたるを申すもの。蚕叢、燭龍はどちらも瞳が飛び出でたる異形だったのです。しかし、法真のは眼球そのものが飛び出でたるによって、法真のそれは縦目と申すべきにあらず。それを法真、その異形に恐れる者に、自ら己の異形を縦目というなりと触れて回り、ついには縦目阿闍梨の異名を得るまでになりました。縦目は聖帝のみが持つもの。それが己にもあると触れ回るは、法真が聖帝にならんと目論む証拠。尤も、奴がそれにならんと君臨しても、奴は悪鬼羅刹にしかなれますまいが。とにかく、奴はそのために荼枳尼秘法を日夜行って、あやかし、鬼の類、怨霊、妖魔、それら全てを引き込んで、己が眷属にしております」

「げに……」

 今上、先の烏丸左府の言葉と合わせて、この顕明の言葉に、法真と四辻内府への疑惑を深くしたのであった。




 ところで、今上は予ねてから絶世の美女と名高く、七絃七賢でもある清花の姫君━━六条大納言殿の当腹(とうぶく)の姫君の入内(じゅだい)を望んでいた。だから、姫君は后がねとして育てられた。

 姫君は既に十七歳。

 入内の話は数年前からちらほら聞こえていたが、烏丸左大臣の眼を気にして、大納言殿は様子を見ていた。だから、姫君の入内は未だ実現していない。

 最近、今上が入内のことをしばしば打診するようになったのを、うまく誤魔化していた。

 左大臣は割と大納言殿に対して好意的である。だが、今は時期が悪い。

 新院の女御が六の宮を産んで、東宮の外祖父である左大臣はぴりぴりしている。御娘の皇后の敵となるべき新たな妃を、何で左大臣が快く思うだろうか。

 何しろ、みくしげ殿の腹の二の宮を、早くから寺に入れてしまった程の左大臣だ。新たに清花の姫君が女御后になって、男皇子でも産んだら、父の大納言殿は左大臣の最大の敵になる。

 実は、大納言殿は微妙な立場なのであった。

 大納言殿の亡兄・成経(なりつね)には娘があった。その娘の嬉子(よしこ)は今上の寵姫で、しかも三の宮の御母であったのだ。

 嬉子を入内させたのは成経だが、嬉子が出産した頃には、亡くなっていた。だから、現在、嬉子の後見は叔父である大納言殿である。

 嬉子は大納言殿の六条西洞院邸で三の宮を出産したのだが、それきり宮中には戻らず、今も幼き宮と二人、大納言邸で生活している。彼女もまた烏丸左大臣と皇后を恐れていた。

 それにしても。

 烏丸左大臣は、大納言殿を余り頭のよい男だとは思っていないらしい。

 大納言殿は左大臣に対して、二心ない態度だ。尚且つ、三の宮の出世を望むような動きもなく、ただひっそりと養育している。

 左大臣は大納言殿の行動をその通りに受け取っていた。

 大納言殿は、言ったものである。

「東宮が帝となるのが当たり前。兄が死んだので、三の宮をお世話しているまでのこと。東宮以外の人が御位に立つ、そのような筋の通らぬ話があってよいわけがありません。私は筋の通らぬことは大嫌いです。それが喩い、自分の損になることであっても。それでも筋は曲げたくありませぬ」

 愚直な大納言殿のこの言葉には、左大臣も、

「御身がとても真面目でおらるることは、誰より麿が知っている。曲がったことが大嫌いな御身の人となりを知っているからこそ、麿は御身を信頼しているのです。御身を疑ったことは一度もない」

と、熱く答える。

 仲間に引き入れたいとでも思っているのか。あるいは、内心馬鹿だと見下しているのかもしれない。

「よく、融通がきかない、頭が堅いと言われますよ。我ながら困った性格だ」

 大納言殿はこう言って笑うが、左大臣も、

「御身のような真実のある人は貴重だ」

と答えて、全く油断していた。

 だから、絶世の美女と評判の姫君の入内の話も、はっきりとではないが、それとなく辞退したらしいと聞くと、左大臣は安心した。嬉子と三の宮のことは、見ぬふりを続けている。

 三の宮に未だ二の宮のような運命が訪れぬことは、嬉子にとっても幸いなことであった。

 さすがに烏丸左大臣とて、六条大納言棟成卿のような名門の公卿を敵にしたら、面倒なことくらい理解している。味方は一人でも多い方がよい。敵は四辻殿の一派だけで十分である。四辻殿一派に大いなる野望がある今、烏丸左大臣といえども、これ以上敵は増やせないのであった。

 こうした事情の中で、最も胸撫でおろしていたのは、清花の姫君本人だったのではあるまいか。

 姫君には秘めたる思いがある。ひそやかな、されど強い思い。

 もうずっとひたすら思い続けてきた、秘めたる恋。

 相手はあの三位殿。

 七絃七賢の一人。琵琶も灌頂を授けられた程の名手。

 だが、新院別当・風香殿の嫡男であり、四辻内大臣の甥でもあった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

お鍋の方【11月末まで公開】

国香
歴史・時代
織田信長の妻・濃姫が恋敵? 茜さす紫野ゆき標野ゆき 野守は見ずや君が袖振る 紫草の匂へる妹を憎くあらば 人妻ゆゑにわれ恋ひめやも 出会いは永禄2(1559)年初春。 古歌で知られる蒲生野の。 桜の川のほとり、桜の城。 そこに、一人の少女が住んでいた。 ──小倉鍋── 少女のお鍋が出会ったのは、上洛する織田信長。 ───────────── 織田信長の側室・お鍋の方の物語。 ヒロインの出自等、諸説あり、考えれば考えるほど、調べれば調べるほど謎なので、作者の妄想で書いて行きます。 通説とは違っていますので、あらかじめご了承頂きたく、お願い申し上げます。

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

谷中の用心棒 萩尾大楽

筑前助広
歴史・時代
旧題:それは、欲望という名の海 ☆第6回歴史時代小説大賞 特別賞受賞☆ 玄界灘。 この黒い潮流は、多くの夢や欲望を呑み込んできた。 人の命でさえも――。 九州は筑前の斯摩藩を出奔し江戸谷中で用心棒を務める萩尾大楽は、家督を譲った弟・主計が藩の機密を盗み出して脱藩したと知らされる。大楽は脱藩の裏に政争の臭いを嗅ぎつけるのだが――。 賄賂、恐喝、強奪、監禁、暴力、拷問、裏切り、殺人――。 開国の足音が聞こえつつある田沼時代の玄界灘を舞台に、禁じられた利を巡って繰り広げられる死闘を描く、アーバンでクールな時代小説! 美しくも糞ったれた、江戸の犯罪世界をご堪能あれ!

三賢人の日本史

高鉢 健太
歴史・時代
とある世界線の日本の歴史。 その日本は首都は京都、政庁は江戸。幕末を迎えた日本は幕府が勝利し、中央集権化に成功する。薩摩?長州?負け組ですね。 なぜそうなったのだろうか。 ※小説家になろうで掲載した作品です。

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

GAME CHANGER 日本帝国1945からの逆襲

俊也
歴史・時代
時は1945年3月、敗色濃厚の日本軍。 今まさに沖縄に侵攻せんとする圧倒的戦力のアメリカ陸海軍を前に、日本の指導者達は若者達による航空機の自爆攻撃…特攻 で事態を打開しようとしていた。 「バカかお前ら、本当に戦争に勝つ気があるのか!?」 その男はただの学徒兵にも関わらず、平然とそう言い放ち特攻出撃を拒否した。 当初は困惑し怒り狂う日本海軍上層部であったが…!? 姉妹作「新訳 零戦戦記」共々宜しくお願い致します。 共に 第8回歴史時代小説参加しました!

【受賞作】狼の贄~念真流寂滅抄~

筑前助広
歴史・時代
「人を斬らねば、私は生きられぬのか……」  江戸の泰平も豊熟の極みに達し、組織からも人の心からも腐敗臭を放ちだした頃。  魔剣・念真流の次期宗家である平山清記は、夜須藩を守る刺客として、鬱々とした日々を過ごしていた。  念真流の奥義〔落鳳〕を武器に、無明の闇を遍歴する清記であったが、門閥・奥寺家の剣術指南役を命じられた事によって、執政・犬山梅岳と中老・奥寺大和との政争に容赦なく巻き込まれていく。  己の心のままに、狼として生きるか?  権力に媚びる、走狗として生きるか?  悲しき剣の宿命という、筑前筑後オリジンと呼べる主旨を真正面から描いたハードボイルド時代小説にして、アルファポリス第一回歴史時代小説大賞特別賞「狼の裔」に繋がる、念真流サーガのエピソード1。 ――受け継がれるのは、愛か憎しみか―― ※この作品は「天暗の星」を底本に、9万文字を25万文字へと一から作り直した作品です。現行の「狼の裔」とは設定が違う箇所がありますので注意。

【受賞作】小売り酒屋鬼八 人情お品書き帖

筑前助広
歴史・時代
幸せとちょっぴりの切なさを感じるお品書き帖です―― 野州夜須藩の城下・蔵前町に、昼は小売り酒屋、夜は居酒屋を営む鬼八という店がある。父娘二人で切り盛りするその店に、六蔵という料理人が現れ――。 アルファポリス歴史時代小説大賞特別賞「狼の裔」、同最終候補「天暗の星」ともリンクする、「夜須藩もの」人情ストーリー。

処理中です...