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大地震
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「デウスを信じれば、永遠に生きられますよ」
その後も、相変わらず忠三郎は冬姫に受洗を促しはしないが、代わりにそう言ってくる家臣が幾人かいた。家臣の中にもキリシタンが増えている。
しかし、冬姫には家臣達の口振りが邪道に思われた。
「死にたくないから、永遠に生きたいからという理由で信仰を持つなぞ。信仰こそが最も大事なことだと申しますが、私はそれよりも生き方の方を、博愛をこそ大事にしたいと存じます」
地獄へ行くなら、それでもよい。死後の心配より、今の生き方の方が余程彼女には重要だった。
見ず知らずの人間であっても、己のように愛し、許し合って生きる。信仰を持たなくとも、そのように生きることはできる。死を恐れて受洗するより、その方がいい。
冬姫はキリスト教の説く愛に、以前から深く感銘を受けていたのだから。愛して生きたい、そう思っていた。
デウスを信じなければ地獄に落ちるなどと、脅迫じみた言葉で受洗を迫る者など、信用ならないと思っている。実はそういう薄っぺら──と冬姫は感じている──なキリシタンのいかに多いことか。
そういう者が伊勢国に増えることが、いささか心配だ。
忠三郎の信仰がどういうものなのか、どういう理由から信仰を持つことになったのか、冬姫は知らない。
だが、部屋の隅で人知れず祈りを捧げている姿を、何度か目にした。きっと心から神を信じ、愛している。彼には確かに信仰がある。
だが、家臣の中には、ただ受洗しただけという者が随分多い。
最も大事なことは、神を愛することだという。信仰を持つこと。
しかし、永遠に生きたいからという理由で信仰を持つならば。隣人愛を心がけて生きる方が、そんな信仰よりも大事だ。
冬姫はキリシタンの家臣達にはいささか不信感すら抱いていた。そのためか、忠三郎の信仰心さえ、素直に応援できない。彼が受洗を促してはくれない寂しさも重なってのことであろう。
すでに十一月の末。
真冬だというのに、冬姫は外に出ている。月影はなく、暗い。伊勢は温暖とはいえ、寒いには違いない。
忠三郎は夜更かしが常だが、今日はもう寝所の中にいる。
冬姫は何だかそこへ行く気がしなくて、闇夜にぽつねんと佇んでいた。
キリシタンはデウス以外は神と認めないというのに、忠三郎は冬姫が子供の頃に贈った彫漆の厨子に入った阿弥陀仏を、まだ持っている。
あれはあげてしまったが、本当はとても大事なものだ。珍品だし、父が京土産だと言って、冬姫にくれたもの。父は亡く、形見になってしまった。
キリシタンにとっては憎むべき偶像かもしれない。しかし、冬姫には父の形見、大事な宝物なのだ。
忠三郎があれを焼き捨ててしまうこともあるのではないか。
時折、神に祈りを捧げる彼を見て、冬姫は不安も覚える。
人の気配がした。足音で忠三郎だとわかる。
「まだおやすみでなかったのですか?」
冬姫は振り返らずに言った。
「いやいつまでも来ないから、どうしたのかと思って」
忠三郎は心配そうな声でそう言った。
キリシタンになってから、彼はそれまで以上に冬姫にやさしくなった。これがかの教えの影響であるのは明らかだ。
「ご気分でも?」
背後からそっと冬姫の肩に手をやり、様子を窺いかけた、その時。
「あっ!」
地の底から轟音が届いたかと思うと、たちまち揺れ始めた。
「地震!」
「大きい!」
揺れは想像以上に大きく、激しさを増して行く。
「これはまずい!」
とっさに最悪を直感し、忠三郎はすばやく冬姫を抱えると、頭上を確かめつつ、
「今だ!」
と庭に走り出した。
庭に出てから、余計に強くなる。ずごごごごと相当大きな音がしている。
心拍数が上がり過ぎて、冬姫ははあはあと肩で息をついていたが、頭にあるのは子供たちのことだった。
城下の町からも悲鳴が聞こえる。城内も同様で、次々に老若男女、庭に転がり出てくる。
「あっ!屋根が!」
その時、屋根がぐにゃりと崩れ始めた。
夜目にもはっきり見えた。
冬姫は真っ正面から見た。城の屋根がむなしく崩れるのを。
「このままでは、ぐしゃりと潰れましょう!」
倒壊を思った。
「鶴千代!籍!」
青ざめて、忠三郎も叫ぶ。助けに行かなければ。
一方で、
「殿!殿おっ!!」
と、城内のあちこちで呼び叫ぶ声がする。
「鶴千代を助けねば!」
呼びかけにも応えず、裸足の忠三郎が駆け出しかけた時、ようやく揺れがおさまった。
途端に悲鳴が増す。揺れている時は、地鳴りにかき消されていたのか。逃げるのに必死か、恐怖で声も出なかったのか、揺れがおさまってからの方が泣き叫ぶ声は高い。
幸い子供たちは無事だった。忠三郎が行くまでもなく、乳母が抱いて出てきてくれた。
「鶴千代!籍!」
忠三郎も冬姫も駆け寄り、泣く我が子を抱きしめる。
「大丈夫、大丈夫よ……」
そう言っている間に、小さな余震が起きて、人々をますます恐怖に陥れる。
「この世の終わりか!?」
そんなことを口にする者も少なくない。
城も戸が飛び、壁崩れ、瓦が飛び散り、あちこち壊れてしまった。
「これは、城下の被害も大きいだろう……」
城内のぱっと目に付く所だけでも、これだけ壊れているのだ。城下はいかほどか。
「誰ぞ城内の見回りをせよ!壊れて危険な所を図面に記し、怪我人を庭に運べ!」
忠三郎は鶴千代を抱きながらも、すぐさまそのように指示を出し、自身は城下の見回りに出ようと、周囲の家臣たちに話していると、丹波亀山から帰っていた次兵衛が転がり出てきた。
「なりませぬ!疾く高き所へ移られませ!城下の民は皆、高き丘に我先にと逃げて行きまするぞ!かなり揺れました!海が迫り来るかもしれませぬ!」
次兵衛は尾張の海の近くの育ち。大地震の後には津波が来ることを、言い伝えで聞き知っている。
この伊勢も度々津波に襲われているから、津波のことは伝え聞いていて、民は続々高台に逃げていた。安濃津の津波による壊滅は、そう遠い昔ではなかった。
蒲生家は内陸の地・近江の日野にあったから、津波をよく知らない。家臣たちも、織田家から来た者には尾張出身者もいたが、城内にいた近衆は日野周辺の者が多い。
松ヶ島城はあまりに海に近すぎる。
次兵衛の指摘により、皆、避難することになった。
とはいえ、着の身着のまま。
忠三郎でさえ、寝間着一枚に裸足なのである。それでも忠三郎はまだよいとして、城主夫人の冬姫をそのままの姿にしておくわけにはいかない。瓦礫が散乱しており、忠三郎とて、履き物は必要だ。
夜遅いので、城内ではすでに寝ていた者もある。女衆は着替えたいと思う。
「なりませぬぞ!海嘯(津波)はすぐやってくるそうです、半刻もないうちに。身なりなぞ気にしている場合ではござらん!」
着替えを取りに中へ戻ろうとする者達に、次兵衛が大声で怒鳴った。しかし、言うことを聞く者ばかりではない。
中は障子も襖も倒れて、足の踏み場もないばかりか、家財家具が転倒し、割れ物の破片に溢れている。履き物なしでは危ない。次兵衛を無視して入った者達も、思うように進めない。
続々と松明が灯され、明るくなって行く。それを手に、中へ入ろうとする者もいた。
その時、今度はまた随分大きな余震が起きた。屋内は倒壊しそうな位、ゆさゆさ大きく揺れる。
「ならぬ!火を持って中に入ること、許さぬ!」
火事を危惧した忠三郎が指示を出すうちにも、また小さめの余震がある。さすがに女衆も恐れて、もう中に入りはしない。
いったいどれが予震(前震)か本震か余震かわからない。それほど大きな地震が頻発している。
十一月二十九日、亥の刻のことである。
松ヶ島城は海辺にあり、しかも標高が低いため、津波を恐れて、忠三郎達は高台への避難を開始した。度々の余震の中、子の刻には城内の老若男女、避難を完了していた。
「城下の屋敷におる者が登城せぬよう、真っ直ぐこちらへ来るよう、注意を促せ」
そう言って城下に見回りを出していたが、その見回りの衆以外は皆、一つ所に集まっている。
屋敷にいた家臣やその家族たちも、続々集まってきていた。
真冬の夜中は頗る寒い。領民達と混じって城の人々もいたが、焚き火せずには過ごせなかった。
しかし、丑の刻頃に、本震と思しき二刻前のものに匹敵する規模の余震が起きると、野外とはいえ焚き火などしていられない。
凍える中を、忠三郎は無数の人々と励まし合いながら堪える。だが、幼い鶴千代の体力を思うと、火の気の乏しい真冬の夜に放置してはおけない。
「近くの小屋に──」
と、目を凝らしてみたが、来た時にはあった小屋の姿がない。
烈しい余震で倒壊したのだ。
「かような状況で、建物の中にいるのは危険過ぎまする」
次兵衛は野宿が一番だと言い切った。
「されど、いくら何でも幼子らには寒過ぎるだろう」
たまたま足の悪い老女を輿に乗せて運んできていた。
「そうだ、あの輿に」
忠三郎は子らを輿に入れておこうとして、側に呼んだ。
さっきまで忠三郎や冬姫と焚き火にあたっていた鶴千代と籍姫。
籍姫は眠っていたところを地震で起こされ、不機嫌になっていたが、今は寒さと恐怖で元気がない。
鶴千代は最初はびっくりして泣いていた。そのうち、焚き火のぬくみでいつの間にか寝ていたが、今は余震の人々の絶叫で起きたらしい。起きたはいいが、無数の人間が群れているのが珍しく、それが楽しいのか、怖がる大人達の間ではしゃぎ、乳母の手を焼かせるほどだ。
「よくわかっておらんのだな」
忠三郎は鶴千代に安心した。
子供二人を両手に抱えると、寒いから輿の中にいろと言う。
鶴千代は元気に乳母に抱かれて連れて行かれたが、籍姫は首を強く振って傍らの冬姫にしがみついた。
「いやいや!」
母の胸元で泣く。
父母の姿が見えない輿の中では不安なのだろう。
冬姫は背中をさすった。
「寒いでしょう。輿は暖かいのよ」
「いや!」
「ほら、鶴千代君も一緒……」
「母上も一緒じゃなきゃ、いやあ!」
今にも大声で泣き出しそうなので、冬姫は困って忠三郎の顔を見た。
家臣達の家族は言うまでもないが、ここには領民も沢山集まっている。中には幼子もいるのだ。皆怖くて寒い中を堪えているのに、城主の娘の我が儘な姿など見せられない。
かといって、叱りつけるのも、どうも今の状況では気がひける。籍姫は普段は厳しく躾られ、領主の娘としての自覚が強く、聞き分けが良いのだ。それでも普段の矜持を忘れる現状。いや、大人だって恐怖で我を失っているのに。
「仕方がない。御身が一緒に輿の中へ入られては如何です?」
忠三郎はそう言った。だが、それは冬姫には気が進まない。
領民も家臣も皆辛い時、城主夫人だけ悠然と輿の中に入るというのは──。
勿論、誰も文句は言うまい。むしろ当然と思うだろう。しかし。
不意にまた大きな余震。近くにいる家臣達の集団の中の、幼い男子が声高に泣き出した。
籍姫よりは四つ五つ大きいように見える。
家臣になったばかりの若者・岡源八(左内)が、その子を叱りつけている。傍らの川副は逆に宥めていた。
そう、皆こわいのだ。籍姫がむずかったら、ここに集う全ての幼子の心が壊れてしまうだろう。
「結構。籍殿はこのままここにいなさい。武門の子が、たとえ女とはいえ、これくらいのことに堪えられなくて何とします」
冬姫はきっぱりそう言い切った。
忠三郎が驚いて反論する。
「私は御身の体こそ心配です。二人で輿の中にいてくれた方が安心だ」
「いいえ」
冬姫はなかなか頑固だ。籍姫もびくっとして、顔を上げて母の顔を盗み見た。
(母上が怒ってる……)
そう思って、籍姫は目にいっぱい涙をためながらも、怖さと寒さに堪え、冬姫の膝に朝まで座っていた。
遅い夜明け。ようやく周囲が明るくなって、眼下を見渡すと、愕然となった。
「汚い……」
率直に感じたことを言葉で表現すると、汚いだった。
昨夜は気付かなかったが、城は天守が倒壊しているようだ。だが、城も城下町もちゃんと残っていた。とはいえ、全壊した家屋は多く、町全体が壊れている。
津波は低いものだったようだが、海岸ばかりか町中にも瓦礫があふれている。城は海に引きずり込まれなかった。
目立った火事は見当たらないが、幾棟かは燃えた家もあるかもしれない。
「めちゃくちゃではないか……」
町の破壊された様に、忠三郎はしばし茫然とした。町は瓦礫にしか見えなかった。圧死した民は、津波に飲まれた民は、どれくらいいるのだろうか。
「これを片付けるのか?」
「しばし。海嘯がまだ来るかもしれませぬゆえ、もうしばらく、こちらにお留まり下さい」
続々と町へ戻る人々。忠三郎も家中の者達を城や城下に遣っていたが、次兵衛はまだ安心できないと言う。昼頃まで、そこに留まらせられた。
午後、忠三郎は家族と城に戻ったが、なお大きな地震があって、いつ倒壊するかわからない。子らは中に入れず、庭に居られる場所を設えて、そこに置いておいた。
そして、忠三郎は城内の片付けに、冬姫は炊き出しに追われた。
城下の整備に多数の兵を出したが、城もかなり損壊している。倒壊した建物さえあるのだ。女は城内の片付け、男は石垣の整備や瓦礫の除去をした。
家臣達は自分の屋敷そっちのけで奔走している。
冬姫も手が空くと、自然と庭の瓦礫の片付けてをしていたが、忠三郎が珍しく厳しく咎めるので、炊き出しだけをする。とはいえ、一度に二千人以上の食事を作り、さらに民のためにも作ったので、休む時間もなく、一日中炊事場は戦のような騒ぎだった。
このような時でも、大名の役目はある。
忠三郎は近江坂本にいる秀吉のもとへ使いを出した。とはいえ、途中で道はあちこち寸断されているだろうことが予想された。そのため、何組かに分け、別々の道を通って、それぞれ坂本を目指すよう指示した。
ところが、伊賀を越えた者達は、途中で秀吉は都にいるとの情報に接する。海路をとった者達は、秀吉は大坂まで逃げのびたとの情報を得て、無事、秀吉と対面することができた。
大坂城も相当揺れたが、倒壊することはなかった。ただ、秀吉は庭に金の屏風で囲いを作って、その中で数日過ごし、落ち着くまで中には入らなかった。
一方、伊勢を北上して坂本を目指していた者達は、北伊勢の惨状に腰を抜かし、特に長島の状況を伝えようと、一人を松ヶ島に帰していた。
この者が松ヶ島に戻るよりも先に、伊勢亀山から、親族で寄騎の関一政の使者が到着していた。
使者は途中までは馬で来たが、すぐに崖崩れで馬では通れなくなり、道でない所を掻き分け掻き分け、這々の体で出てきたのだという。
疲れ果てた使者は、忠三郎の安否確認に来たのではなかった。
「亀山は壊滅的です。城も倒壊しました。何卒、お助け下さいませ!」
援軍要請の一政の使者だったのだ。
「松ヶ島よりひどい所が沢山あるようだな!」
亀山の話に血相変えた忠三郎は、すぐにその場で食料などを大量にまとめさせ、三百人近い男女にそれを背負わせ、亀山に送り出した。
そうしている間に、長島の惨状を伝える者が帰ってきた。
長島城主は他でもない、信雄である。聞けば、亀山よりもさらに深刻だ。
呼ばれて、冬姫もその話を聞くことになった。
城は倒壊、焼失。民家も倒壊。さらに水没して、辺り一面、海・川と化した。城の北東の森嶋、符丁田、篠橋は水没してなくなり、また城の東の加路戸も千軒もの家があったが、水没して全てなくなり、人馬の屍で溢れている。
さらに、近くの桑名城も倒壊した。
「幸い、兄上様はご無事にございますが」
と、途中から気分を悪くした冬姫に、この者は信雄の無事を伝えたのだった。
「天守の倒壊で済んで、まだ松ヶ島は被害が少ない方だったのだ」
冬姫を休ませ、忠三郎は各地の被害状況を知ろうと、甲賀者を召し出した。
調べにより、次第に各地の被害状況が明らかになっていく。
十一月二十九日、亥の刻の地震は巨大なもので、伊勢や尾張、三河の辺り、つまり伊勢湾界隈に被害をもたらした。余震も数知れず。
さらに、二刻後の丑の刻にも巨大地震が起きた。地震は十二月に入っても収まる気配なく。一日、二日、三日それぞれにも大地震が発生。その後も二十日以上、連日発生した。
巨大地震なので、連動、誘発地震も起きたらしく、どうも複数の震源域がある。
実は被害が甚大だったのは、日本海側や、近江や飛騨などの内陸だった。
帰雲城は山体崩壊によって城ごと埋まり、周囲の集落も含めて全滅。佐々成政方として、秀吉方から攻撃を受けたが、ようやく和睦にこぎ着けた矢先、帰雲城主一族郎党うち揃って全滅した。そこにせき止め湖までできた。
大垣城は倒壊、焼失。
近江長浜城も倒壊、周辺は液状化した。長浜城主・山内一豊は幼い娘や家臣を失っている。
琵琶湖にも土砂が流れ、京にも被害があった。
若狭湾周辺には津波が襲来して、多数の人々が溺死し、津波は陸上にあるものを悉く粉々にして海に引き摺って行った。あとに残ったのはへどろばかり。
丹後、若狭、越前などは津波に襲われたが、これは二十九日亥の刻のものとは別の地震らしい。数日の間に、同時多発的に幾つかの震源域で発生した大地震のうちの、どれかだろう。
佐々成政から分捕ったばかりの越中の被害も大きく、前田家に多大な損害をもたらした。特に、木舟城の倒壊によって、利家の弟・利継を失ったのは大きい。
そして、この一連の地震は、太平洋側の広範囲にも津波をもたらした。伊勢湾が最も被害大きかったが、三河湾にも到達、さらに北へも至った。
北伊勢沿岸部、つまり、伊勢湾の最奥の被害が最も大きい。長島の辺り。木曽川、長良川、揖斐川の河口付近。幾つもの川筋により、島が点在する低地、輪中が築かれている所である。
長島は、もとは一向衆達が一揆を起こし、その特異な地形によって、大いに信長を苦しめた所だが、この地形が津波の影響を強く受けた。
低地である上、地震で地盤沈下し、さらに大規模な液状化が起きた。そこへ人の丈程の津波が来たのだ。この津波で消えてしまった島もある。
現在の長島城主は、つい最近秀吉と和睦したばかりの信雄。地震の被害は家康にも及んでいる。
両者の地震による打撃は大きい。
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生きるのに精一杯な日々から、次第に他地域の様子もわかってきて、領内も片付いてきた頃。
日常にはまだ戻れないが、一段落ついた頃というのは、余震にも慣れたものだ。ちょっとやそっとの揺れには怯えなくなった。そうなると、油断が生じる。
十二月中旬にもなると、つい高い台に物を置いたり、火の側から離れたりということが出てくる。
その日も、厨で大鍋に汁物を沢山作っていた。
ある女中が、一鍋できたので外に運ぼうとしたのだが、急用でその場を離れることになった。その時、うっかり火の側の台の上に、鍋を置いて行ってしまった。台には割れ物や汁物を置くなと冬姫は命じていたのだが、気のゆるみだろう。
大鍋の汁は火からあげたばかりで、煮えくり返っていた。
その時、運悪く大きな余震が起きた。
慌てて皆、火の元に寄る。かなり大きく揺れるので、消火しようと必死だ。
冬姫は火元から離れた場所にいたが、はっきり台の上の鍋を見ていた。鍋は大きく揺れ、煮えくり返る汁をぶちまけながら落下するに違いない。
鍋の真下には女中達が三人がかりで必死に火を消している。頭上に気づく余裕はない。
「危ない!」
叫びざま、駆け寄っていた。三人が大火傷を負うと思ったからだ。
冬姫は必死だったので、足元の注意を怠り、鍋に手をかけた瞬間、ぐにゃりと捻っていた。それでも彼女の手は、袖口の上から鍋を抑えていたようで。
鍋は三人とは反対側に汁を飛ばしながらも、どうにか落下はしないで台に留まった。おかげで火傷や怪我を負う者は出なかったが、冬姫はそのまま動けなくなった。
「まあ!どうなさいましたか?」
皆が駆け寄って来る。いつの間にか揺れは収まっていた。
「足が……」
みるみる色が変わってくる。左足首をしたたか捻ったのだ。捻挫か骨折か。
皆に介抱される。冬姫は情けなくなった。痛くて動けない。
「冷やしましょうね」
侍女が濡らした布を冬姫の足首に巻きつけた時だ、忠三郎本人が厨に駆け込んできたのは。
「落ち着いて聞かれよ」
忠三郎、まるで冬姫の姿が目に入っていないようである。彼女を凝視しているのに、足に気づかず、まくし立てた。
「今、丹波亀山から知らせが来て、去る十日、今月の十日、於次様が逝去されたと……」
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冬姫の弟で秀吉の養子の於次秀勝は、わずか十八歳でこの世を去った。
ここ数ヶ月、体調が悪く、生母や養母を心配させたが、神仏への祈祷の甲斐なく、ついに亡くなった。
地震はまだ活発な時。大坂の秀吉はようやく屋内で暮らせるようになった頃のことで、余震続く中を、於次のいる丹波亀山城へ向かった。
秀吉の子とはいえ、本当の親は信長なのである。
「亡き上様のお側で眠らせてあげたい……」
秀吉は於次を大徳寺総見院に埋葬することにした。ここは秀吉が信長のために建てたものだ。壮大な信長の葬儀もここで行ったのだ。その時の喪主は於次だった。
亀山城から於次を連れて、京へ。京も地震の被害を受けた場所もあったが、そこまで深刻ではない。
総見院に運ばれた於次に秀吉は泣いてすがった。養母である北政所は、生母の養観院と抱き合い、息子の早すぎる死を嘆く。
藤掛三蔵永勝の落胆は大きく、彼はうなだれたまま、一度も顔を上げなかった。
於次の死は、織田家の天下の可能性が潰えたことを意味していた。
信雄がもっと強ければ、秀吉から天下を取り返すこともできよう。しかし、最近、降伏したに等しい形で秀吉と和睦した彼に、そんな力はない。
あとは、三法師が成長した後に、秀吉が天下を譲ってくれること──秀吉の良心に委せるしかないのだ。
秀吉の親族や子飼いの武将の中には、内心於次の死を喜んだ者もいるだろう。しかし、秀吉の養子のことゆえ、表面上は悲痛な様を装い、次々に駆けつけた。
於次は毛利家の姫と婚約していたので、そちらからは心からのお悔やみが伝えられた。姫本人が上洛したいというほどだ。
忠三郎も領国が大変な時ではあったが、一段落ついたところでもあったし、あとのことは家臣達に任せて、冬姫と共に上洛した。
冬姫は足を負傷していたが、輿での移動だったから、特に問題はなかった。ただ、足を負傷すると気落ちして、腹の調子まで思うようにならなくなるのか、冬姫は負傷後、食欲がなく、輿には酔って、京に着いた時にはげっそり痩せていた。
「ご気分は?無理しないで下さい」
忠三郎は案じてそう言うが、冬姫は平気だと答えた。おそらくそういう答えが返ってくるとわかっていたのか、忠三郎も休養を強制しない。
吐き気がないなら構うまいと、忠三郎は冬姫を抱えて控えの間に入った。冬姫は痛む足をきちんと折って座る。そうしていると、何ら変わったところはなく見える。
外は雪景色だった。いつ降ったものだろう。昨夜だろうか。北に面した庭なので、一日中日は当たらず、一面、真っ白だった。
──無──
ふと、そんな言葉が脳裏をよぎった。
──死んだらその先はない。無よ。神の国も仏の国もありはしない。地獄も極楽も、しょせん閻浮の人間が作り出した想像の世界に過ぎぬ──
冬姫はふと信長の言葉を思い出した。
キリシタンの忠三郎は魂の不滅を信じている。父の言葉を間違っていると言うだろう。けれど、冬姫は違う。
雪景色は、死後を見るようだった。
あの白き無の中に、於次は消えてしまったのだと。
外は無。
廊の障子はこの世とあの世の境界線であるように思えた。雪が魔物に思えた。
何やら遠くで物音が聞こえた。雪はその音を消さずにここまで運んできたらしい。
冬姫と忠三郎は廊の方を見やる。ややあって、三人の人間が現れた。関白・秀吉。北政所。それに藤掛三蔵。
無からやってきた。冬姫はそう思った。
三人はあの世とこの世の境界線──障子の敷居を跨いで来る。
忠三郎と冬姫は恭しく両手をつかえ、平伏して三人を迎える。
秀吉は真向かいの上座に座るなり、泣き崩れた。その姿に、三蔵までもがもらい泣きのように泣き出す。北政所は神妙な面持ちで、秀吉の傍らに座った。目尻には乾いた涙の跡があった。
「なんと、姫さま、忠殿も。よう来て下さいましたのう……ううう……」
忠三郎が挨拶を述べる前に、秀吉は泣きながら声をかけてきた。今日は忠三郎を以前のように呼ぶ。
「はっ、この度はまことに、御愁傷様にございます……」
忠三郎もつい湿っぽい声になって述べ、そっと面を上げた。冬姫もならう。
「なんと!」
ばっと足を踏み出し、秀吉がいきなり冬姫の手を握った。まばたきもせず、その顔を見つめて──。
「痛々しや、何とお窶れに!姫さま、さぞお辛……」
ぎゅうと手を握りしめてくる。
六指は思いの外力強い。わさっと必ず仕留めることができるようで、冬姫は手を引っ込めることもできなかった。
忠三郎もついその手元を凝視してしまう。
秀吉は彼女のその滑らかな手の甲を一撫でして、涙ながらに言った。
「姫さまのお気持ちは、この秀吉が一番よくわかっておるのです。こんなに、こんなに悲しい!姫さまはわしの気持ちと一緒でしょう」
自分の悲しい気持ちから冬姫の心を推し量って、どんなに姫は悲しいだろうと秀吉は思うのだ。
さらに涙をこぼす。秀吉、北政所の視線にでも気付いたのか、あるいは忠三郎の心中を見抜いたか、そこで冬姫から手を離すと、懐紙を取り出し、涙を拭った。
(この涙は偽りでないようだ)
忠三郎はついそんなふうに分析していた。そういえば、秀吉は急に老けた。
「お疲れのご様子で」
「そう見えるか、忠殿?」
秀吉は、佐々討伐に越中へと進軍していた時は、ぎらぎらしていた。今は老人にさえ見える。
「少しお休みになった方が宜しいでしょう」
「そう言う忠殿もな。領内大変な時に、まことにすまぬ。連日外に出てよう働いていると聞く。忠殿も休養されよ」
そこで思い出したように、秀吉は北政所を振り返った。
「そうじゃ、おかか。湯山へ忠殿や姫さまもお連れしてはどうかの?」
北政所はようやく微笑んで頷いた。
「それはよいですね。於次殿の代わりに、実の姉上様にお使い頂きましょう」
その言葉を聞くと、秀吉は向き直り、忠三郎と冬姫を等分に眺めながら言った。
「忠殿はお疲れ、姫さまはご心痛。わしらと湯山へご同道下さいませぬか?実は有馬湯山の薬師堂をおかかが新しく建てたのだが、ようやく完成しましての。於次殿の病が治るようにと願掛けしていたのじゃが、於次殿は亡くなってしもうた……新築の薬師堂を見せに連れて行こうと、おかかと計画していたところだったのに。地震が落ち着いたら、湯治させようと二人で言っておった矢先に……」
於次を大切に思う者同士、一緒に行って、ともに於次を偲ぼうというのだ。
「それに、姫さまはおみ足を怪我しておいででしょう?怪我を治し、心の傷を癒やし、お体をゆっくり休めて下され」
(何故足のことを?)
忠三郎は秀吉の情報力に肝を冷やした。
冬姫も驚愕している。
関白から誘われて、断れるわけがない。とはいえ、京では雑用もある。すぐに行くことはできない。
忠三郎と冬姫は於次の霊前に合掌すると、一度下がったが、秀吉と北政所はすぐに有馬へ向かった。
冬姫はやはり、於次の前でも涙一つこぼさなかった。しかし、生前の可愛らしい顔が胸に去来して、何度も喉がきゅっとなった。
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忠三郎と冬姫は、母と妹(実は叔母とされている親族)を訪ねた。
母の桐の御方のことは松ヶ島に迎えようと、すっかり準備を整えていたのだ。あとは桐の御方を連れてくるばかりという状態だった。そこを地震が襲い、未だ迎えられずにいる。
妹は秀吉に人質に差し出したもので、彼女は桐の御方とは別な所にいた。
最初に妹を訪ね、その後、桐の御方を妙心寺に訪ねて行った。
そこで数日過ごす間、忠三郎は一日、日野へ向かった。何の用事か冬姫にはわからない。ただ、故郷も地震の被害に遭っただろう。様子を見たいのかもしれない。
忠三郎が日野に行っている間に、藤掛三蔵の招きで冬姫は百萬遍知恩寺に行った。
知恩寺は秀吉が深く帰依しており、三蔵に、於次の菩提寺を作りたいと相談しているという。
於次は総見院に埋葬されたが、考えてみれば、あそこは信長の菩提寺であり、於次個人の菩提を弔う寺はまだない。いずれ知恩寺の境内を土御門辺りに移動、拡張し、その内の塔頭として、創建することができればと、考えているのだ。
ただ、秀吉は於次の菩提寺を望んでいるが、最初はどこにとは決めていなかった。具体的にそれを百萬遍にと提案したのは三蔵で、つまり、三蔵の発案で於次の菩提寺は知恩寺に内定したのだという。
「お身内が建てられるのが望ましゅうございます。ご養父様もよろしいが、蒲生様のご内室様は実の姉君にあらせられますれば、あなた様がご創建になるのが望ましいことと存じます」
住持の岌興(宝蓮社善心)はそう言った。
秀吉が創建するつもりなのかもしれず、いずれにせよ、忠三郎の判断無しに冬姫一人では決められない。織田家として創建するならば、信雄の意見も訊くべきだ。
彼女は即答できないと返答したが、於次のために何かしてあげたいとは思った。
知恩寺の創始は法然上人と賀茂上人こと源智だが、源智は平大相国清盛の孫・平師盛の遺児である。
織田家の祖は越前の剱神社の神官の養子だが、実は近江の津田庄に隠れていた平資盛の遺児であると言われている。師盛は資盛の弟であるから、源智は資盛の甥なのである。
百萬遍の号は後醍醐天皇より賜ったとされる。織田家は後醍醐天皇や吉野朝(南朝)にも敬意を持っている。
知恩寺は織田家の冬姫や於次にとっては、何やら縁があるように、冬姫は感じた。ここならば、北畠氏でもあった信雄の支援も、得られるような気がした。
その頃、日野へ向かった忠三郎は、その被害の実態を確認することができた。
確かに損壊家屋が点在している。崖などは崩れているところもあるし、地割れしている場所もある。懐かしい中野城の石垣も転がっていた。
しかし、伊勢亀山や近江長浜ほどの被害ではなかった。
それに、すでにきれいに片付いている。さすがは日野の衆だと、忠三郎はその甲斐甲斐しさを喜んだ。
一軒の職人屋敷を訪ねる。
「やあ!」
作業中の主人に声をかけた。主人は手を止め、顔を上げると、慌てて出てきてぺこぺこ頭を下げる。
「すまぬ、仕事中に、邪魔をしてしまって」
「いえいえ、ようこそお越し下さいました」
戸口での会話。主人は忠三郎を中に案内しようとはしない。
戸口から、中の作業場の様子は一望できる。大量の漆があって、椀が幾つも並べてある。
親しくしている塗師の家だった。
「もう仕事ができているのだな?案じていたが」
「おかげさまで。それでも結構大変だったのでございますよ」
作業場はきれいに整えられている。しかし、地震の当初は物が散乱していた。
「とはいえ、すぐに再開できましたので。天に感謝しておりますわ」
塗師は当初の苦労もとうに忘れたように、明るく笑った。
「そうか。頼んでおいたものはどうだ?」
「はい。二つ三つ試してみましたが──少々お待ち下され」
塗師は一度作業場の奥に戻ると、五点ほどの椀を台に載せて持ってきた。
大ぶりなもの小ぶりなもの、朱色、漆黒。様々だ。
「ふむ、これはよいかもしれないな」
朱地に金粉を散りばめた物を指差した。
「どうぞ、御手にとってご覧下さい」
忠三郎は、しかし、漆黒の艶やかな無地の物を取り上げた。椀の中に彼の目が、きらりと光っている。
「何と美しいのだろう。私はこれが好みだ。だが──」
南蛮人にはわかるまい。地味としか思わないだろう。ローマ法王に贈るなら、金粉のだろうと思った。
「これをより工夫して、より大きな物で試してみてくれ」
忠三郎は再びローマへ使いを遣わすことを考えていた。
ローマ法王への献上品のうちに、日野椀をと考えている。ローマでは、磁器、茶碗は珍重されているだろう。一方で、漆器も喜ばれるはずだ。
忠三郎は全国から素晴らしい名産を集め、六右衛門に持たせていたが、次の使節には、進化した南蛮人好みの日野椀を持たせたい。
漆器の産地なら、他にも幾らでもある。中には南蛮人の好みそうな華美なものを作る所もある。それを買って、法王へ贈ってもよい。しかし、献上品の中に、一つくらい自分の土地の名産を入れたいではないか。
「それと、もう一つの方はどうなっただろうか?」
別に注文していたものもあった。
「はいはい、それもできておりますよ」
塗師は椀を戸口近くの棚の上に置いて、再び作業場の奥へ行った。
「木地師が何やこれと言うておりましたっけ」
呟きながら、白い布に包んだ小さなものを、布ごと両手のひらにのせて、捧げ持ってきた。
「こんな物は作ったことがないであろうからな」
忠三郎が苦笑して応じる。塗師は忠三郎の前で、そっと布を開いた。
「おお!見事だ!」
その出来ばえに破顔した。
漆を施した漆黒の十字架である。
「こんなもん、見たことも聞いたこともありません。どうなさるんです?」
「これでコンタツ(ロザリオ)を作る」
「……こ?」
笑って忠三郎は手に取った。
「うん。上出来だ。これなら、阿弥陀様にも合う。ありがとう」
塗師に銭を払って、忠三郎は満足そうに懐にしまい入れた。
ロザリオは不足していた。キリシタンならば皆欲しい。聖像もである。
南蛮渡来のそれらを、伴天連から贈られることを、全てのキリシタンは望んだ。
伴天連も求める者には与えたいが、数に限りがある。ローマから送ってもらうのだ。届くまでにも時間がかかるし、そう大量には船に乗らない。
欲しがるキリシタンは数万といる。しかし、彼等全員に与えられるだけの量を、伴天連はとてもではないが確保できなかった。
忠三郎も欲しかった。聖像を掲げて、ロザリオを手に毎日礼拝したい。
しかし、伴天連くらいしか持ち合わせていないその稀少品を、困っている伴天連に無理に寄越せとも言えなかった。無いものは無い。
(そうだ!パードレを困らせるくらいなら、自分で手に入れればいいじゃないか!)
忠三郎は伴天連の手を煩わせず、自分で入手しようと、再びローマに使節を遣ることを思い立った。
法王にも謁見できるし、聖像も入手できる。ついでにあちらの武器だって購入できる。
だが、六右衛門だって未だ帰っていないのだ。今から派遣したって、聖像やロザリオが手に入るまでには数年かかる。
(その間は──作ればいい。自分で作ってしまえ)
忠三郎はロザリオくらいなら、作れるだろうと思った。
ロザリオは珠や玉、あるいは実を繋ぎ合わせれば作れる。あとは十字架を付ければよい。
十字架は銀や金、あるいは玉や象牙を削って作れば、それは美しいものができるだろう。しかし、忠三郎は木で作るという発想に至った。
(そうだ、漆だ。漆を塗ったらどんなコンタツができるだろう?)
十字架に漆を塗る。そう思いついたのは、おそらく子供の頃から件の阿弥陀像と厨子を持っていたせいだろう。
塗師の家を出た忠三郎は、故郷の山々を眺めながら懐に手を入れた。できたての十字架と阿弥陀像とを握り締める。
(主イエズスと阿弥陀が同居している……)
これは大罪だ。
阿弥陀は焼き捨てなければならない。
だが、これは冬姫からもらった物。捨てるのは妻の愛を捨てることだ。
ただ一人の妻を愛せと言う。その妻の偶像を捨てることは、それと矛盾する。絶対に捨てられないし、返却もできない。
(私は試されているのだ。捨てないようにと、悪魔が誘惑している)
捨てられない想いは悪魔の誘惑。誘惑に勝たなければならない。
(それでも捨てない!罪深いが……)
十字架と阿弥陀を同居させる道を行く。神の楽園には行けないと知りながら。
忠三郎は受洗直後にも日野に来ていた。その折、漆器の改良と十字架製作とを依頼したのだが、まだまだ日野に来る機会は多そうだ。六右衛門がイタリアの武器を持ち帰ったら、それを参考に、日野筒の改良もしなければならない。
(彼等職人を、松ヶ島に呼べないものか……)
十字架と阿弥陀を手に、そう思った。
京へ戻ると、冬姫のもとに三蔵が来ていた。彼は冬姫を代弁し、知恩寺のことを願う。
「於次さまのためなのです。何卒、お力添え下され」
於次の菩提を弔うための塔頭開基。冬姫の名で建てるにせよ、忠三郎の協力が要る。だが、忠三郎はキリシタンだ。キリシタンが寺院の建立に手を貸すなど、何を言われるか。伴天連達から、神を冒涜したと罵られ、神の怒りが下ると脅されるだろう。
冬姫は、だから、忠三郎には願えなかったが、三蔵は気にもとめない。
「関白殿下もお望みのことにござる。それに、知恩寺は蒲生家の菩提寺の信楽院と同じ浄土宗でござろう」
「宜しいと思います。お力になれるところは、協力させて頂きます」
すでに阿弥陀と十字架を同居させている。忠三郎は於次の菩提寺建立に異を唱えなかった。
その後も、相変わらず忠三郎は冬姫に受洗を促しはしないが、代わりにそう言ってくる家臣が幾人かいた。家臣の中にもキリシタンが増えている。
しかし、冬姫には家臣達の口振りが邪道に思われた。
「死にたくないから、永遠に生きたいからという理由で信仰を持つなぞ。信仰こそが最も大事なことだと申しますが、私はそれよりも生き方の方を、博愛をこそ大事にしたいと存じます」
地獄へ行くなら、それでもよい。死後の心配より、今の生き方の方が余程彼女には重要だった。
見ず知らずの人間であっても、己のように愛し、許し合って生きる。信仰を持たなくとも、そのように生きることはできる。死を恐れて受洗するより、その方がいい。
冬姫はキリスト教の説く愛に、以前から深く感銘を受けていたのだから。愛して生きたい、そう思っていた。
デウスを信じなければ地獄に落ちるなどと、脅迫じみた言葉で受洗を迫る者など、信用ならないと思っている。実はそういう薄っぺら──と冬姫は感じている──なキリシタンのいかに多いことか。
そういう者が伊勢国に増えることが、いささか心配だ。
忠三郎の信仰がどういうものなのか、どういう理由から信仰を持つことになったのか、冬姫は知らない。
だが、部屋の隅で人知れず祈りを捧げている姿を、何度か目にした。きっと心から神を信じ、愛している。彼には確かに信仰がある。
だが、家臣の中には、ただ受洗しただけという者が随分多い。
最も大事なことは、神を愛することだという。信仰を持つこと。
しかし、永遠に生きたいからという理由で信仰を持つならば。隣人愛を心がけて生きる方が、そんな信仰よりも大事だ。
冬姫はキリシタンの家臣達にはいささか不信感すら抱いていた。そのためか、忠三郎の信仰心さえ、素直に応援できない。彼が受洗を促してはくれない寂しさも重なってのことであろう。
すでに十一月の末。
真冬だというのに、冬姫は外に出ている。月影はなく、暗い。伊勢は温暖とはいえ、寒いには違いない。
忠三郎は夜更かしが常だが、今日はもう寝所の中にいる。
冬姫は何だかそこへ行く気がしなくて、闇夜にぽつねんと佇んでいた。
キリシタンはデウス以外は神と認めないというのに、忠三郎は冬姫が子供の頃に贈った彫漆の厨子に入った阿弥陀仏を、まだ持っている。
あれはあげてしまったが、本当はとても大事なものだ。珍品だし、父が京土産だと言って、冬姫にくれたもの。父は亡く、形見になってしまった。
キリシタンにとっては憎むべき偶像かもしれない。しかし、冬姫には父の形見、大事な宝物なのだ。
忠三郎があれを焼き捨ててしまうこともあるのではないか。
時折、神に祈りを捧げる彼を見て、冬姫は不安も覚える。
人の気配がした。足音で忠三郎だとわかる。
「まだおやすみでなかったのですか?」
冬姫は振り返らずに言った。
「いやいつまでも来ないから、どうしたのかと思って」
忠三郎は心配そうな声でそう言った。
キリシタンになってから、彼はそれまで以上に冬姫にやさしくなった。これがかの教えの影響であるのは明らかだ。
「ご気分でも?」
背後からそっと冬姫の肩に手をやり、様子を窺いかけた、その時。
「あっ!」
地の底から轟音が届いたかと思うと、たちまち揺れ始めた。
「地震!」
「大きい!」
揺れは想像以上に大きく、激しさを増して行く。
「これはまずい!」
とっさに最悪を直感し、忠三郎はすばやく冬姫を抱えると、頭上を確かめつつ、
「今だ!」
と庭に走り出した。
庭に出てから、余計に強くなる。ずごごごごと相当大きな音がしている。
心拍数が上がり過ぎて、冬姫ははあはあと肩で息をついていたが、頭にあるのは子供たちのことだった。
城下の町からも悲鳴が聞こえる。城内も同様で、次々に老若男女、庭に転がり出てくる。
「あっ!屋根が!」
その時、屋根がぐにゃりと崩れ始めた。
夜目にもはっきり見えた。
冬姫は真っ正面から見た。城の屋根がむなしく崩れるのを。
「このままでは、ぐしゃりと潰れましょう!」
倒壊を思った。
「鶴千代!籍!」
青ざめて、忠三郎も叫ぶ。助けに行かなければ。
一方で、
「殿!殿おっ!!」
と、城内のあちこちで呼び叫ぶ声がする。
「鶴千代を助けねば!」
呼びかけにも応えず、裸足の忠三郎が駆け出しかけた時、ようやく揺れがおさまった。
途端に悲鳴が増す。揺れている時は、地鳴りにかき消されていたのか。逃げるのに必死か、恐怖で声も出なかったのか、揺れがおさまってからの方が泣き叫ぶ声は高い。
幸い子供たちは無事だった。忠三郎が行くまでもなく、乳母が抱いて出てきてくれた。
「鶴千代!籍!」
忠三郎も冬姫も駆け寄り、泣く我が子を抱きしめる。
「大丈夫、大丈夫よ……」
そう言っている間に、小さな余震が起きて、人々をますます恐怖に陥れる。
「この世の終わりか!?」
そんなことを口にする者も少なくない。
城も戸が飛び、壁崩れ、瓦が飛び散り、あちこち壊れてしまった。
「これは、城下の被害も大きいだろう……」
城内のぱっと目に付く所だけでも、これだけ壊れているのだ。城下はいかほどか。
「誰ぞ城内の見回りをせよ!壊れて危険な所を図面に記し、怪我人を庭に運べ!」
忠三郎は鶴千代を抱きながらも、すぐさまそのように指示を出し、自身は城下の見回りに出ようと、周囲の家臣たちに話していると、丹波亀山から帰っていた次兵衛が転がり出てきた。
「なりませぬ!疾く高き所へ移られませ!城下の民は皆、高き丘に我先にと逃げて行きまするぞ!かなり揺れました!海が迫り来るかもしれませぬ!」
次兵衛は尾張の海の近くの育ち。大地震の後には津波が来ることを、言い伝えで聞き知っている。
この伊勢も度々津波に襲われているから、津波のことは伝え聞いていて、民は続々高台に逃げていた。安濃津の津波による壊滅は、そう遠い昔ではなかった。
蒲生家は内陸の地・近江の日野にあったから、津波をよく知らない。家臣たちも、織田家から来た者には尾張出身者もいたが、城内にいた近衆は日野周辺の者が多い。
松ヶ島城はあまりに海に近すぎる。
次兵衛の指摘により、皆、避難することになった。
とはいえ、着の身着のまま。
忠三郎でさえ、寝間着一枚に裸足なのである。それでも忠三郎はまだよいとして、城主夫人の冬姫をそのままの姿にしておくわけにはいかない。瓦礫が散乱しており、忠三郎とて、履き物は必要だ。
夜遅いので、城内ではすでに寝ていた者もある。女衆は着替えたいと思う。
「なりませぬぞ!海嘯(津波)はすぐやってくるそうです、半刻もないうちに。身なりなぞ気にしている場合ではござらん!」
着替えを取りに中へ戻ろうとする者達に、次兵衛が大声で怒鳴った。しかし、言うことを聞く者ばかりではない。
中は障子も襖も倒れて、足の踏み場もないばかりか、家財家具が転倒し、割れ物の破片に溢れている。履き物なしでは危ない。次兵衛を無視して入った者達も、思うように進めない。
続々と松明が灯され、明るくなって行く。それを手に、中へ入ろうとする者もいた。
その時、今度はまた随分大きな余震が起きた。屋内は倒壊しそうな位、ゆさゆさ大きく揺れる。
「ならぬ!火を持って中に入ること、許さぬ!」
火事を危惧した忠三郎が指示を出すうちにも、また小さめの余震がある。さすがに女衆も恐れて、もう中に入りはしない。
いったいどれが予震(前震)か本震か余震かわからない。それほど大きな地震が頻発している。
十一月二十九日、亥の刻のことである。
松ヶ島城は海辺にあり、しかも標高が低いため、津波を恐れて、忠三郎達は高台への避難を開始した。度々の余震の中、子の刻には城内の老若男女、避難を完了していた。
「城下の屋敷におる者が登城せぬよう、真っ直ぐこちらへ来るよう、注意を促せ」
そう言って城下に見回りを出していたが、その見回りの衆以外は皆、一つ所に集まっている。
屋敷にいた家臣やその家族たちも、続々集まってきていた。
真冬の夜中は頗る寒い。領民達と混じって城の人々もいたが、焚き火せずには過ごせなかった。
しかし、丑の刻頃に、本震と思しき二刻前のものに匹敵する規模の余震が起きると、野外とはいえ焚き火などしていられない。
凍える中を、忠三郎は無数の人々と励まし合いながら堪える。だが、幼い鶴千代の体力を思うと、火の気の乏しい真冬の夜に放置してはおけない。
「近くの小屋に──」
と、目を凝らしてみたが、来た時にはあった小屋の姿がない。
烈しい余震で倒壊したのだ。
「かような状況で、建物の中にいるのは危険過ぎまする」
次兵衛は野宿が一番だと言い切った。
「されど、いくら何でも幼子らには寒過ぎるだろう」
たまたま足の悪い老女を輿に乗せて運んできていた。
「そうだ、あの輿に」
忠三郎は子らを輿に入れておこうとして、側に呼んだ。
さっきまで忠三郎や冬姫と焚き火にあたっていた鶴千代と籍姫。
籍姫は眠っていたところを地震で起こされ、不機嫌になっていたが、今は寒さと恐怖で元気がない。
鶴千代は最初はびっくりして泣いていた。そのうち、焚き火のぬくみでいつの間にか寝ていたが、今は余震の人々の絶叫で起きたらしい。起きたはいいが、無数の人間が群れているのが珍しく、それが楽しいのか、怖がる大人達の間ではしゃぎ、乳母の手を焼かせるほどだ。
「よくわかっておらんのだな」
忠三郎は鶴千代に安心した。
子供二人を両手に抱えると、寒いから輿の中にいろと言う。
鶴千代は元気に乳母に抱かれて連れて行かれたが、籍姫は首を強く振って傍らの冬姫にしがみついた。
「いやいや!」
母の胸元で泣く。
父母の姿が見えない輿の中では不安なのだろう。
冬姫は背中をさすった。
「寒いでしょう。輿は暖かいのよ」
「いや!」
「ほら、鶴千代君も一緒……」
「母上も一緒じゃなきゃ、いやあ!」
今にも大声で泣き出しそうなので、冬姫は困って忠三郎の顔を見た。
家臣達の家族は言うまでもないが、ここには領民も沢山集まっている。中には幼子もいるのだ。皆怖くて寒い中を堪えているのに、城主の娘の我が儘な姿など見せられない。
かといって、叱りつけるのも、どうも今の状況では気がひける。籍姫は普段は厳しく躾られ、領主の娘としての自覚が強く、聞き分けが良いのだ。それでも普段の矜持を忘れる現状。いや、大人だって恐怖で我を失っているのに。
「仕方がない。御身が一緒に輿の中へ入られては如何です?」
忠三郎はそう言った。だが、それは冬姫には気が進まない。
領民も家臣も皆辛い時、城主夫人だけ悠然と輿の中に入るというのは──。
勿論、誰も文句は言うまい。むしろ当然と思うだろう。しかし。
不意にまた大きな余震。近くにいる家臣達の集団の中の、幼い男子が声高に泣き出した。
籍姫よりは四つ五つ大きいように見える。
家臣になったばかりの若者・岡源八(左内)が、その子を叱りつけている。傍らの川副は逆に宥めていた。
そう、皆こわいのだ。籍姫がむずかったら、ここに集う全ての幼子の心が壊れてしまうだろう。
「結構。籍殿はこのままここにいなさい。武門の子が、たとえ女とはいえ、これくらいのことに堪えられなくて何とします」
冬姫はきっぱりそう言い切った。
忠三郎が驚いて反論する。
「私は御身の体こそ心配です。二人で輿の中にいてくれた方が安心だ」
「いいえ」
冬姫はなかなか頑固だ。籍姫もびくっとして、顔を上げて母の顔を盗み見た。
(母上が怒ってる……)
そう思って、籍姫は目にいっぱい涙をためながらも、怖さと寒さに堪え、冬姫の膝に朝まで座っていた。
遅い夜明け。ようやく周囲が明るくなって、眼下を見渡すと、愕然となった。
「汚い……」
率直に感じたことを言葉で表現すると、汚いだった。
昨夜は気付かなかったが、城は天守が倒壊しているようだ。だが、城も城下町もちゃんと残っていた。とはいえ、全壊した家屋は多く、町全体が壊れている。
津波は低いものだったようだが、海岸ばかりか町中にも瓦礫があふれている。城は海に引きずり込まれなかった。
目立った火事は見当たらないが、幾棟かは燃えた家もあるかもしれない。
「めちゃくちゃではないか……」
町の破壊された様に、忠三郎はしばし茫然とした。町は瓦礫にしか見えなかった。圧死した民は、津波に飲まれた民は、どれくらいいるのだろうか。
「これを片付けるのか?」
「しばし。海嘯がまだ来るかもしれませぬゆえ、もうしばらく、こちらにお留まり下さい」
続々と町へ戻る人々。忠三郎も家中の者達を城や城下に遣っていたが、次兵衛はまだ安心できないと言う。昼頃まで、そこに留まらせられた。
午後、忠三郎は家族と城に戻ったが、なお大きな地震があって、いつ倒壊するかわからない。子らは中に入れず、庭に居られる場所を設えて、そこに置いておいた。
そして、忠三郎は城内の片付けに、冬姫は炊き出しに追われた。
城下の整備に多数の兵を出したが、城もかなり損壊している。倒壊した建物さえあるのだ。女は城内の片付け、男は石垣の整備や瓦礫の除去をした。
家臣達は自分の屋敷そっちのけで奔走している。
冬姫も手が空くと、自然と庭の瓦礫の片付けてをしていたが、忠三郎が珍しく厳しく咎めるので、炊き出しだけをする。とはいえ、一度に二千人以上の食事を作り、さらに民のためにも作ったので、休む時間もなく、一日中炊事場は戦のような騒ぎだった。
このような時でも、大名の役目はある。
忠三郎は近江坂本にいる秀吉のもとへ使いを出した。とはいえ、途中で道はあちこち寸断されているだろうことが予想された。そのため、何組かに分け、別々の道を通って、それぞれ坂本を目指すよう指示した。
ところが、伊賀を越えた者達は、途中で秀吉は都にいるとの情報に接する。海路をとった者達は、秀吉は大坂まで逃げのびたとの情報を得て、無事、秀吉と対面することができた。
大坂城も相当揺れたが、倒壊することはなかった。ただ、秀吉は庭に金の屏風で囲いを作って、その中で数日過ごし、落ち着くまで中には入らなかった。
一方、伊勢を北上して坂本を目指していた者達は、北伊勢の惨状に腰を抜かし、特に長島の状況を伝えようと、一人を松ヶ島に帰していた。
この者が松ヶ島に戻るよりも先に、伊勢亀山から、親族で寄騎の関一政の使者が到着していた。
使者は途中までは馬で来たが、すぐに崖崩れで馬では通れなくなり、道でない所を掻き分け掻き分け、這々の体で出てきたのだという。
疲れ果てた使者は、忠三郎の安否確認に来たのではなかった。
「亀山は壊滅的です。城も倒壊しました。何卒、お助け下さいませ!」
援軍要請の一政の使者だったのだ。
「松ヶ島よりひどい所が沢山あるようだな!」
亀山の話に血相変えた忠三郎は、すぐにその場で食料などを大量にまとめさせ、三百人近い男女にそれを背負わせ、亀山に送り出した。
そうしている間に、長島の惨状を伝える者が帰ってきた。
長島城主は他でもない、信雄である。聞けば、亀山よりもさらに深刻だ。
呼ばれて、冬姫もその話を聞くことになった。
城は倒壊、焼失。民家も倒壊。さらに水没して、辺り一面、海・川と化した。城の北東の森嶋、符丁田、篠橋は水没してなくなり、また城の東の加路戸も千軒もの家があったが、水没して全てなくなり、人馬の屍で溢れている。
さらに、近くの桑名城も倒壊した。
「幸い、兄上様はご無事にございますが」
と、途中から気分を悪くした冬姫に、この者は信雄の無事を伝えたのだった。
「天守の倒壊で済んで、まだ松ヶ島は被害が少ない方だったのだ」
冬姫を休ませ、忠三郎は各地の被害状況を知ろうと、甲賀者を召し出した。
調べにより、次第に各地の被害状況が明らかになっていく。
十一月二十九日、亥の刻の地震は巨大なもので、伊勢や尾張、三河の辺り、つまり伊勢湾界隈に被害をもたらした。余震も数知れず。
さらに、二刻後の丑の刻にも巨大地震が起きた。地震は十二月に入っても収まる気配なく。一日、二日、三日それぞれにも大地震が発生。その後も二十日以上、連日発生した。
巨大地震なので、連動、誘発地震も起きたらしく、どうも複数の震源域がある。
実は被害が甚大だったのは、日本海側や、近江や飛騨などの内陸だった。
帰雲城は山体崩壊によって城ごと埋まり、周囲の集落も含めて全滅。佐々成政方として、秀吉方から攻撃を受けたが、ようやく和睦にこぎ着けた矢先、帰雲城主一族郎党うち揃って全滅した。そこにせき止め湖までできた。
大垣城は倒壊、焼失。
近江長浜城も倒壊、周辺は液状化した。長浜城主・山内一豊は幼い娘や家臣を失っている。
琵琶湖にも土砂が流れ、京にも被害があった。
若狭湾周辺には津波が襲来して、多数の人々が溺死し、津波は陸上にあるものを悉く粉々にして海に引き摺って行った。あとに残ったのはへどろばかり。
丹後、若狭、越前などは津波に襲われたが、これは二十九日亥の刻のものとは別の地震らしい。数日の間に、同時多発的に幾つかの震源域で発生した大地震のうちの、どれかだろう。
佐々成政から分捕ったばかりの越中の被害も大きく、前田家に多大な損害をもたらした。特に、木舟城の倒壊によって、利家の弟・利継を失ったのは大きい。
そして、この一連の地震は、太平洋側の広範囲にも津波をもたらした。伊勢湾が最も被害大きかったが、三河湾にも到達、さらに北へも至った。
北伊勢沿岸部、つまり、伊勢湾の最奥の被害が最も大きい。長島の辺り。木曽川、長良川、揖斐川の河口付近。幾つもの川筋により、島が点在する低地、輪中が築かれている所である。
長島は、もとは一向衆達が一揆を起こし、その特異な地形によって、大いに信長を苦しめた所だが、この地形が津波の影響を強く受けた。
低地である上、地震で地盤沈下し、さらに大規模な液状化が起きた。そこへ人の丈程の津波が来たのだ。この津波で消えてしまった島もある。
現在の長島城主は、つい最近秀吉と和睦したばかりの信雄。地震の被害は家康にも及んでいる。
両者の地震による打撃は大きい。
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生きるのに精一杯な日々から、次第に他地域の様子もわかってきて、領内も片付いてきた頃。
日常にはまだ戻れないが、一段落ついた頃というのは、余震にも慣れたものだ。ちょっとやそっとの揺れには怯えなくなった。そうなると、油断が生じる。
十二月中旬にもなると、つい高い台に物を置いたり、火の側から離れたりということが出てくる。
その日も、厨で大鍋に汁物を沢山作っていた。
ある女中が、一鍋できたので外に運ぼうとしたのだが、急用でその場を離れることになった。その時、うっかり火の側の台の上に、鍋を置いて行ってしまった。台には割れ物や汁物を置くなと冬姫は命じていたのだが、気のゆるみだろう。
大鍋の汁は火からあげたばかりで、煮えくり返っていた。
その時、運悪く大きな余震が起きた。
慌てて皆、火の元に寄る。かなり大きく揺れるので、消火しようと必死だ。
冬姫は火元から離れた場所にいたが、はっきり台の上の鍋を見ていた。鍋は大きく揺れ、煮えくり返る汁をぶちまけながら落下するに違いない。
鍋の真下には女中達が三人がかりで必死に火を消している。頭上に気づく余裕はない。
「危ない!」
叫びざま、駆け寄っていた。三人が大火傷を負うと思ったからだ。
冬姫は必死だったので、足元の注意を怠り、鍋に手をかけた瞬間、ぐにゃりと捻っていた。それでも彼女の手は、袖口の上から鍋を抑えていたようで。
鍋は三人とは反対側に汁を飛ばしながらも、どうにか落下はしないで台に留まった。おかげで火傷や怪我を負う者は出なかったが、冬姫はそのまま動けなくなった。
「まあ!どうなさいましたか?」
皆が駆け寄って来る。いつの間にか揺れは収まっていた。
「足が……」
みるみる色が変わってくる。左足首をしたたか捻ったのだ。捻挫か骨折か。
皆に介抱される。冬姫は情けなくなった。痛くて動けない。
「冷やしましょうね」
侍女が濡らした布を冬姫の足首に巻きつけた時だ、忠三郎本人が厨に駆け込んできたのは。
「落ち着いて聞かれよ」
忠三郎、まるで冬姫の姿が目に入っていないようである。彼女を凝視しているのに、足に気づかず、まくし立てた。
「今、丹波亀山から知らせが来て、去る十日、今月の十日、於次様が逝去されたと……」
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冬姫の弟で秀吉の養子の於次秀勝は、わずか十八歳でこの世を去った。
ここ数ヶ月、体調が悪く、生母や養母を心配させたが、神仏への祈祷の甲斐なく、ついに亡くなった。
地震はまだ活発な時。大坂の秀吉はようやく屋内で暮らせるようになった頃のことで、余震続く中を、於次のいる丹波亀山城へ向かった。
秀吉の子とはいえ、本当の親は信長なのである。
「亡き上様のお側で眠らせてあげたい……」
秀吉は於次を大徳寺総見院に埋葬することにした。ここは秀吉が信長のために建てたものだ。壮大な信長の葬儀もここで行ったのだ。その時の喪主は於次だった。
亀山城から於次を連れて、京へ。京も地震の被害を受けた場所もあったが、そこまで深刻ではない。
総見院に運ばれた於次に秀吉は泣いてすがった。養母である北政所は、生母の養観院と抱き合い、息子の早すぎる死を嘆く。
藤掛三蔵永勝の落胆は大きく、彼はうなだれたまま、一度も顔を上げなかった。
於次の死は、織田家の天下の可能性が潰えたことを意味していた。
信雄がもっと強ければ、秀吉から天下を取り返すこともできよう。しかし、最近、降伏したに等しい形で秀吉と和睦した彼に、そんな力はない。
あとは、三法師が成長した後に、秀吉が天下を譲ってくれること──秀吉の良心に委せるしかないのだ。
秀吉の親族や子飼いの武将の中には、内心於次の死を喜んだ者もいるだろう。しかし、秀吉の養子のことゆえ、表面上は悲痛な様を装い、次々に駆けつけた。
於次は毛利家の姫と婚約していたので、そちらからは心からのお悔やみが伝えられた。姫本人が上洛したいというほどだ。
忠三郎も領国が大変な時ではあったが、一段落ついたところでもあったし、あとのことは家臣達に任せて、冬姫と共に上洛した。
冬姫は足を負傷していたが、輿での移動だったから、特に問題はなかった。ただ、足を負傷すると気落ちして、腹の調子まで思うようにならなくなるのか、冬姫は負傷後、食欲がなく、輿には酔って、京に着いた時にはげっそり痩せていた。
「ご気分は?無理しないで下さい」
忠三郎は案じてそう言うが、冬姫は平気だと答えた。おそらくそういう答えが返ってくるとわかっていたのか、忠三郎も休養を強制しない。
吐き気がないなら構うまいと、忠三郎は冬姫を抱えて控えの間に入った。冬姫は痛む足をきちんと折って座る。そうしていると、何ら変わったところはなく見える。
外は雪景色だった。いつ降ったものだろう。昨夜だろうか。北に面した庭なので、一日中日は当たらず、一面、真っ白だった。
──無──
ふと、そんな言葉が脳裏をよぎった。
──死んだらその先はない。無よ。神の国も仏の国もありはしない。地獄も極楽も、しょせん閻浮の人間が作り出した想像の世界に過ぎぬ──
冬姫はふと信長の言葉を思い出した。
キリシタンの忠三郎は魂の不滅を信じている。父の言葉を間違っていると言うだろう。けれど、冬姫は違う。
雪景色は、死後を見るようだった。
あの白き無の中に、於次は消えてしまったのだと。
外は無。
廊の障子はこの世とあの世の境界線であるように思えた。雪が魔物に思えた。
何やら遠くで物音が聞こえた。雪はその音を消さずにここまで運んできたらしい。
冬姫と忠三郎は廊の方を見やる。ややあって、三人の人間が現れた。関白・秀吉。北政所。それに藤掛三蔵。
無からやってきた。冬姫はそう思った。
三人はあの世とこの世の境界線──障子の敷居を跨いで来る。
忠三郎と冬姫は恭しく両手をつかえ、平伏して三人を迎える。
秀吉は真向かいの上座に座るなり、泣き崩れた。その姿に、三蔵までもがもらい泣きのように泣き出す。北政所は神妙な面持ちで、秀吉の傍らに座った。目尻には乾いた涙の跡があった。
「なんと、姫さま、忠殿も。よう来て下さいましたのう……ううう……」
忠三郎が挨拶を述べる前に、秀吉は泣きながら声をかけてきた。今日は忠三郎を以前のように呼ぶ。
「はっ、この度はまことに、御愁傷様にございます……」
忠三郎もつい湿っぽい声になって述べ、そっと面を上げた。冬姫もならう。
「なんと!」
ばっと足を踏み出し、秀吉がいきなり冬姫の手を握った。まばたきもせず、その顔を見つめて──。
「痛々しや、何とお窶れに!姫さま、さぞお辛……」
ぎゅうと手を握りしめてくる。
六指は思いの外力強い。わさっと必ず仕留めることができるようで、冬姫は手を引っ込めることもできなかった。
忠三郎もついその手元を凝視してしまう。
秀吉は彼女のその滑らかな手の甲を一撫でして、涙ながらに言った。
「姫さまのお気持ちは、この秀吉が一番よくわかっておるのです。こんなに、こんなに悲しい!姫さまはわしの気持ちと一緒でしょう」
自分の悲しい気持ちから冬姫の心を推し量って、どんなに姫は悲しいだろうと秀吉は思うのだ。
さらに涙をこぼす。秀吉、北政所の視線にでも気付いたのか、あるいは忠三郎の心中を見抜いたか、そこで冬姫から手を離すと、懐紙を取り出し、涙を拭った。
(この涙は偽りでないようだ)
忠三郎はついそんなふうに分析していた。そういえば、秀吉は急に老けた。
「お疲れのご様子で」
「そう見えるか、忠殿?」
秀吉は、佐々討伐に越中へと進軍していた時は、ぎらぎらしていた。今は老人にさえ見える。
「少しお休みになった方が宜しいでしょう」
「そう言う忠殿もな。領内大変な時に、まことにすまぬ。連日外に出てよう働いていると聞く。忠殿も休養されよ」
そこで思い出したように、秀吉は北政所を振り返った。
「そうじゃ、おかか。湯山へ忠殿や姫さまもお連れしてはどうかの?」
北政所はようやく微笑んで頷いた。
「それはよいですね。於次殿の代わりに、実の姉上様にお使い頂きましょう」
その言葉を聞くと、秀吉は向き直り、忠三郎と冬姫を等分に眺めながら言った。
「忠殿はお疲れ、姫さまはご心痛。わしらと湯山へご同道下さいませぬか?実は有馬湯山の薬師堂をおかかが新しく建てたのだが、ようやく完成しましての。於次殿の病が治るようにと願掛けしていたのじゃが、於次殿は亡くなってしもうた……新築の薬師堂を見せに連れて行こうと、おかかと計画していたところだったのに。地震が落ち着いたら、湯治させようと二人で言っておった矢先に……」
於次を大切に思う者同士、一緒に行って、ともに於次を偲ぼうというのだ。
「それに、姫さまはおみ足を怪我しておいででしょう?怪我を治し、心の傷を癒やし、お体をゆっくり休めて下され」
(何故足のことを?)
忠三郎は秀吉の情報力に肝を冷やした。
冬姫も驚愕している。
関白から誘われて、断れるわけがない。とはいえ、京では雑用もある。すぐに行くことはできない。
忠三郎と冬姫は於次の霊前に合掌すると、一度下がったが、秀吉と北政所はすぐに有馬へ向かった。
冬姫はやはり、於次の前でも涙一つこぼさなかった。しかし、生前の可愛らしい顔が胸に去来して、何度も喉がきゅっとなった。
****************************
忠三郎と冬姫は、母と妹(実は叔母とされている親族)を訪ねた。
母の桐の御方のことは松ヶ島に迎えようと、すっかり準備を整えていたのだ。あとは桐の御方を連れてくるばかりという状態だった。そこを地震が襲い、未だ迎えられずにいる。
妹は秀吉に人質に差し出したもので、彼女は桐の御方とは別な所にいた。
最初に妹を訪ね、その後、桐の御方を妙心寺に訪ねて行った。
そこで数日過ごす間、忠三郎は一日、日野へ向かった。何の用事か冬姫にはわからない。ただ、故郷も地震の被害に遭っただろう。様子を見たいのかもしれない。
忠三郎が日野に行っている間に、藤掛三蔵の招きで冬姫は百萬遍知恩寺に行った。
知恩寺は秀吉が深く帰依しており、三蔵に、於次の菩提寺を作りたいと相談しているという。
於次は総見院に埋葬されたが、考えてみれば、あそこは信長の菩提寺であり、於次個人の菩提を弔う寺はまだない。いずれ知恩寺の境内を土御門辺りに移動、拡張し、その内の塔頭として、創建することができればと、考えているのだ。
ただ、秀吉は於次の菩提寺を望んでいるが、最初はどこにとは決めていなかった。具体的にそれを百萬遍にと提案したのは三蔵で、つまり、三蔵の発案で於次の菩提寺は知恩寺に内定したのだという。
「お身内が建てられるのが望ましゅうございます。ご養父様もよろしいが、蒲生様のご内室様は実の姉君にあらせられますれば、あなた様がご創建になるのが望ましいことと存じます」
住持の岌興(宝蓮社善心)はそう言った。
秀吉が創建するつもりなのかもしれず、いずれにせよ、忠三郎の判断無しに冬姫一人では決められない。織田家として創建するならば、信雄の意見も訊くべきだ。
彼女は即答できないと返答したが、於次のために何かしてあげたいとは思った。
知恩寺の創始は法然上人と賀茂上人こと源智だが、源智は平大相国清盛の孫・平師盛の遺児である。
織田家の祖は越前の剱神社の神官の養子だが、実は近江の津田庄に隠れていた平資盛の遺児であると言われている。師盛は資盛の弟であるから、源智は資盛の甥なのである。
百萬遍の号は後醍醐天皇より賜ったとされる。織田家は後醍醐天皇や吉野朝(南朝)にも敬意を持っている。
知恩寺は織田家の冬姫や於次にとっては、何やら縁があるように、冬姫は感じた。ここならば、北畠氏でもあった信雄の支援も、得られるような気がした。
その頃、日野へ向かった忠三郎は、その被害の実態を確認することができた。
確かに損壊家屋が点在している。崖などは崩れているところもあるし、地割れしている場所もある。懐かしい中野城の石垣も転がっていた。
しかし、伊勢亀山や近江長浜ほどの被害ではなかった。
それに、すでにきれいに片付いている。さすがは日野の衆だと、忠三郎はその甲斐甲斐しさを喜んだ。
一軒の職人屋敷を訪ねる。
「やあ!」
作業中の主人に声をかけた。主人は手を止め、顔を上げると、慌てて出てきてぺこぺこ頭を下げる。
「すまぬ、仕事中に、邪魔をしてしまって」
「いえいえ、ようこそお越し下さいました」
戸口での会話。主人は忠三郎を中に案内しようとはしない。
戸口から、中の作業場の様子は一望できる。大量の漆があって、椀が幾つも並べてある。
親しくしている塗師の家だった。
「もう仕事ができているのだな?案じていたが」
「おかげさまで。それでも結構大変だったのでございますよ」
作業場はきれいに整えられている。しかし、地震の当初は物が散乱していた。
「とはいえ、すぐに再開できましたので。天に感謝しておりますわ」
塗師は当初の苦労もとうに忘れたように、明るく笑った。
「そうか。頼んでおいたものはどうだ?」
「はい。二つ三つ試してみましたが──少々お待ち下され」
塗師は一度作業場の奥に戻ると、五点ほどの椀を台に載せて持ってきた。
大ぶりなもの小ぶりなもの、朱色、漆黒。様々だ。
「ふむ、これはよいかもしれないな」
朱地に金粉を散りばめた物を指差した。
「どうぞ、御手にとってご覧下さい」
忠三郎は、しかし、漆黒の艶やかな無地の物を取り上げた。椀の中に彼の目が、きらりと光っている。
「何と美しいのだろう。私はこれが好みだ。だが──」
南蛮人にはわかるまい。地味としか思わないだろう。ローマ法王に贈るなら、金粉のだろうと思った。
「これをより工夫して、より大きな物で試してみてくれ」
忠三郎は再びローマへ使いを遣わすことを考えていた。
ローマ法王への献上品のうちに、日野椀をと考えている。ローマでは、磁器、茶碗は珍重されているだろう。一方で、漆器も喜ばれるはずだ。
忠三郎は全国から素晴らしい名産を集め、六右衛門に持たせていたが、次の使節には、進化した南蛮人好みの日野椀を持たせたい。
漆器の産地なら、他にも幾らでもある。中には南蛮人の好みそうな華美なものを作る所もある。それを買って、法王へ贈ってもよい。しかし、献上品の中に、一つくらい自分の土地の名産を入れたいではないか。
「それと、もう一つの方はどうなっただろうか?」
別に注文していたものもあった。
「はいはい、それもできておりますよ」
塗師は椀を戸口近くの棚の上に置いて、再び作業場の奥へ行った。
「木地師が何やこれと言うておりましたっけ」
呟きながら、白い布に包んだ小さなものを、布ごと両手のひらにのせて、捧げ持ってきた。
「こんな物は作ったことがないであろうからな」
忠三郎が苦笑して応じる。塗師は忠三郎の前で、そっと布を開いた。
「おお!見事だ!」
その出来ばえに破顔した。
漆を施した漆黒の十字架である。
「こんなもん、見たことも聞いたこともありません。どうなさるんです?」
「これでコンタツ(ロザリオ)を作る」
「……こ?」
笑って忠三郎は手に取った。
「うん。上出来だ。これなら、阿弥陀様にも合う。ありがとう」
塗師に銭を払って、忠三郎は満足そうに懐にしまい入れた。
ロザリオは不足していた。キリシタンならば皆欲しい。聖像もである。
南蛮渡来のそれらを、伴天連から贈られることを、全てのキリシタンは望んだ。
伴天連も求める者には与えたいが、数に限りがある。ローマから送ってもらうのだ。届くまでにも時間がかかるし、そう大量には船に乗らない。
欲しがるキリシタンは数万といる。しかし、彼等全員に与えられるだけの量を、伴天連はとてもではないが確保できなかった。
忠三郎も欲しかった。聖像を掲げて、ロザリオを手に毎日礼拝したい。
しかし、伴天連くらいしか持ち合わせていないその稀少品を、困っている伴天連に無理に寄越せとも言えなかった。無いものは無い。
(そうだ!パードレを困らせるくらいなら、自分で手に入れればいいじゃないか!)
忠三郎は伴天連の手を煩わせず、自分で入手しようと、再びローマに使節を遣ることを思い立った。
法王にも謁見できるし、聖像も入手できる。ついでにあちらの武器だって購入できる。
だが、六右衛門だって未だ帰っていないのだ。今から派遣したって、聖像やロザリオが手に入るまでには数年かかる。
(その間は──作ればいい。自分で作ってしまえ)
忠三郎はロザリオくらいなら、作れるだろうと思った。
ロザリオは珠や玉、あるいは実を繋ぎ合わせれば作れる。あとは十字架を付ければよい。
十字架は銀や金、あるいは玉や象牙を削って作れば、それは美しいものができるだろう。しかし、忠三郎は木で作るという発想に至った。
(そうだ、漆だ。漆を塗ったらどんなコンタツができるだろう?)
十字架に漆を塗る。そう思いついたのは、おそらく子供の頃から件の阿弥陀像と厨子を持っていたせいだろう。
塗師の家を出た忠三郎は、故郷の山々を眺めながら懐に手を入れた。できたての十字架と阿弥陀像とを握り締める。
(主イエズスと阿弥陀が同居している……)
これは大罪だ。
阿弥陀は焼き捨てなければならない。
だが、これは冬姫からもらった物。捨てるのは妻の愛を捨てることだ。
ただ一人の妻を愛せと言う。その妻の偶像を捨てることは、それと矛盾する。絶対に捨てられないし、返却もできない。
(私は試されているのだ。捨てないようにと、悪魔が誘惑している)
捨てられない想いは悪魔の誘惑。誘惑に勝たなければならない。
(それでも捨てない!罪深いが……)
十字架と阿弥陀を同居させる道を行く。神の楽園には行けないと知りながら。
忠三郎は受洗直後にも日野に来ていた。その折、漆器の改良と十字架製作とを依頼したのだが、まだまだ日野に来る機会は多そうだ。六右衛門がイタリアの武器を持ち帰ったら、それを参考に、日野筒の改良もしなければならない。
(彼等職人を、松ヶ島に呼べないものか……)
十字架と阿弥陀を手に、そう思った。
京へ戻ると、冬姫のもとに三蔵が来ていた。彼は冬姫を代弁し、知恩寺のことを願う。
「於次さまのためなのです。何卒、お力添え下され」
於次の菩提を弔うための塔頭開基。冬姫の名で建てるにせよ、忠三郎の協力が要る。だが、忠三郎はキリシタンだ。キリシタンが寺院の建立に手を貸すなど、何を言われるか。伴天連達から、神を冒涜したと罵られ、神の怒りが下ると脅されるだろう。
冬姫は、だから、忠三郎には願えなかったが、三蔵は気にもとめない。
「関白殿下もお望みのことにござる。それに、知恩寺は蒲生家の菩提寺の信楽院と同じ浄土宗でござろう」
「宜しいと思います。お力になれるところは、協力させて頂きます」
すでに阿弥陀と十字架を同居させている。忠三郎は於次の菩提寺建立に異を唱えなかった。
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