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第四話 誰が一番か
第四節
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第四話 誰が一番か 第四節
友子と裕は、自室で次のようなことを話しあっていた。もう、夜もかなり遅くなっていたけれど、二人の話し合いは続いた。もしかしたら、当事者である実の両親以上に熱心なのかもしれない。実の両親は、それどころではないらしいので。
「気にしないでいいと言っても無理なのよね。もうこういう事はいつか必ず起こると思っていたから、本当に、ただあったんだと思うくらいでいいのよ。」
友子がそう弁明しても、そういう風に解釈できる人なんて誰もいないだろうなと思われるほど、今回の事件は衝撃的だったらしい。
「まあ、理想論から言えばそうなんだろうけど、人間誰でも、その通りに動けるもんじゃないですよ。友子さん。」
裕が、皆の気持ちを代表するように言った。
「あのように、本成と化してしまったら、考え直さなきゃならないですよ。梅子さんもそれだけ追い詰められてしまったと思うし、朗君も、親があの様では、怖がって余計に近づかないだろうし、悪循環ですよ。」
事実、寿々子はこれ以上何かあってはいけないと言って、朗を梅子に会わせようとしなかった。そうなったら余計に梅子が真蛇となる可能性が高くなる。特に年寄りは、安全面を優先してしまうことが多いが、そればかりに重点をおいてしまうと、より真蛇は子に手をかける。そうなると、子供をめぐって、激しい争奪戦が勃発し、最悪の結果として、親か子か、あるいは両方が真蛇どころか完全に悪霊になってしまうことになる。
「僕らはどうしたらいいんでしょうね。僕は朗君に須磨琴を与えてしまいましたが、それがかえって、悪い影響ではなかったかと今は、後悔しているんです。」
「裕さんが悪いわけじゃないわよ。だって、お父様が言っていた通り、須磨琴というものは、朗ちゃんが、これから生きていくにつれて絶対に必要になるから、これからも稽古つけてやってよ。」
友子は一生懸命裕を説得したが、彼はまた落ち込み始めたのだ。最も、あの時のように、神頼みをしすぎて熱を出すことはなかったが、それでも自分のせいだという感情はどうしても捨てきれなかった。
「僕さえいなかったらなという思いも消せないです。」
「裕さん、それだけはだめ!それこそ究極のわがまま!」
友子は、ちょっと語勢を強くしたが、
「ええ、わかっていますよ。だって、僕らが逃げることはすぐにできますが、朗君はそうはいかないでしょう。」
と裕は、答えを出してくれたので少し安心した。
「だからあたしたちが何とかしないといけないんじゃないの!このままいったら、梅子さんは発狂する可能性もあるし。お父様もお母さまも年だから、すぐには動いてはくれなくなってくるし。そうなったらあたしたちが出ないでどうするの。助けることができるのは、あたしたちだけしかいないのよ。」
「でも、どちらについてやればいいんですかね。梅子さんについても、朗君についても、必ず、片方が反発する。」
「あたしたちはどちらにもつかない。ただ、事件があったら手を出して、それ以外は手を出さなければいい。それでいいのよ。だって、あたしたちの実の子ではないんだし、それははっきりと線引きしたほうがいいわ。女ってそういうもんだから。男と違って、こうだって決めるのは難しいのよ。」
「友子さん、そういう事はどこで身についたんですか。書物に書いてあったことを実践するのは、難しいと思うけど、、、。」
「廓の中、かな。女ばっかりの場所だったし、親になってはいけない人がいっぱい来てたから。」
友子はちょっといたずらっぽく笑った。
「ああ、なるほどね。確かにそういう女性もいますよね。ああいうところは。僕も、新吉原に行って、女郎さんと言いますのは、筋金入りの悪人ばかりではないんだなということはわかりました。」
裕もそれを聞いてなるほどと思ったようである。
「そうそう。あたしたちは、感情ばかりで生きていたようなもんよ。ああいう、廓の中ではね。」
「そうですね。そういうことですね。とにかく、朗君に、いなくなってもらうということはできないわけですからね。」
「だから、これからも稽古は付けてあげて頂戴ね。」
「わかりました。」
「最悪の事態だけは何としてでも避けなくちゃ。」
「ええ、そうですね。そうしなきゃなりません。そのためにはどうするかも考えないといけませんね。」
二人は、そんなことを話しあった。誰かの子のためにこうして話し合いをするなんて、ほとんど見られない光景であるのだが、実は必要なことでもある。
友子も裕も共通点がある。二人は子を持てないのだ。友子は具体的に症状があるわけではないけれど、廓にいたということは、即ち性病の可能性があるし、裕は裕で、がりがり兄ちゃんとからかわれる奇妙奇天烈な体であり、同じような体の子供が生まれたら、またかわいそうな目に会わせてしまう罪悪感に耐えられないという事情がある。もしかしたら、そういう二人だからこそ、こういう判断ができるのかもしれない。健全に過ごしすぎた親たちは、具体的にどうのとか、そういう事を打ち出すのは難しいのだろう。そして、彼らには、健全過ぎて、感情を持て余しすぎる弱点もあり、助けてくれる人に対して、嫉妬というものを生じてしまうこともある。それでまた、せっかく支援してくれた人に対しても軋轢が起きてなおさら、ということもある。本当に人間というものは難しいものだなと考えざるを得ない。
朗本人は、祖父母である寿々子と誠一のところにいる。相変わらず、言葉は出ないし、茶碗を落とすし、匙も相変わらずうまく使えない。それでも祖父母は、辛抱強く匙の持ち方も教えた。決して怒鳴ることはしなかった。味噌汁で畳を汚しても大丈夫だからと言ってすぐに拭き、それでも怒鳴らなかった。
狂乱になってしまった梅子は、息子の下を訪れることを許されなかった。誠一は、彼女に決して息子に手をあげないと誓いを出せるまでは、朗を渡さないと宣言していた。ああして狂乱になった時点で、すでに尋常ではない精神であり、彼女はすぐに子供を持つべきではなかったのであり、きっと、彼女自身もよい育ちをしていない。そういう壁を自力で乗り越えられる人もいるが、大概は無理であるから、子に手をあげるということは、彼女が子育てというものはできないというのを示す証拠だと誠一は言っていた。だから、朗をそういう親にやっても、幸せにはなれない。それではあまりにもかわいそうだ。だからわしらが何とかしよう。そう言っていた。
梅子は、三度の食事は保障されていたが、もはや朗と顔を会わせることは許されず、会話することも、一緒にどこかへ連れて行くことも許されなかった。はじめのうちは朗を返してくれと主張したこともあった。これからは、もうあの子の首を絞めるような馬鹿な真似はしないからと涙ながらに訴えたこともあった。しかし、それらはすべて演技だと一蹴され、決して受け入れられることはなかった。だんだんに、梅子は何もする気がなくなっていき、どこかへ出かける気にもならず、風呂にも入る気も起らないし、化粧もしない、髪を結う気にもならない、朝になって着物を着換える気にもならなくなり、一日中布団の中で何もしない生活に変わっていった。取り合えず、ご飯だけは、友子が毎日欠かさず持ってきてくれるが、それ以外、何もすることない。いわば、一般的な部屋でありながら、座敷牢にでもいるようなものである。
誠一は、そんな彼女について、かまわない、放っておけと言っていた。こういう事は、周りがいくら言っても効果はなく、彼女が立ち上がってくれるのを待つしかないとも言っていた。友子たちも、先ほどの話し合いの結論から、朗の世話はするが、それ以上のことは立ち会わなかったから、梅子のことについてはほとんど言及しなかった。
新五郎は、というと、経済的に力になるというのはまんざら嘘でもないようで、買取の業務も嫌がらずに行っていたし、両替屋の仕事もしっかりとこなした。しかし、彼はほかの家族とはほとんど口を利かないし、朗のところにも寄り付かなかった。その新五郎にも、手を出すものは誰もいなかった。
「こんにちは。」
丸野さんがやってきた。
「元気かい。」
そう言っても、増田家はどよーんとしていて、重ったるい空気が流れていて、元気かいという言葉はとても一致しないという雰囲気であった。
でも、丸野さんは、必ずそういうのである。例え返答がなくてもそういう。
「ああ、ありがとうございます。」
と、裕が売り台の前に座ってそういうが、とても元気かいに相応する返事ではなかった。
「これをちょっと崩してくれないかな。」
丸野さんは、一両を差し出した。
「ああ、分かりました。ちょっと待ってくださいよ。」
裕は一両を受け取って、丁銀に引き換えた。そして、
「人間もお金みたいに、すぐに細かいのにかみ砕けたらいいのにな。」
とつぶやいた。
「ああ、無理だねえ。」
丸野さんが当然のように言う。
「すみません、言ってはいけない話でした。」
「そうそう、ダメだよ。小判と人間は違うんだぞ。はい、切賃。」
「両替屋は切賃で儲けるのに、これもらってもうれしくないのはなぜなんでしょうね。」
「そうか、切賃もらってもうれしくないのか。それくらいつらいのか。」
確かに、金を儲けてもうれしくないほど、落ち込んでいるということになれば、相当つらいなということになる。
「裕ちゃん、両替商をしてよく思うのだが、金額の大きな金を少しもっているよりも、実際には小さな額であるのに、大量の銭を持っている人のほうが幸せそうに見えるのだと君はしょっちゅう言っていたじゃないか。朗ちゃんだってそういうもんじゃないのかい。もしかしたら、一つのことが、他の子にとっては一文にしかないのかもしれないが、朗ちゃんにとっては何十両と同じことかもしれないぞ。そういう事だと思うけどなあ。」
「いや、丸野さん、それはうちの中だけのことであって、外へ出れば一文は一文でしょうに。」
丸野さんの励ましに裕は閉口したが、
「両替屋なんだから、お金の価値は誰よりも知ってるだろうが。」
と丸野さんは続ける。
「そうですねえ、、、。」
「まあ、出口はなかなか見えないだろうが、頑張んなさいよ。」
人はこうして励ましてくれるし、たとえ話もしてくれる。こういう事は一度や二度だけではなく、何度も遭遇する。なぜなら、人はそうなることで格好良くなっているという錯覚に陥るからである。実は、当事者にとってこれ以上の迷惑はないと言っても過言ではないのだが、
この錯覚のせいで、改めようとはしない。まあ、確かに丸野さんは、こうして自分の商売に例えて励ましてくれたのだが、内容は一般の人と変わらない。何を言っても無駄だ、と裕も思う。
「お父さんと、お母さんは元気かい?」
と、丸野さんはそれも欠かさないで言う。
「ああ、元気にやっていますよ。まるで僕らよりも元気で、朗の世話をしています。」
こればっかりは、本当で、自分よりも元気である。こういう時には、若い人より年寄りのほうが元気になれるのだろうか?なんかそういう気がしてしまう。
「今の時代は、若い人より、年寄りのほうが元気になれるのでしょうかね。僕らが衝撃で落ち込んでいる間に、あの人たちは、何でも片付けてしまうので、、、。本当は、若い僕らがやらなきゃいけないんですが。」
裕は、そう言って大きなため息をついた。
「うん、それはそうだ。特に新五郎ちゃんが何とかしようと思わないとだめじゃないか。」
丸野さんもそれに同意してくれた。
「梅子さんもああなってしまったし。年よりは、守ろうとするところには能力を発揮するが、進めようとする力は弱いぞ。女性とか、年寄りとか、そういう人たちは、そういうところには、不向きである場合が多いよな。大体、お家騒動が起きても、活躍はしないじゃないか。そういう時は、やっぱり、若い男が率先していくというのが一番いいと思うのだが。」
「さすがは丸野さんだけありますね。そういうところから、あれだけ大きな旅館を作り上げることもできたんですね。でも、僕らみたいなただの両替商には、できないですよ。丸野さんみたいな大きな発言は、経済力があるからできるようなもので。」
裕は、最も現実的な意見を言った。
「いや、裕ちゃん、そういう事も確かにそうなんだけど、その一線を思い切って超えるということもしないと、いけないんだよ。」
「そうですけどね、丸野さん。」
「それじゃだめだぞ。だから君はいつまでも意気地なしと言われるのではないかな。」
丸野さんはちょっと彼を叱るように言った。
確かに、あまりにも慎重すぎたり、現実的すぎたりすると、こういう称号がなぜかついてしまうのである。裕から見ると、ただ現実に従っているだけなのであるが、それはなぜか格好悪いとみなされてしまう。人間の評価というものは本当に不正確だ。
「誰が正しいかなんて、本当に言えませんね。そして、誰に従っていけば必ず大丈夫だという人は誰もいませんね。」
これがたぶん究極の答えなのだろう。
しかし、これを出すと多くの人は失望するか、声を立てて笑うかのいずれかに属す。
経営者である丸野さんは、当然ながら後者のほうだった。
「まあ、そういう事かもしれないが、まず何をしたいか考えておくのも大切だぞ。」
「はい、頑張りますね。」
良いのか悪いのかわからないけど、裕はそのように言った。
一方、友子は朗を連れて散歩に出ていた。誠一が、朗まで部屋に閉じ込めておくのはいけないと言ったため、友子は定期的に、彼を連れて散歩に出ていた。最近では朗も自分の前に長い影が来ないように歩けば、素直についてきてくれるというところを見せてくれるようになったので、それさえ気が付けば、おとなしく散歩ができるようになっていた。
丁度、一件の小さな店の前を通りかかった。そこは呉服店。あんまり縁のないところだなと通り過ぎようとすると、
「友子さん。」
後を振り向くと、
「あ、野上のお嬢様!」
まさしく花子が侍女と一緒に立っていた。
「どうもこんにちは、朗ちゃん。」
花子は、一度しゃがんで朗と同じ目線になってくれたので、朗も何も怖がらず、ああ、ああと、自分では挨拶しているのだろうが言葉にはなっていない挨拶をして応じた。
「よかったわ、彼と話すときには、視線を同じ高さにしなければだめだと、父がそう言っていたから。」
花子は、再び立ち上がってにこりと笑った。
「ど、どうもありがとうございます。お嬢様までご配慮していただけるなんて、、、。」
思わず友子が礼を言うと、
「いいえ、父がなんでも話してくれるので。」
と、答えが返ってくる。あ、なるほどなという箇所もあったが、同時にこれは自分にはできないな、とも思った。確かに教えてもらうことは誰だってできるが、すんなりと受け入れができるのは、やっぱり「父子」だから、と解釈することもできるのだ。「なんでも話してくれる」のも、父親ならではだろう。
「それにしても今日は何かお買い物ですか?」
友子は、話題をそらせて花子に聞いてみた。
「ええ。お父様に新しい下駄を買おうと思って。」
「新しい、ですか?」
「昨日、鼻緒が切れたから、というのもあるけれど、お父様の誕生日でもあるから。」
「そうですかそうですか。お嬢様から新しい下駄をもらえて、野上様も幸せでしょうね。」
自分では絶対に受け取れない特権だろうなと、友子は思った。つまり自分がどんなに苦労をしたとしても、誕生日に何かもらうことはおそらくないだろう。いくら朗少年に愛情をかけても。だって自分は「母親」ではないから。
つまりそうなるんだ。
そうなったら、自分は耐えられるかな。
彼に心から接してきたのは自分なんだ、実の母親だからって、何でも横車を押そうとしたと言ってもそうはいかないぞ、なんて主張は果たして通るか。
答えは、きっと通らないだろう。
「母親」ではないから。
何をしたって、やっぱり子供が一番に考えるのは「母親」または「父親」だろうから。
勿論、三歳の朗少年が、口に出してそういっているわけではないし、梅子も床に伏してしまっているので、何か主張しているわけではないけれど、何れ、近いうちに具体的にどうなるかはわからないけど、「親」のほうが優先になる時期はやってくる。
いくら、自分が一生懸命やったと主張しても通じないこともたくさんあるだろう。
そういうとき、もしかしたら今度は自分が本成と化すのではないか。
そうしたら、またきっと、増田家がおかしな家になってしまって、一番の被害者は誰になるだろう。
子を持つとはそういう事だ。そういう事なんだ。
「誰が一番か」をいつも考えておかないと子供というものは育てられない。
勿論、野上の旗本様だって、こういうほかの子とは違うお嬢様を持って、大変だったんだろうと思う。でも、お嬢様が、こうして新しい下駄を買いに行こうとすることができたから、やってこれたんだろうなと思う。
理由はただ一つ。実の父子だからである。
私は違う。おばさんだ。
「どうしたの、友子さんらしくないわよ。暗くなっちゃって。」
「ああ、ごめんなさいね。ちょっと考え事してしまいまして。」
「あんまり落ち込んでいると、朗ちゃんが悲しむわよ。誰だって、落ち込んでいる顔は見たくないわよ。」
そうなのだ。落ち込んだり、悲しんだりしている顔は、なるべくなら小さな子供には見せてはいけない。
「そうですね。お嬢様。うちも、本当に悩みの多い家庭ですけど、頑張ってやっていきますよ。じゃあ、私、そろそろ一先ず帰ります。」
「ああ、そうね。長く引き留めてしまってごめんなさい。また、会いましょうね、朗ちゃん。」
もう一度、花子は朗と同じ目線になり、朗の頭をなでてくれた。朗も、にこにこ笑ってそれにこたえる。こうして何も抵抗感なく話しかけることができるのは、身分の高い女性でないとできない。でも、友子はそんなことは気にしなかった。気にしたら、彼がまた傷ついてしまうかもしれない。
「じゃあ、またね!」
「はい、またよろしく!」
彼女たちは、互いに別の方向へ歩き出す。朗少年もあ、あ、と声を出して、あいさつにならない挨拶をする。身分の全く違う二人の女性が、こうして交流を持てることはなぜかわからない侍女は、不思議そうな様子で二人のやり取りを見ていた。
次の日も友子は、朗少年と一緒に遊んだが、なんとなくそれまでとは気持ちが違っていた。これがその次の日も、またその次の日も続いた。
裕は、その日そば打ちの稽古で宇多川玉の下を訪れていた。自分では、師匠の指示に従ってそばを作っているつもりだったのだけど、
「裕さんどうしたのですか。」
と、一枚の紙が彼の目の前に飛び込んできた。
「な、何でもないですよ。」
と言っても、玉は首をかしげたまま。聞こえていないのだと思いだした裕は、「なんでもありませんよ」と紙に書くと「違うでしょう」と返ってくる。そして、筆をとり、何か書き始めた。
「何かあったんでしょう。その顔でわかりますよって、わかってしまうんですね、宇多川先生は。」
きっと、耳が遠いから、勘が鋭いのだ。これではごまかしはできない。
「甥子さんのことですかって、僕、朗君のことを直接話した覚えは、、、。」
再び書かれた言葉を読んで、改めてそれを確信する。どこで知ったのですかと書くと、野上の旗本様に聞いたと答えが返ってくる。そうか、そのくらい頻繁に呼び出されているのかと宇多川先生の腕のよさには感動というかなんというか不思議な感情を覚えるのである。同時にお嬢様の食わず嫌いは、そこまでひどいかということも示され、不憫だなとも思う。
「宇多川先生、ちょっと教えてください。先生には言いにくい話かと思います。でも、うちの家を建て直すには、実談というものが一番だと思うのです。」
裕は、すごく勇気を出して、質問を書き始めた。玉も、それについて、はじめのころは戸惑っている表情を見せたが、何かを決断したようで、答えを書いていく。
「そういうもんなんですか。」
出来上がった答えを読んで、裕はがっかりしたというか、なんともやるせない気持ちだった。
そして、隣に、「では、梅子さんはこれでは永久に救われないのではないですか」と書いた。すると玉は「実の親で有ろうとなかろうと、教える側が見返りをほしがるのが間違いなのです」と即答する。裕が理由を教えてくれと書くと、「教えられる側にとっては当たり前の技術であるから」と理由が書かれた。続けて、「特別なものをもらうわけではないのですから、誰か特定の人物には感謝し、他の人物には何もしないということはありません」と書かれた。
「そうですか、、、。」
裕が最初にした質問はこうだ。
「自分たち他人が何かしていくよりも、実の親に教えていただいたほうが、長く覚えていられるのですか。結局のところ、他人から教わるより、実の親のほうが、当事者としては身につくものなのでしょうか。」
隣に書かれた答えはこうである。
「そのようなことは絶対にありません。教える内容が、本人にとって、必要なのか、必要でないのか。そこが違うだけです。」
しばらく黙り込んでしまった裕であったが、結局、こうなる運命だと思った。
きっと、朗少年は、これから先、自分にも友子にも誠一や寿々子にも感謝しようとは思わないだろう。ただ、自分にとって、面白いと思う事、必要だと思う事、そういうことだから今、彼等になついている。それだけのことだ。
絶望的な気持ちになっていると、不意に肩がたたかれる。そして、一枚の紙に書かれた文書が、裕の前に現れた。
「かといって、私は、教えてもらわなかったら、このように生活はできなかったこともまた事実です、宇多川先生、、、。」
そういう事だ、と裕は結論を出した。
きっと、感謝されることはない。でも、朗を一人前に育てることはできたなら、自分が朗を一人前位にさせたという自信だけはつく。
きっと、お礼をもらうこともないだろうが、逆を言えばそれが、裕たちが朗からもらう「お礼」なのかもしれない。そう言えば昨日友子が、自分はいくら朗ちゃんを育てたとしても、実の親でないのであるから、野上のお嬢様のするように、贈り物をもらうことはたぶんないだろうな、そのせいで、私が梅子さんのような本成になったらどうしようか、と愚痴を漏らしていた。おそらく、今の宇多川先生の言葉から導き出された結論が、答えなのだ。誠一や寿々子は年をとっているので、そういう事を知っているのだろう。自分たちは、それを知らなかったから苦しかっただけだ。この答えは、友子さんにも聞かせてやらねばだめだ。そうして、導いてやることも、男の務めである。
「宇多川先生、ありがとうございました。やっぱり聞いてみるだけありましたよ。これからもきいてしまうこともあるかもしれないですけど、その時は、できの悪い弟子で困ったと思ってしまうかもしれませんが、教えてくださいませ。」
裕は敬礼するが、玉には聞こえない。裕は急いで「ありがとうございます、これからも教えてください」と書いた。すると、「役には立ちませんが、参考程度にしてください」と書かれる。通じたのか通じていないのかわからないけれど、宇多川先生はそういう謙虚なところは、他の人より優れていると思う。
「じゃあ、お稽古、続けてください!」
吹っ切れた裕は、再びそば粉の山に向かい始めた。
一方、買取に出かけていた新五郎は、今日も「値打ち」のある物をたくさん買い取っていた。もうだいぶ買取業務にも慣れた彼は、これらの品物がいくらくらいで売れるかも大体予想がついている。これらを売ることができたら、かなりのもうけを得ることができるだろう。そうすれば、朗にももっと接してあげて、裕たちがやっていることよりも、より実用的な事項を教え込むことだってできる。具体的に言えば、匙をしっかり握ることから始まって、ご飯を落とさずに食べること、着物も麻の葉以外のものを着ること。そういう事を覚えてもらうのだ。そのためには、店に女中を雇うとか何とかして、自分たちは朗の教育に専念したい。ああいう子は、親がつきっきりでいるくらいの覚悟が必要になる。そうでなければ、一人前の人間には育っていかない。そして、親がここまで育ててあげた、育ててやったことをわからせることも必要だ。そのためには多少の厳しさも必要なのだ。いまは、多少苦しくても、いつかは、朗のほうが育ててくれてありがとうと、言葉や態度で示してくれるはずである。
それを一縷の望みとすれば梅子だって、、、。買取の仕事で、何軒かの家を回りながら、新五郎はそんな計画を練っていた。
そう、そのわずかな望みだけを頼りに自分たちは生きていくのだと。
それが、梅子が立ち直ってくれるためには唯一の希望なのだと。
そう確信していた。
その日、買い取ったものを乗せた大八車を引っ張って、新五郎は増田屋に戻ってきた。
中では、また須磨琴の音がする。
これからは、兄夫婦ではなく自分達が何かをする番なのだ。兄にわずかばかり感謝をして、新五郎はこれからの計画を家族に伝えるべく家に入っていく。
友子や、裕たちが、あのような結論を出しているのも知らないで。
友子と裕は、自室で次のようなことを話しあっていた。もう、夜もかなり遅くなっていたけれど、二人の話し合いは続いた。もしかしたら、当事者である実の両親以上に熱心なのかもしれない。実の両親は、それどころではないらしいので。
「気にしないでいいと言っても無理なのよね。もうこういう事はいつか必ず起こると思っていたから、本当に、ただあったんだと思うくらいでいいのよ。」
友子がそう弁明しても、そういう風に解釈できる人なんて誰もいないだろうなと思われるほど、今回の事件は衝撃的だったらしい。
「まあ、理想論から言えばそうなんだろうけど、人間誰でも、その通りに動けるもんじゃないですよ。友子さん。」
裕が、皆の気持ちを代表するように言った。
「あのように、本成と化してしまったら、考え直さなきゃならないですよ。梅子さんもそれだけ追い詰められてしまったと思うし、朗君も、親があの様では、怖がって余計に近づかないだろうし、悪循環ですよ。」
事実、寿々子はこれ以上何かあってはいけないと言って、朗を梅子に会わせようとしなかった。そうなったら余計に梅子が真蛇となる可能性が高くなる。特に年寄りは、安全面を優先してしまうことが多いが、そればかりに重点をおいてしまうと、より真蛇は子に手をかける。そうなると、子供をめぐって、激しい争奪戦が勃発し、最悪の結果として、親か子か、あるいは両方が真蛇どころか完全に悪霊になってしまうことになる。
「僕らはどうしたらいいんでしょうね。僕は朗君に須磨琴を与えてしまいましたが、それがかえって、悪い影響ではなかったかと今は、後悔しているんです。」
「裕さんが悪いわけじゃないわよ。だって、お父様が言っていた通り、須磨琴というものは、朗ちゃんが、これから生きていくにつれて絶対に必要になるから、これからも稽古つけてやってよ。」
友子は一生懸命裕を説得したが、彼はまた落ち込み始めたのだ。最も、あの時のように、神頼みをしすぎて熱を出すことはなかったが、それでも自分のせいだという感情はどうしても捨てきれなかった。
「僕さえいなかったらなという思いも消せないです。」
「裕さん、それだけはだめ!それこそ究極のわがまま!」
友子は、ちょっと語勢を強くしたが、
「ええ、わかっていますよ。だって、僕らが逃げることはすぐにできますが、朗君はそうはいかないでしょう。」
と裕は、答えを出してくれたので少し安心した。
「だからあたしたちが何とかしないといけないんじゃないの!このままいったら、梅子さんは発狂する可能性もあるし。お父様もお母さまも年だから、すぐには動いてはくれなくなってくるし。そうなったらあたしたちが出ないでどうするの。助けることができるのは、あたしたちだけしかいないのよ。」
「でも、どちらについてやればいいんですかね。梅子さんについても、朗君についても、必ず、片方が反発する。」
「あたしたちはどちらにもつかない。ただ、事件があったら手を出して、それ以外は手を出さなければいい。それでいいのよ。だって、あたしたちの実の子ではないんだし、それははっきりと線引きしたほうがいいわ。女ってそういうもんだから。男と違って、こうだって決めるのは難しいのよ。」
「友子さん、そういう事はどこで身についたんですか。書物に書いてあったことを実践するのは、難しいと思うけど、、、。」
「廓の中、かな。女ばっかりの場所だったし、親になってはいけない人がいっぱい来てたから。」
友子はちょっといたずらっぽく笑った。
「ああ、なるほどね。確かにそういう女性もいますよね。ああいうところは。僕も、新吉原に行って、女郎さんと言いますのは、筋金入りの悪人ばかりではないんだなということはわかりました。」
裕もそれを聞いてなるほどと思ったようである。
「そうそう。あたしたちは、感情ばかりで生きていたようなもんよ。ああいう、廓の中ではね。」
「そうですね。そういうことですね。とにかく、朗君に、いなくなってもらうということはできないわけですからね。」
「だから、これからも稽古は付けてあげて頂戴ね。」
「わかりました。」
「最悪の事態だけは何としてでも避けなくちゃ。」
「ええ、そうですね。そうしなきゃなりません。そのためにはどうするかも考えないといけませんね。」
二人は、そんなことを話しあった。誰かの子のためにこうして話し合いをするなんて、ほとんど見られない光景であるのだが、実は必要なことでもある。
友子も裕も共通点がある。二人は子を持てないのだ。友子は具体的に症状があるわけではないけれど、廓にいたということは、即ち性病の可能性があるし、裕は裕で、がりがり兄ちゃんとからかわれる奇妙奇天烈な体であり、同じような体の子供が生まれたら、またかわいそうな目に会わせてしまう罪悪感に耐えられないという事情がある。もしかしたら、そういう二人だからこそ、こういう判断ができるのかもしれない。健全に過ごしすぎた親たちは、具体的にどうのとか、そういう事を打ち出すのは難しいのだろう。そして、彼らには、健全過ぎて、感情を持て余しすぎる弱点もあり、助けてくれる人に対して、嫉妬というものを生じてしまうこともある。それでまた、せっかく支援してくれた人に対しても軋轢が起きてなおさら、ということもある。本当に人間というものは難しいものだなと考えざるを得ない。
朗本人は、祖父母である寿々子と誠一のところにいる。相変わらず、言葉は出ないし、茶碗を落とすし、匙も相変わらずうまく使えない。それでも祖父母は、辛抱強く匙の持ち方も教えた。決して怒鳴ることはしなかった。味噌汁で畳を汚しても大丈夫だからと言ってすぐに拭き、それでも怒鳴らなかった。
狂乱になってしまった梅子は、息子の下を訪れることを許されなかった。誠一は、彼女に決して息子に手をあげないと誓いを出せるまでは、朗を渡さないと宣言していた。ああして狂乱になった時点で、すでに尋常ではない精神であり、彼女はすぐに子供を持つべきではなかったのであり、きっと、彼女自身もよい育ちをしていない。そういう壁を自力で乗り越えられる人もいるが、大概は無理であるから、子に手をあげるということは、彼女が子育てというものはできないというのを示す証拠だと誠一は言っていた。だから、朗をそういう親にやっても、幸せにはなれない。それではあまりにもかわいそうだ。だからわしらが何とかしよう。そう言っていた。
梅子は、三度の食事は保障されていたが、もはや朗と顔を会わせることは許されず、会話することも、一緒にどこかへ連れて行くことも許されなかった。はじめのうちは朗を返してくれと主張したこともあった。これからは、もうあの子の首を絞めるような馬鹿な真似はしないからと涙ながらに訴えたこともあった。しかし、それらはすべて演技だと一蹴され、決して受け入れられることはなかった。だんだんに、梅子は何もする気がなくなっていき、どこかへ出かける気にもならず、風呂にも入る気も起らないし、化粧もしない、髪を結う気にもならない、朝になって着物を着換える気にもならなくなり、一日中布団の中で何もしない生活に変わっていった。取り合えず、ご飯だけは、友子が毎日欠かさず持ってきてくれるが、それ以外、何もすることない。いわば、一般的な部屋でありながら、座敷牢にでもいるようなものである。
誠一は、そんな彼女について、かまわない、放っておけと言っていた。こういう事は、周りがいくら言っても効果はなく、彼女が立ち上がってくれるのを待つしかないとも言っていた。友子たちも、先ほどの話し合いの結論から、朗の世話はするが、それ以上のことは立ち会わなかったから、梅子のことについてはほとんど言及しなかった。
新五郎は、というと、経済的に力になるというのはまんざら嘘でもないようで、買取の業務も嫌がらずに行っていたし、両替屋の仕事もしっかりとこなした。しかし、彼はほかの家族とはほとんど口を利かないし、朗のところにも寄り付かなかった。その新五郎にも、手を出すものは誰もいなかった。
「こんにちは。」
丸野さんがやってきた。
「元気かい。」
そう言っても、増田家はどよーんとしていて、重ったるい空気が流れていて、元気かいという言葉はとても一致しないという雰囲気であった。
でも、丸野さんは、必ずそういうのである。例え返答がなくてもそういう。
「ああ、ありがとうございます。」
と、裕が売り台の前に座ってそういうが、とても元気かいに相応する返事ではなかった。
「これをちょっと崩してくれないかな。」
丸野さんは、一両を差し出した。
「ああ、分かりました。ちょっと待ってくださいよ。」
裕は一両を受け取って、丁銀に引き換えた。そして、
「人間もお金みたいに、すぐに細かいのにかみ砕けたらいいのにな。」
とつぶやいた。
「ああ、無理だねえ。」
丸野さんが当然のように言う。
「すみません、言ってはいけない話でした。」
「そうそう、ダメだよ。小判と人間は違うんだぞ。はい、切賃。」
「両替屋は切賃で儲けるのに、これもらってもうれしくないのはなぜなんでしょうね。」
「そうか、切賃もらってもうれしくないのか。それくらいつらいのか。」
確かに、金を儲けてもうれしくないほど、落ち込んでいるということになれば、相当つらいなということになる。
「裕ちゃん、両替商をしてよく思うのだが、金額の大きな金を少しもっているよりも、実際には小さな額であるのに、大量の銭を持っている人のほうが幸せそうに見えるのだと君はしょっちゅう言っていたじゃないか。朗ちゃんだってそういうもんじゃないのかい。もしかしたら、一つのことが、他の子にとっては一文にしかないのかもしれないが、朗ちゃんにとっては何十両と同じことかもしれないぞ。そういう事だと思うけどなあ。」
「いや、丸野さん、それはうちの中だけのことであって、外へ出れば一文は一文でしょうに。」
丸野さんの励ましに裕は閉口したが、
「両替屋なんだから、お金の価値は誰よりも知ってるだろうが。」
と丸野さんは続ける。
「そうですねえ、、、。」
「まあ、出口はなかなか見えないだろうが、頑張んなさいよ。」
人はこうして励ましてくれるし、たとえ話もしてくれる。こういう事は一度や二度だけではなく、何度も遭遇する。なぜなら、人はそうなることで格好良くなっているという錯覚に陥るからである。実は、当事者にとってこれ以上の迷惑はないと言っても過言ではないのだが、
この錯覚のせいで、改めようとはしない。まあ、確かに丸野さんは、こうして自分の商売に例えて励ましてくれたのだが、内容は一般の人と変わらない。何を言っても無駄だ、と裕も思う。
「お父さんと、お母さんは元気かい?」
と、丸野さんはそれも欠かさないで言う。
「ああ、元気にやっていますよ。まるで僕らよりも元気で、朗の世話をしています。」
こればっかりは、本当で、自分よりも元気である。こういう時には、若い人より年寄りのほうが元気になれるのだろうか?なんかそういう気がしてしまう。
「今の時代は、若い人より、年寄りのほうが元気になれるのでしょうかね。僕らが衝撃で落ち込んでいる間に、あの人たちは、何でも片付けてしまうので、、、。本当は、若い僕らがやらなきゃいけないんですが。」
裕は、そう言って大きなため息をついた。
「うん、それはそうだ。特に新五郎ちゃんが何とかしようと思わないとだめじゃないか。」
丸野さんもそれに同意してくれた。
「梅子さんもああなってしまったし。年よりは、守ろうとするところには能力を発揮するが、進めようとする力は弱いぞ。女性とか、年寄りとか、そういう人たちは、そういうところには、不向きである場合が多いよな。大体、お家騒動が起きても、活躍はしないじゃないか。そういう時は、やっぱり、若い男が率先していくというのが一番いいと思うのだが。」
「さすがは丸野さんだけありますね。そういうところから、あれだけ大きな旅館を作り上げることもできたんですね。でも、僕らみたいなただの両替商には、できないですよ。丸野さんみたいな大きな発言は、経済力があるからできるようなもので。」
裕は、最も現実的な意見を言った。
「いや、裕ちゃん、そういう事も確かにそうなんだけど、その一線を思い切って超えるということもしないと、いけないんだよ。」
「そうですけどね、丸野さん。」
「それじゃだめだぞ。だから君はいつまでも意気地なしと言われるのではないかな。」
丸野さんはちょっと彼を叱るように言った。
確かに、あまりにも慎重すぎたり、現実的すぎたりすると、こういう称号がなぜかついてしまうのである。裕から見ると、ただ現実に従っているだけなのであるが、それはなぜか格好悪いとみなされてしまう。人間の評価というものは本当に不正確だ。
「誰が正しいかなんて、本当に言えませんね。そして、誰に従っていけば必ず大丈夫だという人は誰もいませんね。」
これがたぶん究極の答えなのだろう。
しかし、これを出すと多くの人は失望するか、声を立てて笑うかのいずれかに属す。
経営者である丸野さんは、当然ながら後者のほうだった。
「まあ、そういう事かもしれないが、まず何をしたいか考えておくのも大切だぞ。」
「はい、頑張りますね。」
良いのか悪いのかわからないけど、裕はそのように言った。
一方、友子は朗を連れて散歩に出ていた。誠一が、朗まで部屋に閉じ込めておくのはいけないと言ったため、友子は定期的に、彼を連れて散歩に出ていた。最近では朗も自分の前に長い影が来ないように歩けば、素直についてきてくれるというところを見せてくれるようになったので、それさえ気が付けば、おとなしく散歩ができるようになっていた。
丁度、一件の小さな店の前を通りかかった。そこは呉服店。あんまり縁のないところだなと通り過ぎようとすると、
「友子さん。」
後を振り向くと、
「あ、野上のお嬢様!」
まさしく花子が侍女と一緒に立っていた。
「どうもこんにちは、朗ちゃん。」
花子は、一度しゃがんで朗と同じ目線になってくれたので、朗も何も怖がらず、ああ、ああと、自分では挨拶しているのだろうが言葉にはなっていない挨拶をして応じた。
「よかったわ、彼と話すときには、視線を同じ高さにしなければだめだと、父がそう言っていたから。」
花子は、再び立ち上がってにこりと笑った。
「ど、どうもありがとうございます。お嬢様までご配慮していただけるなんて、、、。」
思わず友子が礼を言うと、
「いいえ、父がなんでも話してくれるので。」
と、答えが返ってくる。あ、なるほどなという箇所もあったが、同時にこれは自分にはできないな、とも思った。確かに教えてもらうことは誰だってできるが、すんなりと受け入れができるのは、やっぱり「父子」だから、と解釈することもできるのだ。「なんでも話してくれる」のも、父親ならではだろう。
「それにしても今日は何かお買い物ですか?」
友子は、話題をそらせて花子に聞いてみた。
「ええ。お父様に新しい下駄を買おうと思って。」
「新しい、ですか?」
「昨日、鼻緒が切れたから、というのもあるけれど、お父様の誕生日でもあるから。」
「そうですかそうですか。お嬢様から新しい下駄をもらえて、野上様も幸せでしょうね。」
自分では絶対に受け取れない特権だろうなと、友子は思った。つまり自分がどんなに苦労をしたとしても、誕生日に何かもらうことはおそらくないだろう。いくら朗少年に愛情をかけても。だって自分は「母親」ではないから。
つまりそうなるんだ。
そうなったら、自分は耐えられるかな。
彼に心から接してきたのは自分なんだ、実の母親だからって、何でも横車を押そうとしたと言ってもそうはいかないぞ、なんて主張は果たして通るか。
答えは、きっと通らないだろう。
「母親」ではないから。
何をしたって、やっぱり子供が一番に考えるのは「母親」または「父親」だろうから。
勿論、三歳の朗少年が、口に出してそういっているわけではないし、梅子も床に伏してしまっているので、何か主張しているわけではないけれど、何れ、近いうちに具体的にどうなるかはわからないけど、「親」のほうが優先になる時期はやってくる。
いくら、自分が一生懸命やったと主張しても通じないこともたくさんあるだろう。
そういうとき、もしかしたら今度は自分が本成と化すのではないか。
そうしたら、またきっと、増田家がおかしな家になってしまって、一番の被害者は誰になるだろう。
子を持つとはそういう事だ。そういう事なんだ。
「誰が一番か」をいつも考えておかないと子供というものは育てられない。
勿論、野上の旗本様だって、こういうほかの子とは違うお嬢様を持って、大変だったんだろうと思う。でも、お嬢様が、こうして新しい下駄を買いに行こうとすることができたから、やってこれたんだろうなと思う。
理由はただ一つ。実の父子だからである。
私は違う。おばさんだ。
「どうしたの、友子さんらしくないわよ。暗くなっちゃって。」
「ああ、ごめんなさいね。ちょっと考え事してしまいまして。」
「あんまり落ち込んでいると、朗ちゃんが悲しむわよ。誰だって、落ち込んでいる顔は見たくないわよ。」
そうなのだ。落ち込んだり、悲しんだりしている顔は、なるべくなら小さな子供には見せてはいけない。
「そうですね。お嬢様。うちも、本当に悩みの多い家庭ですけど、頑張ってやっていきますよ。じゃあ、私、そろそろ一先ず帰ります。」
「ああ、そうね。長く引き留めてしまってごめんなさい。また、会いましょうね、朗ちゃん。」
もう一度、花子は朗と同じ目線になり、朗の頭をなでてくれた。朗も、にこにこ笑ってそれにこたえる。こうして何も抵抗感なく話しかけることができるのは、身分の高い女性でないとできない。でも、友子はそんなことは気にしなかった。気にしたら、彼がまた傷ついてしまうかもしれない。
「じゃあ、またね!」
「はい、またよろしく!」
彼女たちは、互いに別の方向へ歩き出す。朗少年もあ、あ、と声を出して、あいさつにならない挨拶をする。身分の全く違う二人の女性が、こうして交流を持てることはなぜかわからない侍女は、不思議そうな様子で二人のやり取りを見ていた。
次の日も友子は、朗少年と一緒に遊んだが、なんとなくそれまでとは気持ちが違っていた。これがその次の日も、またその次の日も続いた。
裕は、その日そば打ちの稽古で宇多川玉の下を訪れていた。自分では、師匠の指示に従ってそばを作っているつもりだったのだけど、
「裕さんどうしたのですか。」
と、一枚の紙が彼の目の前に飛び込んできた。
「な、何でもないですよ。」
と言っても、玉は首をかしげたまま。聞こえていないのだと思いだした裕は、「なんでもありませんよ」と紙に書くと「違うでしょう」と返ってくる。そして、筆をとり、何か書き始めた。
「何かあったんでしょう。その顔でわかりますよって、わかってしまうんですね、宇多川先生は。」
きっと、耳が遠いから、勘が鋭いのだ。これではごまかしはできない。
「甥子さんのことですかって、僕、朗君のことを直接話した覚えは、、、。」
再び書かれた言葉を読んで、改めてそれを確信する。どこで知ったのですかと書くと、野上の旗本様に聞いたと答えが返ってくる。そうか、そのくらい頻繁に呼び出されているのかと宇多川先生の腕のよさには感動というかなんというか不思議な感情を覚えるのである。同時にお嬢様の食わず嫌いは、そこまでひどいかということも示され、不憫だなとも思う。
「宇多川先生、ちょっと教えてください。先生には言いにくい話かと思います。でも、うちの家を建て直すには、実談というものが一番だと思うのです。」
裕は、すごく勇気を出して、質問を書き始めた。玉も、それについて、はじめのころは戸惑っている表情を見せたが、何かを決断したようで、答えを書いていく。
「そういうもんなんですか。」
出来上がった答えを読んで、裕はがっかりしたというか、なんともやるせない気持ちだった。
そして、隣に、「では、梅子さんはこれでは永久に救われないのではないですか」と書いた。すると玉は「実の親で有ろうとなかろうと、教える側が見返りをほしがるのが間違いなのです」と即答する。裕が理由を教えてくれと書くと、「教えられる側にとっては当たり前の技術であるから」と理由が書かれた。続けて、「特別なものをもらうわけではないのですから、誰か特定の人物には感謝し、他の人物には何もしないということはありません」と書かれた。
「そうですか、、、。」
裕が最初にした質問はこうだ。
「自分たち他人が何かしていくよりも、実の親に教えていただいたほうが、長く覚えていられるのですか。結局のところ、他人から教わるより、実の親のほうが、当事者としては身につくものなのでしょうか。」
隣に書かれた答えはこうである。
「そのようなことは絶対にありません。教える内容が、本人にとって、必要なのか、必要でないのか。そこが違うだけです。」
しばらく黙り込んでしまった裕であったが、結局、こうなる運命だと思った。
きっと、朗少年は、これから先、自分にも友子にも誠一や寿々子にも感謝しようとは思わないだろう。ただ、自分にとって、面白いと思う事、必要だと思う事、そういうことだから今、彼等になついている。それだけのことだ。
絶望的な気持ちになっていると、不意に肩がたたかれる。そして、一枚の紙に書かれた文書が、裕の前に現れた。
「かといって、私は、教えてもらわなかったら、このように生活はできなかったこともまた事実です、宇多川先生、、、。」
そういう事だ、と裕は結論を出した。
きっと、感謝されることはない。でも、朗を一人前に育てることはできたなら、自分が朗を一人前位にさせたという自信だけはつく。
きっと、お礼をもらうこともないだろうが、逆を言えばそれが、裕たちが朗からもらう「お礼」なのかもしれない。そう言えば昨日友子が、自分はいくら朗ちゃんを育てたとしても、実の親でないのであるから、野上のお嬢様のするように、贈り物をもらうことはたぶんないだろうな、そのせいで、私が梅子さんのような本成になったらどうしようか、と愚痴を漏らしていた。おそらく、今の宇多川先生の言葉から導き出された結論が、答えなのだ。誠一や寿々子は年をとっているので、そういう事を知っているのだろう。自分たちは、それを知らなかったから苦しかっただけだ。この答えは、友子さんにも聞かせてやらねばだめだ。そうして、導いてやることも、男の務めである。
「宇多川先生、ありがとうございました。やっぱり聞いてみるだけありましたよ。これからもきいてしまうこともあるかもしれないですけど、その時は、できの悪い弟子で困ったと思ってしまうかもしれませんが、教えてくださいませ。」
裕は敬礼するが、玉には聞こえない。裕は急いで「ありがとうございます、これからも教えてください」と書いた。すると、「役には立ちませんが、参考程度にしてください」と書かれる。通じたのか通じていないのかわからないけれど、宇多川先生はそういう謙虚なところは、他の人より優れていると思う。
「じゃあ、お稽古、続けてください!」
吹っ切れた裕は、再びそば粉の山に向かい始めた。
一方、買取に出かけていた新五郎は、今日も「値打ち」のある物をたくさん買い取っていた。もうだいぶ買取業務にも慣れた彼は、これらの品物がいくらくらいで売れるかも大体予想がついている。これらを売ることができたら、かなりのもうけを得ることができるだろう。そうすれば、朗にももっと接してあげて、裕たちがやっていることよりも、より実用的な事項を教え込むことだってできる。具体的に言えば、匙をしっかり握ることから始まって、ご飯を落とさずに食べること、着物も麻の葉以外のものを着ること。そういう事を覚えてもらうのだ。そのためには、店に女中を雇うとか何とかして、自分たちは朗の教育に専念したい。ああいう子は、親がつきっきりでいるくらいの覚悟が必要になる。そうでなければ、一人前の人間には育っていかない。そして、親がここまで育ててあげた、育ててやったことをわからせることも必要だ。そのためには多少の厳しさも必要なのだ。いまは、多少苦しくても、いつかは、朗のほうが育ててくれてありがとうと、言葉や態度で示してくれるはずである。
それを一縷の望みとすれば梅子だって、、、。買取の仕事で、何軒かの家を回りながら、新五郎はそんな計画を練っていた。
そう、そのわずかな望みだけを頼りに自分たちは生きていくのだと。
それが、梅子が立ち直ってくれるためには唯一の希望なのだと。
そう確信していた。
その日、買い取ったものを乗せた大八車を引っ張って、新五郎は増田屋に戻ってきた。
中では、また須磨琴の音がする。
これからは、兄夫婦ではなく自分達が何かをする番なのだ。兄にわずかばかり感謝をして、新五郎はこれからの計画を家族に伝えるべく家に入っていく。
友子や、裕たちが、あのような結論を出しているのも知らないで。
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