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第四話 誰が一番か
第三節
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第四話 誰が一番か 第三節
「いや、すごいですよ。」
と、言われるほど、朗少年の腕前は天才的だった。誠一が須磨琴を楽器屋で買ってきてからというもの、毎日毎日須磨琴に向かい、いつまでたってもやめないで演奏を続けているのであった。
隣で縫物をしながら、演奏を聞いていた梅子は、須磨琴という楽器の音は、あまり好きではなかったが、毎日嫌というほど聞かされるので、平気になってしまった。もしかしたら、途中で飛び出してしまうといけないので必ず誰かが側についているようにという誠一の指示により、梅子が隣でそばについていたが、朗少年は梅子の足の裏がしびれるまで楽器を弾いた。
「あんなに弾いて、疲れないのかしら、それによく飽きないでいられるわね。」
梅子は縫物をする手を休めて、楽しそうに須磨琴を弾いている朗少年を見た。
「二人とも、ご飯よ。」
障子が開いて友子が顔を出した。
「朗ちゃん、ご飯にしよう。」
友子は、一度正座して、彼と同じ目線になってから言うようにしている。肩を叩いたり、頭上から声を聞かせたりすると、彼は嫌がって泣く。梅子も最近は、朗少年に対するテクニックとして、やむを得ずこれを使うようになった。先日、店を訪問した野上の旗本様が、彼は、頭上から声が聞こえて来たり、目の前に黒い影が見えたりすると怖がるのではないかと、ヒントを出してくれて、やっと納得することができたばかりである。その通りなのか観察してみると、どうもそう考えたほうが、一番納得できる。やっぱり偉い人は得だ、と梅子は反発したが、視点を変えれば、これは救いの手を出してくれたようなものでもある。身分何か関係なく、教えてもらったんだからそれでいいじゃないかとにこにこしている両親や裕たちに、梅子はどしても疑問を持ってしまう。
「ご飯にしよう。」
友子が、こうして簡単に声をかけられるのも不思議。そして、朗が友子には反応し、従順に従うのもまた不思議。彼は、友子の声かけにはすぐに演奏をやめる。自分の時はどうだろう。同じようにご飯にしようと声をかけても、無視はするし、体を障れば怖がってなくし、立ってものを言えば、逃げてしまう。だから、梅子にできることと言えば、最も落ち着いている須磨琴を弾いているとき、彼の隣に座って縫物をしているしかない。声をかけたり、ご飯を食べさせたり、服を着せたり、日常的なありとあらゆることは、すべてほかのものが担当する。
その時も、朗少年はにこにこしながら友子について部屋を出て行く。自分についていくことはほとんどないのに、なぜ友子おばさんには、、、?野上の旗本様は、たとえそうなったとしても、助けてもらうのだから、嫉妬してはいけないと私に言った。でも、そういう事は偉い人でないとできないのではないかと私は思う。一般的なただの両替屋でしかない私には、そういう風に容易く切り替えなどできるはずない、、、。毎日毎日、梅子はこういう感情に襲われる。
「梅子さん、ご飯だってば。」
思わず肩を叩かれてびくっとする。
「あ、あ、ごめんなさい。」
と、返事をして梅子も食堂へ向かう。朗の手は既に友子の片手にある。そして、梅子が手を出せばビーと声をあげて泣きだすということもあるから、変に手を出すことはできないのである。
「行きましょうよ。」
食堂へ向かうときも気を付けなければならない。必ず梅子は彼の後ろについて、彼の目の前に自分の「影」を作らないようにと、野上の旗本様からくれぐれも注意されている。好奇心で、じゃあやってみるとどうなるのかと、わざと影を作ってしまったら、また声をあげて泣きだすことは目に見えている。友子おばさんには決してそういう態度は見せないのに。なんで私だけこうして損な役割を?頭の中を考えが回って、落ち着いてご飯を食べていた日なんて、もう何十年も前に過ぎてしまった気がする。
食堂に入れば、おばあちゃんの寿々子の方へ行ってしまう朗少年。最近は、寿々子や友子の指示にも少し従ってくれるようになって、うまく使えないけれど匙を握るようになってくれた。もちろん食べ方はまだまだ下手で、茶碗を落とすことはしょっちゅうあるので、梅子はイライラする。それでも、それを尻目に食べ続ける朗少年は、本当に幸せそうである。そして、着物をいくら汚してもすぐに着替えさせ、茶碗を落としても涼しい顔をして片付ける友子や寿々子たち。どうしてそういうことができるんだ!と、梅子はじれったくなる。誠一も裕も絶対に怒らないで「黙って」その作業を見ていることができるし、嫌な顔一つしない。
その日も、朗少年は、茶碗を落として畳を汚したが、寿々子も友子も黙って片付けて、誰も苛立った態度を示すことはなかった。もう畳は、彼が何回も味噌汁をこぼすせいで、黄色く汚れてしまっていたが、誰もこれを嫌だとか恥ずかしいという人はいない。梅子は、畳を張り替えてわからせたほうが良いのではないかと言ったこともあるが、どうせそれをやってもすぐに汚してしまうだろうから、かえって損をすると、誠一が簡単に没にしてしまった。
「ごちそう様。」
友子たちが合図をすると、朗少年は、すぐに立ち上がって友子の手を引っ張って須磨琴の前へ戻ってしまう。このとき、連れて行くのは母親の梅子ではなくて、友子おばさんであるのも、疑問点に感じることである。朗が楽器を弾き始めて夢中になっているときに、こっそり母親の梅子に「監視役」が交代する、という儀式が行われる。これが毎日だから、梅子は嫌になる。
そして、肝心の父親である新五郎は、最近は遠方へ買取に行くからと言って、朝早く家を出てしまい、夜遅くまで帰ってこない。なので、こういう儀式の間には立ち会わないことがほとんどなのである。そして、遅くまで働いてきた亭主に、女が愚痴を漏らすことは、まずいけないこととされているので、梅子は新五郎に愚痴を漏らすことはない。新五郎も新五郎で、家で起きているそういう事に、関わろうとしないのがまた困ったところである。誠一は、新五郎は間違った解釈をしているので、そのほうがいいだろうなんて公言していて、わしらが朗をしっかりと育ててやればいいのだという。実の親が、育児に関われないのは、倫理的に言ったらいけないことかもしれないが、間違ったことを押し付けて悪影響を与えるほうがよくないと、裕も言っている。寿々子もそれに同調しており、さすがに梅子さんも新五郎もいらないということはないが、むしろ彼らが実の親だったほうが、良いのではないかと思う事さえある。
そしてまた、パッヘルベルのカノンが聞こえてくる。
「あれが一番のお気に入りなんですね。」
裕が、茶を飲みながらそう呟いた。
「いいじゃないか裕。お前がそれを持ち出してくれたんだから、そのきっかけを作ってくれたんだから、わしらは感謝しているくらいだぞ。」
誠一は平気な顔をしている。
「そうそう、それのおかげで朗ちゃんすごく明るくなったし、毎日楽しそうに弾いているんだからそれでいいじゃないの。何よりも、ああいう子は楽しんでやれるのが何よりも大事なんだから。」
寿々子もそう言っていた。
「そうなんですけどね。新五郎がもう少し協力してくれれば、、、。」
「裕、そういう事は考えるな。できないやつは、他のことで補うようにすることが大切だ。」
「そうですか?お父さん。」
「適材適所という言葉もある。新五郎は新五郎で、やることがあるんだから、それに専念してもらうことも大切だ。ほら、裕も急いで食べて、稽古つけてやれ。」
「はい、、、。」
裕は、何か腑に落ちないところがある様であった。
隣の部屋で、ああ、ああと笑っている声が聞こえる。それに合わせて友子が何か言っているのも聞こえてくる。
聞こえてくるのは、声だけで、言葉には全くなっていない。
それはそれでいいのだが、一番悔しいのは梅子で、なぜ自分にはできないのだろうという劣等感と、本来すべきことが全くできない欲求不満との板挟みになって、本当に悔しかった。
とはいえ、誰も梅子には誰も声掛けをするわけではないし、夫の新五郎は出かけてしまっているし。不満をぶちまける相手がいるわけでもないから、自分だけはどんどんつらい思いがたまっていく。
梅子は、その日は朗少年の下へ行かなかった。
初めてこうしてみた。自分が関わらないようにして見て、果たして朗少年は自分が恋しいとか、おかあさんがやっぱりいいとか、そういう事を態度で示してくれるだろうか。はじめのころはそれを期待していた。期待していた。
しかし、何も言ってはこなかった。
何も示してはこなかった。
いつも通りに、裕から須磨琴の伝授を受け、楽しそうに笑っている。
友子と一緒に近隣の食料品屋に食材を買いにいく。
再び茶碗を取り落として、片付けてもらいながらも夕食を食べる。
誠一に着物を脱がしてもらって、遊んでもらいながら風呂に入って、そのあとは友子に本を読んでもらうとか、時に誠一の将棋に興味を示したりすることもある。何かあれば声を出して笑い、にこにこして祖父の誠一や伯母の友子に飛びつく。勿論言葉にすることはなく、文章にすることはまるでできないけれど、、、。
でも楽しそうだ。
楽しそうだ。
そして、途方もなく悲しくなった。
本当にこれだけはどうしても悲しかった。
本当に。
本当に。
本当に。
「梅子。」
声がして、梅子ははっとした。
「どうしたんだよ。」
振り向くと、新五郎だ。
「そんなにぼろぼろ泣いて、、、。」
もう我慢できなくなって、梅子はばあんと畳を叩いて泣き崩れた。
「私もう出て行きたい!もう、この家にはあたしは必要ないんだわ!」
本来なら、大の大人がこんな風に泣いてなにになるとか、そんな風に泣いて恥ずかしいことをするなとか、そういう事が返ってくるはずだ。
「ごめんね。」
これが答えだった。
「悪かった。」
「え?」
顔をあげると、新五郎が隣に座っていた。
「悪かったよ。」
この一言で、梅子はがっかりではなく、希望が持てたような気がした。この人は悪人ではないなと確信した。
「じゃあ、一緒に逃げようよ。そして、あたしたちだけでもう一回両替屋でもなんでもやって、そして新しい家族を作ろうよ。もう、朗はあきらめる。正常にならないとわかるし、友子さんたちがいればいいんだから諦められる。だから逃げよう。」
梅子はやっと自分の一番言いたいことを、夫に伝えることができたと思った。
「馬鹿なことを言うもんじゃない。子供を捨てて逃げていく親がどこにいる。」
夫から来た言葉は期待外れ。
「だってもうあたしはここでは必要ないじゃないの!朗のことは、友子さんたちに任せておけばそれでやってくれるでしょ。だって、私は、朗にも必要とされてないのよ!だって、あの子ったら、一日中友子さんたちのところへくっついたまま、私の事には見向きもしないんだから、、、。」
「しかし、朗は友子さんの子供ではなくて、俺たちの子だろ。」
「あなたって人は、何もわかってないのね!いつも、朝いちばんに買取に出て行って何も見てないからそんなことが言えるの!一日中、友子さんたちのそばを離れないで、いつまでも楽しそうにして、私には笑うなんて、まるでないのよ!だから私なんてあの子にとってはへの河童くらいしか見られていないんだわ。あの子は、一絃琴という奇妙奇天烈な楽器を裕さんに教えてもらえるし、大好きな麻の葉の着物だって友子さんに買ってもらるんだし、ご飯の片づけはお母さんがしてくれる。だから私の出る幕は何一つないじゃない!」
「あのな、お前はそうなのかもしれないが、俺だってそのことを認めていなわけではないからな。俺は別に、朗がおかしいからと言ってそこから逃げたくて、毎日買い出しにいっているわけではないんだよ。」
新五郎は、耳の痛い話を始めた。
「いいか、今でこそうちでいろいろやっていられるかもしれないが、近いうちに大きくなるんだから、そうなると、いろいろな面で金がかかってくると思うんだ。そのために今、買取に行ったりして、金をためているんじゃないか。」
「そんな悠長なことを考えないで今のことを考えて!今のこと!」
「だから、今は経済的にしっかりしておく時期なのかなと思っている。幸い、兄ちゃんやお父さんたちがいるから、世話はまかせておけばいいと思う。その間に俺は一生懸命金をためて、いつか何かが起きた時に備えておくことに専念しようかと。」
まあ、確かに男性というものは先を見こうして行動することにたけている。そして、今あることを把握して道具として使うことも長けている。でも、女性というものはそうはいかない。
「そうじゃなくて、あたしのことも考えて!」
「あのな、お前もよく考えろよ。仮に家を出て、朗を俺たちだけで育てることになれば、朗がやっていることをすべて俺たちが解決しなければならないことになるんだ。それはきっっと、ものすごい負担というか、大変なことになると思う。だから、分業していると考えればいい。だから、俺たちは、俺たちができることをやればいいんだ。それでいいと思わないと。お前は、俺が朗のことを放置しているように考えているが、俺だって悩んだこともあったんだ。そうして、今の家の状態を維持していくのが、朗のためには良いのだと決めた。だから俺は今、経済的に力になろうと思っている。だってお前は、朗のことでさんざん悩んできただろう。それを、友子さんたちは解決できるんだから、できる人に何とかしてもらうのは当たり前なんだと思うけど、、、。」
「あなたがそんなこと言うなんて、おかしくなったのはそっちよ!今まで朗にあんなに手をあげていた人がなんでそんなセリフを言うことができるようになったのよ!」
「考え直したに決まってるじゃないか。何回も考え直して、畢竟してそうしようと考えなおすようになった。」
「それどこで思いついたの?いつ考えを改められたの?」
「いろんなところで買い取りに行っている間にそう思いついたんだ。この仕事をやっていると、本当に要らないというものより、まだまだ使えそうなものを買い取ることが多い。それを平気で手放せる人ってのは、ある意味幸せな生活なんだよ。うちの家では、そういう事はできないだろうなと思う。だから、もうこういうときは開き直って、じゃあどうするかを考えるしかないんだよ。」
こればかりは、男性ならではの特権だった。仕事で家を出る時間があれば、外へ出て客観的にみることができるようになるのだろう。また仕事をすることで他人とかかわりあいもあるので、それによってヒントをもらうこともあり得る。女性の場合は、家にいることが多いから、そういう機会に恵まれるのは極端に少ない。
「ずるい!」
と、梅子は怒鳴りつけた。
「あなたって人は、一人で勝手にそんな改心をして、かっこよくなったように見えるけどね、私から見たら、何もない、ただのずるい、身勝手なだけよ!」
「お前だって、何れは考え直さなきゃだめだと思う。いいか、感情だけで動いてはいけない。もし、辛いようだったら、周りを観察しろ。そして、使えそうなものは使ってしまえ。そういう風に考えておくことも大切なんだと思う。」
「私の事はどうでもいいってこと!私が、今こんなにつらいと訴えてはいけないの?私は、今のつらいまま生きて行かなければいけないの!」
「つらかったら何か読んで勉強するとか、誰かに相談するとか、自分で行動を起こせ!自分がつらいと言い続けるようでは、まだまだ理解はできてないのだと思う。」
新五郎も悪気があっていうわけではない。彼なりに、悩んで結論を出し、そしてこういう態度をとっていると伝えたいだけなのである。新五郎は、何回か買取の仕事に出向いて、「受け入れるしかない」という結論にたどり着き、そのためにはどうすればいいかを彼なりに導き出すことができたのだ。それだけのことである。
「だったら私にも教えてくれればいいじゃない!なんであなたは自分だけ得をして、自分だけが対策をとって、そうやって生活を楽にする方法を見つけられたのに、それをなんで私には教えてはくれなかったの!私だって、ここまで苦しんでいたのに!」
「あのなあ、こういう事は他人が教えてくれるもんじゃないんだ。そこへ行くまでの経路は人によって違うから。」
まあ、教育的に言えばそういう事にはなる。そういう理由でもある。でも、このとき梅子ははいそうですかと素直に言うことはまるでできなかった。
「ずるいわよ!ずるいわよ!なんでみんな自分だけがそういういい結論を出したとしても、誰かに教えようとする気にはならないで、自分だけが格好つけているだけなのかしらね!もう、私を誰も助けてはくれないのね!私は永久にさらし者で生きていくんだわ!」
その怒鳴り声は隣の部屋にいた、友子たちにも聞こえていた。
「止めに行きましょうか?」
友子が誠一にいうと、
「いや、よした方がいい。」
誠一も困り切った様子だった。
裕が、
「やっぱり、僕がいけなかったのですかね。」
とつぶやくと、
「いや、裕、それは思うなよ。お前のおかげで朗が一絃琴に関しては天才的な才能があることが身抜けた。これは、きっと朗にとっても、わしらにとっても、必ず何かの支えになることは明白だ。それはお前でなければ、見つけられなかったと思うから。」
父親らしく、誠一はそう励ましてくれた。こういう言葉はおそらくだけど年を重ねて行かないと出てこないと思われた。
「そうよ。きっと、朗ちゃんだって、お父さんとお母さんがああいう風に喧嘩していたら、何かしら罪悪感を感じると思うのよ。それを食い止めるためにも、何か特定のものにおける才能というものは、必要になるから!」
友子もそういって、気弱な裕を支えるのであった。
朗本人は、祖母の寿々子と一緒に折り紙を折ったりして遊んでいた。全く関心がないような態度を示していたが、内心ではどう思っているのか。寿々子もそれを心配していた。
この翌日から新五郎と梅子は全く口を利かなくなってしまい、再び増田家の中の空気は陰気臭くて悪いものになった。友子だけがいつも通りにご飯を三杯食べて、朗は茶碗を落とす。
「あ、落としちゃった。朗ちゃん畳を拭こう。」
友子は、いつもと変わらず畳を雑巾で拭いた。
「僕、新しい味噌汁を持ってきますよ。」
「ああ、頼むわ。悪いわねえ。」
裕は台所へ味噌汁をとりに行った。やっぱり、この二人は朗の世話をすることは抜群の人材であることは疑いない。梅子は一応、その部屋でお膳の前に座ってはいるが、二人がやっていることを観察するどころか、もうどうでもいいらしく、青白い顔をして、目をそらせているままである。そんな彼女を、寿々子が心配そうに見ている。
そして新五郎は、今日も買取に行くと言って、出かけてしまったのであった。あの時言ったことは間違いではないらしく、一日も仕事をなまけたことはない。買取もしっかりとこなしているし、両替の業務もやっていて、お客さんともきちんと話をしていた。上の空で取引を終えてしまうとか、仕事におけるミスもしない。むしろ歯を食いしばって何かに懸命に耐えているようで、なんだかとても辛そうだった。
皆つらかった。朗に須磨琴を教える裕も、不和の原因を作ることになるが朗を救うのはそれしかないのがつらかったし、誠一も家庭が不和の状況になって、家長として何とかしなければならないが、余計に家族が傷つく可能性もあり、一歩が踏み出せなかった。寿々子は、ご飯を少ししか口にしなくなり、みるみる痩せて幽霊のように力なくぼんやりしている梅子が心配だ。これを改善するには、誰かが何かをしなければならないが、他のものが傷つく恐れがあるのもまた事実で、それを恐れてみなできないのであった。
そんなある日。
裕が、いつも通り、朗に須磨琴の稽古をしていた時だ。朗少年はだいぶ腕も上がり、パッヘルベルのカノンだけではなく、六段の調べとか、代表的な曲も弾きこなすようになっていた。
「やっぱり、これを弾いていると楽しそうだな。」
裕は、朗の天才的な能力について、そう確信した。
と、そこへいきなりふすまが開いた。
「梅子さん。」
確かにそこにいたのは梅子だが、その顔は、まるで人間というより死霊の様であった。
「こっちへいらっしゃい。」
「どうしたんですか。」
裕の問いかけに梅子は答えなかった。
「いらっしゃい。」
しかし、朗少年は須磨琴を弾くのに夢中になっていて、それどこではなさそうである。というより、こうなった彼を、他のところに関心を向かわせるのは、至難の業であることは裕も知っている。
「梅子さん、呼びかけるときはまず座って、、、。」
裕が言いかけたが黙った。梅子は、朗の正面に立ちふさがった。
黒い影が、彼の前に黒々とついた。
「梅子さん!」
ちょっと語勢を強くして裕が注意したが、案の定、朗はまた怖がって泣きだす。彼が泣きだしたのは久しぶりのことだ。
「朗君、大丈夫だからね。この人は君の母さんだよ。」
裕が説明しても通じない。こういう子は、怖いという感情が大きすぎて、何もできなくなってしまうのが常である。
不意に梅子の手が、朗の前に現れた。がりがり兄ちゃんと言われた裕よりも血管の浮き出た白い手。その手は、彼のどこに?
「梅子さん!やめてください!そんなことをしても解決はしませんよ!」
急いで白い手を朗の首から離そうとする裕だが、意外に真蛇と化した女の手は強力だった。引き離そうとしても離れなかった。体力の問題というより、真蛇と化してしまった感情のせいで、普通の人間より強力な力が出せるものらしい。人が怒りのせいで鬼に化すのは、能面に数多く表現されているが、あまりにも怒りが強すぎたせいで、耳まで削られた鬼女の面を蛇と言っている。さらにその最高峰で殺人魔に変貌したものを、真蛇とか泥蛇というらしいのである。または本成、つまり本当に人間から離れてしまった状態ともいう。よし、こうなれば強硬手段だと思いついた裕は、真蛇の腕にかみついた。
ガブッ、ガブガブガブッー!
本当に噛みついてしまった。もう誰が何をしているかどうでもよかった。
あたり一面、真蛇の叫び声が鳴り響き、次いで、真蛇に危うく殺害されそうになった子供が、泣き叫ぶ声。
それを聞きつけて、友子と誠一が飛び込んできて、それでもまだ子供に手をかけようとする真蛇を押さえつけた。
寿々子も駆け込んできて、子供を真蛇の手が及ばない、安全なところへ背負って連れて行った。
急に女の泣き声が響き渡る。
それは、鬼女ではなく、人間の声であり、彼女、つまり真蛇が本当は悪い人間ではなかったことを表す証拠だ。
少しずつ、真蛇の角が短くなっていき、耳も形を取り戻していき、耳まで裂けた口も、金を入れた恕霊の目も人間の目の形になって、本成から生成となっていき、人間の姿に帰っていく。
「梅子さん、梅子さん、、、。」
友子が、そう話しかけると、やっと彼女は人間らしい泣き声になった。
「もういいだろ、反省しているよ。裕、離せ。」
裕は、彼女が真蛇から、人間の姿に戻っていくまでの間、ずっと真蛇の腕にかみついていたのだ。誠一がそう指示を出すと、裕は静かに彼女の腕から離れた。腕には、歯形がしっかりとついて、ところどころ血が流れていた。
皆、泣きたかった。
彼女を真蛇まで追いつめてしまって、本当に申し訳ないことをしたと思った。
「梅子さんごめんなさい。」
裕が手を着いて謝罪する。
「裕、謝らなくていいぞ。何があっても、実の息子を殺害しようとするのはいけないことだから。」
誠一はそういったが、力はなかった。
「梅子さん、あたしたちも力になれなくて、本当にごめんね。」
友子もそう謝罪をしなければならないほど、真蛇と化してしまった梅子の顔は恐ろしい物であった。今でこそ、普通の人間に戻っているが、あの時のかおは、道成寺に登場する清姫よりも恐ろしいものであった。そして、人間は、簡単に鬼女と化してしまうほどの強い怒りを生じることがある。だからこそ、真蛇の面というものが存在するのだろう。女性の嫉妬を表す面が数多いのは、それだけその事例が多かったからなのかもしれない。
遠くで、幼い子供の泣く声がする。祖母が、一生懸命子守唄を歌ったりして、慰めているのも聞こえる。彼は、真蛇と化した母親を見てどう思っただろうか?子供というものは、大人以上に感じる心を持っている。まして、朗のような普通の子とは違う要素を持っていればその傾向はさらに強くなる。母親が真蛇となってしまったのを目の当たりにすると、子供は何かしらの「症状」を示すことも数多い。
「いずれにしても、今回のことは朗にも大きな傷をつけたな。二人をこれからどうやって立ち直らせるか、それは本当に苦労のいる作業になるだろうな。」
誠一が悔しそうにそういった。
「とにかく、この家の者だけでは、解決はできませんね。」
「そうですね。外部に頼んだほうがいいかも。」
友子の発言に、裕も同意した。誠一もそうだなと、涙ながらに頷く。
子供の、怖がって泣く声と、優しく慰める祖母の声は、まだまだ続いていた。
それと協和するように、真蛇から人間の姿に戻った母親が、しでかしたことを後悔して泣いているのであった。
「いや、すごいですよ。」
と、言われるほど、朗少年の腕前は天才的だった。誠一が須磨琴を楽器屋で買ってきてからというもの、毎日毎日須磨琴に向かい、いつまでたってもやめないで演奏を続けているのであった。
隣で縫物をしながら、演奏を聞いていた梅子は、須磨琴という楽器の音は、あまり好きではなかったが、毎日嫌というほど聞かされるので、平気になってしまった。もしかしたら、途中で飛び出してしまうといけないので必ず誰かが側についているようにという誠一の指示により、梅子が隣でそばについていたが、朗少年は梅子の足の裏がしびれるまで楽器を弾いた。
「あんなに弾いて、疲れないのかしら、それによく飽きないでいられるわね。」
梅子は縫物をする手を休めて、楽しそうに須磨琴を弾いている朗少年を見た。
「二人とも、ご飯よ。」
障子が開いて友子が顔を出した。
「朗ちゃん、ご飯にしよう。」
友子は、一度正座して、彼と同じ目線になってから言うようにしている。肩を叩いたり、頭上から声を聞かせたりすると、彼は嫌がって泣く。梅子も最近は、朗少年に対するテクニックとして、やむを得ずこれを使うようになった。先日、店を訪問した野上の旗本様が、彼は、頭上から声が聞こえて来たり、目の前に黒い影が見えたりすると怖がるのではないかと、ヒントを出してくれて、やっと納得することができたばかりである。その通りなのか観察してみると、どうもそう考えたほうが、一番納得できる。やっぱり偉い人は得だ、と梅子は反発したが、視点を変えれば、これは救いの手を出してくれたようなものでもある。身分何か関係なく、教えてもらったんだからそれでいいじゃないかとにこにこしている両親や裕たちに、梅子はどしても疑問を持ってしまう。
「ご飯にしよう。」
友子が、こうして簡単に声をかけられるのも不思議。そして、朗が友子には反応し、従順に従うのもまた不思議。彼は、友子の声かけにはすぐに演奏をやめる。自分の時はどうだろう。同じようにご飯にしようと声をかけても、無視はするし、体を障れば怖がってなくし、立ってものを言えば、逃げてしまう。だから、梅子にできることと言えば、最も落ち着いている須磨琴を弾いているとき、彼の隣に座って縫物をしているしかない。声をかけたり、ご飯を食べさせたり、服を着せたり、日常的なありとあらゆることは、すべてほかのものが担当する。
その時も、朗少年はにこにこしながら友子について部屋を出て行く。自分についていくことはほとんどないのに、なぜ友子おばさんには、、、?野上の旗本様は、たとえそうなったとしても、助けてもらうのだから、嫉妬してはいけないと私に言った。でも、そういう事は偉い人でないとできないのではないかと私は思う。一般的なただの両替屋でしかない私には、そういう風に容易く切り替えなどできるはずない、、、。毎日毎日、梅子はこういう感情に襲われる。
「梅子さん、ご飯だってば。」
思わず肩を叩かれてびくっとする。
「あ、あ、ごめんなさい。」
と、返事をして梅子も食堂へ向かう。朗の手は既に友子の片手にある。そして、梅子が手を出せばビーと声をあげて泣きだすということもあるから、変に手を出すことはできないのである。
「行きましょうよ。」
食堂へ向かうときも気を付けなければならない。必ず梅子は彼の後ろについて、彼の目の前に自分の「影」を作らないようにと、野上の旗本様からくれぐれも注意されている。好奇心で、じゃあやってみるとどうなるのかと、わざと影を作ってしまったら、また声をあげて泣きだすことは目に見えている。友子おばさんには決してそういう態度は見せないのに。なんで私だけこうして損な役割を?頭の中を考えが回って、落ち着いてご飯を食べていた日なんて、もう何十年も前に過ぎてしまった気がする。
食堂に入れば、おばあちゃんの寿々子の方へ行ってしまう朗少年。最近は、寿々子や友子の指示にも少し従ってくれるようになって、うまく使えないけれど匙を握るようになってくれた。もちろん食べ方はまだまだ下手で、茶碗を落とすことはしょっちゅうあるので、梅子はイライラする。それでも、それを尻目に食べ続ける朗少年は、本当に幸せそうである。そして、着物をいくら汚してもすぐに着替えさせ、茶碗を落としても涼しい顔をして片付ける友子や寿々子たち。どうしてそういうことができるんだ!と、梅子はじれったくなる。誠一も裕も絶対に怒らないで「黙って」その作業を見ていることができるし、嫌な顔一つしない。
その日も、朗少年は、茶碗を落として畳を汚したが、寿々子も友子も黙って片付けて、誰も苛立った態度を示すことはなかった。もう畳は、彼が何回も味噌汁をこぼすせいで、黄色く汚れてしまっていたが、誰もこれを嫌だとか恥ずかしいという人はいない。梅子は、畳を張り替えてわからせたほうが良いのではないかと言ったこともあるが、どうせそれをやってもすぐに汚してしまうだろうから、かえって損をすると、誠一が簡単に没にしてしまった。
「ごちそう様。」
友子たちが合図をすると、朗少年は、すぐに立ち上がって友子の手を引っ張って須磨琴の前へ戻ってしまう。このとき、連れて行くのは母親の梅子ではなくて、友子おばさんであるのも、疑問点に感じることである。朗が楽器を弾き始めて夢中になっているときに、こっそり母親の梅子に「監視役」が交代する、という儀式が行われる。これが毎日だから、梅子は嫌になる。
そして、肝心の父親である新五郎は、最近は遠方へ買取に行くからと言って、朝早く家を出てしまい、夜遅くまで帰ってこない。なので、こういう儀式の間には立ち会わないことがほとんどなのである。そして、遅くまで働いてきた亭主に、女が愚痴を漏らすことは、まずいけないこととされているので、梅子は新五郎に愚痴を漏らすことはない。新五郎も新五郎で、家で起きているそういう事に、関わろうとしないのがまた困ったところである。誠一は、新五郎は間違った解釈をしているので、そのほうがいいだろうなんて公言していて、わしらが朗をしっかりと育ててやればいいのだという。実の親が、育児に関われないのは、倫理的に言ったらいけないことかもしれないが、間違ったことを押し付けて悪影響を与えるほうがよくないと、裕も言っている。寿々子もそれに同調しており、さすがに梅子さんも新五郎もいらないということはないが、むしろ彼らが実の親だったほうが、良いのではないかと思う事さえある。
そしてまた、パッヘルベルのカノンが聞こえてくる。
「あれが一番のお気に入りなんですね。」
裕が、茶を飲みながらそう呟いた。
「いいじゃないか裕。お前がそれを持ち出してくれたんだから、そのきっかけを作ってくれたんだから、わしらは感謝しているくらいだぞ。」
誠一は平気な顔をしている。
「そうそう、それのおかげで朗ちゃんすごく明るくなったし、毎日楽しそうに弾いているんだからそれでいいじゃないの。何よりも、ああいう子は楽しんでやれるのが何よりも大事なんだから。」
寿々子もそう言っていた。
「そうなんですけどね。新五郎がもう少し協力してくれれば、、、。」
「裕、そういう事は考えるな。できないやつは、他のことで補うようにすることが大切だ。」
「そうですか?お父さん。」
「適材適所という言葉もある。新五郎は新五郎で、やることがあるんだから、それに専念してもらうことも大切だ。ほら、裕も急いで食べて、稽古つけてやれ。」
「はい、、、。」
裕は、何か腑に落ちないところがある様であった。
隣の部屋で、ああ、ああと笑っている声が聞こえる。それに合わせて友子が何か言っているのも聞こえてくる。
聞こえてくるのは、声だけで、言葉には全くなっていない。
それはそれでいいのだが、一番悔しいのは梅子で、なぜ自分にはできないのだろうという劣等感と、本来すべきことが全くできない欲求不満との板挟みになって、本当に悔しかった。
とはいえ、誰も梅子には誰も声掛けをするわけではないし、夫の新五郎は出かけてしまっているし。不満をぶちまける相手がいるわけでもないから、自分だけはどんどんつらい思いがたまっていく。
梅子は、その日は朗少年の下へ行かなかった。
初めてこうしてみた。自分が関わらないようにして見て、果たして朗少年は自分が恋しいとか、おかあさんがやっぱりいいとか、そういう事を態度で示してくれるだろうか。はじめのころはそれを期待していた。期待していた。
しかし、何も言ってはこなかった。
何も示してはこなかった。
いつも通りに、裕から須磨琴の伝授を受け、楽しそうに笑っている。
友子と一緒に近隣の食料品屋に食材を買いにいく。
再び茶碗を取り落として、片付けてもらいながらも夕食を食べる。
誠一に着物を脱がしてもらって、遊んでもらいながら風呂に入って、そのあとは友子に本を読んでもらうとか、時に誠一の将棋に興味を示したりすることもある。何かあれば声を出して笑い、にこにこして祖父の誠一や伯母の友子に飛びつく。勿論言葉にすることはなく、文章にすることはまるでできないけれど、、、。
でも楽しそうだ。
楽しそうだ。
そして、途方もなく悲しくなった。
本当にこれだけはどうしても悲しかった。
本当に。
本当に。
本当に。
「梅子。」
声がして、梅子ははっとした。
「どうしたんだよ。」
振り向くと、新五郎だ。
「そんなにぼろぼろ泣いて、、、。」
もう我慢できなくなって、梅子はばあんと畳を叩いて泣き崩れた。
「私もう出て行きたい!もう、この家にはあたしは必要ないんだわ!」
本来なら、大の大人がこんな風に泣いてなにになるとか、そんな風に泣いて恥ずかしいことをするなとか、そういう事が返ってくるはずだ。
「ごめんね。」
これが答えだった。
「悪かった。」
「え?」
顔をあげると、新五郎が隣に座っていた。
「悪かったよ。」
この一言で、梅子はがっかりではなく、希望が持てたような気がした。この人は悪人ではないなと確信した。
「じゃあ、一緒に逃げようよ。そして、あたしたちだけでもう一回両替屋でもなんでもやって、そして新しい家族を作ろうよ。もう、朗はあきらめる。正常にならないとわかるし、友子さんたちがいればいいんだから諦められる。だから逃げよう。」
梅子はやっと自分の一番言いたいことを、夫に伝えることができたと思った。
「馬鹿なことを言うもんじゃない。子供を捨てて逃げていく親がどこにいる。」
夫から来た言葉は期待外れ。
「だってもうあたしはここでは必要ないじゃないの!朗のことは、友子さんたちに任せておけばそれでやってくれるでしょ。だって、私は、朗にも必要とされてないのよ!だって、あの子ったら、一日中友子さんたちのところへくっついたまま、私の事には見向きもしないんだから、、、。」
「しかし、朗は友子さんの子供ではなくて、俺たちの子だろ。」
「あなたって人は、何もわかってないのね!いつも、朝いちばんに買取に出て行って何も見てないからそんなことが言えるの!一日中、友子さんたちのそばを離れないで、いつまでも楽しそうにして、私には笑うなんて、まるでないのよ!だから私なんてあの子にとってはへの河童くらいしか見られていないんだわ。あの子は、一絃琴という奇妙奇天烈な楽器を裕さんに教えてもらえるし、大好きな麻の葉の着物だって友子さんに買ってもらるんだし、ご飯の片づけはお母さんがしてくれる。だから私の出る幕は何一つないじゃない!」
「あのな、お前はそうなのかもしれないが、俺だってそのことを認めていなわけではないからな。俺は別に、朗がおかしいからと言ってそこから逃げたくて、毎日買い出しにいっているわけではないんだよ。」
新五郎は、耳の痛い話を始めた。
「いいか、今でこそうちでいろいろやっていられるかもしれないが、近いうちに大きくなるんだから、そうなると、いろいろな面で金がかかってくると思うんだ。そのために今、買取に行ったりして、金をためているんじゃないか。」
「そんな悠長なことを考えないで今のことを考えて!今のこと!」
「だから、今は経済的にしっかりしておく時期なのかなと思っている。幸い、兄ちゃんやお父さんたちがいるから、世話はまかせておけばいいと思う。その間に俺は一生懸命金をためて、いつか何かが起きた時に備えておくことに専念しようかと。」
まあ、確かに男性というものは先を見こうして行動することにたけている。そして、今あることを把握して道具として使うことも長けている。でも、女性というものはそうはいかない。
「そうじゃなくて、あたしのことも考えて!」
「あのな、お前もよく考えろよ。仮に家を出て、朗を俺たちだけで育てることになれば、朗がやっていることをすべて俺たちが解決しなければならないことになるんだ。それはきっっと、ものすごい負担というか、大変なことになると思う。だから、分業していると考えればいい。だから、俺たちは、俺たちができることをやればいいんだ。それでいいと思わないと。お前は、俺が朗のことを放置しているように考えているが、俺だって悩んだこともあったんだ。そうして、今の家の状態を維持していくのが、朗のためには良いのだと決めた。だから俺は今、経済的に力になろうと思っている。だってお前は、朗のことでさんざん悩んできただろう。それを、友子さんたちは解決できるんだから、できる人に何とかしてもらうのは当たり前なんだと思うけど、、、。」
「あなたがそんなこと言うなんて、おかしくなったのはそっちよ!今まで朗にあんなに手をあげていた人がなんでそんなセリフを言うことができるようになったのよ!」
「考え直したに決まってるじゃないか。何回も考え直して、畢竟してそうしようと考えなおすようになった。」
「それどこで思いついたの?いつ考えを改められたの?」
「いろんなところで買い取りに行っている間にそう思いついたんだ。この仕事をやっていると、本当に要らないというものより、まだまだ使えそうなものを買い取ることが多い。それを平気で手放せる人ってのは、ある意味幸せな生活なんだよ。うちの家では、そういう事はできないだろうなと思う。だから、もうこういうときは開き直って、じゃあどうするかを考えるしかないんだよ。」
こればかりは、男性ならではの特権だった。仕事で家を出る時間があれば、外へ出て客観的にみることができるようになるのだろう。また仕事をすることで他人とかかわりあいもあるので、それによってヒントをもらうこともあり得る。女性の場合は、家にいることが多いから、そういう機会に恵まれるのは極端に少ない。
「ずるい!」
と、梅子は怒鳴りつけた。
「あなたって人は、一人で勝手にそんな改心をして、かっこよくなったように見えるけどね、私から見たら、何もない、ただのずるい、身勝手なだけよ!」
「お前だって、何れは考え直さなきゃだめだと思う。いいか、感情だけで動いてはいけない。もし、辛いようだったら、周りを観察しろ。そして、使えそうなものは使ってしまえ。そういう風に考えておくことも大切なんだと思う。」
「私の事はどうでもいいってこと!私が、今こんなにつらいと訴えてはいけないの?私は、今のつらいまま生きて行かなければいけないの!」
「つらかったら何か読んで勉強するとか、誰かに相談するとか、自分で行動を起こせ!自分がつらいと言い続けるようでは、まだまだ理解はできてないのだと思う。」
新五郎も悪気があっていうわけではない。彼なりに、悩んで結論を出し、そしてこういう態度をとっていると伝えたいだけなのである。新五郎は、何回か買取の仕事に出向いて、「受け入れるしかない」という結論にたどり着き、そのためにはどうすればいいかを彼なりに導き出すことができたのだ。それだけのことである。
「だったら私にも教えてくれればいいじゃない!なんであなたは自分だけ得をして、自分だけが対策をとって、そうやって生活を楽にする方法を見つけられたのに、それをなんで私には教えてはくれなかったの!私だって、ここまで苦しんでいたのに!」
「あのなあ、こういう事は他人が教えてくれるもんじゃないんだ。そこへ行くまでの経路は人によって違うから。」
まあ、教育的に言えばそういう事にはなる。そういう理由でもある。でも、このとき梅子ははいそうですかと素直に言うことはまるでできなかった。
「ずるいわよ!ずるいわよ!なんでみんな自分だけがそういういい結論を出したとしても、誰かに教えようとする気にはならないで、自分だけが格好つけているだけなのかしらね!もう、私を誰も助けてはくれないのね!私は永久にさらし者で生きていくんだわ!」
その怒鳴り声は隣の部屋にいた、友子たちにも聞こえていた。
「止めに行きましょうか?」
友子が誠一にいうと、
「いや、よした方がいい。」
誠一も困り切った様子だった。
裕が、
「やっぱり、僕がいけなかったのですかね。」
とつぶやくと、
「いや、裕、それは思うなよ。お前のおかげで朗が一絃琴に関しては天才的な才能があることが身抜けた。これは、きっと朗にとっても、わしらにとっても、必ず何かの支えになることは明白だ。それはお前でなければ、見つけられなかったと思うから。」
父親らしく、誠一はそう励ましてくれた。こういう言葉はおそらくだけど年を重ねて行かないと出てこないと思われた。
「そうよ。きっと、朗ちゃんだって、お父さんとお母さんがああいう風に喧嘩していたら、何かしら罪悪感を感じると思うのよ。それを食い止めるためにも、何か特定のものにおける才能というものは、必要になるから!」
友子もそういって、気弱な裕を支えるのであった。
朗本人は、祖母の寿々子と一緒に折り紙を折ったりして遊んでいた。全く関心がないような態度を示していたが、内心ではどう思っているのか。寿々子もそれを心配していた。
この翌日から新五郎と梅子は全く口を利かなくなってしまい、再び増田家の中の空気は陰気臭くて悪いものになった。友子だけがいつも通りにご飯を三杯食べて、朗は茶碗を落とす。
「あ、落としちゃった。朗ちゃん畳を拭こう。」
友子は、いつもと変わらず畳を雑巾で拭いた。
「僕、新しい味噌汁を持ってきますよ。」
「ああ、頼むわ。悪いわねえ。」
裕は台所へ味噌汁をとりに行った。やっぱり、この二人は朗の世話をすることは抜群の人材であることは疑いない。梅子は一応、その部屋でお膳の前に座ってはいるが、二人がやっていることを観察するどころか、もうどうでもいいらしく、青白い顔をして、目をそらせているままである。そんな彼女を、寿々子が心配そうに見ている。
そして新五郎は、今日も買取に行くと言って、出かけてしまったのであった。あの時言ったことは間違いではないらしく、一日も仕事をなまけたことはない。買取もしっかりとこなしているし、両替の業務もやっていて、お客さんともきちんと話をしていた。上の空で取引を終えてしまうとか、仕事におけるミスもしない。むしろ歯を食いしばって何かに懸命に耐えているようで、なんだかとても辛そうだった。
皆つらかった。朗に須磨琴を教える裕も、不和の原因を作ることになるが朗を救うのはそれしかないのがつらかったし、誠一も家庭が不和の状況になって、家長として何とかしなければならないが、余計に家族が傷つく可能性もあり、一歩が踏み出せなかった。寿々子は、ご飯を少ししか口にしなくなり、みるみる痩せて幽霊のように力なくぼんやりしている梅子が心配だ。これを改善するには、誰かが何かをしなければならないが、他のものが傷つく恐れがあるのもまた事実で、それを恐れてみなできないのであった。
そんなある日。
裕が、いつも通り、朗に須磨琴の稽古をしていた時だ。朗少年はだいぶ腕も上がり、パッヘルベルのカノンだけではなく、六段の調べとか、代表的な曲も弾きこなすようになっていた。
「やっぱり、これを弾いていると楽しそうだな。」
裕は、朗の天才的な能力について、そう確信した。
と、そこへいきなりふすまが開いた。
「梅子さん。」
確かにそこにいたのは梅子だが、その顔は、まるで人間というより死霊の様であった。
「こっちへいらっしゃい。」
「どうしたんですか。」
裕の問いかけに梅子は答えなかった。
「いらっしゃい。」
しかし、朗少年は須磨琴を弾くのに夢中になっていて、それどこではなさそうである。というより、こうなった彼を、他のところに関心を向かわせるのは、至難の業であることは裕も知っている。
「梅子さん、呼びかけるときはまず座って、、、。」
裕が言いかけたが黙った。梅子は、朗の正面に立ちふさがった。
黒い影が、彼の前に黒々とついた。
「梅子さん!」
ちょっと語勢を強くして裕が注意したが、案の定、朗はまた怖がって泣きだす。彼が泣きだしたのは久しぶりのことだ。
「朗君、大丈夫だからね。この人は君の母さんだよ。」
裕が説明しても通じない。こういう子は、怖いという感情が大きすぎて、何もできなくなってしまうのが常である。
不意に梅子の手が、朗の前に現れた。がりがり兄ちゃんと言われた裕よりも血管の浮き出た白い手。その手は、彼のどこに?
「梅子さん!やめてください!そんなことをしても解決はしませんよ!」
急いで白い手を朗の首から離そうとする裕だが、意外に真蛇と化した女の手は強力だった。引き離そうとしても離れなかった。体力の問題というより、真蛇と化してしまった感情のせいで、普通の人間より強力な力が出せるものらしい。人が怒りのせいで鬼に化すのは、能面に数多く表現されているが、あまりにも怒りが強すぎたせいで、耳まで削られた鬼女の面を蛇と言っている。さらにその最高峰で殺人魔に変貌したものを、真蛇とか泥蛇というらしいのである。または本成、つまり本当に人間から離れてしまった状態ともいう。よし、こうなれば強硬手段だと思いついた裕は、真蛇の腕にかみついた。
ガブッ、ガブガブガブッー!
本当に噛みついてしまった。もう誰が何をしているかどうでもよかった。
あたり一面、真蛇の叫び声が鳴り響き、次いで、真蛇に危うく殺害されそうになった子供が、泣き叫ぶ声。
それを聞きつけて、友子と誠一が飛び込んできて、それでもまだ子供に手をかけようとする真蛇を押さえつけた。
寿々子も駆け込んできて、子供を真蛇の手が及ばない、安全なところへ背負って連れて行った。
急に女の泣き声が響き渡る。
それは、鬼女ではなく、人間の声であり、彼女、つまり真蛇が本当は悪い人間ではなかったことを表す証拠だ。
少しずつ、真蛇の角が短くなっていき、耳も形を取り戻していき、耳まで裂けた口も、金を入れた恕霊の目も人間の目の形になって、本成から生成となっていき、人間の姿に帰っていく。
「梅子さん、梅子さん、、、。」
友子が、そう話しかけると、やっと彼女は人間らしい泣き声になった。
「もういいだろ、反省しているよ。裕、離せ。」
裕は、彼女が真蛇から、人間の姿に戻っていくまでの間、ずっと真蛇の腕にかみついていたのだ。誠一がそう指示を出すと、裕は静かに彼女の腕から離れた。腕には、歯形がしっかりとついて、ところどころ血が流れていた。
皆、泣きたかった。
彼女を真蛇まで追いつめてしまって、本当に申し訳ないことをしたと思った。
「梅子さんごめんなさい。」
裕が手を着いて謝罪する。
「裕、謝らなくていいぞ。何があっても、実の息子を殺害しようとするのはいけないことだから。」
誠一はそういったが、力はなかった。
「梅子さん、あたしたちも力になれなくて、本当にごめんね。」
友子もそう謝罪をしなければならないほど、真蛇と化してしまった梅子の顔は恐ろしい物であった。今でこそ、普通の人間に戻っているが、あの時のかおは、道成寺に登場する清姫よりも恐ろしいものであった。そして、人間は、簡単に鬼女と化してしまうほどの強い怒りを生じることがある。だからこそ、真蛇の面というものが存在するのだろう。女性の嫉妬を表す面が数多いのは、それだけその事例が多かったからなのかもしれない。
遠くで、幼い子供の泣く声がする。祖母が、一生懸命子守唄を歌ったりして、慰めているのも聞こえる。彼は、真蛇と化した母親を見てどう思っただろうか?子供というものは、大人以上に感じる心を持っている。まして、朗のような普通の子とは違う要素を持っていればその傾向はさらに強くなる。母親が真蛇となってしまったのを目の当たりにすると、子供は何かしらの「症状」を示すことも数多い。
「いずれにしても、今回のことは朗にも大きな傷をつけたな。二人をこれからどうやって立ち直らせるか、それは本当に苦労のいる作業になるだろうな。」
誠一が悔しそうにそういった。
「とにかく、この家の者だけでは、解決はできませんね。」
「そうですね。外部に頼んだほうがいいかも。」
友子の発言に、裕も同意した。誠一もそうだなと、涙ながらに頷く。
子供の、怖がって泣く声と、優しく慰める祖母の声は、まだまだ続いていた。
それと協和するように、真蛇から人間の姿に戻った母親が、しでかしたことを後悔して泣いているのであった。
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