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第四話 誰が一番か
第一節
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第四話 誰が一番か 第一節
朗は元気に育ち三歳になった。三歳の子は、本当に天使みたいにかわいくて、いつまでも一緒にいてほしいほどである。本来ならかわいいの真っ盛りで、親の方も幸せいっぱいというのが、一般的だろう。
ところが、増田家ではとても深刻な問題が起きていた。
「いつまでも言葉が出ないな。」
ある日、朝ご飯を食べながら誠一が言った。梅子と朗本人は、隣の部屋で何か問答をしていて、まだ、朝ご飯の部屋には来ていなかった。まあ、小さい子供を持っていれば、食事の時間までにすることがいろいろ多くて、食事に現れるのに、遅れるということはよくあるが、それにしても偉く時間がかかっていた。
「そうねえ。おはようも何も出ないわねえ。ああ、ああとかそういう声ばかりで。もう三歳になるのよね、、、。」
寿々子も、心配している。声は出すのだが、文章には成り立たないのだ。いくら本をよみきかせても、言葉を覚えない。真似することもしない。
「一生懸命やってるつもりなんですけど、、、。本当に何もいわないで黙ったままで。」
梅子は、また叱られるのかと思ったのか、小さくなっていた。放置しておけば、何も言わないで黙っているのが、おかしいのだ。表情はあって、時々「きゃはは」と笑って、友子や寿々子などに甘えることはあるが、くっついてくることはあっても、「お母さん」とか、「何々がしたい」などと、自分の意思を表現することはない。よく泣くので自己主張はしているようであるが。
「昨日、本を読んで、復唱してみろと言って、やらせてみたんですが、まるで無理でした。そこだけははっきりしていますが、声に問題があることはなさそうです。声は出しているんですが、言葉にはなりません。」
新五郎は、買取から戻ってくると、毎日本を読み聞かせることにしていた。それだけは、かかせずにやっている。最近は黄表紙とか合巻のようないわゆる「絵本」が流行っているし、貸本屋も近隣にあるので、本はたやすく手に入る。友子が愛読している、曲亭馬琴の本は、文字の分量が多いので、小さな子供にはまだ難しいと思われる。しかし朗はそうでもなさそうだ。時折、友子の本を引っ張り出して読んでいる。理解しているのかは不明だが。これもまた謎だが、友子は黙認していた。あるいは、裕の弾いている須磨琴に興味を持って、いつまでもそばを離れなかったこともしょっちゅうある。
「でも、私の持っている本を楽しそうに読んでますよ。裕さんの須磨琴も楽しそうに聞いていますから、耳が遠いわけではなさそうです。」
友子が顔についたご飯粒をとりながら言った。ということは、知的には問題ないようなのである。むしろ、三歳の子が、読本を黙読できるのは、珍しいことであるから、知的レベルは高いのかもしれない。
「友子さんと裕にはよくなつくのね。」
寿々子が不思議そうに言った。
「しかも難しい本を平気で読んでいるなんて。それでは、おつけではないようね。」
「そうですね、だから、馬鹿だとかそういう事は、決めつけないほうがいいわ。きっと、個性的なんですよ。」
そう言って、友子は三杯目のご飯を食べ始めた。
「友子さんだけですよ。そうやってのんきにしていられるのは。もしかしたら、僕のせいかな、、、。」
「裕、それは言わない約束だっただろ。」
気弱な裕を、誠一が止めた。
「すみません。」
裕は、三杯目のご飯をおいしそうに食べている友子をうらめしそうに見つめた。
「とにかくな、声は出すんだから声に問題があるわけではないし、裕の須磨琴をあんなに喜ぶのであれば、耳は大丈夫だ。耳が遠くなければ何とかなるのではないかと思う。気長に待つしかない。やたら心配するような態度をとると、変な劣等感を植え付ける可能性もあるので、いつも通りに接してやるんだな。わかったな。」
家長らしく、誠一がそういったが、その顔はどこか不安そうだった。
「梅子さんも、あんまり傷つかないといいんですけど、、、。」
「自分のせいには決してするなよ、裕。」
「そうですね。そうならないように努力します。」
全員が、がっかりしているようであった。
思えば、普通の子供とほぼ変わらないでいられたのは、赤ちゃんの時だけだった。立って歩くのも、普通の子供なら、一歳半過ぎればできるようになるが、彼が歩けるようになったのは、二歳になる寸前であった。ご飯を食べさせても匙がうまく握れなくて、手づかみでそばを食べることも多かった。筆を持つとか、毬をつくなど、手の細かい動きも苦手だった。他の子と遊ぶことは一切なく、裕の弾く須磨琴や、友子が読んでいる本に目の色を変えて熱中するということのほうが圧倒的に多い。そして言葉は、単語すらも一切出なかった。
「とりあえず、店があるから、一先ず行ってきます。ごちそう様。」
「俺も、梅子に声をかけてくるよ。」
裕と新五郎はのろのろと立ち上がった。裕は店の方へ、新五郎は隣の部屋へ移動したが、二人とも気が晴れないらしく、憂鬱そうなままだった。友子だけが明るい顔をしてご飯を食べていた。
新五郎が隣の部屋のふすまを開けると、梅子が三歳の朗に何か話しかけていた。一見すると愛くるしい感じの三歳の子供であるのだが、他の子にある三歳児特有の「元気さ」というものは見られなかった。
「さあ、朗ちゃん着替えよう。」
梅子が優しく言っても朗少年は黙ったままだった。三歳の子供に着替えをするなんて、ごく普通の事だと思われるかもしれないが、これが問題。実は、三日間同じ着物を身に着けて脱ごうとしないのである。さすがに、三日間洗濯をしていないとなると、体臭が染みついており、明らかに不潔な状態だった。風呂に入られるときはさすがに脱ぐが、寝間着を着せることができない。仕方なく風呂に入る前と同じ着物を着せると落ち着く。これが、三日間連続で続いている。
「もうさ、それだと臭いでしょう。だから、他の着物に着替えよう。ね、そのほうがいいわよ。」
梅子は、一生懸命語り掛けるが、朗は無視したままだった。
もう、着物からは体臭が染みついていて、下手をすると商売人の子ではなく、貧しい農民の子ではないかと勘違いされる恐れもある。それに、母である梅子が清潔な着物を着ているのに、朗がいつまでも同じものを着ているのはおかしいと変な噂が立ってしまったら、増田家の評判も落としかねないのである。
「また駄目か。」
「ええ、もうどうしたらいいものか。」
梅子も困り果ててしまっていた。
「とにかく、わかってもらわないとだめなんじゃないかな。」
「そうだけど、一向に通じてはくれないわ。」
「もう一回やってみろ。もしだめなら強硬手段に行ってもいいと思う。」
「わかったわ、、、。ほら、朗ちゃん、もうその着物だと汚いから、こっちに着替えよう。ほら、着替えよう。」
梅子がそういいながら、朗の衣紋に手をかけると、拷問にでもかけられたかのように、朗は激しく泣きだしてしまった。勿論、嫌だとも、着替えたくないとも一言も言わない。ただ、わけのわかない叫び声をあげて、泣きだすのみである。
「ほら、もう臭いから、着替えようよ!」
梅子はそういって彼が締めていた兵児帯を引っ張って無理やり脱がせた次の瞬間、
「いたあい!」
今度は梅子のほうが叫ぶ。梅子の右腕から血が流れてきたのを見ると、新五郎は部屋の中に飛び込んで力づくで着物を脱がせた。着物はまるで紙を破るようにびりっ!と破けてしまった。
「いい加減にしろ!いつまでもわがままが通用するかと思うかよ!」
新五郎は、泣き叫ぶ息子の尻を思いっきりたたいたが、それでも泣き止まなかったので、今までのうっぷんを晴らすのも兼ねて、そのままたたき続けた。それでも泣き止むどころか、泣き声はどんどん大きくなるばっかりで、一向に反省する気配はなかった。さすがに三歳となれば、こうすれば多少理解するはずであるが、まるで理解をしていないように泣き叫ぶのみだった。
「いい加減にやめろ!この馬鹿たれが!」
「新五郎さんやめて!」
息子を持ち上げて畳に放り投げようとした新五郎を、梅子はその腰を掴んで一生懸命阻止した。実は、こうなったのは初めてではない。一歳くらいのころから、着物の脱ぎ着には非常に苦労している。当初は、脱がせようとすると、火が付いたように泣きだす程度で、まだ歩けないし、体力もさほどないから、疲れて寝てしまうことで解決できたのだが、二歳、三歳と進んでいくうちに、泣くどころか母の梅子の腕を爪で引っ掻くとか、その腕にかみつくなどを度々引き起こした。その証拠に、彼女の二の腕は傷や歯形でいっぱいになっている。いくらなだめても、叱っても効果なし。息子はさらにさらに大声で泣き叫ぶ。新五郎は、今日こそ折れないぞと覚悟を決めて、阻止している梅子も振りほどいて、息子を畳の上に投げつけた。幸い、木製の床ではなく、畳なので怪我はしなかった。
「やめて!いくらなんでも手をあげるのはかわいそうすぎるから!」
「うるさい!こうしなければ、俺たちが怒っているとこいつはわからないほど、馬鹿なんだよ!」
「自分の子に馬鹿だなんて言わないでよ!そんなことを言ったらかわいそうでしょう!」
「だってそうじゃないか!お前だって被害者だろ。その歯形が何よりの証拠だ!もう、何を言ってもわからないのなら、体で覚えさせなくちゃ!そうしなければ、いつまでたってもこいつが一人前になれはしないんだ!もう甘やかすのではなく、こっちも対等にやらないと、いつまでたってもダメなままだから!」
梅子は、傷だらけの手で顔を覆ってすすり泣いた。
「新五郎さん、新五郎さん!」
急にふすまを叩く音がして、二人がそちらをふり向くと、
「隣にも聞こえちゃうわ!朗ちゃんに考えさせる時間も必要よ。もうそこまでにして!」
友子が小さい声で、でもはっきりと言った。
「友子さんもそういっているんですから、辞めて下さい!」
梅子も泣きながら懇願する。新五郎は、妻にここまで言われると、へなへなと力が抜けてしまい、これ以上叱る気力もなくなった。
「とにかく、彼を長じゅばん一枚にしていたら、風邪をひくわ。私が、新しいものを買ってくる。」
友子は、出かける支度を始め、そそくさと部屋を出て行った。梅子は泣くばかりで、何も言えないらしい。新五郎も、疲れ切った様子で、大きなため息をついた。
いつの間にか朗は泣き止んでいた。着物は背中の部分で完全に破れてしまっていたから、もう着用はできなかった。しかし、彼はまだその着物を体から離そうとしないのだった。上半身はビリビリに破れてしまっていても、残った下半身の部分をいつまでも腰に巻き付けている。
「いったい俺は、何を間違えたんだろうか。なんでこんなにこの着物がそんなに良いのか、理由がわかるはずもなし。友子さんが新しいのを買いに行ってくれたのはいいものの、またそれを着せるのに、難儀すると思うし、、、。」
新五郎はそう呟いたが、梅子は泣いているだけで、何も答えなかった。
「俺は、いい物ばかり与えすぎたかあな、、、。子供には、粗末にしろという言葉は本当だったのだろうか。」
沈黙。
「やっぱり、かわいさのあまり、ホイホイとなんでもあげすぎてしまったので、いざ取り上げると、朗は反抗するようになったのかなあ、、、。」
再び沈黙。聞こえてくるのは、朗のああ、ああという、言葉にならない「声」だけである。よく見ていれば、ただの天井にくっついている茶色のシミを楽しそうに眺めている。朗は、時折、こういうしぐさを見せるときがある。しいて言えば、ただの天井をいくら眺めていても飽きないらしい。
「天井に何かいいこと書いてあるのか?」
答えはなかった。ただ、ああ、ああと天井を眺めて面白そうに笑っているだけである。梅子がそれを見て、さらに泣きだしてしまう。新五郎も、できることなら声をあげて泣きたかったが、男がそんなことをしては格好悪いとぐっと涙をこらえる。
「買ってきたわよ!仕立て屋さんで安売りしていたから、着替えさせても困らないように、おんなじ物を三枚買ってきたからね!」
どれだけ時間が経ったかわからないが、友子が部屋に入ってきて、新五郎はやっと我に返った。
「さあ、朗ちゃん、着替えよう。」
友子が、先ほど梅子が言ったセリフを、もう少し話すスピードを落として、優しくゆっくりと話しかけた。そして、彼の前にしゃがんで目線を同じ高さにした。朗は、立ってものを言う人に対しては、怖がって泣くのであったが、自分と同じ高さでみてくれる人に対しては全く泣かないで、
「きゃははは。」
と笑って飛びつく癖があった。このときもそうで、友子が目に入ると、彼は、すぐに友子の方を見て、笑い声をあげながら、すぐに友子に飛びついた。
「はい、長じゅばんだけだと、風邪をひくから、着替えよう。この柄が好きなんだよねえ。おばさん、三枚買ったから、しばらくはこれを使いまわせばいいかもね。」
友子は手早く、持っていた紙袋から着物を取り出して、朗の肩にかけた。するとどうだろう、今度はやすやすと彼は着物の袖に手を通した。友子は、急いで腰ひもを付けて固定し、兵児帯を締めて結んだ。
「はい、よし。お母さんにごめんなさいは?」
友子が問いかけると、
「ああ、ああ。」
と、だけ返答し、母の梅子に飛びついてくる。この切り替えの早さには、梅子も驚いてしまうほど。しかし、その笑顔は、普通の子供以上にはっきりしていて、喜びを表していることは、誰が見てもわかる顔である。
「はい、これにて一件落着ね。あと二枚おんなじ物を買ってきたから、しばらくこれを使いまわしてあげてね。いくら泣かれても、この笑顔がかわいいから、やっぱり憎めないわよね、朗ちゃん。」
「ありがとうございます、、、。」
梅子が、泣きながら答えた。
「しかし、友子さんが相手をすると、どうして泣き止むのでしょうね。」
不思議そうに聞く梅子。毎回毎回、トラブルの解決は、友子か裕がその役目を担っている。実の親である、新五郎や梅子が解決したことはほとんどない。
「種明かししてあげましょうか。」
友子は言った。
「ええ、、、。」
「たぶん、麻の葉という柄が本当に好きなんだと思うわよ。それが大好きだから、他の柄は着たくないの。逆を言えば、麻の葉以外の柄は着たくない。」
「どうしてそれがわかったんですか?」
「ええ、朗ちゃんが、破れてもそれを体に身に着けていたからわかった。それくらい好きなんだって。それがわかれば大丈夫。これから先は、麻の葉を身に着けてれば。」
確かに、上半身がビリビリに破れても、朗は下半身の部分を体から離さなかった。もう着れなくなれば、好きな柄であっても、あきらめて捨てるはずなのだが。
「それくらい、好きなのよ。彼は。もう、こうなったら、麻の葉だけを身に付けさせるべきね。逆を言えば単純なことよ。まあ、言葉で麻の葉が好きと言えないから、どうしてもわかってもらいたかったんでしょうね。だから、態度で示しただけの事。」
「そうね。友子さんが解説してくれた通りに解釈するしか、方法はなさそうね。わかったわ。これから、着替えをさせるときは、必ず麻の葉柄の着物を使うようにするわ。」
梅子は、無理やり決断するように言った。まるで自分に言い聞かせるようでもあった。
「しかし、梅子の傷や歯形はどうするんだ?」
不意に新五郎が聞いた。
「それは仕方ないじゃないの、新五郎さん。朗ちゃんにかまわず、大体の子はそういうものよ。親の方は、さんざん痛い目にあったとしても、平然としているのが、子供らしさという事なんじゃないかしら。その度が強かったと思えば、」
「しかし、梅子にさんざんけがをさせて、謝罪の言葉を出させないのは、どうかと思うけど、」
「まあ、それはあきらめることね。彼は、そういうもんだと思うのよ。」
「ほかの子は、そういう事はしないでも、いけないことだとわかるのに?」
「ええ。だって、子供なんて一人一人違うわよ。大方そういうもんじゃないの。まあ、おおよその傾向はあったとしても、すべての子がその通りになるとも限らないじゃない。だから、いろんな性格の人間ができて、世の中が面白くなるんじゃない。」
「友子さん、そういう事じゃなくて、俺は梅子に何とかして謝罪させたい。せめて、他人の言うことはちゃんと聞き、悪いことは悪かったと言えるようにならないと、、、。」
「新五郎さん、そういうことはもうあきらめたほうがいいわよ。無理なものは無理だとはっきりしておくこともまた必要よ。」
友子は、忠告するように言った。
「じゃあ、朗には謝罪をするのを免除させるとでも?そんなの不公平では、、、。」
「ああ、この際だから、通常の目線で彼を見るのはやめましょう。現にこうしていつまでも天井を眺めていることすら、もう、通常の子とは違うんだから。」
確かにそうかもしれないが、新五郎は納得できなかった。
「そ、そんなことはない!どんな子でも、やっぱり、常識というものがわかっていないと!」
「それは無理無理。そういう事は、例えば耳の聞こえない宇多川先生に、紙に書かないで普通に話すことを要求することと同じこと。宇多川先生は紙に書いて話をすれば解決するけど、朗ちゃんは、麻の葉の着物を着れば解決するのよ。そういう解決方法を探しに行くほうにもっていかないと、彼はこの先生活していけなくなるかもしれないじゃない。だから、やり方を変えるのよ。」
「しかし、宇多川先生は、そうだとしても、しっかりと謝罪もできるし、意思も紙に書いて伝えられるし、」
「まあ、きっと宇多川先生も、それだって、私たちがしてきたやり方では獲得できなかったと思うわ。とにかく、これからは、やり方を変えなきゃだめね。いつまでも、普通の子と同じ目線で育てていたら、かえって朗ちゃんには有害であるという事だけは確かだわ。まあ、これがわかったということで、これにて一件落着としましょう。また、麻の葉の着物が必要になったら言って頂戴ね。すぐに買いに行くからね。もう少し、落ち着いてきて、自分で麻の葉を選べるようになったら最高よね。」
「ありがとうございます。友子さん。あたし、もうどうしたらいいのかわからなかったけど、指針を示してくれて、やっと覚悟が決まりました。」
梅子もいつの間にか涙を拭いて、何かを決断したように言った。
「新五郎さんも、そうしてあげてね。もう、いう事を聞かないからって、手をあげるようなことは一切しないでね。」
友子はそういったが、新五郎は返答しなかった。
「じゃあ、梅子さんも、朗ちゃんも、朝ご飯をまだ食べてないでしょ。食べないと戦はできないわよ。なんならここへお膳を持ってこようか?」
「いいえ、友子さん、私たち、食事位は自分でしますから。」
梅子は、傷だらけの腕で涙を拭き、立ち上がって天井を見つめている朗に近づき、しゃがんで彼と視線を合わせて、
「ごはんよ。」
と、優しくゆっくりと語り掛けた。すると朗も今度は怖がらずに受け入れてくれたようで、梅子ににっこりと笑いかけた。なので、改めて耳は大丈夫であることが分かった。
「ご飯だから、ご飯の部屋に行こうね。」
梅子が立ち上がって、隣の部屋に歩き出すと、朗も何も抵抗しないで彼女についていった。
従順に、母と一緒に自分の前を通っていく息子を見て、新五郎はまた別の感情がわいた。それは、もしかしたらいけないことなのかもしれないけど、自分ではどうしようもないことで、抑えることはできなかった。
とりあえず、店の開店時間をとっくに過ぎてしまっていたので、新五郎は兄と一緒に両替屋の業務をしたが、この事件のことで頭がいっぱいで、仕事のことは上の空になってしまっていた。裕も、そんな弟の言動に責任を感じていて、何も言えなかった。
店を閉めて、夕食の時間になった。増田家の家族は皆、食堂へ集まって、それぞれのお膳に座り、箸をとって夕食を食べ始めた。このとき、朗は梅子の隣に用意された子供用の膳の前に座っていた。すると、新五郎が隣に座った。
「どうしたの、新五郎さん。」
友子が尋ねても新五郎は答えない。代わりにでかい声で、
「いいか、せめて匙くらいは持てるようになれ!こう、持ってみろ!」
と、怒鳴りつけた。
「新五郎さん怒鳴らないでよ!今朝も言ったでしょ。やり方を変えようって。」
友子は急いで止めたが、新五郎はそれを無視して、
「もってみろ!」
と、また怒鳴って、無理やり匙を朗に持たせた。しかし、朗は父が急に怒鳴りつけたのにおびえたのだろう。また火が付いたように泣き出してしまった。
「泣いたって駄目だ!泣いたって!」
すぐに新五郎の平手打ちが飛ぶ。
「新五郎さんやめて!」
梅子が止めようとするが、新五郎はそれを振り払って、
「いや、親として、教えることをしっかり教えなければ、役目を果たせないんだ!」
と堰を切ったように、朗を叩き続けた。
「こうしなきゃ、こいつをしつける方法はないんだよ!こいつは、俺のせいで、甘やかされてダメな男になってしまった。だから、責任もって、矯正しなければ!」
「いや、矯正と体罰は違うぞ、新五郎。」
誠一がそういうと、
「いいえ、お父さん、俺に対しても増田家の後継者なんだからと言って、ずいぶん厳しく俺にあたっていたじゃないですか。それと同じことをして何がわるいのです!ほら、匙をもて、匙を!」
新五郎は即答し、なおも朗に匙を持たせようとするが、朗は泣くばかりだった。
「ああ、新五郎は間違えた解釈をしてしまったみたいですね。もとはと言えば、みんな僕が悪いんです。僕が、普通の人間だったら、、、。」
「裕!こんな時に滅茶苦茶なことを言いだすんじゃない!」
実は、裕も今朝の事件に対して、ひどくふさぎ込んでいた。その何日か前から、少しばかり体調を崩しており、微熱や、めまいなどを起こしていたが、そんなことは誰にも知らせていなかった。
「少なくとも自分の息子を、兄ちゃんのような、意気地なしと呼ばれる人間にはしたくないからな!」
新五郎がそう怒鳴りつけたのと同時に、どさっという鈍い音がした。
「裕、しっかりしなさい!やだ、すごい熱じゃない。誰か手ぬぐいでも持ってきてくれる?」
寿々子が裕の体に触ると、火の様だった。
「わかりました!ちょっと待ってて!」
友子が即急に立ち上がり、急いで手拭いをとりに行く。その間にも、新五郎は一生懸命匙を持たせようとしているが、まるで効果はなく、朗の泣き声はさらに強くなる。
「新五郎さん、よしてください!もう、この子には普通の事はできないのだと思って、あきらめてください!」
梅子が、無理やり朗を新五郎の前から引き離した。
「いくら叱ったって無理だ!感情をぶつけるのも、体罰をするのも皆間違いだ。新五郎、これを当たり前だと、よく頭の中に叩き込んでおくんだな!」
誠一が、そう新五郎をしかりつけるが、
「だって、これ以上変な子とか、ダメな子とか言われたくないですし、他にいう事を聞かせる方法はないじゃありませんか!」
これまで目立った反抗などしたことはない新五郎は、父に負けない声で言い返した。
「新五郎さん、友子さんが朝言ってたじゃないですか。もう、無理なんですよ。この子には!」
妻の梅子ももう一度同じことを繰り返したが、
「だけど、だけど、、、!」
まだ納得できなかった。
「考え直してください!」
梅子がきっぱりと言う。
「悔しくないのか、俺たちの子が、ほかの子が皆やっていることをできないって、、、。」
新五郎は、懲りずにもう一度言ってみたが、
「悔しくありません!」
梅子も、初めて夫に反抗した。
その間に友子は、倒れてしまった夫の部屋へ行って布団を敷いてやり、誠一が頼りない長男を背負って、彼を運んでやって布団の上へ寝かせた。一方、祖母の寿々子は、泣いている朗少年を優しくなだめて、
「友子おばちゃんに大好きな麻の葉の着物を買ってもらってよかったね。麻の葉は、魔除けの意味もあるんだよ。」
何て意味のない話をしている。祖母にやさしい歌を歌ってもらうと、まもなく朗はやっと泣き止んだ。
「ほら、お母さんのところに行って、ご飯を食べな。」
寿々子がそういうと、朗は笑っている母の梅子の下へ近づき、彼女の指示に従って、まだ手づかみであったけれど、茶碗の中にのご飯を食べ始めた。
「おいしい?」
寿々子が尋ねると、返事自体を返すことはできなかったが、彼は笑顔で答えを出した。
「とりあえず、ご飯をおいしそうに食べてくれることから始めましょう。箸を持たせるとか、そういう事はそのあとよ。」
「そうですね、お母様。この子は、もうこういう個性的な子なんです。ほかの子と違うと、しっかり線引きをして、この子ならではの育て方をしましょう。」
寿々子と梅子はそんな話をしていた。不思議なもので、女というものは、こうなったときの決断はなぜか速い。そういうのは、やっぱり、母親の特権というものに違いない。「母は強し」とは、こういうことも指している。
新五郎は、まだ、悲しさと悔しさで泣き続けた。
朗は元気に育ち三歳になった。三歳の子は、本当に天使みたいにかわいくて、いつまでも一緒にいてほしいほどである。本来ならかわいいの真っ盛りで、親の方も幸せいっぱいというのが、一般的だろう。
ところが、増田家ではとても深刻な問題が起きていた。
「いつまでも言葉が出ないな。」
ある日、朝ご飯を食べながら誠一が言った。梅子と朗本人は、隣の部屋で何か問答をしていて、まだ、朝ご飯の部屋には来ていなかった。まあ、小さい子供を持っていれば、食事の時間までにすることがいろいろ多くて、食事に現れるのに、遅れるということはよくあるが、それにしても偉く時間がかかっていた。
「そうねえ。おはようも何も出ないわねえ。ああ、ああとかそういう声ばかりで。もう三歳になるのよね、、、。」
寿々子も、心配している。声は出すのだが、文章には成り立たないのだ。いくら本をよみきかせても、言葉を覚えない。真似することもしない。
「一生懸命やってるつもりなんですけど、、、。本当に何もいわないで黙ったままで。」
梅子は、また叱られるのかと思ったのか、小さくなっていた。放置しておけば、何も言わないで黙っているのが、おかしいのだ。表情はあって、時々「きゃはは」と笑って、友子や寿々子などに甘えることはあるが、くっついてくることはあっても、「お母さん」とか、「何々がしたい」などと、自分の意思を表現することはない。よく泣くので自己主張はしているようであるが。
「昨日、本を読んで、復唱してみろと言って、やらせてみたんですが、まるで無理でした。そこだけははっきりしていますが、声に問題があることはなさそうです。声は出しているんですが、言葉にはなりません。」
新五郎は、買取から戻ってくると、毎日本を読み聞かせることにしていた。それだけは、かかせずにやっている。最近は黄表紙とか合巻のようないわゆる「絵本」が流行っているし、貸本屋も近隣にあるので、本はたやすく手に入る。友子が愛読している、曲亭馬琴の本は、文字の分量が多いので、小さな子供にはまだ難しいと思われる。しかし朗はそうでもなさそうだ。時折、友子の本を引っ張り出して読んでいる。理解しているのかは不明だが。これもまた謎だが、友子は黙認していた。あるいは、裕の弾いている須磨琴に興味を持って、いつまでもそばを離れなかったこともしょっちゅうある。
「でも、私の持っている本を楽しそうに読んでますよ。裕さんの須磨琴も楽しそうに聞いていますから、耳が遠いわけではなさそうです。」
友子が顔についたご飯粒をとりながら言った。ということは、知的には問題ないようなのである。むしろ、三歳の子が、読本を黙読できるのは、珍しいことであるから、知的レベルは高いのかもしれない。
「友子さんと裕にはよくなつくのね。」
寿々子が不思議そうに言った。
「しかも難しい本を平気で読んでいるなんて。それでは、おつけではないようね。」
「そうですね、だから、馬鹿だとかそういう事は、決めつけないほうがいいわ。きっと、個性的なんですよ。」
そう言って、友子は三杯目のご飯を食べ始めた。
「友子さんだけですよ。そうやってのんきにしていられるのは。もしかしたら、僕のせいかな、、、。」
「裕、それは言わない約束だっただろ。」
気弱な裕を、誠一が止めた。
「すみません。」
裕は、三杯目のご飯をおいしそうに食べている友子をうらめしそうに見つめた。
「とにかくな、声は出すんだから声に問題があるわけではないし、裕の須磨琴をあんなに喜ぶのであれば、耳は大丈夫だ。耳が遠くなければ何とかなるのではないかと思う。気長に待つしかない。やたら心配するような態度をとると、変な劣等感を植え付ける可能性もあるので、いつも通りに接してやるんだな。わかったな。」
家長らしく、誠一がそういったが、その顔はどこか不安そうだった。
「梅子さんも、あんまり傷つかないといいんですけど、、、。」
「自分のせいには決してするなよ、裕。」
「そうですね。そうならないように努力します。」
全員が、がっかりしているようであった。
思えば、普通の子供とほぼ変わらないでいられたのは、赤ちゃんの時だけだった。立って歩くのも、普通の子供なら、一歳半過ぎればできるようになるが、彼が歩けるようになったのは、二歳になる寸前であった。ご飯を食べさせても匙がうまく握れなくて、手づかみでそばを食べることも多かった。筆を持つとか、毬をつくなど、手の細かい動きも苦手だった。他の子と遊ぶことは一切なく、裕の弾く須磨琴や、友子が読んでいる本に目の色を変えて熱中するということのほうが圧倒的に多い。そして言葉は、単語すらも一切出なかった。
「とりあえず、店があるから、一先ず行ってきます。ごちそう様。」
「俺も、梅子に声をかけてくるよ。」
裕と新五郎はのろのろと立ち上がった。裕は店の方へ、新五郎は隣の部屋へ移動したが、二人とも気が晴れないらしく、憂鬱そうなままだった。友子だけが明るい顔をしてご飯を食べていた。
新五郎が隣の部屋のふすまを開けると、梅子が三歳の朗に何か話しかけていた。一見すると愛くるしい感じの三歳の子供であるのだが、他の子にある三歳児特有の「元気さ」というものは見られなかった。
「さあ、朗ちゃん着替えよう。」
梅子が優しく言っても朗少年は黙ったままだった。三歳の子供に着替えをするなんて、ごく普通の事だと思われるかもしれないが、これが問題。実は、三日間同じ着物を身に着けて脱ごうとしないのである。さすがに、三日間洗濯をしていないとなると、体臭が染みついており、明らかに不潔な状態だった。風呂に入られるときはさすがに脱ぐが、寝間着を着せることができない。仕方なく風呂に入る前と同じ着物を着せると落ち着く。これが、三日間連続で続いている。
「もうさ、それだと臭いでしょう。だから、他の着物に着替えよう。ね、そのほうがいいわよ。」
梅子は、一生懸命語り掛けるが、朗は無視したままだった。
もう、着物からは体臭が染みついていて、下手をすると商売人の子ではなく、貧しい農民の子ではないかと勘違いされる恐れもある。それに、母である梅子が清潔な着物を着ているのに、朗がいつまでも同じものを着ているのはおかしいと変な噂が立ってしまったら、増田家の評判も落としかねないのである。
「また駄目か。」
「ええ、もうどうしたらいいものか。」
梅子も困り果ててしまっていた。
「とにかく、わかってもらわないとだめなんじゃないかな。」
「そうだけど、一向に通じてはくれないわ。」
「もう一回やってみろ。もしだめなら強硬手段に行ってもいいと思う。」
「わかったわ、、、。ほら、朗ちゃん、もうその着物だと汚いから、こっちに着替えよう。ほら、着替えよう。」
梅子がそういいながら、朗の衣紋に手をかけると、拷問にでもかけられたかのように、朗は激しく泣きだしてしまった。勿論、嫌だとも、着替えたくないとも一言も言わない。ただ、わけのわかない叫び声をあげて、泣きだすのみである。
「ほら、もう臭いから、着替えようよ!」
梅子はそういって彼が締めていた兵児帯を引っ張って無理やり脱がせた次の瞬間、
「いたあい!」
今度は梅子のほうが叫ぶ。梅子の右腕から血が流れてきたのを見ると、新五郎は部屋の中に飛び込んで力づくで着物を脱がせた。着物はまるで紙を破るようにびりっ!と破けてしまった。
「いい加減にしろ!いつまでもわがままが通用するかと思うかよ!」
新五郎は、泣き叫ぶ息子の尻を思いっきりたたいたが、それでも泣き止まなかったので、今までのうっぷんを晴らすのも兼ねて、そのままたたき続けた。それでも泣き止むどころか、泣き声はどんどん大きくなるばっかりで、一向に反省する気配はなかった。さすがに三歳となれば、こうすれば多少理解するはずであるが、まるで理解をしていないように泣き叫ぶのみだった。
「いい加減にやめろ!この馬鹿たれが!」
「新五郎さんやめて!」
息子を持ち上げて畳に放り投げようとした新五郎を、梅子はその腰を掴んで一生懸命阻止した。実は、こうなったのは初めてではない。一歳くらいのころから、着物の脱ぎ着には非常に苦労している。当初は、脱がせようとすると、火が付いたように泣きだす程度で、まだ歩けないし、体力もさほどないから、疲れて寝てしまうことで解決できたのだが、二歳、三歳と進んでいくうちに、泣くどころか母の梅子の腕を爪で引っ掻くとか、その腕にかみつくなどを度々引き起こした。その証拠に、彼女の二の腕は傷や歯形でいっぱいになっている。いくらなだめても、叱っても効果なし。息子はさらにさらに大声で泣き叫ぶ。新五郎は、今日こそ折れないぞと覚悟を決めて、阻止している梅子も振りほどいて、息子を畳の上に投げつけた。幸い、木製の床ではなく、畳なので怪我はしなかった。
「やめて!いくらなんでも手をあげるのはかわいそうすぎるから!」
「うるさい!こうしなければ、俺たちが怒っているとこいつはわからないほど、馬鹿なんだよ!」
「自分の子に馬鹿だなんて言わないでよ!そんなことを言ったらかわいそうでしょう!」
「だってそうじゃないか!お前だって被害者だろ。その歯形が何よりの証拠だ!もう、何を言ってもわからないのなら、体で覚えさせなくちゃ!そうしなければ、いつまでたってもこいつが一人前になれはしないんだ!もう甘やかすのではなく、こっちも対等にやらないと、いつまでたってもダメなままだから!」
梅子は、傷だらけの手で顔を覆ってすすり泣いた。
「新五郎さん、新五郎さん!」
急にふすまを叩く音がして、二人がそちらをふり向くと、
「隣にも聞こえちゃうわ!朗ちゃんに考えさせる時間も必要よ。もうそこまでにして!」
友子が小さい声で、でもはっきりと言った。
「友子さんもそういっているんですから、辞めて下さい!」
梅子も泣きながら懇願する。新五郎は、妻にここまで言われると、へなへなと力が抜けてしまい、これ以上叱る気力もなくなった。
「とにかく、彼を長じゅばん一枚にしていたら、風邪をひくわ。私が、新しいものを買ってくる。」
友子は、出かける支度を始め、そそくさと部屋を出て行った。梅子は泣くばかりで、何も言えないらしい。新五郎も、疲れ切った様子で、大きなため息をついた。
いつの間にか朗は泣き止んでいた。着物は背中の部分で完全に破れてしまっていたから、もう着用はできなかった。しかし、彼はまだその着物を体から離そうとしないのだった。上半身はビリビリに破れてしまっていても、残った下半身の部分をいつまでも腰に巻き付けている。
「いったい俺は、何を間違えたんだろうか。なんでこんなにこの着物がそんなに良いのか、理由がわかるはずもなし。友子さんが新しいのを買いに行ってくれたのはいいものの、またそれを着せるのに、難儀すると思うし、、、。」
新五郎はそう呟いたが、梅子は泣いているだけで、何も答えなかった。
「俺は、いい物ばかり与えすぎたかあな、、、。子供には、粗末にしろという言葉は本当だったのだろうか。」
沈黙。
「やっぱり、かわいさのあまり、ホイホイとなんでもあげすぎてしまったので、いざ取り上げると、朗は反抗するようになったのかなあ、、、。」
再び沈黙。聞こえてくるのは、朗のああ、ああという、言葉にならない「声」だけである。よく見ていれば、ただの天井にくっついている茶色のシミを楽しそうに眺めている。朗は、時折、こういうしぐさを見せるときがある。しいて言えば、ただの天井をいくら眺めていても飽きないらしい。
「天井に何かいいこと書いてあるのか?」
答えはなかった。ただ、ああ、ああと天井を眺めて面白そうに笑っているだけである。梅子がそれを見て、さらに泣きだしてしまう。新五郎も、できることなら声をあげて泣きたかったが、男がそんなことをしては格好悪いとぐっと涙をこらえる。
「買ってきたわよ!仕立て屋さんで安売りしていたから、着替えさせても困らないように、おんなじ物を三枚買ってきたからね!」
どれだけ時間が経ったかわからないが、友子が部屋に入ってきて、新五郎はやっと我に返った。
「さあ、朗ちゃん、着替えよう。」
友子が、先ほど梅子が言ったセリフを、もう少し話すスピードを落として、優しくゆっくりと話しかけた。そして、彼の前にしゃがんで目線を同じ高さにした。朗は、立ってものを言う人に対しては、怖がって泣くのであったが、自分と同じ高さでみてくれる人に対しては全く泣かないで、
「きゃははは。」
と笑って飛びつく癖があった。このときもそうで、友子が目に入ると、彼は、すぐに友子の方を見て、笑い声をあげながら、すぐに友子に飛びついた。
「はい、長じゅばんだけだと、風邪をひくから、着替えよう。この柄が好きなんだよねえ。おばさん、三枚買ったから、しばらくはこれを使いまわせばいいかもね。」
友子は手早く、持っていた紙袋から着物を取り出して、朗の肩にかけた。するとどうだろう、今度はやすやすと彼は着物の袖に手を通した。友子は、急いで腰ひもを付けて固定し、兵児帯を締めて結んだ。
「はい、よし。お母さんにごめんなさいは?」
友子が問いかけると、
「ああ、ああ。」
と、だけ返答し、母の梅子に飛びついてくる。この切り替えの早さには、梅子も驚いてしまうほど。しかし、その笑顔は、普通の子供以上にはっきりしていて、喜びを表していることは、誰が見てもわかる顔である。
「はい、これにて一件落着ね。あと二枚おんなじ物を買ってきたから、しばらくこれを使いまわしてあげてね。いくら泣かれても、この笑顔がかわいいから、やっぱり憎めないわよね、朗ちゃん。」
「ありがとうございます、、、。」
梅子が、泣きながら答えた。
「しかし、友子さんが相手をすると、どうして泣き止むのでしょうね。」
不思議そうに聞く梅子。毎回毎回、トラブルの解決は、友子か裕がその役目を担っている。実の親である、新五郎や梅子が解決したことはほとんどない。
「種明かししてあげましょうか。」
友子は言った。
「ええ、、、。」
「たぶん、麻の葉という柄が本当に好きなんだと思うわよ。それが大好きだから、他の柄は着たくないの。逆を言えば、麻の葉以外の柄は着たくない。」
「どうしてそれがわかったんですか?」
「ええ、朗ちゃんが、破れてもそれを体に身に着けていたからわかった。それくらい好きなんだって。それがわかれば大丈夫。これから先は、麻の葉を身に着けてれば。」
確かに、上半身がビリビリに破れても、朗は下半身の部分を体から離さなかった。もう着れなくなれば、好きな柄であっても、あきらめて捨てるはずなのだが。
「それくらい、好きなのよ。彼は。もう、こうなったら、麻の葉だけを身に付けさせるべきね。逆を言えば単純なことよ。まあ、言葉で麻の葉が好きと言えないから、どうしてもわかってもらいたかったんでしょうね。だから、態度で示しただけの事。」
「そうね。友子さんが解説してくれた通りに解釈するしか、方法はなさそうね。わかったわ。これから、着替えをさせるときは、必ず麻の葉柄の着物を使うようにするわ。」
梅子は、無理やり決断するように言った。まるで自分に言い聞かせるようでもあった。
「しかし、梅子の傷や歯形はどうするんだ?」
不意に新五郎が聞いた。
「それは仕方ないじゃないの、新五郎さん。朗ちゃんにかまわず、大体の子はそういうものよ。親の方は、さんざん痛い目にあったとしても、平然としているのが、子供らしさという事なんじゃないかしら。その度が強かったと思えば、」
「しかし、梅子にさんざんけがをさせて、謝罪の言葉を出させないのは、どうかと思うけど、」
「まあ、それはあきらめることね。彼は、そういうもんだと思うのよ。」
「ほかの子は、そういう事はしないでも、いけないことだとわかるのに?」
「ええ。だって、子供なんて一人一人違うわよ。大方そういうもんじゃないの。まあ、おおよその傾向はあったとしても、すべての子がその通りになるとも限らないじゃない。だから、いろんな性格の人間ができて、世の中が面白くなるんじゃない。」
「友子さん、そういう事じゃなくて、俺は梅子に何とかして謝罪させたい。せめて、他人の言うことはちゃんと聞き、悪いことは悪かったと言えるようにならないと、、、。」
「新五郎さん、そういうことはもうあきらめたほうがいいわよ。無理なものは無理だとはっきりしておくこともまた必要よ。」
友子は、忠告するように言った。
「じゃあ、朗には謝罪をするのを免除させるとでも?そんなの不公平では、、、。」
「ああ、この際だから、通常の目線で彼を見るのはやめましょう。現にこうしていつまでも天井を眺めていることすら、もう、通常の子とは違うんだから。」
確かにそうかもしれないが、新五郎は納得できなかった。
「そ、そんなことはない!どんな子でも、やっぱり、常識というものがわかっていないと!」
「それは無理無理。そういう事は、例えば耳の聞こえない宇多川先生に、紙に書かないで普通に話すことを要求することと同じこと。宇多川先生は紙に書いて話をすれば解決するけど、朗ちゃんは、麻の葉の着物を着れば解決するのよ。そういう解決方法を探しに行くほうにもっていかないと、彼はこの先生活していけなくなるかもしれないじゃない。だから、やり方を変えるのよ。」
「しかし、宇多川先生は、そうだとしても、しっかりと謝罪もできるし、意思も紙に書いて伝えられるし、」
「まあ、きっと宇多川先生も、それだって、私たちがしてきたやり方では獲得できなかったと思うわ。とにかく、これからは、やり方を変えなきゃだめね。いつまでも、普通の子と同じ目線で育てていたら、かえって朗ちゃんには有害であるという事だけは確かだわ。まあ、これがわかったということで、これにて一件落着としましょう。また、麻の葉の着物が必要になったら言って頂戴ね。すぐに買いに行くからね。もう少し、落ち着いてきて、自分で麻の葉を選べるようになったら最高よね。」
「ありがとうございます。友子さん。あたし、もうどうしたらいいのかわからなかったけど、指針を示してくれて、やっと覚悟が決まりました。」
梅子もいつの間にか涙を拭いて、何かを決断したように言った。
「新五郎さんも、そうしてあげてね。もう、いう事を聞かないからって、手をあげるようなことは一切しないでね。」
友子はそういったが、新五郎は返答しなかった。
「じゃあ、梅子さんも、朗ちゃんも、朝ご飯をまだ食べてないでしょ。食べないと戦はできないわよ。なんならここへお膳を持ってこようか?」
「いいえ、友子さん、私たち、食事位は自分でしますから。」
梅子は、傷だらけの腕で涙を拭き、立ち上がって天井を見つめている朗に近づき、しゃがんで彼と視線を合わせて、
「ごはんよ。」
と、優しくゆっくりと語り掛けた。すると朗も今度は怖がらずに受け入れてくれたようで、梅子ににっこりと笑いかけた。なので、改めて耳は大丈夫であることが分かった。
「ご飯だから、ご飯の部屋に行こうね。」
梅子が立ち上がって、隣の部屋に歩き出すと、朗も何も抵抗しないで彼女についていった。
従順に、母と一緒に自分の前を通っていく息子を見て、新五郎はまた別の感情がわいた。それは、もしかしたらいけないことなのかもしれないけど、自分ではどうしようもないことで、抑えることはできなかった。
とりあえず、店の開店時間をとっくに過ぎてしまっていたので、新五郎は兄と一緒に両替屋の業務をしたが、この事件のことで頭がいっぱいで、仕事のことは上の空になってしまっていた。裕も、そんな弟の言動に責任を感じていて、何も言えなかった。
店を閉めて、夕食の時間になった。増田家の家族は皆、食堂へ集まって、それぞれのお膳に座り、箸をとって夕食を食べ始めた。このとき、朗は梅子の隣に用意された子供用の膳の前に座っていた。すると、新五郎が隣に座った。
「どうしたの、新五郎さん。」
友子が尋ねても新五郎は答えない。代わりにでかい声で、
「いいか、せめて匙くらいは持てるようになれ!こう、持ってみろ!」
と、怒鳴りつけた。
「新五郎さん怒鳴らないでよ!今朝も言ったでしょ。やり方を変えようって。」
友子は急いで止めたが、新五郎はそれを無視して、
「もってみろ!」
と、また怒鳴って、無理やり匙を朗に持たせた。しかし、朗は父が急に怒鳴りつけたのにおびえたのだろう。また火が付いたように泣き出してしまった。
「泣いたって駄目だ!泣いたって!」
すぐに新五郎の平手打ちが飛ぶ。
「新五郎さんやめて!」
梅子が止めようとするが、新五郎はそれを振り払って、
「いや、親として、教えることをしっかり教えなければ、役目を果たせないんだ!」
と堰を切ったように、朗を叩き続けた。
「こうしなきゃ、こいつをしつける方法はないんだよ!こいつは、俺のせいで、甘やかされてダメな男になってしまった。だから、責任もって、矯正しなければ!」
「いや、矯正と体罰は違うぞ、新五郎。」
誠一がそういうと、
「いいえ、お父さん、俺に対しても増田家の後継者なんだからと言って、ずいぶん厳しく俺にあたっていたじゃないですか。それと同じことをして何がわるいのです!ほら、匙をもて、匙を!」
新五郎は即答し、なおも朗に匙を持たせようとするが、朗は泣くばかりだった。
「ああ、新五郎は間違えた解釈をしてしまったみたいですね。もとはと言えば、みんな僕が悪いんです。僕が、普通の人間だったら、、、。」
「裕!こんな時に滅茶苦茶なことを言いだすんじゃない!」
実は、裕も今朝の事件に対して、ひどくふさぎ込んでいた。その何日か前から、少しばかり体調を崩しており、微熱や、めまいなどを起こしていたが、そんなことは誰にも知らせていなかった。
「少なくとも自分の息子を、兄ちゃんのような、意気地なしと呼ばれる人間にはしたくないからな!」
新五郎がそう怒鳴りつけたのと同時に、どさっという鈍い音がした。
「裕、しっかりしなさい!やだ、すごい熱じゃない。誰か手ぬぐいでも持ってきてくれる?」
寿々子が裕の体に触ると、火の様だった。
「わかりました!ちょっと待ってて!」
友子が即急に立ち上がり、急いで手拭いをとりに行く。その間にも、新五郎は一生懸命匙を持たせようとしているが、まるで効果はなく、朗の泣き声はさらに強くなる。
「新五郎さん、よしてください!もう、この子には普通の事はできないのだと思って、あきらめてください!」
梅子が、無理やり朗を新五郎の前から引き離した。
「いくら叱ったって無理だ!感情をぶつけるのも、体罰をするのも皆間違いだ。新五郎、これを当たり前だと、よく頭の中に叩き込んでおくんだな!」
誠一が、そう新五郎をしかりつけるが、
「だって、これ以上変な子とか、ダメな子とか言われたくないですし、他にいう事を聞かせる方法はないじゃありませんか!」
これまで目立った反抗などしたことはない新五郎は、父に負けない声で言い返した。
「新五郎さん、友子さんが朝言ってたじゃないですか。もう、無理なんですよ。この子には!」
妻の梅子ももう一度同じことを繰り返したが、
「だけど、だけど、、、!」
まだ納得できなかった。
「考え直してください!」
梅子がきっぱりと言う。
「悔しくないのか、俺たちの子が、ほかの子が皆やっていることをできないって、、、。」
新五郎は、懲りずにもう一度言ってみたが、
「悔しくありません!」
梅子も、初めて夫に反抗した。
その間に友子は、倒れてしまった夫の部屋へ行って布団を敷いてやり、誠一が頼りない長男を背負って、彼を運んでやって布団の上へ寝かせた。一方、祖母の寿々子は、泣いている朗少年を優しくなだめて、
「友子おばちゃんに大好きな麻の葉の着物を買ってもらってよかったね。麻の葉は、魔除けの意味もあるんだよ。」
何て意味のない話をしている。祖母にやさしい歌を歌ってもらうと、まもなく朗はやっと泣き止んだ。
「ほら、お母さんのところに行って、ご飯を食べな。」
寿々子がそういうと、朗は笑っている母の梅子の下へ近づき、彼女の指示に従って、まだ手づかみであったけれど、茶碗の中にのご飯を食べ始めた。
「おいしい?」
寿々子が尋ねると、返事自体を返すことはできなかったが、彼は笑顔で答えを出した。
「とりあえず、ご飯をおいしそうに食べてくれることから始めましょう。箸を持たせるとか、そういう事はそのあとよ。」
「そうですね、お母様。この子は、もうこういう個性的な子なんです。ほかの子と違うと、しっかり線引きをして、この子ならではの育て方をしましょう。」
寿々子と梅子はそんな話をしていた。不思議なもので、女というものは、こうなったときの決断はなぜか速い。そういうのは、やっぱり、母親の特権というものに違いない。「母は強し」とは、こういうことも指している。
新五郎は、まだ、悲しさと悔しさで泣き続けた。
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