お友達が欲しかった

増田朋美

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第二章 インベンション第一番

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第二章 インベンション一番
数日後、ヌルハチさんはヤスシが用意した車で文化会館に向かっていた。侍従長が車を出そうかと提案してくれたのであるが、ヤスシは、車を持っているから大丈夫だといった。車椅子は、車のトランクの中に入れればよかった。そういうわけで初めてヌルハチさんは、車の座席というものに座ったのであった。今までは、侍従長が運転してくれたことはあったが、だいたい車椅子ごと乗り込むことのほうが多かったからである。
「さあつきましたよ。こちらが、練習会場である文化会館でございます。」
車は文化会館の前で止まった。直ぐに八兵衛がトランクのドアを開けて、車椅子を取り出して、ヌルハチさんを座らせた。こういうときに、体の大きくて力のある八兵衛がいてくれるのがありがたかった。
「こんなところ、初めてきました。」
ヌルハチさんはそういった。
「以前、いらしたことありませんでしたか?」
ヤスシがヌルハチさんに聞くと、
「ございません。式典とか、そういうことで、私どもが行くことはありましたけど、私が訪れたことはありませんでした。大体、他の人間がしていましたから。つまるところの、歩ける人間がしていたということです。」
ヌルハチさんは、ちょっとさびしそうに言った。
「そういうことなら、俺達も手伝いますから、ここで色々体験してくださいませね。俺達は、何でも手伝いますから、言ってくださいませよ。」
八兵衛がちょっと冗談ぽく言うと、ヌルハチさんは、そうですねとだけ言った。ちなみに正面玄関からは、車椅子の人間が練習室に入ることができないので、八兵衛とヤスシは、ヌルハチさんを、車椅子用の裏口へ連れて行き、そこから入らせるようにさせた。ふたりとも正面玄関から入らせればいいのにななんて、つぶやいてしまったほど、文化会館の入口は不便なものであった。
「それでは、お入りくださいませ。皆さん待っているはずです。大体、うちのクラブは、出席率が高くて、全員呼んでくることができますからな。」
そう言って、ヤスシは、急いで練習室のドアを開けた。それと同時に、17名の、マンドリンクラブ双葉社のメンバーたちが彼らを出迎えた。一応、クラビコードを望月聡さんが持ってきていたけれど、みんな本当に来るのかなという顔をしていた。ヌルハチさんが、ヤスシに付き添われて、練習室に入ると、メンバーさんたちは、冷ややかな目で彼を見た。
「あら、本当に来たんだ!」
「八兵衛さんの言う通りになっちゃいましたね。」
みんな、ヌルハチさんを歓迎していない顔だった。
「皆さん、今日から、一緒に練習に加わってくれる、衣笠ヌルハチさんです。彼には、通奏低音奏者としてやってもらうことにします。よろしくお願いしますよ。」
ヤスシは、ヌルハチさんをみんなに紹介した。ヌルハチさんは丁寧な口調で、
「よろしくお願いします。」
と頭を下げたのであるが、
「へえ、本当に来たのねえ。なんか、本当に、そういう階級の人って暇人が多いって言うけど、本当なんだ。あたしたちの事バカにしに来たんでしょう?その顔見ればわかるわよ。どうせ、みんなの税金で食べているような人は、何も大したこと無いのに、格好つけているだけだってよく知ってるもん。」
上松ちえ子さんが、ヌルハチさんを冷ややかな目で見てそう言うと、
「そうですねえ。もとはといえば私達は、こういう人たちの作った政策のせいで、病気になったり、生活できなくなったりしたわけだから、その元凶を作った人と、一緒に練習なんかしたくないわよね。たとえ足が悪くて、後継者から除外されている人物であろうと、こういう高尚な身分の人と私達がつながることは絶対無いわよ。」
山岸るつ子さんも、ヌルハチさんに言った。
「それに、みんな悩んだり、苦しんだりしているのに、生活のことで悩んだりしたことのない人物が、ここで一緒にやるというのは、また何か違うのではないかと思うのよね。あなた、きっと音楽の知識とか、そういうものはお有りなんだろうけど、生活の苦労とか、子供の為に、なにかしなければならないとか、そういう事一切、経験してないわけでしょう。そんなにんげんだもの、国民のことなんてわかるはず無いわよ。それなら、さっさと、出ていったほうが良いってものよね。」
コントラバスの井出真理子さんが言った。
「それに、あたしたちが病気になったのだって、こういう机の上でしかものを見ない人間が、勝手に法律を作ったから悪いんだわ。もともとの理由はそこにあるのよ。だから、こんな人と、一緒にやるんだったら、私は謝ってもらいたいわ。散々、私達にひどいことしてきて、それで平気な顔して机の上で生活できる身分だってことをね!」
上松ちえ子さんが選挙演説する人みたいに、そう言うと、周りの人間からも拍手が起こった。
「みんなどうか勘違いしないでください。少なくとも、ヌルハチさんは、他のひととは違います。そんなひどいことを平気でするような人ではありませんよ。」
ヤスシは、なんとかして彼女たちを止めようとしたが、もともと、心を病んでいる彼女たちは、なかなか、怒りの感情を止めるのが難しいようであぅた。それに便乗して、周りの女性達もそうよそうよと言ってしまう。そういうところが男性と女性の違いなのかもしれなかった。
「ねえ、あたしたちは、こんなに平和に活動してきたのに、それをこんな水簿らしいやつにぶっ壊されたくないわよね。それは、みなさんもそう思うでしょ。だったら出てってもらいましょうよ。」
るつ子さんがそう言うと、他のみんなからも拍手が出た。すると、ヌルハチさんは、小さい声で、でもはっきりとした口調でこういったのである。それは、とても意外な言葉で、本当に、皇族の発言なのかわからなくなるような感じだったのだ。
「ごめんなさい。」
ヤスシも、八兵衛も、ヌルハチさんの方を見た。本気で謝ってくれているのか、疑いを持ってしまうような言葉だったからだ。だけど、ヌルハチさんの表情は固く、軽い気持ちでそう言っているわけでは無いんだとわかった。
「私が、皆さんを、つらい思いへ落としてしまったんですね。それなら、申し訳ないので改めて謝罪します。本当にごめんなさい。もし、可能であれば手をつきたいところですが、私にはそれができないことをお許しください。」
ヌルハチさんは、車椅子に乗ったまま、頭を下げて言うのであった。
「こりゃあ、本当に皇族が言うセリフなのだろうか?」
丸山節夫さんが、そう言うと、
「ええ、私の本心に代わりはございません。私は、本当に皆さんに対して申し訳ないことをしてしまったのですね。それなら、まず初めに、皆さんに謝らなければならないでしょう。それなら改めて謝ります。本当に本当にごめんなさい!」
ヌルハチさんは、また頭を下げた。
「じゃあさあ、もう一回聞くけど、あなた、楽器の経験とかそういうものはあるの?何もないでただ入れさせてくれと言うんじゃ困るのよ。あたしたちは、マンドリンアンサンブルなんだし、一人でも欠員が出ちゃうと音楽として成り立たなくなってしまうのよ。」
井出真理子さんがそう言うと、ヌルハチさんは、
「そこにある、クラビコードを貸してくれませんか?」
と、直ぐに言った。望月聡さんが古臭いクラビコードですがそれでも良ければと言うと、
「わかりました、ありがとうございます。それでは、インベンションの一番を弾きます。」
と言って、ヌルハチさんは、それに近づき、インベンションの一番を弾き始めた。バッハが作曲した、音楽の基本のきのじとも言われているインベンション。それをヌルハチさんは弾き始めるのである。その曲は、ハ長調であるけれど、なにか他の調を彷彿とさせるところがいくつかあり、それをしっかり出させるのが、演奏のコツと言える。ヌルハチさんは、それをちゃんと表現した。ト長調やヘ長調、ニ短調など、インベンション一番に出てくる調性を見事に弾ききった。演奏が終わると、双葉社の男性陣は、みんなそれに見とれてしまい、大きな拍手をした。
「何よ。ちょっとくらい、勉強ができるからって得意になってるんじゃないわよ。」
るつ子さんがそう言うが、
「いや、演奏技術もちゃんとあるし、きちんと弾けてるじゃないですか。なかなかこの曲はつまらないようで実は奥が深いんだ。それを表現するのはなかなか難しいですよ。それはどんな身分の方でも共通するのではないですかな?」
と音楽の知識がある、望月聡さんが言った。
「そうねえ。」
と、上松ちえ子さんがいう。
「ま、私としてみれば、きちんと弾けている方かな。まあ、聡さんがそういうのであればそういうことなんでしょう。良いわ。私も、この人を、グループの一員として認めるわ。そうじゃありません?皆さん。」
ちえ子さんがそう言うと、みんなそうだよそうだよと言い合った。彼女の発言力は、グループ内でもかなり大きなもののようである。
「それでは、私のことを、メンバーとして認めてくださるんですね。」
ヌルハチさんは、また軽く頭を下げて言った。
「はい。ぜひ、殿下には来てもらわないと困るのですよ。そしてこのグループに活気を持たせてもらわないと。」
指揮者としてヤスシはそういったのであるが、
「そうなんですね。ありがとうございます。改めて、皆さんの仲間に入れてくださることを、嬉しく思います。」
と、ヌルハチさんは言った。
「でも、皇族には必ず殿下という称号で呼ばないとダメなのかい?」
マンドラテノーレ担当の、森剛さんが、いつも思っている素朴な疑問を言うと、
「いえ、そんなことは毛頭ございません。私は、もともと、大した人間では無いのですから。なにか適当なニックネームでもつけてくださって結構です。」
ヌルハチさんは、にこやかに言った。
「はあ、そんなの思いつかないよ。」
倉田武さんがそう言うと、
「それでは、私のことは、ハチ公とよんでくださいませ。」
ヌルハチさんはちょっと考えていった。
「はあ、そうなんだ。ハチ公ね、それならそれで良いや。なんか、俺達、こういう身分の高い人にメンバーになってもらうのは初めての経験だからさ、まだまだ慣れてないと思うんだけど、許してやってちょうだいね。ハチ公さん。」
先程の倉田武さんがにこやかに笑った。
「ええ、もう一度そう呼んでください。」
ヌルハチさんは、にこやかに言うと、
「じゃあ、これから、双葉社のメンバーとしてよろしくお願いします!」
と、一応、音楽的にまとめ役ということになっている、第一マンドリンの榊原千春さんが言った。それと同時に、みんな立ち上がって拍手をした、のであるが、一人の女性だけ立ち上がろうとしなかった。
「何をやっているのよ、増村さん。あんたも、新しいメンバーを歓迎したりしないの?」
と、パーカッションの須田陽子さんが言うと、その言われた女性、つまり増村るみ子さんという女性であるのだが、彼女はとても小さくなった。ヌルハチさんは、心配そうに彼女を見た。
「ほら、ハチ公さんは、心配されてるわよ。あなた、新しいメンバーになってくれて嬉しくないの?」
と、マンドラテノーレ担当の江口友美さんが言うと、
「ええと、ごめんなさい。頭ではわかっているんです。そういう皇族とか、貴族とか、そういう身分の高い人たちを、普通に受け入れるべきだって。でも、私、あなたの、インベンション一番を聞いて、どうしても受け入れることができなくて。ごめんなさい私、メンバーとして失格ですよね。」
増村るみ子さんは、涙をこぼして泣き出してしまった。
「ああ、増村さんまた過去の傷が疼き出したんですか。でも、それはもう過去のことよ。過去はもう取り戻せないし、やり直しもできないじゃないの。それに過去と他人は買えられないって言う言葉もあるわ。そういうわけだから、もっと柔軟にならなくては。」
と、藤井フミさんという、マンドロンチェロを望月聡さんと一緒に担当している女性が言った。
「そうなんですけど、私、どうしてもできなくて。過去を捨てろとか、忘れろとか、いろんな人に相談させてもらってアドバイスもらったんですけど、どうしてもそれが実行できなくて。なんで私だけできないんだろうって、いつも思ってしまうんです。」
と、増村るみ子さんは、申し訳無さそうに言った。
「まあ、そうかも知れないけどさ、いつかは忘れなくちゃいけないことでもあるのよ。それに生活していけば、誰であっても忘れることはできるわ。私だってずっとそうだったんだから。そのためにこのクラブに来たんでしょ。だったら、もう忘れてしまいなさいな。」
藤井フミさんが言うと、
「それができるにはどうしたら良いんですか。私は、何度もそうしようと試みましたが、結局できなくていつも自分を責めることになる。それでは行けないですよね。だけど、私どうしてもできないんです。」
と、増村るみ子さんは言った。
「できないのは当然なんですよ。」
不意にヌルハチさんが言う。
「はあ、ハチ公さんがそういう事言うんですか。まあ、ハチ公さんの場合、生活しなくて良いわけですから、それで忘れることができなくていいって教育付けられているのかしら?それとも、良い和歌とか、そういうのを作るために忘れなくてもいいって言われているのかしら?」
山岸るつ子さんがそう言うと、
「いえ、どちらでもありません。私は、確かに和歌の技法を学んだことはありましたが、それを作るために忘れなくても良いと許可されたことは一度もございません。私自身も嫌なことがあっても忘れられないで、いつまでも悩み続けることは、未だにありますし、忘れようとしてできないことだってありますよ。だから私は、無理やり忘れようなんてできやしないんだと思うことにしてるんです。」
ヌルハチさんは、そういった。
「だけどねえ、ハチ公さん、あなたは身分が高い人であるから、何度でも人生をやり直すことだってできますよね。だけど、彼女の場合、そうではないから、人生は一度きりなんだ。だから、それで失敗するといつまでも悔やむんだ。」
と、人見重男さんがヌルハチさんに言った。
「それに、身分の高い方は、教訓として生かせばいいと言いますけどね。わたしたちは、そういう事を考えていられるほど時間もお金もありませんのよ。」
佐藤美穂さんという、セカンドマンドリン担当の女性が言った。
「そうですか。それならなぜ、私達のような身分の人間に、怒りを持っているのかを話してみてください。私は、多少のことでは驚きません。それに、もうこの体ですし、皇族としても除外されるだけですよ。」
ヌルハチさんがそう言うと、
「どうしてハチ公さんは、足が悪くなられたんですか?」
と、増村るみ子さんが聞いた。
「ええ、お答えしましょうか。私は、御所の近隣にある平野神社へ行った際に、方向を間違えたせいで石段から転落し、負傷したことからです。多分きっと、平野神社へいかなければよかったのではないかという感想を持たれる方が多いと思いますが、そのとおりなのです。」
ヌルハチさんはしっかり答えた。
「そうですね。平野神社の石段は、急なことで有名ですからね。いかなければよかったか。ハチ公さんもそういう感情持たれることあるんだ。そういうことは絶対考えないだろうなと思ったけど。」
増村るみ子さんがそう言うと、
「もったいぶらないで、ハチ公に理由を言ってみろ!」
と、八兵衛が、るみ子さんに言った。るみ子さんはそうですねとかんがえて、
「じゃあ言います。私、本当は、音楽学校へいって、マンドリンを学びたかったんです。それで、音楽学校へ行く練習をするために、勉強の負担を減らしたいと思って、近くの公立の学校に行きましたが、そこの先生がひどい先生だったために、私は、対人恐怖症になってしまって、今も病院で治療を受けています。それとハチ公さんと何の関係があるのかと疑問に思うかもしれませんが、そこのひどい担任教師が、以前、皇族の家庭教師をしていたことを、大いに自慢しているんです。」
と、泣きながら言った。ヌルハチさんは、少し考えて、
「お話はわかりました。そういうことならたしかに、そんなひどい先生がいる学校へいかなければよかったと思いますよね。それでも、一番大事なものを手放すことがなかったから良かったじゃありませんか。私も、侍従長から言われたことがありました。一番大事なものは捨てるなと。そのおかけで、増村さんは、こうして仲間と出会えたわけでもあるわけだし、私も、増村さんと出会うことができて嬉しいと素直に思いますよ。」
と、そっと慰めるように言った。
「ハチ公さん、あんたって人は、変わってるなあ。そういうこと言ってくる皇族は一人もいなかった。それはなんでそういう事言うのかな?なんか理由あるのかい?」
と、宮野久さんが、感心したように言うと、
「ええ、私は多分、歩けないことからだと思います。だから、世の中善も悪もないのですよ。事実はあるだけで良いではありませんか。忘れられないのであれば、そのままにしておけば良い。無理になんとかしようとするから、苦しくなるのではないでしょうか。それを知っているということでも、また人に対する接し方も変わってきますよね。」
ヌルハチさんは答えた。
「じゃあハチ公さん。お前さんも、また人に対する接し方が変わったの?歩けないということがあって、、、。」
鈴木一美さんがそうきくと、
「ええ。変わったのか変わっていないのかは私はわかりません。そういうことは、私ではなく、長年私の事を観察している、侍従長にきけば良いのではないですか?」
とヌルハチさんはにこやかに笑った。
「はあそうなのねえ。そうやって自分の事を客観的に見てくれる人がいるから、身分の高い人は違うな。きっと侍従長さん今頃大きなくしゃみをしているんじゃないかな?」
鈴木一美さんは、カラカラと笑った。
「ええ、そうだと思いますよ。でも、みなさんだっているじゃありませんか。そうやって笑い会える仲間がいるんですから。私は、そのようなお友達を一人も持ったことが無いのです。その寂しさは、どんな和歌の名人であっても、表現することができないでしょう。そういうわけだから、私も、ここへこさせてもらったんです。」
ヌルハチさんがそう言うと、増村るみ子さんも、涙で濡れてしまった顔を拭いて、
「そうなんですね、ハチ公さん。事実はあるだけけで良い。こんな事教わったのは生まれて初めてでした。私、忘れろとか、もう捨てろとか、そういうことは言われてきましたが、それができなくて、本当に自分はダメなんだなと自分を責めてましたから。でも、そんなことはしなくて良いんですね。ただ、事実として放置しておけば良いのですね。ありがとうございます。」
と、にこやかに笑って言ってくれた。
「そうだよそうだよ。今日から、みんな友達だ!じゃあ、合奏練習を始めましょうか。ハチ公さんは、こないだ渡した楽譜の通奏低音を弾いてください、お願いします。」
ヤスシは、そう言って、指揮棒を振り上げた。そして、みんなの合奏練習が本格的に始まった。
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