きもの

増田朋美

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第三章 つらい母親

辛い母親

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第三章つらい母親
立花子は、悩みがありました。
誰かに相談すれば治るかという物ではありませんでした。一時、整形を勧められたこともあったけど、そんなことをするのには、莫大な費用が掛かるので、できるはずもないのでした。
悩んでいるのはただ一つ。
男顔。
これだけなのです。
これのせいで、自分は、本当につらい思いをしてきたのでした。例えば、お風呂屋さんに行けば、店員に必ず男湯の鍵を渡される。周りにいた女性たちが、嘲笑することもある。歌うことが好きだったので、地元の合唱団に入ろうかと思い、見学に行ったときもあったけど、指揮者の先生に、希望するパートは、バリトンかバスかと聞かれていく気をなくしてしまい、それきり、訪れていませんでした。
学生の頃は、そこまで男顔であるなら、宝塚音楽学校へ行って、男役になれ、と親にアドバイスをもらったこともあったのですが、残念ながら、彼女の声域はかなり高く、男役など、演ずることはできるはずもないと、音楽教師に言われたことがありました。つまり、見た目は男性で、声から判断すると女性。時に、「宦官」とあだ名されたこともあるほどです。
高校を出てから、彼女は製造業として働き始めました。大学受験などまっぴらごめんでした。どうせ、学生なんて勉強なんかせず、くだらないことに手を染めて、綺麗に言えば青春を謳歌する生き物であるから、きっと、顔の事でまたいじめられることだろう。それなら、働いたほうが、都合がよかったのです。製造業は男性ばかりで、彼女はいじめられる心配もありませんでした。保育士とか、看護師など女の職場であればまた面倒なことになるし、そういう仕事は無垢な子供や呆けた年寄りなどを相手にするから、きっと利用者から、男みたいとからかわれて笑われることでしょう。そういう人が一切いないところとなると、製造業が向いていたのです。
その状態がしばらく続き、彼女は、恋愛どころか、友人付き合いさえもできませんでした。というよりしませんでした。きっと、男の様で女であるという中途半端な立場にあって、自分に興味をもってくれる男性などいるはずもないし、そんな者をはじめから求めないほうがいい。求めたらまた傷つく。それを彼女は貫いて、遂に、三十を越してしまっていました。
そんな立花子に両親は、何かしら心配をしました。立花子が、他の女性のようなことを一切しないからです。自分たちのことは気にしないで結婚していいぞと言っても、自分をこの顔にしたのは誰だとか、勝手に子孫がほしいなんていうな等、ヒステリックにかえってくるのです。いくら、そういう気持ちはない、ただお前に幸せになってほしいと伝えてもまるでだめでした。しまいには、この顔に合わないのに花という字を名前にするなと怒鳴りつけるまでになりましたので、いきり立った両親は、立花子を、近隣に住んでいる、ある若い男性と見合いをさせ、結婚させることに成功したのでした。
彼は、大変優しい人で、立花子は仕事を続けることもできました。休みの日は一日中こもってばかりいた彼女に、福祉的な合唱団を見つけてくれて、彼女はそこへ加入することができました。立花子はその歌のうまさに指揮の先生にも気に入られ、ソリストまでつかせてもらうこともできました。
翌年、三十五歳の誕生日を迎えた彼女に、子供が与えられ、翌年、彼女は帝王切開という困難もありましたが、娘を一人授かりました。夫は、この上なく喜んで、娘に「多香子」という名前を付けてくれました。立花子は、多香子が、自分のような男顔にはならないでくれと切実に願っていたのですが、幸いそうはならず、むしろ、かわいらしい女の子に育ってくれました。
しかし、多香子が六歳の誕生日を迎える寸前に夫はあの世の人になりました。立花子は、再婚を勧められたこともありましたが、もうこのようなラッキーは二度とないだろうという気持ちが強く、再び見合いをするなどの気持ちは起こりませんでした。立花子は、多香子を自分の手で育てることに決め、多香子を良い学校に行かせるために、別の職場へ自ら異動し、さらに仕事に励むようになりました。
それが始まったのは、多香子が、小学校への入学式の事でした。立花子は、できればいじめの少ない私立の小学校に通わせたかったのですが、どうしてもできず、結局地元の小学校に入学させることにしたのでした。入学式が終わって、教室に入り、先生の話を聞いて、帰ろうとしたときのことです。多香子が、いつまでも机から離れようとしないので、立花子がもう帰ろうかと促すと、隣の席に座っていた女子児童が、立花子を見て、珍しそうにこういったのでした。
「パパ?」
立花子は、このときにスカートをはいておらず、パンツスーツを身に着けていたので、もしかしたら、そう見えてしまったかもしれません。
「違うわよ。ママですよ。」
すると、その女子児童は、ひどく驚いた様子で、黙ってしまいました。
「これから、よろしくね。」
立花子は、優しくその女子児童に話したつもりだったのですが、彼女は
「気持ち悪い。」
とだけ返しました。
このときは、多香子も、立花子本人もあまり気にしていなかったのですが、、、。

一方。
「上野さん、こちらへどうぞ。」
看護師は、上野多香子と表札が書かれた病室のドアをたたきました。病院のベッドに座って、外を眺めていた多香子は、またか、という感じで振り向きました。
多香子は、立花子と違って、女性らしさのある、豊満な美女という感じの女性患者でした。よく、面会に来たほかの患者の家族は、あの二人がよく親子だと驚いていたほどです。確かに、多香子が病院であっても服装を派手にしたり、髪型を派手にしていたこともあるのかもしれませんが、それほど立花子と多香子は正反対でした。
「先生が待ってるわよ。早く来なさい。」
「はい。」
多香子は、看護師について、病室から出て、廊下を歩いていきました。この病院では、一人の患者に二人以上の看護師が付いてくることもまれではありません。中には、力持ちの男性看護師が付いてくることもありました。多香子も念のためということで、がたいの大きな男性看護師が、一緒に診察室へ同行していきました。
多香子が診察室に入ると、優しそうな精神科医が、カルテをもって、待機していました。
「昨日はよく眠れましたか?」
精神科では、必ず聞かれるこの質問。
「はい。少し、疲れも取れたようです。」
「そうですか。お薬を飲んで何か、不快なことはありますか?」
「ええ、今までなかなかあう薬がなくて、困っていたのですが、その新しく出たばかりの薬は、比較的楽です。」
「ほうほう。気分は落ち着いていますか?何か、イライラしたり、嫌な気持ちになったりすることは?」
「いや、全然ありません。もっと早く、この薬に会えたら、また人生変わったかもしれない。」
「いやいや、多香子ちゃん、今までがあったから、この薬に出会えたと考えれば、決して無駄にはならないから大丈夫だよ。」
男性看護師が、彼女に助言しました。太った人というのは誰でもそうですが、心の底に、少しばかり優しい気持ちを持っているのです。
「でも私、時間を無駄にしました。ここで、こうして調整してもらえなかったら、きっとだめになっていたんじゃないかな。」
多香子は、問題の多い患者の一人でした。今まで出してきた抗精神病薬が、ほとんど効き目を発揮せず、副作用ばかりだったのです。それは、彼女の過敏な体質のせいだったのでした。

多香子が、症状を出し始めたのは、高校に入学したばかりのころでした。それまで、明るく元気に学校へ通っていたのですが、ある日突然、学校に行かなくなってしまったのです。ただの不登校ではなく、落ち込み方が尋常ではなかったので、立花子は親戚に相談し、精神科を受診したところ、そこである薬をもらいました。ところが、それを飲みだしてから、急に気性が荒くなり、親戚の子供に暴言を吐いたり、しまいに、子供に癇癪を起して殴りかかったこともあったので、今度は大規模な病院を受診しました。ここで、別の向精神薬を出してもらったのですが、彼女が落ち着きを取り戻すことはなく、薬だけが増えていき、ひどい時には、一日に二十錠近くの薬を飲んだことさえあったのです。副作用のため首が傾いてしまったほどでしたが、「これが普通」と言われ我慢することを強いられる始末でした。これではいけない!と、親戚からアドバイスを受けて、多香子はこの病院にやってきたのです。
この病院では、いわゆる刑務所のような扱いもなく、多剤投与をさせるわけでもなく、医師も、看護師も親切に接してくれて、前述したような「これが普通」と言われることはまずありませんでした。確かに、多香子は問題が多かった患者ではありましたが、馬鹿にされることもなかったので、少しづつ落ち着きを取り戻すことができました。
「多香子さん。ちょっと考えてほしいのだけど、、、。」
精神科医は、優しく言いました。
「なんでしょう。」
「もうそろそろ、お宅へ戻ってもいいのでは?」
多香子は、また見捨てられたような気分になりました。
「いやいや、ほんとだよ。だって、新しい薬を出してから、何も問題を起こしていないし、非常に落ち着いていて、本当に優等生じゃないか。もう、終わりにしてもいいんじゃないかな?お母さんだって心配していると思うよ。」
確かにそうかもしれませんが、今回、この病院にやってきた直接の原因は、母と喧嘩をして自殺を図ったことであったため、多香子はその元凶になった母にあまりよい感情は持てないのでした。
「そうですけど、まだ自信が、、、。」
「多香子ちゃん、ここは三か月以上入院してはいけないと、法律で決まっているんだよ。」
例の看護師が茶目っ気たっぷりに言いました。
「そういわれるんだから、もっと喜ばなくっちゃ!」
「はい、、、。」
こういわれたら、そうするしかないと思い、多香子は答えを出しました。確かに、もうすぐ三か月になろうとしています。
「そうか、そうなったら、月曜日には退院ということにしよう。まあ、しばらくは、週に一度様子を見るために診察へ来てもらう形にして、何かあったら相談窓口を利用してもらってまた対策をとればいいから、、、。」
精神科医は、とても嬉しそうでした。普通、精神科では、医師が退院を喜ぶというシーンは、あまり見かけないのですが、この病院ではそうなるらしいのです。
「デイケアとかは希望する?」
「いえ、まだわかりません、看護師さん。」
「まあ、彼女は親戚の方も理解してくれているようだから、それに頼る必要もあまりないのではないかな。」
「もし、必要が出たら、診察の時に言ってくれればそれでいいよ。」
医師や、看護師が、そんな話をしていて、彼女は少し気が重くなりました。
「でも、お別れは寂しい、、、。」
「大丈夫。先生がもう大丈夫だって保証してくれているんだから、気にしないの!」
優しい看護師さんは、どんなことでも悪い方に解釈はしないのでした。
「素直に喜べばいいじゃん!おめでとう!」
看護師さんが、肩を叩いてくれたけれど、多香子は少しばかり悲しいのでした。

夜、病室に戻った多香子は、ベッドに座って、何か考えていました。
退院か、、、。
一般的に言えばうれしいことなのですが、精神障害では逆になることもあるのです。言ってみれば桃源郷にたどり着いたような気がすることも少なくないのでした。大体の患者は、この世が嫌になって入院してくるわけですから、そこから離れられる病院はある意味、快適な場所であり、看護師さんも親切だし、他の患者と嫌なことを言い合って、ストレス解消ということも可能になる。それに、普通の人であれば、そのような発言をして何になる!と怒鳴る様なことでさえも、ここであればふんだんに聞いてくれて、やっと理解者を得られたと、うれしくなり、いつまでも居たくなって、出るのが嫌になってくるのです。多香子もどちらかと言えばその一人でした。それまでの病院でひどく邪見に扱われた経験があるだけに、この病院を出てしまうということは、悲しいことになるのでした。
刑務所でよく聞く言い方を借りれば、娑婆へ戻るということになるわけですが、娑婆というのは、病気となった元凶が存在する場所でもあるのです。多香子にとってその元凶は母でした。小学生までは本当に好きだった母。しかし、中学に入ってから、母が非常に憎たらしくなって、男顔の母のようではなく、綺麗な人になろう!と思い、化粧や髪型に力を入れるようになったのです。もちろん、校則違反として、教師によく叱られたりしましたが、それをされるたびにさらに綺麗になりたいという気持ちが募ってくるのでした。理由は母が、とにかく男顔であり、それなのに何かおどおどしていて、友達のお母さんのように、がっしりしていないで頼りない、そんな大人にはなりたくないと思ったからです。男顔のせいで、いつも損ばかりしているのなら、何か対策をとればいいのではないか、と主張しても、母はお金がないからという理由で、化粧すらしないでひたすらに働くのでした。それよりも、あんたが、名門私立に受かってくれたほうがよっぽどうれしい。そう優しく語ってくれた母ですが、それが、辛くてたまらなかったのです。そして、三年生の時に、担任教師がお前のせいでお母さんが男顔になったとののしったとき、何か掛け金が外れた感触を覚えました。負けまいと猛勉強してその私立高校に合格はしましたが、待っていたのは、金持ちの同級生と、男顔の母を馬鹿にし続けるその親たち。多香子は何一つ嫌になって、落ち込んでしまったのでした。
ですから、かえって、病院にいたほうが楽、と言っても過言ではありませんでした。そういえば、あの憎らしき母と、顔を合わせなくて済むからです。
退院して、彼女は行くところがないので、彼女は母と再び暮らすことになっていました。母は、退院するという知らせを受け取ると、涙を流して喜んでいたようです。でも、男顔というのはどうしても変えることはできない。その母とまた暮らすことになる、となると、不安で仕方ないのでした。また、喧嘩をして、自殺を測ったり、自傷や物を壊したりしてしまうのではないか。そればかり、多香子は頭に浮かび、彼女は、眠れないで一晩過ごしてしまいました。

でも、残された数日はすぐに過ぎてしまい、とうとう退院の日が来てしまいました。多香子はタクシーで自宅へ帰ると言いましたが、母が迎えに来てくれると看護師から聞かされ、しぶしぶ、病院のロビーで待っていました。
退院の時間、母がやってきました。まず、母、立花子は、娘の治療のお礼として、医師に丁寧にあいさつしました。医師は、入院している間、彼女は問題も何も起こさず、あたらしく認可された安定剤を処方してみたら、劇的に効いて、落ち着きを取り戻すことができたので、たぶん、よほどのことがなければ、大丈夫だ、とにこにこ笑って、語っていました。看護師は、彼女は、病名を付けるのではなく、ただ環境をかえて休みたかっただけだと冗談で言うと、立花子は涙を流して、喜んでいました。
三か月というか、前の病院に長期入院していた時以来間近でみた母は、確かに男顔のままでした。きっと、小さい子供だったら、おじいちゃんと言ってしまうかもしれません。白髪が一気に増え、老眼鏡をかけて、まるで、おじいちゃんがスカートを履いているようです。あきれてしまうのと同時に、何とかして母を男顔から脱出させてやりたいと、多香子は苛立つくらい思いました。でも、一気に母は老け込んでしまったという印象を与えました。
そう言えば、入院している間に、母は六十を超えていたのでした。
隔離室にいた間は、メールも電話もできないから、全く気が付かなかったのですが、そうなっていたのです。
多香子自身も、もしかしたら、もう就労はできなくなってしまった年に到達していました。多剤投与されている間は、働くなんて何もできなかったし、彼女の周りでは、精神障害に理解ある企業はまるでありませんので、もう就労はできないのは確実でした。彼女の取る道は、役所へ手続きし、国からの年金で生活するしかないのですが、母は、まだ働きたいと主張し続けているようです。そうなると、もしかしたら、永久に男顔のままでいるのかもしれない。
何とかできないだろうか。
多香子は、悩みました。
「では、多香子さん、帰ろうか。」
医師がそう言ったため、彼女は座っていた椅子から立ち上がりました。
「本当にありがとうございました。御恩は一生忘れません!」
母は、最敬礼して、涙をポツンと床に落としました。
「まあ、来週、また診察にきてもらうわけですから。」
医師は、苦笑しましたが、母は、泣くことをやめませんでした。
「元気でね!」
あの、太った明るい看護師がそういいましたが、母は、返事をする代わりに、涙を拭きました。
「じゃあ、失礼いたします!」
二人はもう一度最敬礼して、まるで大学の卒業生のように、病院の正面玄関から出ていきました。

多香子は黙って、母の運転する軽自動車に乗り込みました。
「ママ、泣かないでよ、恥ずかしいじゃない。」
「ごめん。ママも年ね。もう、あんたに会えることはないのではないかと思っていたのよ。」
「考えすぎじゃないの?」
多香子は言いましたが、母がそれだけ年を取ったことに気が付きました。
そうなれば、余計にこの男顔を何とかしてもらえないか、と言いたくなりました。自分を苦しめた元凶でもありましたが、やっぱり、この人は女性だという声の響きがありました。男顔にしてこの美声。なんというこの落差。入院する前の多香子は非常にイライラして、もう消えてしまいたいと怒鳴りつけたくなるのですが、今日はその気持ちは起こりませんでした。
二人は、大通りを走って、信号機の角を右に曲がりました。大通りを抜ければ、田畑ばかりの田舎景色が見えてきました。大嫌いだったこの風景も、今は懐かしくてたまらない風景でした。
「帰ってきてくれたのね。」
不意に母が言いました。
「ありがとう。ごめんね。」
いろんな気持ちがわいてきました。本当は、もう!私をさんざんないがしろにして!なんて言ってやりたかったけど、そういう気持ちはやめよう、と多香子は思いました。それよりも、母の、最大のコンプレックスを何とかしてやりたい!その気持ちが募ってたまらなかったのです。
何とかならないかと、道路の周りを見回しました。数件の洋服屋の前を通り過ぎましたが、立花子に似合いそうなものは何一つありません。男顔ですから、皆不自然に見えてしまうのです。
もうすぐ家についてしまう。その前に何かできないか、と一生懸命悩んでいましたところ、
「菊村呉服店」
という看板と、
「着物1000円からあります。」
という貼り紙が目に飛び込んできました。
着物。
これなら、男顔も何とかなるかもしれない!多香子は直感的にそう思いました。
「ママ!ちょっと止めて!」
急に多香子はハンドルに手をかけました。車は、道路の端に止まりました。幸い対向車がめったに来るような場所ではありませんので、事故には会いませんでした。
「どうしたの!また何か聞こえてきたの?」
「違うわよ。全然幻聴なんかないわよ。ねえ、ママ、あのお店に行ってみよう!」
多香子は、菊村呉服店の看板を指さしました。
「ああ、あの店は、去年からオープンしたのよ。」
「だから行ってみよう。入ってみよう!」
「でも、着物なんて高いじゃない、、、。」
「千円からありますって貼り紙してあるわ。」
「ああ、ほんとだ、、、。でも大丈夫なの?」
「ええ、私は全然平気よ。私たちの退院の祝いに、何か買ってみましょうよ!」
「ちょっとだけよ。まだ、退院したばかりだし、」
「わかってるわ!」
多香子があんまりいうので、立花子はしぶしぶ同意して、その店の前に車を止めました。二人は店の中に入っていきました。
本当に小ぢんまりした店でしたが、中には、木製の売り棚に、着物や帯が、所狭しと置かれていました。その値段と言ったら、
「すごいじゃない!洋服の三分の一もないくらい!」
と、多香子が思わず言ってしまうほどの安さでした。
「いらっしゃいませ。」
新入荷商品の整理をしていた秀龍は、二人が入ってきたのにすぐ気づき、整理の手を止めてあいさつしました。
「着物は初めてですか?お若い方だから、親子でお茶でも習いに行くのかな?」
秀龍がさらりと言うと、
「親子だってわかってくださったんですね!」
と多香子は確認をとるような口ぶりで言いました。
「ええ、わかりますよ。だって、お母様のはめているリングのサイズから判断すると、男性用にしては小さすぎるので、、、。」
「よし、それなら話は早いわね、店長さん!母を、綺麗にしてあげてください。二度と男顔と言われないような女性らしい組み合わせを考えて下さい!」
「わかりました。」
秀龍は少し考えて、売り台の上に山のように積み上げられた着物の中から、ピンク色の花柄の訪問着を一枚出しました。ピンクの地色に、白い百合の花が友禅の技法で染められている着物です。
「こちらなんかはどうですか。」
「かわいい!私大賛成!ママに絶対に似合うと思うなあ。どう、ママ!」
「でも、やっぱり、着物ってお高いんじゃ、、、。」
立花子は少し尻込みしてしまいましたが、
「いえいえ、これは特価品なので1000円で結構です。」
と、あっさり秀龍の答えが返ってきました。
「それに、着物という物は女性のほうが得をするようにできていますからね。女性らしさを引き立てるのにはもってこいなんじゃないですかね。」
「はら、ママ。店長さんだってそういっているから、買ってきましょうよ!」
「でも、他にもいろいろな部品がひつようになって、やっぱりお高くついてしまうのではないでしょうか、、、?」
「いえいえ、うちはリサイクル品ばかり扱ってますから、基本的に帯から小物まで、全部そろえても、一万円以内でできますよ。」
秀龍は、恥ずかしそうに言いました。
「そうはいってもお太鼓が結べなければ、何も意味がありませんし、、、。」
これには、多香子も落胆の表情を見せました。多香子が幼いころからそうだったけど、母は、チャレンジ精神に乏しいというか、新しいことは苦手なようで、一度試して失敗すると、すぐに投げ出してしまう癖があるのです。
「そうじゃなくてさ!せっかく綺麗になるチャンスなんだから、帯結びに挑戦しようとか、思ってよ!」
「親想いな娘さんでいいじゃないですか。お母さんをきれいにしてなんて、今時、こんな頼みごとをする若い女性はなかなかいませんよ。きっと、お母さんが、容姿で悩んでいるのをたくさん見ているんでしょうよ。それで、何とかしてもらいたくて、こちらに来たのでしょう。大体、今の時代は親の希望をかなえるためにこうして店を訪れるなんて子は、箏はいないですよ。成人式の振袖を買っても、着たのは一度きりで、すぐにメルカリなんかに出してしまう子が多いでしょ。それなのにお母さんに、綺麗になってもらいたいなんて、貴重な女性ですよ!」
「まあ、店長さん、正直ね。」
「ええ。だから、こういう着物の世界は、簡略化しすぎで困っているんです。伝統的に考えれば、それはいけないことなんですけどね。」
秀龍は、そういって苦労していそうに頭をかじりました。それは確かに本当のことでもありました。
「もし、帯結びに本当に不安があるなら、作り帯もありますよ。」
「え、ある?すぐに出して!」
多香子は、命を出すように言いました。
「はい。この箱の中にあります。」
秀龍は、売り台から、一つの段ボールの箱を出して、それを、二人の前で開けました。中には、お太鼓や文庫、はたまた立矢まで、様々な形の作り帯が入っていました。規格品としてつくったものもありますが、確かに手作りで作った作り帯もあります。
「はあ、、、。皆、こういう便利なものまで手放すのねえ、、、。」
多香子はため息をつきました。
「お客様の年齢で、このピンクに合わせるのでしたら、こちらの黄色い二重太鼓がおすすめです。」
秀龍は、箱の中から黄色いつくり帯を出して、売り台の上に置きました。黄色地に、ワインレッドで芍薬の花が刺繍してあるものです。
「二重太鼓という名称は知らないけど、これ、ママに似合いそうね!いくらなの?」
「はい、800円でかまいません。」
「なんだかかわいそうなくらいの安さですね、、、。」
立花子が思わずつぶやきました。
「じゃあ、この着物と帯、いただいてこうよ!あと、長じゅばんとか必要な小物もつけてさ。それでも一万円しないでしょう?」
「しません。」
「そうねえ、、、。確かに、この顔では、本当に、男と間違われてきたし、、、。」
「ご不安であれば、着てみたらどうですか?」
不意に、秀龍が言いました。
「いいのですか?」
「はい、試着室ありますよ。着付けのお手伝いも致します。」
「わかりました。やってみます。」
「では、ちょっとこちらにいらしてください。」
秀龍の案内で、立花子は試着室に入りました。しばらく、裾を持てとか、おは処理がどうのとか、作り帯の付け方についての説明が聞こえてきて、
「素敵ですよ。娘さんに見せてあげてください。」
と、同時に秀龍が出てきて、試着室のドアが開きました。
そこから出てきた母は、ピンクの訪問着に黄色い帯を締めて、もう男顔ではなくなっていました。


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