傾く方へ

seitennosei

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その後の凛子。

激しく泣いた。

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床の上。
座布団替わりに敷いたクッションにパパは座っている。
ローテブルの上にお茶の入ったコップを2つ置き、正面に私も腰を下ろした。
だけどソワソワと落ち着けない。
目の前に8年振りのパパが居るのだから。
確か今50歳くらいかな?
見た目に頓着のない人にしては実年齢よりも若々しさは保たれているものの、綺麗にカットされている髪には流石にポツポツと白髪が見えていた。
昔より痩せ、想像していたよりもスッキリとしているけれど、やつれた感じはなく、寧ろ顔色が良く健康的だ。
シワの1つもないパリッと決まったシャツ。  
埃の浮いていないスーツ。
チラッと確認した左手の薬指にはなにもない。
だけどきっと新しく充実した生活を持っているだろう。
「お久しぶりです。」
そう言って頭を下げると、パパは慌てた様に膝立ちになり、自分の下のクッションを私に差し出した。
「あ、いや、これ…凛子が使いなさい。赤ちゃんいるんだから…。」
相変わらず優しい。
全然変わっていない。
手を伸ばしてクッションを受け取る。
「ありがとう。」
変わっていない事が嬉しくて。
8年も会っていなかったなんて嘘みたいで。
パパの顔を見ながら昔みたいに自然と笑えた。
「凛子なんだな…。本当に…。」
「…え?」
「いや、その…かなり見た目が変わったしな…。父親の分からない子だとかも聞いていたから…。俺の知ってる凛子と繋がらなくて…。でも笑顔は変わらないな。」
そうだよね。
軽蔑したよね。
きっとパパは自分が途中で放り出してしまった娘を想って、この8年間送金していたんだ。
健気でパパっ子だった昔の私に。
それが久しぶりに連絡がきたかと思えば未婚の母になるとか言い出して、会ってみれば奇抜な格好にタトゥーの入った身体で出迎えたんだから残念に思った筈だ。
「ごめんなさい。」
ガバと頭を下げ謝罪する。
「本当にごめんなさい。昔の事も。お金の事も。今こんなになってしまっている事も。」
「凛子?」
「勝手言ってるって分かってるけど、この子は幸せにしたいんです。だから…」
「凛子!」
「だからお金はこの子に使わせて下さい。お願いします!」
「凛子!!」
テーブル越しに腕が伸ばされる。
私は両肩を掴まれ顔を上げた。
大きくて力強くて暖かい手。
怒りをほんの少しだけ含んだ悲しそうな顔と目が合う。
「凛子が謝る事なんかひとつも無い。お金も好きに使って欲しい。」
「…パパ。」
「謝らなきゃいけないのは俺の方だよ。ずっと後悔してた。」
パパは顔を苦しそうに歪ませ目から涙を零した。
私も視界が霞む。
流れる涙をそのままにパパが言う。
「凛子。あの家で一緒に住まないか?」
「…え…?」
「凛子が俺に言ってくれた言葉覚えてるか?子供にも奥さんにも何にでもなるって言ってくれたあの…。そこから逃げた事ずっと後悔してた…。」
ガッと音を立ててローテーブルが退けられた。
その上で辛うじて倒れなかったコップのお茶がユラユラと揺れている。
パパは私を引き寄せ抱きしめると。
「俺が凛子の父親にも旦那にも何にでもなるから…。お腹の子と一緒に家族になろう?」
そう振り絞った。
唐突な温もり。
今の状況にもパパの言葉にも理解が追い付かなくて私は呆然とする。
家族?
パパと?
「でも…。どうし…」
「愛してる。」
その瞬間。
今まで感じた事のない衝撃が身体の中を駆け抜けていった。
理解する前にブルブルと身体が震え出して。
「ああああああああぁぁぁ。パパあぁあぁぁぁ。」
限界を超えたダムの様に私の中の何かが決壊する。
涙も叫びも抑えられなくて産まれたての赤子の様にただ泣き叫んだ。
自分の声に自分で驚く。
こんなに飢えていたなんて。
子供が出来て、この子の為に強くならなきゃと、強がりでなく自然と思えた。
みーもユリも応援しなきゃって心から思えた。
今まで投げやりだった人生を修正していくみたいに、一つ一つ向き合っていく事にも素直に前向きになれた。
この子が出来てからの私は充実していて。
だからもう誰かに愛してもらおうなんて夢見てもいなかったし、私が全力でこの子を愛せばそれで良いと思っていたのに。
パパの「愛してる。」は、そのたった一言で自分がどれだけ孤独で冷え切っていたのかを私に気付かせた。
「凛子…、一緒に帰ろう。」
喧しい私の泣き声を縫ってパパの声が耳に届く。
私は必死にパパにしがみついた。
優しくて暖かくて。
身体も心もパパに包まれて、今までの苦しみが全て溶かされていくみたいにそれは心地が良かった。

パパはずっとママの実家、つまり私の祖母宅と連絡を取りあっていたらしい。
私の所在や現状をその都度気に掛けていてくれたんだと落ち着いた後で話してくれた。
本当は自分が自殺未遂騒動から落ち着いた頃に私を迎えに来ようとしたけれど、丁度その時私から就職したとハガキが届き、元気にやっているのなら顔を出さない方が良いのかと会うのを止めたそうだ。
それ以降も祖母との連絡で私が仕事を続けている事を確認し、送金を続けながら見守っていた。
それがここに来て突然の妊娠報告。
しかも手放しで祝福できる状態に無い事情。
知ってしまったら居ても立っても居られなくなり、祖母の情報を頼りにここまで来てくれたのだそうだ。
「凛子も今更こんなおじさん気持ち悪いだろうし、俺に対して好きだとかそんな気持ちが無くても良いんだ。関係性とか気持ちの種類とか考えないでただ家族になろう。」
パパの言う通りだった。
私はパパを今でも男の人として好きなのか、幼少期に足りていなかった愛情を乞う様に父性を求めているのかが自分でも判然としない。
だけど27年間の人生で私にとって今でも家族だったと胸を張って言えるのはこの世でパパたった1人だけで。
そのパパに家族になろうって言われた時、みーにプロポーズされた時に生じた違和感みたいなモノを一切感じなかった。
私はパパとまた家族になりたいって素直に思ったんだ。
私の涙とヨダレで汚してしまったシャツを見て思い出す。
「パパは…お付き合いしてる人とか新しい家族とか居ないの?」
「いないよ。この8年女の人に触ってもいない。」
「そっか…。」
これ以上は聞かなくても分かる。
きっと真面目なパパは私への罪悪感や、一度築いた物が崩れていくトラウマから、この8年間恋愛が出来なかったんだ。
「スーツが綺麗だし…健康そうだから新しい奥さんでも居るのかと思った…。」
「ああ…。女性はそういうところを見るのか…。」
パパは照れ臭そうに笑いながら呟く。
「今あの家で母親と住んでる。親父が4年前に死んで、それからは田舎の家も引き払ってな…。だから恥ずかしいけど身形がちゃんとしてるのは母親のお陰だ。」
「お父さん…亡くなったの…?」
脳裏に浮かぶ8年前の病院での姿。
お父さんもお母さんも立派な人だった。
優しくて理性的で。
大切な息子を追い詰めた元凶である私にも決して嫌な態度はとらなかった。
その一度話しただけなのにお父さんが亡くなったって事実が悲しくて。
そしてまたズシリと乗し掛かる罪悪感。
「やっぱりあの家には行けない。」
「どうして?」
「私はパパを不幸にしたから…。パパのお母さんに合わせる顔がない。」
「凛子。」
パパはまた私を抱きしめる。
「ごめんな。」
苦しそうな懺悔。
私の胸もギュッと締め付けられる。
「そんな事言わせて…。本当にごめんな。」
さっきみたいに抱き返さない私が不安なのか、ますます力をこめて強く包むと優しい声で諭す。
「凛子。何にも心配要らないんだよ。母さんは全部知ってるから。全部分かって今日迎えに来た事にも賛成してくれている。」
「全部?」
「そうだ。全部だ。俺が昔凛子にした事も。凛子が今一人で子供を産もうと頑張っている事も。その上で俺が凛子をまた家族として迎えたいって事も全部分かって応援してくれている。」
昔した事?
全部?
急に息苦しくなる。
胸が圧迫されているみたいだ。
押さえ付けられている心臓が解放されようと藻掻く様に大きく鳴った。
パパのお母さんが昔の私とパパの関係を知っているなんて…ますます合わせる顔がない。
今までとは比べ物にならない大きな罪悪感がドロリとへばりつき、暗い奈落に私を引き摺り落とそうとする。
ふるふると首を振りパパの胸を押す。
「ごめんなさいごめんなさい…。」
だけど離れようとする私をパパはまた無理矢理抱きしめる。
「凛子は何も悪くない!母さんもずっと後悔してた!俺の気持ちも凛子の事情も知らないで追い出した事。あの時他人なんて言わなければ良かったって…。」
「ごめんなさい…」
「あの時凛子を一人にしなければ良かったって俺も思ってる!抱きしめて家族だって言えば良かったって!」
瞬間、あの時の光景が蘇った。
パパの病室の前。
消灯時間に入り遠くのナースステーションから漏れる光だけを頼りに佇んでいた薄暗い廊下。
憎いはずの私に丁寧に頭を下げるパパのお父さんとお母さん。
私だけが孤独で。
身体だけ残してスーッと意識が後ろに引っ張られて全部遠くなった。
それ以来私はずっと自分が自分じゃないみたいにふわふわと生きてきた。
それが今、パパの言葉で引き戻される。
久しぶりに自分の身体に戻った感覚。
まだぼんやりしていて定着していない私を繋ぎ止める様にパパは抱きしめるのを止めない。
「私…パパと居ても良いの…?」
「うん。」
「要らない子じゃないの?」
パパが震えている。
ズッと大きく鼻を啜り嗚咽を漏らし出した。
脆くこぼれ落ちるモノを繋ぎ止めるみたいに必死に私を掻き抱いて。
「凛子にいて欲しい。」
最後の最後。
私を下へと引っ張っていたドロドロがズルっと外れて落ちていった。
代わって私は眩しい方へ引き上げられる。
そうしてやっと自分の身体に自分の中身がジワジワと染み込んで定着していく。
ずっと膜が張ったみたいにぼやけていた視界がクリアになって。
指先はビリビリと痺れている。
末端まで自分が行き渡りコントロールを取り戻したみたいで。
腕を伸ばしてパパにしがみつく。
居る事を許された安堵が私に息を吹き込むから。
新しく生まれた気持ちで大きく呼吸すると、私はまた赤ん坊のように激しく泣いた。

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