木曜日のスイッチ

seitennosei

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木曜日のスイッチ。

木曜日の絵。

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「ありがとうございました。またお越しください。」
レジカウンターから頭を下げお客様を見送る。
中々に忙しい仕事だけれど、この瞬間はホッと力が抜けた。
「細谷さん、慣れてきた?」
「あ、はい。」
「そっか、良かった。」
笑顔の副店長。
気遣いが行き届く人で、兄貴の友人でもある。
冬休み中に何度か遊んでくれたグループにも居たし、面接の時も担当してくれて即採用にしてくれた。
この人のお陰で初めてのアルバイトだけど緊張し過ぎないで居られる。
「今日はもう時間だからあがってね。お疲れ様。」
「はい。お疲れ様です。」
インフルエンザから回復して直ぐにバイトを探した。
そして春休み中から専門近くのこの駅ビル内にあるカフェで働き出し、もうすぐ1ヶ月になるけれど最近やっと色々と慣れてきたところだ。
タイムカードを切った後、エプロンを外しながら店を出る。
フロア内を突っ切り、ビル従業員用の更衣室に向かいながら思った。
どこの駅ビルも作りが似ているな…。
一昨年『入学式』が展示されていた駅ビルみたいに、ここにもカルチャースクールがあって。
居るわけないって分かっていても山崎先生の姿をついつい探してしまう。
制服でフロア内を歩く時は素早く行動するように言われている為、なるべく足早に進む。
だけど、ふと横目にした展示ブース。
そこを通り過ぎる瞬間、呼吸が止まった。
足だけは止まらないまま進んでしまい、慌てて数歩戻る。
今日出勤した時にはまだ何も飾られていなかった筈の場所。
そこには初めて見る絵が飾られていた。
目の前に立って時間が止まる。
呼吸も忘れる。
私はこの感覚に覚えがある。
今目の前にある絵。
それは何て事はない足の絵だった。
縁取りが赤いゴムの上履き。
どこか床の上に直接座っている様な格好で投げ出された足。
そこにピントが合っており背景はぼんやりとしている。
見切れていて全体は見えないけれど、脛の角度から少し力が入り内股気味に膝が寄せられているのが分かった。
その全てに見覚えがある。
上履きの右爪先辺りの傷とか、左足甲にある汚れとか。
そこから伸びる半端丈の紺色のソックスも。
木製の床の色も。
私はこの景色を知っていて。
だけどいつも私が見ていたよりも少し上からな角度で。
作者名を見なくても分かる。
これが廃トレーニングルームに居た時の山崎先生の視点なんだ。
彼は私の身体に触れながらこんな景色を見ていたんだ。
もっと髪とか上から胸を覗き込むとかスカートから出ている太ももとか。
男の人が目を向けてしまいそうな部分じゃなくて。
先生は頑なに、傷や汚れを覚えてしまう程に私の上履きを見つめていたんだ。
胸の内からゾワゾワと幸福感が湧き上がってくる。
私は胸に手を当て何とか呼吸を整えた。
ずっと山崎先生が私をどう思っているのか知りたかった。
それを今思いがけず知れた。
この絵からは私への愛しさが溢れていて。
もっと触りたいのに必死に耐えている葛藤とか。
好きだから傷付けたくないとか。
そういうのが全て一瞬で分かった。
山崎先生も私と同じ気持ちだったんだ。
「角度…これで大丈夫かしら?傾いてない?」
「ああ、良いんじゃない?オーケー、オーケー。」
カルチャーセンターのスタッフらしき中年女性が2名、絵の前にやって来た。
そのまま彼女達は私の横で話始める。
「これ山崎先生の?」
「そう。」
「へー…、イケメンで絵も描けるって凄いわね。」
「ねぇ。…でもちょっとこの絵難しくない?何でこれを絵に収めようと思ったのか私みたいな素人には分からないわ。」
「確かに。」
「しかもタイトルが『木曜日』って。全く分からないわ。」
「そうね。水曜日や金曜日じゃダメなのかしら。」
「あはは。何曜日でも良いわよねー。」
「ダメです。」
一斉に2人がこちらを見た。
あ、私また声に出してたんだ…。
慌てて謝罪をする。
「すみません。私…。」
勤務外とはいえ今私は制服のままで。
お客様でもなんでもないのに年上の従業員に向かって失礼な事をしてしまった。
彼女達は怒ってはいなさそうだけど私を見て不思議そうにしている。
「あの、本当にすみません。勝手にお話遮ってしまって。」
「良いのよ。でも貴女この絵の事分かるの?」
「…はい。」
「凄いわね。何で分かるの?」
「何で分かるのかは分かりません。だけど…。」
私はまた絵に視線を戻した。
そして溢れるままに言葉を口にする。
「これは紛れもない木曜日の絵です。」


久しぶりに見た細谷咲の横顔は相変わらず凛としていて。
だけどまた言葉を選べずに場の空気を可笑しくしていた。
「貴女の感性凄いわね。」
「興味あるなら今度教室来なさいよ。見学出来るから。」
そう言ってカルチャーセンターの鈴木さんと田中さんは細谷咲にパンフレットを渡して仕事へ戻って行った。
俺はエプロンとパンフレットを持ったまま佇んでいる彼女にそっと近寄る。
すぐ後ろに立っても気付く事なく絵に魅入っている姿。
耳を澄ますと微かに感じる彼女の息遣い。
こんな距離に細谷咲が居るのは美術準備室で泣かせてしまって以来だ。
心が弾む。
胸がほわっと温まる。
ニヤけそうになるのを堪え俺は声を掛けた。
「どうしてこれが木曜日の絵だって分かるんですか?」
バッと音が聞こえてきそうな勢いで振り返る細谷咲。
俺の顔を見て息を飲むと丸く大きな瞳からハラハラと涙を零した。
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