木曜日のスイッチ

seitennosei

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木曜日のスイッチ。

真っ白なキャンバスと同じ温度。

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冬の寒い河川敷。
緩やかな水の流れを亜樹と2人で眺める。
「久しぶりに来た。ここ。」
「俺も。付き合う前に咲と一緒に来たのが最後だ。」
言われて私も思い出す。
あれは2年生の終わり頃。
まだ付き合う前で。
ただ既に亜樹の気持ちは伝えられていて私からの返事待ちの状態だったので、お互いにかなり意識をしていた。
開けた視界。
対岸や遠くの橋、後ろの土手には人の往来が見えていても、誰も私達を注目してはいなくて。
女慣れしていると思われた亜樹の事だから、こんな人目の少ない場所ではきっと手を繋がせてきたり身体に触ってきたりするのだろうと勝手に構えてもいた。
だけど予想に反し思いの外亜樹は紳士だった。
「寒いな。」と言ってピタリと肩が付く程身を寄せながらもそれ以外は一切触れてこない。
そして自分の着ていたコートを私の肩にかけガチガチと震えていた。
鼻を真っ赤にして白い息を吐きながら「俺は寒くないから。」って下手くそな嘘を吐く。
ほんの数分前には寒いって言いながら身を寄せてきた癖に。
嘘が下手で優しくて明るくて。
ちょっと抜けているけれど、そこも含めて格好良い。
それが亜樹だ。
だから私も好きになった。
その次の日、案の定亜樹は熱を出して寝込んでしまい私はお見舞いに行った。
寝汗をびっしょりとかきながらうんうん唸っている亜樹がどうしようもなく愛おしく感じて、告白の返事をした。
そんな始まりだったなぁ。と振り返る。
これだけ亜樹の愛情を感じながら始まった付き合いだったのに、どうして私は付き合ってもらっていると思うようになったのだろう。
どうして亜樹の気持ちを信じられずにいじけていたのだろう。
「亜樹。私も亜樹に謝りたい事がある。」
「ん?咲が俺に?」
「…うん。」
亜樹は前と同じように私にピタッと身体をくっ付けて座り直すと「なんだよ?」と優しい声で訊ねる。
「私が亜樹の気持ちを信じられなかった事…。それを亜樹のせいにしていた事も。」
「ふーん…?それを謝りたいの?」
「…うん。」
「でもなー。そう言われてもなー。」
意地悪な声と表情。
大袈裟に溜めを作ると。
「謝罪はいりませーん。」
亜樹が言い切った。
真面目な空気を壊され、隠さずに苛立つ私。
それに悪びれた様子もなく亜樹はふざけ続ける。
「俺は謝って欲しい事なーんにもないので、謝罪はいりませーん。」
「ちょっと!」
私は亜樹の太ももをパチンと叩く。
「私が!謝罪を!いらないって!言ったのの!仕返しの!つもりでしょ!意地悪!」
そのまま何度もパチパチと叩きながら文句を言うと、ケラケラと楽しそうに笑っている。
そして不意に太ももと私の手の間に自身の手を差し入れると、そのまま繋がせてきた。
よく知った、大きくて肉厚な手のひら。
私は受け入れるけれど握り返さない。
「亜樹…?」
「前に来た時も…こうやって繋ぎたいと思ってた。」
寂しそうな声だった。
それが戻れない時を懐かしんでの寂しさなのか、もうすぐ私達が終わるのを覚悟しているからなのかは分からない。
私は当時の自分の気持ちを思い出しながら応える。
「繋げば良かったのに。そしたら握り返したのに。」
「はは。だって付き合ってもないのに出来ねぇだろ。嫌われたくねぇもん。」
今は意図的に握り返さないのを分かっていて、尚も亜樹は手の力を込めてくる。
横から注がれる熱い視線。
それを敢えて無視し、私は対岸を見つめながら会話を続けた。
「じゃあ、なんで今は繋いでるの?握り返さないのに。」
「はは…。だってまだギリ付き合ってんじゃん。まだ好きだもん。」
涙が溢れる。
でもここで私が泣くのは卑怯だ。
グッと我慢しなくては。
そっぽを向いて涙をやり過ごしていると、横からもズズッと鼻を啜る音が聞こえてくる。
暫くするとスっと亜樹の手が離れていった。
ああ、これがお別れなんだなと思った。

「咲?」
「ん?」
「俺さ。あの絵気に入ってんだ。」
夏休み最後に見た大きな絵。
カラフルな中に満面の笑顔の私がいた。
「だからさ。咲にプレゼントしたくて描いたけど、俺が持って帰るな。」
「…分かった。」
「あとさ…。」
そこで亜樹は言い淀む。
私は顔を覗き込み久しぶりに亜樹の目を見ると「ん?」と続きを促した。
「あの絵…どう思った?率直に。」
「率直に…?」
そういえば、折角描いてくれたのに私は自分の事ばかりで真面な感想すら伝えていなかった。
見た時の自分を思い起こす。
それは見た瞬間に感じた酷く歪んだ気持ちではなく。
あれを見た時の自分の勝手な。
「亜樹も浮気していれば良いと思ったのに違った。」とか。
「絵をプレゼントするくらいなら私の話真剣に聞いてよ。」とか。
「私はこんな顔して笑わない。」とか。
そういうネガティブなフィルターを全て外し、純粋に亜樹が私の為に大作を描き切った事について今改めて想ってみる。
「ホッとしたんだ。亜樹が私の事好きだったって伝わってきたから。私は決めつけていたから。亜樹が私なんか好きなわけないって。だから…想われてるって分かってホッとした。」
「そうか…。」
「亜樹…。あの絵素敵だと思う。誰が見ても描いた人の気持ちが伝わる凄い絵だと思う。」
「はは。ありがとう。」
照れ笑いしている亜樹が可愛く見えた。
私だってまだ亜樹が好きなんだなと思う。
だからこそ、素直に思った事を伝えよう。
「だけどね、亜樹。私、見た瞬間はそう思えなかった。それは絵が悪いとか亜樹が悪いとかじゃなくて…。私の…、受け取り手の問題なんだけどね。今みたいに素直に良いと思えなかったの。」
「…うん。反応見てそうかなって思ってた…。」
亜樹が寂しそうに笑う。
私はそれを見ていて胸が苦しくなった。
「私さ。亜樹の前で無理して笑ってる事があったのね。本当に心から笑ってる時も勿論あったけど…。特に擽ったくて笑ってる時とかただ反射で笑ってるだけだから辛かったし。だから亜樹が笑ってる私をモデルにした事が直ぐには受け入れられなかったの。しかもその顔が好きって言うから。あの絵を見てもこれは私じゃないって思っちゃって…。」
「…。」
「後ね、話した事なかった私がいけないんだけど…。私油絵が好きなわけじゃないんだ。」
「え?!」
大きな目を更に見開き動かなくなる亜樹。
ちょっと笑ってしまいそうになったけれど堪えて続ける。
「勿論嫌いじゃないけどね。本当はそんなに興味無いの。ただ一人の人の作品だけ凄く心に刺さるんだ。だからその人の作品だけしか見た事なかった。」
「マジかー。マジかよ。だせぇ俺。」
そう言って亜樹は大口を開けて笑っている。
もう少しだけど吹っ切れてきているのかもしれない。
「やっぱちゃんと話さなきゃダメなんだな。サプライズとかするもんじゃねぇな。」
「でもね、亜樹。今は嬉しいって心から思ってるよ。あんなの簡単に描けないでしょう?何日も掛けて描いたんだよね?その間ずっと私の事考えてくれてたんだよね?そんなに真剣に自分の事考えてくれる人が居たって事がさ、もうこの先大人になってもずっと自分の支えになると思うんだ。」
「うん。」
「だから本当にありがとう。」
心から笑うと亜樹も無邪気に笑い返してくれた。
こうして無理にでも嘘でもなく同じ温度で向かい合ったのって何時ぶりなんだろう。
「私も亜樹の事好きだよ。亜樹と形が変わっちゃったから今まで通りではいられないけど。だから亜樹にはデザイナーになる夢叶えて欲しいと思ってる。」
「分かった。咲、ありがとう。」
そう言った亜樹はまた少し泣いていた。
私も泣きそうになったけど我慢した。
寂しくて悲しいけど、それを超えるくらい嬉しくて。
そんな風に泣きそうになる事があるんだって初めて知った。


自宅のアトリエ。
真っ白なキャンバスと向かい合う。
まだ何も手を付けていないのに、細谷咲の事を考えるだけで胸が痛くなる。
あまりの苦しさに止めようかとも思うけれど、こんなに苦しい時に描くからこそ意味があるんだと思い直した。
どれだけ大きな感情だって時間が経てば薄れて変わっていく。
今の俺にしか描けない細谷咲がいる。
俺は木炭を手に取ると真っ白いキャンバスにそれを走らせた。
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