木曜日のスイッチ

seitennosei

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木曜日のスイッチ。

何を感じますか?

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床の軋む廊下。
古びた襖を開ける。
もう襖も障子も随分と張り替えていないな。
普段なら気にならない所まで今は目につく。
「汚い所で申し訳ないですが…ここです。」
俺は振り返って森本先生に声を掛けた。
応えるように微笑が返ってくる。
「いえ、素敵なお家ですよ。…失礼します。」
「ああ、そのままで。…スリッパ履いたままで上がって下さい。」
「え?」
「畳に履物は抵抗あると思いますが…、テレピン…あー、油が零れていたりもしますから…。」
「そうですか。ではこのままで失礼しますね。」
森本先生は遠慮がちに足を踏み入れた。
それに俺も続く。
8畳の和室。
家具の一切ない部屋。
壁に立て掛けた大小様々な大量のキャンバスだけが存在感を主張している。
森本先生は首を回し視線を巡らせた。
押し入れの襖は取り除いた状態で作業台として使っているのだが、彼女はまずそれを興味深そうに観察している。
秋の夕暮れ時。
紫外線が入らないよう、縁側の障子の前に無理矢理取り付けた遮光カーテンもあり室内は薄暗い。
俺は外の光と新鮮な空気を求め、カーテンと襖、そして縁側の窓と順番に開いていく。
顔を上げると夕暮れから夜にかけての空のグラデーションが目に入る。
そのまま空に気を取られている俺の背中に届く声。
「ここにあるのは…全て山崎先生の作品ですか?」
「あ、はい。そうです。ここにあるのは描き掛けで放置している物ばかりですけど…。」
振り返ると中央のイーゼルにセットしたまま手付かずになっているキャンバス前に森本先生は立っていた。
真剣にキャンバスと向き合う姿勢が素敵だ。
そして文句1つ浮かばない綺麗な横顔。
単純にそう思うのに、やはり胸が騒がない。
そんな失礼な事を思っていると不意に森本先生がこちらを見た。
「これは…?」
「は、はい?」
「あの、この白いのは…?」
初めは質問の意図が分からなかったが、おずおずと目の前の白いキャンパスを指さしているのを見て理解する。
「あー…描こう描こうと思いつつあまり気が乗らなくて…。下描きもまだです。」
「よかった…。」
ホッとした声。
そして彼女は眉尻を下げた弱い笑顔で「私に理解できないだけでこれも完成した作品だったらどうしようかと思いました。」と続けた。
「ははは。まさか。」
俺は笑って返したけれど、何となくこのキャンバスを森本先生の目に触れさせてしまった事が後ろめたくて。
布を掛けて今更隠す。
「僕はあまりそういう難解なのには手を出さないので…。普通の油絵しか描けません。」
「山崎先生でも…表現する側の人でも難解な作品てあるんですか?」
「ありますよ。いくらでも。」
俺は話し続けながら奥の壁に向かう。
そして目当ての物を求めしゃがみながらガタガタと漁っていく。
「知識として技法や表現の方法は持っていますが、感じ取ったり解釈したりの部分は絵を学んでいない人と結局は大して変わらないですよ。よく表現者とそうでない人って分けられますけど、実際は表現者の数だけジャンルがあります。僕は自分以外の表現者なんて全く理解が及ばないです。」
「ふふふ。」
予期せぬ反応に面食らう。
振り返って確認すると森本先生は無邪気に笑っていた。
「『理解』ですか。そうですよね。理解って大事ですよね。」
「森本先生?」
「山崎先生はどうして教師になったんですか?」
どうして教師に?
それは思わぬ質問で、考えた事もなかった。
咄嗟に言葉が出てこない。
俺の様子で何か察したのか森本先生は優しく言葉を変える。
「どうして画家にならなかったんですか?」
「ああ…。」
そういう事か。
それは人との会話中、何かの流れで美大出身だと言うと大抵される質問だ。
いつもは適当に「才能がなかった」と返して終わるのだが森本先生にはきちんと話しておこうかと思う。
「表現で食べていくにはスポンサーが必要なんですよね。それは色々な形で…会社に属して上から指示をもらったり、クライアントから依頼されて作ったり、作った後で誰かに買って貰ったり、様々な方法が存在していますけど、結局は需要がないとやっていけません。」
「そうですね。」
「一番理想的なのは自由に作った自分の作品を純粋に気に入ってもらって今後も制作できる額で購入してもらう事ですけど、世の中そうもいかないです。スポンサーにメリットがないと。それはやはり依頼通りの物をクライアントに都合良く描いたり、トレンドを取り入れて多くの目を惹くように作ったりって。表現者のプロはそれも承知で、葛藤しながら折り合いを付けていくんです。自分のしたい表現と需要の良いところを探して…。そのバランス感覚?のようなもの。それが自分にはありませんでした。本当にキツいのになってくると『○○の画風に似せて描いてくれ』なんて依頼も飲まないとならないんです。それはもう僕に依頼する必要があるのだろうかって…。一丁前に葛藤して挫折しました。まあ、端的に言うと才能がなかったんですけど。」
「そうですか…。」
どうして画家にならなかったのかはこれが答えだ。
そして今日は初めてどうして教師になったのかも考えてみる。
「教師は…。楽しいですね。非常勤だから気楽なのもあるかもしれないですし、担任を持っているお忙しい先生方には怒られそうですけど…。」
「ふふっ、それは私も同じです。だから分かります。」
「近辺の駅ビル…この間行ったレストランがあるビルとか、今は3箇所程のカルチャーセンターで油絵教室の講師をしていて。火曜と木曜は学校の授業…。センターのスクール講師も学校の授業も本当に楽しいんです。たまに本当に好き勝手自分のペースで描いた作品を飾ってっもらって、後は絵を学びたい人に絵の楽しさを伝えて。僕が良い教師なのか伝えるのが上手く出来ているのかは自分では分かりませんが、仕事を楽しむ事が出来るのが天職とするなら、僕は今している仕事が天職です。」
「そうですか…。」
森本先生は呟くように零すと「羨ましいです。」と寂しそうに笑う。
さっきまでは無邪気な笑顔だったのに。
今は少し苦しそうだ。
「私は…。学生時代に好きだった人が心理の道に進んだのでそれを追い掛けてカウンセラーになりました。そんなくだらない動機なんです。」
「いや、くだらなくないです。動機なんて何だって良いんですよ。いい加減な気持ちなら国家資格なんてとれません。それに今はカウンセラーの仕事が好きなんですよね?」
「勿論!…でも…」
泣きそうに歪む顔。
その表情を隠すように俯くと苦しそうに絞り出す。
「そんな動機だから、私のカウンセラーとしての自覚が足りないから生徒を傷付けてしまったんですよね…。」
「…。」
下手な事は言えない。
どの立場で何を言えば良いのか迷う。
森本先生はきっと昨日の細谷咲の事を言っているのだろう。
彼女を傷付けたのは俺も同罪だ。
むしろ、森本先生に彼女を傷付けるような言動を取らせてしまったのは俺が原因でもある。
あの時、細谷咲は俺達に対する想いを吐き出して激しく泣いていた。
俺は彼女の言葉を聞いて申し訳なくて何か言わないといけないと思っていたのに身体が動かなかった。
声も出なかった。
走り去る彼女を追う事も出来ず立ち尽くしていた。
必死に叫ぶ姿。
幾重にも零れ落ちた綺麗な涙。
それを見て場違いにも喜びを覚えていたから。
俺はその時確信したんだ。
細谷咲も俺を想っていると。
そうでなければあんな状態にならないだろう。
森本先生に咎められ確かめ合う事を諦めていた俺にとって昨日の細谷咲の反応は喜びを産むのには十分過ぎる天からのプレゼントだった。
今きっと細谷咲は傷付いている。
目の前の森本先生も相当なショックを受けている。
だけど俺は。
俺だけは生きる希望を得ていた。
何とか取り繕い森本先生にフォローを入れる。
「それは僕もなので…。カウンセラーも教師も人間ですから。正当化して開き直るつもりはありませんが、どうにも自分をコントロール出来ない瞬間があるのも事実です。」
「山崎先生にとってのそれは細谷さんへの気持ちですか?」
「…。」
今更隠しても仕方が無いので頷いて肯定した。
森本先生はまた寂しそうに笑う。
そしてイーゼルの前にある椅子に腰を掛け部屋を見渡し、しみじみと口を開く。
「これが山崎先生の見ている世界なんですね。」
巡っていた視線が不意にこちらへ向いた。
強い視線。
息を飲んで見つめ返す。
あまりにも真剣な表情。
でもそれは一瞬の事で、急にふにゃっと笑うと。「全然ピンときません。」と彼女は白状した。
「私には山崎先生を理解するのは難しいです。でも理解したいって思っています。今はまだピンとこないですけど…。」
「森本先生…。」
「山崎先生は私がカウンセラーを目指す切っ掛けになった人に似てるんです。」
「…さっき言っていた人ですか?」
「はい。」
「あー、それで…。」
成程、合点がいく。
なんで俺なんかってずっと思っていたから。
 昔好きだった人に似ている。
それは立派な切っ掛けになり得るのだろうと納得がいった。
「見た目がですか?」
「うーん…見た目…も少し似てるかな…?山崎先生の方が背が高くてカッコイイですけど。」
「いやいや…。」
ふと外れた視線。
森本先生が零す。
「もう後悔したくないな…。」
「…?」
聞き取れたのが正解なのか自信がなく首を傾げる。
それを視界の端で感じ取った森本先生は顔を上げはっきりと言い直した。
「こちら側の問題で申し訳ないですけど、私はもう後悔したくありません。」
「…はい。」
「私は山崎先生が好きです。」
真っ直ぐな目。
逃げられないと思った。
ここ数日の出来事で、以前のようにフラフラと結論を選べない迷いは消えた。
それでも簡単には口に出せない。
森本先生はレストランで「細谷さんの代わりでも」と言っていた。
それくらい俺を求めてくれているのだと今も痛感している。
これまでのような適当な言葉ではもう誤魔化されてくれないだろう。
こちらも真剣に応えなくては。
「森本先生に見て頂きたい絵があるんです。」
「絵…ですか?」
「はい。」
俺は話している最中に見つけ出していた目当ての物、それを掴んで立ち上がる。
P10号のキャンバス。
53cm×40cm。
それを差し出しながら森本先生の目を見た。
「この絵を見て何を感じますか?」
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