木曜日のスイッチ

seitennosei

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木曜日のスイッチ。

もうすぐ夏休みが終わる。

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もう暫くスマホを気にしていない。
亜樹からの連絡を待たなくなったからだ。
待ち遠しいのはたった一つ木曜日だけで。
先生の連絡先を知らない私にとってスマホなんてただの時々光るだけの板になった。
先生が直接私の胸に触れてくれたあの日。
それ以降の木曜日も先生は私の胸に触れてくれるようになった。
その度に気が触れそうになるくらいに気持ちがよくて。
私は自身を見失う程喘いだ。
だけど先生は絶対に上半身しか触らない。
それにキスマークをつけてくれたのもあの一度だけで。
私達の行為は後退こそしなかったけれど進展もしなかった。
先生は私をどう思ってくれているのだろう?
何にしても休みが明けたら亜樹と別れよう。
もうすぐ夏休みが終わる。


一度外してしまった箍を戻す事は難しい。
かといって、必死の思いで踏み留まった壁を越える程の思い切りの良さが俺にはない。
勝手に解禁にしてしまった胸への愛撫。
細谷咲が拒まないのを良い事にあれ以降も木曜日が来る度に続けた。
それでも最後の砦である「下半身には絶対に触れない」というルールは頑なに破れない。
立場や最後の一線等を今更気にしているからではなく、こんなに一人の人間を欲した経験がない為、越えた先の自分を知るのがただただ怖い。
俺の手で彼女は小鳥が囀るが如く愛らしく鳴く。
その癖、時々思い出した様にこの腕から逃れたい素振りで身を捩るから。
その度に俺は強く抱き締め耳元で彼女が拒めない程度の命令を囁き、ジワジワと内からも外からも支配していく。
それは痛みに気付かない程度の強さで、少しずつ少しずつ羽を、脚を手折る行為で。
彼女が事の重大さに気付く頃には、既に俺の腕の中から飛び立てなくなっていれば良いと思っている。
彼女の横に相応しいのは俺ではないのに…。
いつか小林先生が話してくれた。
立花亜樹は専門の学費を貯める為に美術室に来ない日はバイトのシフトを詰め込んでいるそうだ。
絵を描く合間に本人も言っていた。
「一旦親に出してもらうけど貯まったら返すんだ。」と。
「そうか。頑張れよ。」
そう言って小林先生が肉厚な手でグリグリと彼の頭を撫で回すと、えへへと照れたようにはにかんでいた。
立花亜樹の家庭は複雑だ。
父親は別の家庭があり金銭の援助だけで幼い頃から殆ど接触がない。
母親はその仕打ちを受け入れる代わりに多額の援助を要求し、一切独立しようとしないで毎日遊び歩いている。
これまでは立花亜樹も母子家庭ながら裕福に過ごせるこの生活に疑問も不満もなく、当然卒業後の専門費用も出して貰う気でいた。
が、彼女…細谷咲と出会い、彼女の家庭環境を目の当たりにして急激に視野が広がったらしい。
狭い団地に両親と3人暮らしの細谷咲。
それに加え兄が頻繁に帰省しては、更に狭い空間を賑やかしている。
必死に働く父とそれを共に働きながら支える母。
生活費を自分で賄いながら大学を卒業し、就職後は実家にお入金している兄。
そんな中で育った彼女は専門費用こそ親御さんに出してもらう予定ではあるが、就職に困らない栄養士を専攻し、就職後はすぐに家にお金を入れると決めている。
自分とは全く違う環境。
正直に言ってしまえば、彼女の家庭は裕福でない。
それでも家族仲は良く、不満を口にしつつもそれぞれが家の為に考えて行動している。
その姿に立花亜樹は強く感銘を受けた。
そうして就職する頃までには父親に学費や生活費を突き返し1人立ちをすると心に決めたのだと話していた。
本当に感心する。
彼の素直に吸収する柔軟性を。
当然として育んだ価値観を手放す潔さを。
1人で立つと決める強かさを。
細谷咲の隣には立花亜樹なんだ。
年齢や立場なんて関係ない。
一人の人間として彼女の横に相応しいのは彼だ。
俺じゃない。
罪悪感とか劣等感とか。
全身から吹き出す負の感情で底なし沼にズブズブと沈んでいく心持ちがする。
抗って手を伸ばす気にもならない。
俺なんて二度と這い上がれない所まで埋まってしまえばいい。
53cm × 45.5cm。
10号の真新しいキャンバスを前に佇む。
埃っぽい室内。
施設に居る高齢の祖父が家の管理と引き換えにアトリエ兼住居として貸してくれている木造の一軒家。
夥しい数の日の目を見ない自分の作品達に囲まれながら思考の沼に落ちていく。
俺も細谷咲の絵を描こう。
そして、それを描きあげたら彼女との接触を絶とう。
何度こうして決意しただろう。
だけどずるずると続けてきた。
実際に困っている姿を目の当たりにし、必死に俺を求めるように懇願されるとついつい応えてしまうから。
これからもまた木曜日がくる度に俺は「やはり最後まで体質改善に付き合おう。」や「彼女の悩みが解決するまで投げ出さない。」等と、決心を簡単に揺らがせるのだろう。
そうでなくてもいつ彼女の方から止めると言われるのか分からない中途半端さ。
どう転んでもこのままではダメだ。
絵が完成した時にまだこの関係が続いていたとしたらその時はきっぱりと止めよう。
そう決めた途端、あれだけ浮かんできていた数々の構図達が急に消失する。
往生際の悪さに自分で笑ってしまった。
焦っても仕方がない。
コンテストに出すわけでも依頼を受けた訳でもないんだ。
ゆっくり納得のいく物を描こう。
気付けば薄暗い室内。
いつの間にか日は沈み始めている。
イーゼルごとキャンバスに布を被せ畳に転がしていたスマホを手に取った。
メッセージを知らせる点滅。
ポップアップに表示されたのは森本先生の文字。
『以前のお約束はまだ生きていますか?』
最初にIDを交換して以来はぐらかしていた約束。
正直面倒で返信に困っている。
森本先生は俺の事が好きなんだろうか…。
だとすれば俺の何が?
それはどうして?
喜びよりも先に疑問で頭がいっぱいだ。
森本先生は素敵な女性だ。
もしかすればその存在が細谷咲を忘れる際に生まれる喪失感を紛らわせてくれるのかもしれない。
失礼だし卑怯だと思いつつも、人間である以上はそういった都合の良い自分勝手な打算はやはり必ず浮かんでくる。
勿論、何を馬鹿な事をと思う。
ハッキリと告白されたわけでもないのに。
だけど俺は今までにもこういう事が多かった。
元々あまり人を好きにならない。
何となく良いなと思った人も想いを伝える事もないまま終わるのが殆どで。
そうして大抵、うだうだと引き摺っている内に積極的な別の女性に押されて交際が始まる。
自分から好きになった人と付き合えた経験はない。
森本先生から俺へのアプローチは今までお付き合いに至った女性達と似ている。
流石に森本先生ほど綺麗な女性と付き合った事はないが、皆俺なんかよりも条件の良い男性の横に居るべき素敵な女性なのに、何故か向こうから積極的に距離を詰めてきたのが始まりだった。
だから、もし森本先生が本当に俺なんかに好意を寄せてくれているのだとしたら聞いてみたい。
「なぜ俺なのか?」と。
確定してもいない彼女の気持ちを勝手に憶測し、随分と図々しい事を考えているが、頭の片隅にずっと居座っている一つの感情にどうしても支配される。
「面倒くさいなー。」
実際口に出して呟いていた。
もうすぐ夏休みが終わる。
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