木曜日のスイッチ

seitennosei

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木曜日のスイッチ。

意味のない声。

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先週の木曜日は本当に大変だった。
廃トレーニングルームを後にし、最早恒例となった男子トイレでの自慰にその時も取り掛かったのだが、2回も発散したのにもかかわらず直ぐに治まらず、水道の水で頭を物理的に冷やして何とか帰宅した。
それだけあの日の細谷咲は可愛かったんだ。
擽りに弱い人間は敏感で感じ易いとはよく聞くが、彼女は敏感なんて生易しいものではない。
度重なる開発により擽ったがる素振りは減ったが、その分簡単に快感を得る身体に成長した。
日常生活が滞りなく送れているのかが心配になってしまう程に。
叶うのなら、ずっとこの胸に包んで抱きしめていたい。
俺以外の何者にも触れさせず、俺だけが彼女に快感を与え続ける事が出来たなら…。
「ザキセンのエッチ。」
突如飛び込んできた声に思考が遮断された。
ハッとして声の主を見る。
そこにはキャンバスに筆を当てたままの立花亜樹が居り、横に座っている俺の方を振り向いて見ていた。
「そんなに見られてたら俺恥ずかしくて描けないよ、先生。」
ボーッと彼の手を眺めていた俺を悪戯っぽい笑顔で見詰めるてくる。
「ザキセンどうしたの?ぼーっとして。夏バテ?」
甘えた声で言葉を紡ぐ立花亜樹。
俺の顔を覗き込む素振りで軽く首を傾げる仕草を見せた。
幅の広い二重で大きなアーモンド型の目。
窓から差し込む光を受けても全く染まることなく、深い真っ黒な瞳がブレる事なく真っ直ぐにこちらを見捕えてくる。
こんなの、どうしたって惹き付けられてしまうだろう。
危ない。
もし俺が同性もいける口だったら確実に落ちていた。
「俺ね、ザキセンが今日も来てくれて嬉しい。」
少し恥ずかしそうに言うと立花亜樹はキャンバスに向き直る。
そして筆を動かしながら続けた。
「最初は木曜日しか来ないって聞いてたから…。」
「そうですね…。夏休み中も火曜と木曜は他の仕事がないんです。立花君が初めての油絵に挑戦しているし、折角だから火曜日も来ようかと思って。喜んでもらえて僕も嬉しいですよ。」
こんな風に和やかに立花亜樹と時間を共有しておきながら、俺はさっきまで細谷咲の痴態を思い出していたんだ。
そして、もしも細谷咲が許すのならば、明後日の木曜日も俺は彼女に触れるだろう。
自分は酷く醜い人間に成り下がってしまった。
せめて立花亜樹が納得のいく絵を完成させられるように、少しでも力になろう。
そんな事はなんの贖罪にもならないと分かっていても、そう思わずにはいられない。
ガチャガチャと重ねられた色。
規則性のないパッチワークの様にカラフルで一見節操のない背景。
その中心に大口を開けて笑う少女が一人。
少しデフォルメされてリアリティーには欠けるが、味があって中々惹き付けられる絵だ。
何がそんなに愉快なのかと、思わず絵の中の少女に訊ねたくなる程に生き生きとしており、楽しそうなのが伝わってくる。
「立花君は思い切りの良いタイプですか?」
筆を置き、ペインティングナイフで大胆に絵の具をキャンバスへ重ね乗せていく彼に今度は俺から声を掛けた。
初心者は慎重になりがちで筆でチマチマと薄く塗り色も無難に作る者が多い中、彼の場合は配色も乗せ方にも勢いがある。
「あー、うん。自分の事あんま考えた事ないけど、多分そうだと思う。あんま悩まないし、取り敢えず何でもやってみるし。」
「良いですよ。コレ良い作品になると思います。」
「マジ!?本気で嬉しい!」
「立花、進みはどうだ?」
二人で盛り上がっていると小林先生も声を掛けてきた。
8月も中半に差し掛かり立花亜樹と小林先生の関係は急激に良くなっている。
休みに入ってからの1ヶ月間。
真剣に絵に取り組む姿勢を見ている内に、小林先生も彼に持つ印象が大きく変わったそうだ。
「お!良いじゃないか。俺は山崎先生みたいにアドバイスは出来ないけど、良い絵かどうかくらいは分かるからな。色使いが奇抜なのに何処か纏まりがあって…うん。センスを感じるな。」
「へへ、コバセンもありがと。」
照れた素振りではにかむ彼を小林先生は笑顔で見ていた。
立花亜樹には敵わない。
自分にマイナスな感情を抱いていた大人の印象をあっさりと変えてしまうのだから。
同級生の前で調子に乗っている授業中の彼しか知らなかった当初は、顔が良いだけの生意気なクソガキだと思っていたが、それだけではなかった。
勿論そういう一面もあるにはあるが、それは若さ故の幼さであったり、逆に真剣な一面とのギャップであったりと、プラスにさえなり得る。
立花亜樹は可愛い生徒だ。
それなのに俺は…。
ごめんなさい。
数え切れない程に心の中で謝罪を繰り返している。

「こんにちは。」
開け放した扉から森本先生がひょっこりと顔を出した。
「差し入れです。今日も暑いから沢山飲んで下さい。」
そう言って入室してきた彼女は、大量の缶飲料を抱えている。
「森もっちゃん。サンキュー。」
そう言うと立花亜樹は誰よりも先に立ち上がった。
そして森本先生に駆け寄り着ていたカーディガンを脱ぎ、彼女の抱えているドリンクを全てその中に包んだ。
「森もっちゃん冷たかったっしょ?わー、すげー、ちゃんと全員分ある。マジありがと。」
「いえいえ。」
笑顔で礼を言うと美術室内を周り他の部員達に種類あるドリンクを選ばせて回っている。
最初毛色の違う彼を遠巻きに見ていた部員達も今では受け入れ、そこの関係もすっかり良好だ。
「小林先生と山崎先生にはこっちです。」
森本先生が白衣のポケットから取り出した缶コーヒーを俺と小林先生に差し出してきた。
「ありがとうございます。」
立ち上がりそれを受け取る。
その時、至近距離から見上げてくる瞳と目が合う。
造形の美しさに思わず見入る。
彼女の顔は黄金比…に近いのかもしれない。
パッと視線を集める派手さはなのに、全体的に整っており、これといった非の打ち所がない。
その綻びのない造形に、一度顔を合わせるとついついじっと観察してしまう。
森本先生自身がそれを自覚しているのかどうかは測りかねるが、立ち居振る舞いは清楚とあざと可愛いの中間を攻めてくる。
そして優しくて柔らかい声。
男子生徒に人気があるのもやはり頷ける。
そう思い何となく隣の小林先生に目を向けると、絵に描きたくなる程に鼻の下が伸びきっていた。
俺は胸の内で「生徒だけじゃなかった」と直前の自身の感想を訂正する。
30台後半の小林先生。
左手の薬指には年季の入った結婚指輪が味のある鈍い光を放っている。
彼は先月の飲み会で「嫁が未だにSNSで学生時代の元恋人と繋がっている。許せん。」と愚痴っていた。
学生時代の仲間内との付き合いもあるだろうに、どうしても看過できないそうだ。
同じ日に「小学生の娘を守る為スカートは絶対に履かせない。」とも息巻いていた。
年頃の女の子にそれは酷だろうと思うがそこも譲れないそうだ。
しかしどうだろう。
身内の女性には世間の男をシャットアウトさせたい癖に、自分は職場の美人にメロメロなのだからダブルスタンダードも甚だしいではないか。
いや、寧ろ自分がそういう性分だからこそ世間の男も同じものだと疑わず、身内の女性を守りたいという心理が生まれるのかもしれない。
とはいえ小林先生が特別悪い人物なわけではない。
人間とはつくづく勝手な生き物なのだ。
俺もそうだ。
今日も立花亜樹に平然と接しながらも、頭の片隅では細谷咲を想っていた。
俺はこれまで幾度となく細谷咲の身体を触ってきた。
もしも自分が立花亜樹だったとしたら。
もしくは細谷咲の父親だとしたら。
俺は俺を殺してしまうかもしれない。
改めて自分の行いを別の立場から鑑みて背筋が凍る。
「山崎先生?」
森本先生に呼ばれハッと我に返った。
どうやら俺は目の前の彼女をずっと凝視していたらしい。
「あ、ああ。…失礼しました。コーヒー、頂きます。」
手に持っていた缶を開封し口を付ける。
フワッと鼻腔を駆け抜ける強いコーヒーの香り。
「あー、美味しいです。ありがとうございます。」
微笑みを返してきた森本先生。
熱中症になり掛けたあの日以来、こうして時々差し入れをしてくれている。
何かお礼しないとな…。
貰ってばかりでは気が引けるしな。
そんな事をぼんやりと考えていた。
「山崎先生、あの…。もし良かったらですけど…今度美術館とか博物館とかご一緒してくれませんか?」
「あー…はい…。」
この時思考の海にどっぷりと浸かっていた俺は、森本先生が何か言っているなと思いながらも呑気に生返事をしてしまった。
「ホントですか?ありがとうございます。それでは連絡先渡しておきますね!今手元にスマホないので。」
目の前に差し出された紙切れ。
記されているのは無料通話アプリのID。
受け取ってからハッとした。
さっき森本先生は何て言っていた?
そして俺は何て答えたんだっけ?
耳から入り脳の浅い所に薄く引っ掛かっていた数秒前の会話を無理矢理脳内再生させてみる。
あれ?
これって森本先生のお誘いを了承した事になっていないか?
「では連絡お待ちしていますね。」
控えめにはにかむと入って来た扉から出て行く森本先生。
その背中を見送りながら暫く固まった。
どうしよう…。
「狡いですよ。山崎先生。」
恨めしそうな小林先生の声。
そう言うなら変わってくれと言いたい気持ちをグッと飲み込み、俺は「は、はは…。」と意味のない声を詰まった喉からただ漏らした。
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