木曜日のスイッチ

seitennosei

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木曜日のスイッチ。

水泳部の遺産と聖職者。

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閉め切られた窓。
隙間なく閉じられたカーテン。
扉の小窓にまで目張りがされている。
埃っぽい室内。
薄暗い空間。
少しカビ臭さもある。
古びて所々錆びているトレーニング器具が雑多に放置される中。
俺はほんの少しのスペースを軽く掃除すると、端っこの壁にもたれ直接床に座り込んだ。
くつろぐ為の椅子もなく、普通はあまり長居したがらない一室。
だけど、俺はここがお気に入りだ。
馴染めない職員室も、本来の持ち主が不在の美術準備室も、顧問に頼まれ付き合いでたまに顔を出している美術部も。
そのどれも自分の居場所だとは思えず、廃部になった水泳部のもう使われていないトレーニングルームに逃げ込んでいる。
プール棟の1階、女子トイレと男子トイレに挟まれた真ん中にあるそこ。
そして2階は更衣室で、3階屋上がプールだ。
遠くから運動部の掛け声、音楽室からは吹奏楽部の演奏が微かに届き、孤独感に拍車が掛かる。
不思議だ。
外からの情報を完全に遮断してしまうよりも、遠くに喧騒を見せられている時の方が一人だと突き付けられるのだから。
何処までいっても人間とは比較でしか物事を判断出来ないのだなと痛感させられる。
この場所で目を閉じていると、瞼の裏に色々な情景、モチーフが浮かんでは流れ消えていく。
次の作品は何にしよう…。
そして浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返していると、ある一人の人物がパッと現れ新たに生まれたモチーフに押し流されてはまた直ぐに浮かんでとループし始めた。
細谷咲。
この学校の三年生。
彼女は以前、俺を認識しないまま一度暖かい言葉をくれた。
その横顔を見た時、初めて人物を描きたいと思った。
簡単に言ってしまえばただの一目惚れなのだが、その時俺はこんなに美しいものがこの世にあったのかと本気で思ったんだ。
これまでだって乏しいながらも恋愛経験はある。
それでも課題以外で人物を描きたいなんて思った事は無かった。
美大時代に付き合っていた彼女にせがまれ仕方なく人物画を描いた事が数回あるかどうかで、自発的に人物を描く等と考えた事も無かった。
そのはずなのに…。
細谷咲だけが特別で、彼女だけが俺にとってのミューズなのかもしれない。
なんて、これが恋に浮かされている者の思考か。
それこそ学生時代に恋愛が作品に影響している人間をごまんと見てきた。
まさか自分がそうなるとは…。
しかし、非常勤とはいえ教師は教師。
生徒相手に何か行動を起こす訳にはいかない。
誰かが見た時に、はっきりと彼女だと分かる作品を描くつもりはない。
ひっそりと、いつか時間が経ったら遠くで彼女の事を想いながら何か描こう。
そんな事をぼんやりと考えていたらスーっと意識が遠のいて…。

長い瞬きをしたくらいに思った。
ゆっくりと目を開く。
どうやら眠っていたらしい。
遮光機能のないカーテンから透ける光は、角度を変えつつもまだ赤く色付いてはいない。
時間はそんなに経っていないだろう。
心地が良かった。
もう少し眠ってしまっても良いか…。
そうしてまだ重たい瞼を再度閉じかけた時。
「…はー、もぉー…。やっぱ自分じゃ無理だ…。」
突然人の声がして心臓が飛び跳ねた。
思わず発しそうになった声を、自分の両手で喉の奥へ押し込める。
自身の目の前にある背筋を鍛えるときに使うと思しき器具に身を潜め周囲の様子を伺う。
少し離れた所に置いてある、ベンチプレスの時に使う長椅子の様な器具に座り、何やら自分の身体をまさぐっている女生徒が見えた。
完全に背を向けており、こちらの存在には気付いていない。
距離があってはっきりとは聞き取れないが、何やら途方に暮れていそうな独り言をぽつぽつと零している。
何をしているのだろう。
スカートからシャツを出し、その裾から両手を差し入れ、もぞもぞと動いている。
やはり自身の身体をまさぐっている様にしか見えない。
出ていった方が良いのか。
彼女が用事を済ませ立ち去るまで息を潜めていた方が良いのか。
判断に迷っていると彼女が唐突に叫んだ。
「あー、もう!全然無理!」
そしてギシッと音をたてながら、両手を後ろに付くと、大きく仰け反る様にしてこちらに顔を向けてきた。
咄嗟の事に隠れる事もままならず、逆さまの彼女とバッチリ目が合う。
「え?うわっ!」
驚きの声をあげながら、片手を滑らせバランスを崩す彼女。
頭を受け止めようと、慌てて駆け寄る。
間一髪で間に合い、彼女の肩を両手で受け止めることに成功した。
ホッとして顔を見る。
「山崎先生…?」
「細谷…咲?」
先程とは別の意味で俺の心臓が跳ねた。



肩に触れている大きな手の平。
私を支え起こそうと指が動いた瞬間、例の如く声をあげて笑ってしまった。
「ひゃあ、あはは。せんせっ、離して…下さいぃ。」
肩を竦め、身を捩って暴れる。
それを必死になって山崎先生は支え続けた。
「わ、ちょっと。離す!離すから、暴れないでちゃんと起きて下さい!細谷さん。」
そう言って、より力を込めて抱き起こそうとしてくれるので暴れる身体を止められない。
先生までバランスを崩し始めた。
バタバタと脚をバタつかせたせいでどんどんと後ろに滑っていく。
「分かた分かった!手、離しますよ!」
その宣言の後、肩にあったこそばゆさが離れ、私の身体は完全に後ろにズリ落ちてしまった。
「わっ。」
「うっ。」
床に叩き付けられる覚悟をしていた背中が、ぽすっと暖かい何かに包まれる。
頭上からケホッと少し苦しそうな咳が聞こえた。
鼻を掠める亜樹とは違う男の人の匂い。
もしかして今、先生の胸に包まれている?
背中から自分のものではない鼓動が伝わってきて急に恥ずかしくなった。
私は身体を起こすと振り返って先生に向かいガバッと頭を下げる。
「ごめんなさい!勝手に忍び込んだり、助けてくれようとしていたのに暴れたり。まさか人がいると思わなくて…あの、本当にすみません!」
「はは。大丈夫ですよ。細谷さんは痛いところないですか?」
先生は何でもない様に笑顔でそう言ってくれたので、私はブンブンと音がしそうなくらい首を振る。
先生は「それは良かったです。」と更に顔を綻ばせてくれた。
なんて優しい対応なのだろう。
聖職者の鏡だ。
「それにしてもお互いビックリしましたね。こんな所で人に会うなんて…。この事は2人だけの秘密にしませんか?」
「え…、良いんですか?」
「はい。何も問題ないですよ。」
先生はそう言った後に悪戯っぽく表情を変えると、「忍び込んでいるのは僕も一緒なので…。」と囁いた。
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