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木曜日のスイッチ。
入学式と団欒。
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一枚の絵を前に時間が止まった。
心を持っていかれるって言うのはこういう事なんだ。
苦しくなって初めて自分が呼吸を忘れている事に気が付く。
芸術の事なんて分からない。
技法も、技巧についても知識はない。
だけどその絵は私に強い衝撃を与えて。
脳みその処理が追い付かなくて、私はただただ立ち尽くした。
職員玄関の前をたまたま通った時だった。
壁に飾られている絵にひと目で心を奪われた。
四角い額縁の中。
先が二股に別れた人参。
大きさがチグハグなジャガイモが2つ。
芽の生えかけた玉ねぎ。
赤身のブッロク肉。
それらがまな板の上に置かれ、左手前に古い薄汚れた鍋が見切れている。
タイトルは『団欒』。
その絵を見ていると胸がキュッと締め付けられ息が出来なくなった。
そうして呆然と立ち尽くす私に、通りすがりの麻生先生が話し掛ける。
「これは産休に入った三木先生の代わりに今年度から赴任してきた山崎先生が描いた絵だよ。」と。
ハッとして作者名を確認する。
「山崎真琴…。」
これが私を魅了する絵を描く人の名前か…。
また食い入る様に絵を見た。
隣の麻生先生もこの絵には何かしら感じるものがある様で、目を輝かせながら眺めている。
「これ見るとカレーが食いたくなるよなー。また団欒ってタイトルが洒落てるしな。」
そう楽しそうに微笑んだ。
だけど、私が感じたのは全く違うもので…。
奥の窓から差し込む光は白くて眩いのに、何処か全体がセピアがかって寂しげな色だから。
きっとこれは今からカレーを作って皆で食べるっていう、数時間後の団欒を思わせる現在進行形の幸せではなく、遠い昔の団欒を想起しているノスタルジーな絵なんだよ。
多分、今この人は孤独で。
これから自分の作ったカレーを一人で食べるんだ。
何の根拠もないのにそう思った。
そして今、自分が感じているこの感覚に既視感を持つ。
そうだ、あれは確か…。
ああ、思い出した。
今から一年ほど前の事。
胸を鷲掴まれる絵に私は既に出会っていた。
駅ビルのレストラン街に入っているファミレスでテスト勉強をしていた時の事。
途中、トイレに行こうと店を出てフロア内を歩いていると併設されているカルチャースクールの作品紹介の中にあったひとつの絵に目が留まった。
確か私はその時も呼吸を忘れて暫く見惚れていたんだ。
その後近くに居たスタッフに許可を貰ってスマホのカメラで記録させて貰った画像を今改めて確認する。
やっぱりそうだ…。
フレーム内に収められている絵の右下。
小さく書いてある作者名。
やはりそこには『山崎真琴』と書かれていた。
今から1年程前の事。
油絵教室の講師を務めているカルチャースクールで、展示用に『入学式』というタイトルの絵を描いた。
何の変哲もない住宅街の細い道。
中央にランドセルを背負った高学年の子供が数人と、その奥には薄い桃色の桜。
それらを振り返って見詰めている人を右手前に大きく見切れさせて。
前ボケ写真な感じで、手前のその人物だけピントから外しぼやかして表現した。
絵の上部を埋める澄んだ青空と、遠くに散らばる桜の色が綺麗に描けたので自分でも結構気に入っていた。
授業後、展示ブースにふと目をやると絵の前に2つの人影があった。
どんな人物が俺の作品を見ているのか。
興味本位から近付いてその様子を観察すると、作品を見詰める一人の女子高生に対し60代くらいの男が隣に立ち一方的に声を掛けている所だった。
「タイトルが入学式なのに、新1年生もいねぇし、入学式っぽさが出てねぇな。こういうパッと見ピンと来ないタイトル付けて見る側の解釈に任せるみたいなのがオシャレで流行ってるけど、こんなのは逃げだな。芸術はもっと分かり易くあるべきだと思わねぇか?この作者はカッコつけだな。」
よく居るのだ。
この手の評論家気取りが。
そういう奴に限ってやたらと話しかけ、周囲を巻き込む。
話し掛けられた当の女子高生は、まさか自分に言っているとは思わなかったという様な表情で周囲を見渡した後絵に視線を戻す。
そして。
「これは紛れもない入学式の絵です。」
彼女は男に視線もくれずにそう言い切った。
その凛とした横顔。
それが今まで目にしたどんな景色よりも美しく、俺はただただ見惚れていた。
そこから暫く記憶だけを頼りに脳裏に焼き付けた彼女を反芻する日々。
名前も知らない。
どこかこの辺りの高校に通っているであろう情報しかない女子高生。
初めての接触から数ヶ月後。
そんな彼女を思いもよらない所から見付ける事になる。
それは4月から美術の非常勤教師を勤めている高校での授業中。
立花亜樹という男子生徒のスマホの中に彼女の姿はあった。
その時に名前も知った。
『細谷咲』
咲き誇る一輪の花の様なイメージ。
凛とした彼女にピッタリの名前だと思った。
心を持っていかれるって言うのはこういう事なんだ。
苦しくなって初めて自分が呼吸を忘れている事に気が付く。
芸術の事なんて分からない。
技法も、技巧についても知識はない。
だけどその絵は私に強い衝撃を与えて。
脳みその処理が追い付かなくて、私はただただ立ち尽くした。
職員玄関の前をたまたま通った時だった。
壁に飾られている絵にひと目で心を奪われた。
四角い額縁の中。
先が二股に別れた人参。
大きさがチグハグなジャガイモが2つ。
芽の生えかけた玉ねぎ。
赤身のブッロク肉。
それらがまな板の上に置かれ、左手前に古い薄汚れた鍋が見切れている。
タイトルは『団欒』。
その絵を見ていると胸がキュッと締め付けられ息が出来なくなった。
そうして呆然と立ち尽くす私に、通りすがりの麻生先生が話し掛ける。
「これは産休に入った三木先生の代わりに今年度から赴任してきた山崎先生が描いた絵だよ。」と。
ハッとして作者名を確認する。
「山崎真琴…。」
これが私を魅了する絵を描く人の名前か…。
また食い入る様に絵を見た。
隣の麻生先生もこの絵には何かしら感じるものがある様で、目を輝かせながら眺めている。
「これ見るとカレーが食いたくなるよなー。また団欒ってタイトルが洒落てるしな。」
そう楽しそうに微笑んだ。
だけど、私が感じたのは全く違うもので…。
奥の窓から差し込む光は白くて眩いのに、何処か全体がセピアがかって寂しげな色だから。
きっとこれは今からカレーを作って皆で食べるっていう、数時間後の団欒を思わせる現在進行形の幸せではなく、遠い昔の団欒を想起しているノスタルジーな絵なんだよ。
多分、今この人は孤独で。
これから自分の作ったカレーを一人で食べるんだ。
何の根拠もないのにそう思った。
そして今、自分が感じているこの感覚に既視感を持つ。
そうだ、あれは確か…。
ああ、思い出した。
今から一年ほど前の事。
胸を鷲掴まれる絵に私は既に出会っていた。
駅ビルのレストラン街に入っているファミレスでテスト勉強をしていた時の事。
途中、トイレに行こうと店を出てフロア内を歩いていると併設されているカルチャースクールの作品紹介の中にあったひとつの絵に目が留まった。
確か私はその時も呼吸を忘れて暫く見惚れていたんだ。
その後近くに居たスタッフに許可を貰ってスマホのカメラで記録させて貰った画像を今改めて確認する。
やっぱりそうだ…。
フレーム内に収められている絵の右下。
小さく書いてある作者名。
やはりそこには『山崎真琴』と書かれていた。
今から1年程前の事。
油絵教室の講師を務めているカルチャースクールで、展示用に『入学式』というタイトルの絵を描いた。
何の変哲もない住宅街の細い道。
中央にランドセルを背負った高学年の子供が数人と、その奥には薄い桃色の桜。
それらを振り返って見詰めている人を右手前に大きく見切れさせて。
前ボケ写真な感じで、手前のその人物だけピントから外しぼやかして表現した。
絵の上部を埋める澄んだ青空と、遠くに散らばる桜の色が綺麗に描けたので自分でも結構気に入っていた。
授業後、展示ブースにふと目をやると絵の前に2つの人影があった。
どんな人物が俺の作品を見ているのか。
興味本位から近付いてその様子を観察すると、作品を見詰める一人の女子高生に対し60代くらいの男が隣に立ち一方的に声を掛けている所だった。
「タイトルが入学式なのに、新1年生もいねぇし、入学式っぽさが出てねぇな。こういうパッと見ピンと来ないタイトル付けて見る側の解釈に任せるみたいなのがオシャレで流行ってるけど、こんなのは逃げだな。芸術はもっと分かり易くあるべきだと思わねぇか?この作者はカッコつけだな。」
よく居るのだ。
この手の評論家気取りが。
そういう奴に限ってやたらと話しかけ、周囲を巻き込む。
話し掛けられた当の女子高生は、まさか自分に言っているとは思わなかったという様な表情で周囲を見渡した後絵に視線を戻す。
そして。
「これは紛れもない入学式の絵です。」
彼女は男に視線もくれずにそう言い切った。
その凛とした横顔。
それが今まで目にしたどんな景色よりも美しく、俺はただただ見惚れていた。
そこから暫く記憶だけを頼りに脳裏に焼き付けた彼女を反芻する日々。
名前も知らない。
どこかこの辺りの高校に通っているであろう情報しかない女子高生。
初めての接触から数ヶ月後。
そんな彼女を思いもよらない所から見付ける事になる。
それは4月から美術の非常勤教師を勤めている高校での授業中。
立花亜樹という男子生徒のスマホの中に彼女の姿はあった。
その時に名前も知った。
『細谷咲』
咲き誇る一輪の花の様なイメージ。
凛とした彼女にピッタリの名前だと思った。
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