黒猫と絵師ニコの長い一日

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一日の始まり、そして終わり

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 左の頬に微かな痛みを感じて目が覚めた。
 洗面台に立つと、ミミズ脹れのぷくっとした細長い膨らみに、乾いた血の線が真一文字に入っているのが見えた。
 鏡に映る不健康そうな顔は青白く、瘡蓋となった赤黒い線が、紙に引いた赤いインクの様に目立った。
 たぶん夜中にキースが顔を踏みつけたのだろう。
 夕闇が迫る空のような美しい眼をもつ黒猫のキースは昨夜、最近おやつの量が少ないと文句を言っていた。この傷は文句に対し沈黙で答えた僕への腹いせだろう。
 顔を洗うと冷たい水が少し沁みた。
 当の本人、いや本猫の姿はない。一瞬、穏やかな仕返しを企んだが、それは大人気ないなと思い直す。キースは唯一無二の親友なのだから、今日のところは許してやろう。
 朝の気怠い体を動かして身支度を整える。
 窓の外はまだ薄暗い。

 今日、僕は十六歳になった。
 この世界で成人と認められる年齢。
 それはつまり、公共の場で魔力を行使しても良いと定められた年齢である。黒魔術を含む全ての魔法が、世界中どこでも使えるようになるのだ。
 成人を迎える前に公共の場で魔法を使った者の魔力は、全て神に吸い取られると云われている。それが真実かどうかは半信半疑だが、僕はその掟を守ってきた。
 掟の効力も、もはや切れた。
 胸の奥底に眠るどす黒い決意を確かに感じながら、僕は扉を押し開ける。家を出た途端に冷たい風が吹き込み、同時に朝日を浴びて輝く広大な草原が視界に広がった。
 風は強いが陽を感じると暖かく、震えるほどの寒さは感じない。なのにどうして僕は震えているのだろう。いや、本当は分かっている。怖いのだ。
 目の前にはついさっき顔を出したばかりの太陽が、憎たらしく「おはよう」と言わんばかりに燦々と光を放っている。
「行ってきます」
 自然にその言葉が出てきた。家には他に誰もいないのに。
 新しい一日が始まる。
 重いリュックを背負って歩き出す。
 魔法と魔性の渦巻くこの世界は、今日も晴天。
 仇討ちの旅に出るには幸先がいい。
 父さんと母さんが殺された日も、今日のように晴れ渡っていた。惨劇とは不釣り合いなほど澄んだ空だった。そして血の匂い。それを憶えている。
 今も微かに血の匂いがするような気がした。そんなはず無いのに。
 あの日のことは記憶が蘇るたびに鳥肌が立つ。出鼻を挫かれるのは御免だから今は思い出したくない。
 さあ、復讐の旅が始まる。なんて意気込んでみても不安は消えない。とりあえず歩こう。
 哀しみの町と呼ばれる、旅の最初の目的地まで。



「家を出たら、まず東の町に行け。地図が無くても場所はわかるだろう」
 前日にしたキースとの会話を思い出す。
「たぶん大丈夫だけど、どうしてその町に?」
「あそこに行けば、この世界が今どうなっているかよく分かる。ちなみにその町は今、哀しみの町と呼ばれている」
 可愛い顔の黒猫は、その顔に似合わず神妙な声でそう言ったのだった。
 キースは一緒に来ないのかと訊こうとしたが、彼が食後のマタタビを吸い始めたのでやめた。

 鉄錆の匂いと何かが饐えたような悪臭が混ざり合う廃墟の前に到着した。幼い頃、ここに来たことがある。小さな町だったが沢山の人で賑わっていたことは記憶に残っている。
 しかし今は、人の気配が全く無い。
 町は完全に死んでいる。町というより町の残骸だ。
 レンガ造りの赤い建物が並ぶ大通りはしんと静まり返り、物音ひとつしない。家を出たときから微かに感じていた血の匂いは、鉄錆の匂いが風で運ばれてきたのだろう。
 足元に散乱した瓦礫は、踏みしめるたびに硬い音を響かせた。その音は建物に反響してトンネルの中にいるような不思議な感覚に陥らせる。
 ここにいると、世界にたった一人取り残されたような気分になる。哀しみの町と呼ばれる所以がよく分かった。
 随分と前にキースから聞いた話によると、どうやらこの南大陸は治安がかなり悪いらしい。
 漆黒の大魔導師クロムの絶大な魔力によって人々の心は急激に荒んでいく。僕の家は草原の真ん中に建っていたから安全だったが、人が密集する街では犯罪や内戦が起こりやすい。荒んだ心たちが集まって互いを殺し合う。
 ちなみに大魔導師クロムとは、この世に悲しみと怒りを創り出した神の化身だと云われている。北大陸にはそれと対立する大賢者アシロイがいる。アシロイは同じく神の化身であり、この世に喜びと楽しみを創り出したと云われている。それらを授かった人間は、楽しみと怒りを混ぜ合わせ憎しみを創り出した、らしい。キースの語る神話によるとだ。
 その憎しみが大きくなってぶつかり合い、この町を廃墟にした。
 十年前まではこの小さな町もまだ栄えていたのに。たまに母と買い物に来た。思えば外出はいつも母さんと一緒だった。なぜか父さんと出かけた記憶はまったく無い。
 この十年という間にいったい何があったのだろう。両親が殺されて悲しみに暮れていた十年間。僕にはとても短く、あっという間に感じた。家で引き篭もってる間に世界はかなり変わってしまったようだ。
 家の外のことをなんでも教えてくれていたキースも、今はそばにいない。気まぐれなあいつはどこへ行ってしまったのだろう。
 ひとりぼっちは寂しい。はやくあの黒猫に会いたい。
 僕は猫が好きだ。嫌いなのは人間。
 両親を殺した魔導師は人間だ。何かを滅ぼすのはいつだって人間。動物を絶滅に追い込むのも、自然を破壊するのも神ではなく、人間。
 憎むべきは神ではない。
 まぁ、我が儘を言うなら神が悲しみと怒りなんか創らなければよかったのに、とも思う。そんなもの誰も欲しくない。なぜ神はこんないらないものを創ったのだろう。そんなことを考えても仕方がない。
 しばらく廃墟を探索するも、人の姿はどこにも無かった。瓦礫の中に生活の名残が残る家具や書物などは落ちているが、死体らしきものは見当たらない。おそらく、ここに親殺しの黒魔導師の手掛かりは何もないだろう。
 他の町へ行こう。
 久しぶりに歩いて少し疲れたが、休みたいとは思わない。今は不安よりも好奇心が湧いてくる。十年間、僕はずっと引き篭もっていた。外に出た今、目に映るもの全てが新鮮で、冒険をしてみたいと血が騒ぐのを感じた。
 廃墟の町を出たとき、その願いは悲しいかな、叶ってしまった。



 気配など感じなかった。
 ふと、廃墟の町を振り返ると、すぐそばに漆黒のマントを着た魔導師が立っていた。驚いて小さな悲鳴をあげてしまった。フードを被っているせいで顔はよく見えない。不穏なオーラを感じる。
 手には長い杖が握られ、禍々しい魔力を秘めている。
 フードの影から、その奥に隠されたクリムソンの色をした瞳でまっすぐ僕を見つめ、ゆっくりと言った。
「お前は何者だ。魔導師か?」
 男の声は嗄れていた。
 魔力の強さは肌で感じて分かる。まともに戦えば僕は瞬殺されるだろう。例えるなら冒険に出たばかりのレベル1の勇者が、いきなり中ボスと戦うようなものだ。あまりの魔力の強さに生きた心地がしない。
「ぼ、僕は、ただの絵師です」
 嘘はついていない。僕は絵描きだ。
「あなたは、黒魔導師?」
「この俺が白い魔法を使うと思うか?」
 男は鼻で笑う。黒魔道師が白魔道師の魔法を揶揄するときに使う、白い魔法という言葉。
 僕の中で、何かのスイッチが入る音がした。
「俺は黒魔道師だ」
 その瞬間、男を殺すことに決めた。反射的に頭にカッと血が昇る。
 古から黒魔導師と白魔導師は対立する関係にある。その理由は詳しく知らないが、両親は白魔導師であったために名もない黒魔導師に殺された。
 なんの罪もないのに。二人とも優しい人だったのに。
 だから僕は黒魔導師を皆殺しにすることに決めたのだ。それがこの旅の目的。復讐の旅だ。
「黒魔導師様、あなたのために一枚絵を描いて差し上げましょう」
 男は何か言いかけたが、拒否させる間は与えない。リュックからスケッチブックと絵筆を取り出す。
「あなたの旅に幸あらんことを」
 あなたの旅立ちに、ね。
 平筆を紙に走らせる。魔法を使っていることをバレてはいけない。まともに戦えば僕に勝ち目は無い。
「絵などくだらん……おい、顔料は使わないのか?」
 男は、紙の上でただの筆を動かしている僕を見て怪訝そうに言った。
「この筆は特別なので絵の具も水も必要ないのです。さあ、もうできますよ」
 僕は真っ白のページを男に見せ、筆を膝に置いた。
「貴様、魔導師をおちょくると子供とてただでは済まされんぞ」
 もう子供じゃないのだが。周りの温度が下がった気がする。黒魔導師の魔力が一層濃くなった。
「これから仕上げですよ」
 僕は素早く左手の親指の皮膚を噛み切り、一滴の血をそのページに垂らした。
 血は幾何学的な模様を形成しながら徐々に紙全体に広がり、やがて一面を真紅に染めた。鮮やかだった赤はだんだんと黒くなり、やがて一切の光を反射しない漆黒となる。
 男はそれまでクリムソンの瞳で興味深そうに見つめていたが、紙が漆黒に染まった瞬間、目を見開いた。
「これは、まさか……!」
杖を掲げるより先に白目を向いた。糸の切れた操り人形のように崩れ落ちる。
 体内の血液が一瞬で凝固したのだ。痛みも苦しみもほとんど感じなかっただろう。
 他人の痛みなど知る由もないが。
 この呪いは少し時間がかかるデメリットを除けば簡単で強力だ。人間に対して使うのは初めてだが上手くいった。いつもは魔法をかけたデッサン人形を相手に練習していた。
 親指の傷を舐めながら、漆黒のページを破り捨てた。
 あまりに呆気ない。初めての殺人にあまり実感が湧かない。男は本当に死んだのかと疑ってしまう。
 倒れた男を調べていると、マントの内から水の入った水筒と干し肉を見つけた。食料の心配は無いが多いに越したことはない。貰っておこう。
 しかし旅に出てまだ一時間と経っていないのに、もうスケッチブックの一ページを使ってしまったのは勿体無かった。次からはクロッキー帳か、可能なら藁半紙でできる呪いを使おう。
 紙の厚さや質によっても魔法の効果は変わる。上質な紙はなるべく残しておいたほうがいい。
 黒魔導師はこの世界にまだ何百人かいるはずだ。白魔導師が黒魔導師を全滅寸前まで追い込んだが、残っている大魔導師クロムの血縁は、やはり強力で倒せないらしい。今生き残っている黒魔導師の中に、両親を殺した奴もきっといるはずだ。だがそいつを見つけ出すのは難しい。やはり皆殺しが合理的だ。人を殺すのは驚くほど簡単で呆気ない。
 リュックを背負い直し再び歩き出そうとすると、今度ははっきりと気配を感じた。背後に何かいる。
「ひどい奴だなぁ、ニコ」
 僕の名前を呼ぶその声はもう聞き慣れていた。
 振り返ると、やはりそこには小さな黒猫が座っていた。
「いつからいたんだ、キース」
 キースは横目で黒魔導師の亡骸を見ると顔をしかめた。
「俺は復讐を止める気は無いが、セピアとリリィを殺した奴を殺すのが筋だと思うんだ」
 セピアは父、リリィは母の名だ。
「こいつは二人を殺した犯人じゃ無い。良い人間とはお世辞にも言えないけど、ニコが裁く権利は無い」
「父さんと母さんを殺してなくても、たくさんの人を殺してきたんだろう。目を見れば分かる。死んで当然だよ」
 僕がやらなくても他の白魔導師がやっただろう。黒魔導師は滅びゆく運命にあるのだ。罪悪感はまったく感じていなかった。
「ニコが絵を描く姿を見てくれたのに。くだらないなんて言っても興味深そうに。ずいぶん可哀想なことをするじゃないか」
 そう言われると少し良心が痛む。爪の先ほどだが。
「ニコはそんなに残酷なヤツだったかな。よく考えろ。自分が白なのか黒なのか、分からなくなるぞ」
 キースの言葉が揺らいだ心を、少し深く、刺した。



 キースは僕の肩の上にちょこんと座り、通り過ぎていく変わらない景色を眺めている。一方の僕はというと、ただでさえ体力が無いのに猫とリュックを背負って歩き、足に絡みつく雑草たちと悪戦苦闘していた。
 太陽はもう高い位置に昇り、風が吹かないと少し汗ばむような陽気だった。
「どうせ今日も朝飯は食べてないんだろう?」
 愚問だ。朝は食欲が湧かない。
「そろそろブランチにしよう。俺は腹が減った」
「じゃあ下りてよ。重いよ」
 草の丈の低い手頃な場所に腰を下ろすと、リュックからさっきの水筒を取り出して水を一口飲んだ。じわっと渇いた喉に染み渡る。
「キースも干し肉でいい?」
「いや、いつものを頼む。昨日も言ったけどにゃ、最近量が少にゃいぞ。ちゃんと作れよ」
「だって、インクが勿体無いし……」
 そう言いながらもしぶしぶスケッチブックとペンを取り出し、頭の中でサンマの塩焼きを想像して描き始めた。陰影は付けず、単純な線だけで描くサンマはとても美味しそうには見えない。魔法をかけなければただのイラストだ。
 描いている間、僕が手を抜かないようにキースがずっと見張っていて気が散った。
 出来上がったイラストの下に、絵を具現化させるための呪文を書く。ここで少しでも文字の形や位置を間違えれば魔法は失敗してしまうのだが、僕が失敗したことはまだ一度もない。慎重にペンを動かしつつも慣れた手つきで呪文を完成させた。我ながら良い出来だ。
 ふわっと、香ばしい薫りが立った。
 すると絵は色付きながら紙から浮き上がり、平面だったサンマの塩焼きは立体に形を変える。スケッチブックの上に漂うサンマはキースに捕まった。紙から呪文も消失し、元の白紙に戻る。
「うまい?」
 うにゃうにゃと声を出しながら夢中でサンマを食べる黒猫に言って、僕は干し肉を噛みちぎった。
 遅い朝食を終えると、キースは食後の昼寝の態勢に入ってしまった。
「おい寝るなよ、キース。行くぞ」
「どこへ?」
 キースは目を瞑ったまま言った。
「どこって……」
 考えてみればどこへ行くか決めていなかった。漠然と東へ向かって歩いていたが、この先に町があるのかは分からない。
 僕はどこへ行けばいいのだろう。地図を取り出そうとして、初めから持っていないことに気づく。
「まったく計画性の無い奴だなぁ。決めてから歩け。体力が持たないぞ」
 もっと早く言ってくれればよかったのに。哀しみの町からけっこう歩いて来てしまった。
「ここから一番近いのは、北に八キロ行ったところのウッドタウンだ。南大陸では人口が一番多い、というより……そこ以外に人間はいない」
 キースの声はだんだん小さくなり、語尾はかなり聞き取りにくかった。
「いない?いないってどういうことだよ!」
「昔から南大陸には黒魔導師が多かった。白魔導師との全面戦争でほとんどが死んで、残った人間のほとんどは北大陸に……」
「最初から言えよ! ここにいても意味無いじゃないか! 僕たちも北に行かなきゃ」
「哀しみの町を見ただろ?見ればこの世界がどうなっているか分かると思ったんだけどなぁ」
「そりゃ平和じゃないことは分かったよ。でも人が誰もいないなんて分かるはずないじゃないか!」
「この世界はもう審判の日を迎えたんだよ。戦争の果てにほとんどの人間は死んだ。でも誰もいないわけではないって。ウッドタウンにはまだ何十人か……」
 キースの声はもう耳に入ってこなかった。
 十年前は人が沢山いたのに、今南大陸にいるのは僕と、ウッドタウンに暮らす人だけ。
 さっき哀しみの町で感じた猛烈な孤独感はあそこの雰囲気のせいじゃない。実際に僕は、ある意味でひとりぼっちだったんだ。
 あれ、ひとり……? 
「でも、じゃあ、なんでさっきの黒魔導師はあんな所にいたんだ?ウッドタウンの外には僕しかいないはずなのに」
 町の外に出る必要があったのだろうか。もしあの黒魔導師が北大陸に行くつもりだったなら、ウッドタウンより南にある哀しみの町に行く必要は無いはずだ。
「知らない。死人に口は無いからなぁ」
 今になって殺したことを後悔した。生かしておけば何か情報を掴めたかもしれないのに。いや、掴めたはずだ。数少ない生き残りの黒魔導師だったのだから。
「……まぁいい。じゃあウッドタウンに行こう。ひとりぼっちじゃなくなるために」
 過去のことは悔やんでも仕方ない。そう心の中で呟いても、後悔は消えない。
「ようこそ、終末世界へ」
 歩き出した僕の後ろでキースが囁いた。

 再びリュックを背負い、今度はキースを肩に乗せることなく歩いていると、地平線まで何も無かった草原にちらほらと背の高い木が目立ってくるようになった。
「ニコ、もう少し歩いたら森に入る。気をつけろ」
 猛獣が出るのだろうか。
「棍棒とか剣とか、そういう武器は持ってないよ」
「どこかの誰かが言ってたろ。ペンは剣より強しって」
「ペンならあるけど」
 僕はその言葉を知らなかったが、ポケットからシャープペンシルを取り出した。それを見たキースが鼻で笑った。
 木々の近くに来た時、根元の草が不自然に揺れた。
 陰に何かがいる。立ち止まってシャープペンシルを構えた。
 キースは知らないだろうが、これはただのシャープペンシルではない。
 最上部に替え芯補充口の蓋を兼ねたノックボタンがあるのは普通のものと変わらないが、それを三秒間押し続けると中にある超硬合金の芯が勢い良く発射される仕組みだ。その威力は銃をも凌ぎ、急所に命中すれば、十分に致命傷となる。
 ゆっくりと後退りをして揺れた草と間合いを取る。距離は約二十メートル。隣ではキースが耳をそばだてている。
 沈黙の後、唐突にその何かが飛び出した。
 それは、灰色の小さな野ウサギだった。ぴょんぴょんと跳ね回りながら近づいてくる。
「なんだウサギ……」
 言いかけた瞬間、他の木の陰から巨大な獣が飛び出してウサギの喉笛に食らいついた。
「オオカミだ!」
 キースが毛を逆立てて叫んだ。
 一瞬で息絶えたウサギを巨大なオオカミは一心不乱に貪り、僕たちの方は見向きもしない。存在には気付いているだろうが、今はウサギにしか興味が無いようだ。
「オオカミは群れで狩りをするんだ。近くにまだいるかもしれない」
 僕の背後に隠れたキースが囁いた。
 目の前で鼻先を血に染めるコイツは、ただのオオカミにしては大き過ぎる。用心してゆっくりと、気を引かないように通り過ぎる。キースも忍び足でついて来る。
 無惨なウサギの内臓が、オオカミの口の中で咀嚼される音が耳に残った。
 結局、オオカミは襲ってこなかった。
 歩いていくうちに樹木はだんだんと生い茂り、気付けば僕たちは森の中にいた。
 日差しは遮られ薄暗く、冷たい風だけは相変わらずで、ひんやりと肌寒かった。足元の草は動物の足跡が残る柔らかい土に変わり、頭上からは猛禽類の鳴き声が響く。しばらく黙って歩いていると猛烈な不安を感じた。何か喋らないと恐怖に身がすくんでしまいそうだ。
「キース、ウッドタウンに住む白魔導師と黒魔導師は殺し合いにならないの?」
「ウッドタウンにはクロムがいる。だから白魔導師は黒魔導師に手出しできない」
 それは驚いた。神の化身がこんなに近くにいるとは。親殺しの魔導師の手掛かりがつかめそうだ。
「じゃあ、黒魔導師が一方的に白魔導師を攻撃したりしないの?」
「いや、クロムがそれをさせないんだ。だからウッドタウンの均衡は保たれている」
 変な話だ。黒魔導師なのに、クロムは平和主義者なのか?
 突然、隣を歩いていたキースが立ち止まった。
「誰かいる」
 僕は再びシャープペンシルを構える。森の奥は暗くてよく見えないが、キースの眼には見えているのだろう。音が聞こえたのかもしれない。
 すぐに僕も気配を感じた。ゆっくりと何かが近づいてくる。
 やがて視界に現れたその人は、白装束を身に纏っていた。
「白魔導師だ」
 キースが呟いた。その人から放たれているオーラも、たしかに白魔導師のものだ。
 良かった。白魔導師なら襲われる心配は無いはずだ。ほっとしてシャープペンシルをポケットにしまった。
「そこの人、北大陸へ行くのですか?」
 半ば叫ぶようにして尋ねた。ちゃんと聞こえただろうか。
「ええ……うです……ですか?」
 聞こえたようだ。白魔導師も何か言っているが遠くてよく聞こえない。僕の質問に対しての答えはたぶん肯定だろう。
 やっと顔が見えるところまで来た時、白魔導師が女だと気付いた。
「あなたは北から来た人ですか?」
 髪の毛まで雪のように白い女は、真っ赤な唇をわずかに動かして喋った。声は小さいが、もう聞き取れるほどに近かった。
「キタからキタ……ぷっ」
 キースが小声で何か言ったがそれは無視することにする。
「違います。僕はこの南大陸に住んでいる者です」
 そう言うと女の目付きが睨むように変わった気がした。
「見ない顔ですね…じゃあ、まさか、あなたの名前は……ニコ?」
「そうですが、どうして……」
 答えた瞬間、おとなしかった女の表情は鬼のように変貌した。
「伏せろ!」
 キースが叫ぶのと同時に、女は呪文を唱えることなく口から炎を吐いた。熱風と共に、青い炎が竜の如く喰らいついてくる。
 間一髪で躱したが前髪が少し焦げた。身を屈めた僕の顔面に女の膝蹴りが繰り出される。今度は躱す間も無く鼻っ面にヒットした。グシャっと嫌な音が耳に響く。鼻の奥にツンとした嫌な感覚が広がり生温かい液体が溢れ出た。鉄の味が口に広がる。女性にしては力が強過ぎだ。化け物か。
 一瞬意識が飛び、すぐに正気に戻った僕は自分が無様に倒れていることを知る。頭がくらくらして起き上がれない。視点も定まらない。ぼやけた女の、鬼のような顔がすぐ目の前にある。絶望的だ。殺される。
 キースは逃げたか?
 さあ、どうする。どうしたらいいんだ。
「……なんで僕を殺すんだよ?」
「あなたは、血を裏切る者。この世界に不幸をもたらした存在」
 だから、死んでもらうのです。
 女は静かに、感情の感じられない声で言った。
「どういう意味だよ」
 今はとにかく時間を稼がなければ。
「知る必要は無い。あなたは今ここで、死ぬのだから」
 女の冷たく細い指が、僕の首に絡みつく。
 ここまでか……
 今朝、旅に出たばかりなのに。まさかたった半日で死ぬことになるなんて、情けない。十分に準備をしたつもりだったのに。まだ十六歳なのに。父さん、母さん、先立つ不孝をお許しください。あぁ、先立ってないか。
 なんだか悲しみを通り越して笑えてくる。
 笑いかけたそのとき。
「動くなニコ、そのまま寝てろ‼︎」
 遠くでキースの声がした。僕を見捨てて逃げたのかと思った、ごめんよ。はやく助けて。助けてください。キースに何ができるのかわからないけど、僕は今猫の手すら借りたいんだ。
 刹那、女は横から飛んできた巨大な黒い何かに襲われて吹っ飛んだ。
「なんとか間に合ったなぁ」
 のそのそとお腹の上に乗ってきたキースは、女が飛んでいった方を見て言った。僕もそっちに顔を向ける。
 見ると、さっきの巨大オオカミが女の首根っこをくわえていた。辺りには女の頭髪が散らばり、白かった衣服は鮮血に染まっている。女はだらりと手足を伸ばしたまま、ぴくりとも動かない。
「なんでオオカミが……」
「俺が連れてきたんだ。新鮮な若い女の肉があると言ってな。だから俺は食べないでくれって言ったら、あいつなんて言ったと思う?」
 キースは楽しそうに訊く。
「ウサギを食べてお腹いっぱい?」
「違う。お前からは旨そうな匂いがしないから食べない。だとさ!」
 キースはさも愉快そうに言ってお腹から飛び下りた。遠回しにマズそうと言われたことが傷ついたのだろう。口調とは裏腹に表情が悲しげだ。
「食べられなくて良かったじゃないか」
 僕は鼻血を拭いながら上体を起こし、できるだけ優しい声で言った。
「お前もな、ニコ」
 今、巨大オオカミの方を見れば、女のはらわたランチの食事を目に焼き付けることになってしまうだろう。それはさっきのウサギよりショッキングな光景のはずだ。僕はなるべく何も見ない、聞かないように片目を閉じて耳を塞ぎ、ついでに丸めたティッシュで血の滴る鼻も塞ぎ(臭いもブロック!)足早にオオカミの横を通り過ぎた。
 ほっと一息ついた後ろでキースが言う。
「おいしそう」
 やめろ。

 しかしなぜ襲われたのだろう。
 白魔導師か黒魔導師かはその人が放つオーラで判断できる。それはこの世界の人間の必須スキルであり、子供にも出来る簡単なことだから間違えることはまず無い。
 さっきの女は僕を黒魔導師と間違えたのだろうか。でなければ、この世界で白魔導師が人を襲うことは考えられない。
「キース、僕は白魔導師だよね?」
「まあ、今感じるオーラは白だな」
 それに、あの女は僕の名前を知っていた。僕がニコだと分かってから態度が急変した。なぜだろう。
「さっきの女、僕のことを血を裏切る者って言ったんだ。なんのことだろう」
「……さあ?」
 キースは少し考えるような素振りをして首を傾げた。
 まぁ、きっとあの女は精神異常者か何かだったんだろう。だから意味不明な言葉を吐いて襲ってきたのだ。うん、きっとそうだ。
 考えることが面倒になり無理やり自分を納得させていると、前を歩いていたキースが一本の木の前で立ち止まって振り向いた。
「着いた。ウッドタウンだ」
「どこ?」
「ここ」
 木々の間隔はさっきよりも広くなった気がするが、辺りは相変わらず鬱蒼として建物らしきものは見当たらない。人の気配も感じない。
「からかっているのか」
「ニコ、空を見上げてみなよ」
 言われた通りに首が痛くなるくらい空を見上げると、キースの言わんとしていることが分かった。
「……だからウッドタウンなのか」
 空が遥か遠くに見えるほど高く聳えた樹木の幹に、巨大な木の箱のような物が付いている。まるで鉛筆に串刺しにされた消しゴムのようなその箱の側面には小さな扉がある。
「ただの箱に見えるけど……本当にあれが町なのか?」
「俺のこと疑ってるだろ。俺のことを信じてないんだろ」
「うん」
「罰としてマタタビ三本」
「キースの説明不足がいけない」
「あの箱の中に町が詰まっているんだよ。俺はウッドタウンよりボックスタウンのほうが似合うと思うな」
 名前なんてどうでもいい。問題はどうやってあの扉まで行くかだ。
 巨大な箱から下は枝が無く、幹にしがみついて登っていくのはかなり厳しい。絶望的な運動神経の、筋肉も体力も無い僕には到底無理だろう。幹を登り切ったとしても、取っ手の無い箱の底を伝って側面の扉まで移動するのは不可能だ。浮遊魔法や重力を操る魔法は僕には使えない。
 さて、どうするか。
「ニコの一番得意な魔法は?」
「具現化素描かな」
「なら、それを使えばいい」
 具現化素描は、デッサンをして実物に限りなく近い絵を描いて命を吹き込む魔法だ。イラストの焼き魚を作り出したのとは違い、この魔法は生命をも創り出すことができるのが特徴だ。
「大きな鳥か猿でも描いて、背中に乗せてもらえばいいだろう」
 キースは随分と簡単に言ってくれる。見たままを描くということが、いかに難しいことか分かっていない。デッサンには短くても三時間はかかるし、そもそもこの魔法にはモチーフやモデルが不可欠だ。動物図鑑は家に置いてきたから見本も無い。何も見ないで描くのは不可能だ。
「無理だよ」
「この前描いてた鳥のデッサンがあるじゃないか。クロッキー帳に」
 そこまで言われて思い出した。家で図鑑を見ながら鳥を描く練習をしていたことがあった。
 急いでクロッキー帳を取り出す。
 あった。ページいっぱいに描いた、翼を広げるトンビのデッサンを見つけた。
 通常サイズより大きめに具現するように、複雑で特殊な呪文を素早く書き入れる。
 トンビの眼球が、ギョロっと動いて僕を見た。
 呪文がトンビに命を吹き込み、鉛の粉が銀色に輝いた。絵はペリペリと音を立てて紙から剥がれ、淡く発光しながら空に舞い上がる。光の鳥は徐々に大きくなっていき、巨大な箱の周りを旋回して僕の元に舞い降り嘴を開いた。
「あぁ、自由とは素晴らしい! 三次元は良いなぁ」
 トンビから放たれる光が弱くなっていくと、だんだんと褐色と白のまだら模様の体が見えてきた。その巨大さと人語を話すこと以外は普通のトンビと変わらない。
「ニコ殿、あの箱まで乗せてほしいんだろう?」
「話が早いね。頼むよ」
「ずっと聞いていたからな。承知した」
 トンビは乗りやすいように首を下げてくれた。キースを抱きかかえてトンビに跨る。艶やかな毛並みが滑りそうだと思ったが、首元の毛は意外にふわふわしていて安定した。
 両翼を羽ばたかせると突風が巻き起こった。地面から浮き上がり、ゆっくりと上昇していく。
 ウッドタウンの入り口は、もう目の前にあった。

 観音開きの扉を引くと、中から眩い光が溢れ、なんてこともなく、一人の男がひょこっと顔を出した。
「おやまぁ。猫を抱えて鳥に乗ってくるたぁ、流石ニコさん、一味違うぜ」
 男はパイプを咥えた口でニッと笑うと欠けた前歯が目立った。浮き出た骨に皺だらけの皮が纏わり付いた、死神を連想させるような顔の老人だ。だが放つオーラは暖かく、白魔導師だということはすぐにわかる。
「僕のことを知ってるの?」
「あたぼうよ。お前さんのことを知らん奴なんぞおらんよ」
 なんだって?
 詳しく話を聞きたかったが、トンビにずっとホバリングしてもらうのも悪いので先に中に入ることにした。
 扉の中は白い壁の小さな部屋になっていて、扉の向かいにまた扉があった。それ以外は何も無い。
 魔法で創られた寿命をもたないトンビは大空に飛んでいった。きっと紙に戻らなくていいことが嬉しくて堪らないんだろう。
 僕はいつの間にか腕の中で眠っていたキースを抱えながら、トンビが米粒大の大きさになるまで眺めていた。
 具現化素描で創られた生き物は死ぬことがない。殺されることはあっても、病気になったり老衰することがない。描かれたままの姿で、半永久的に生き続けるのだ。それが良いことなのか悪いことなのか僕には分からないが、飛んでいく姿を見て少し寂しく感じた。
「俺の名はシルバ。ウッドタウンの門番だ」
 シルバはパイプを吹かしながら言う。
「ニコさん、フェンリルには会わなかったのか?」
「フェンリル?」
「森の主のオオカミのことさ。奴は悪意ある者を喰い殺す。クロム様すら手に負えない怪物なんだで」
 神すら手に負えないとは。まさかあの巨大オオカミがそんなに強いとは思いもしなかった。食べていたウサギに殺意があったとは思えないが、それはただ単に食欲を満たすために襲っただけなのだろう。
「会ったよ。でも襲われなかった」
「そりゃあ良かった。ニコさんは優しい人なんだろうな」
「それより、僕のことを知らない人はいないってどういうこと?」
「俺が話すよりクロム様から聞いたほうが良いだろう。案内するよ」
 シルバはもうひとつの扉を開け放った。

 僕たちは箱の中にいるのに、天井があるべき場所には外と同じ空が見えた。視界には終わりのない空が永遠と広がっている。煌煌と照りつける太陽もちゃんとある。今入ってきた扉の上を見上げると、天辺が見えない程高い壁の先にはやはり天井ではなく空があった。
「空間魔法を使っているの?」
「その通り。クロム様がここの住民を守るために町を丸ごとシェルターにしたのさ。この街を支えている大樹にも保護呪文がかけてあるから、何があってもここは絶対に安全だ」
 暴徒化した魔導師たちに襲われないように、人々を守るためにクロムがこの町を造ったというのか。
 僕の想像していた大魔導師クロムとは全く違う。
「俺は白魔導師だけどよ、クロム様のことが好きだぜ。尊敬してる。そもそも黒と白の違いってのはよ、使う魔法のタイプが違うだけで、その本質は同じなんじゃねえかな」
 本質なんて、何やら難しいことを言う。
 シルバは歩きながら、ぐしゃぐしゃと残り少ない髪の毛を掻いた。
「あぁもう、伝わらねぇかな…つまりさ、黒魔術ってのは暗殺や殺戮、破壊の魔法が多くて、白魔術ってのは治癒や再生、復活の魔法が多い。でも、魔導師がその魔法を使うかどうかは分からねぇよな。白魔導師が人を殺すこともあるし、黒魔導師が、クロム様のように、こうやって人を助けることもあるってことよ」
 なるほど。使える魔法の種類は関係無い。問題はその魔法を、使うか使わないかだ。その判断をする人間の本質もまた黒白関係無いのだ。
 シルバはまたニッと笑い、つられて僕も笑った。すごく久しぶりに笑った気がした。
「……だが俺のような奴は少ない。ほとんどの白魔導師は黒魔導師を忌み嫌う。ここの住人はそんなことないんだが、北大陸にはそういう奴が溢れてる」
「悲しいね。悲しいけど、偏見や差別が無くなる日は来ないんだろうな」
 そんなこと無いって、シルバに言ってほしかった。だがシルバは寂しそうに俯いたまま喋らなかった。
 僕は、今朝の僕を殺したくなった。黒魔導師なんて皆殺しにしようと、復讐のためだけに自分勝手なことを考えていた自分を、想像の中で殺した。
「少し成長したか、ニコ」
 あくびをしてキースが言う。
「起きてたなら自分で歩いてよ」
「なんだって?」
 シルバが振り向く。
 なんでもないよ、と言ってキースを下ろす。キースの声は僕にしか聞こえない。シルバには僕が独り言を言っているようにしか見えないだろう。
 ウッドタウンの町並みは、アクリルタウンとよく似ていた。大通りの両脇にレンガの建物が並ぶ。ただひとつ違うのは、この町は生きているということだ。何十人しかいない小さな町だが、少なくともここは賑やかだ。まだ人の声が聞こえる。
 ウッドタウンが村ではなく町と呼ばれているということは、最初はもっと人がいたのだろう。人口が八千人以上無いと町とは呼べない。ほとんどの人間が北大陸に行ったということは、クロムと思想が合わなかったのだろう。つまりほとんどの人間が、白は黒を、黒は白を排除したいと思っているということだ。
「そういや、さっきも一人、北大陸を目指してこの町を抜けた奴がいたんだ」
 シルバが言った。
「白魔導師の女?」
「まさか、ニコさん会ったのかい?」
「会った。そいつには襲われた」
 シルバは一瞬黙って、重そうに口を開いた。
「はやく真実を知りたいだろう。クロム様はもうすぐだ。急ごう」
 早歩きのシルバについて行くと、前方に、天まで続く巨大な木の幹が見えた。
「あれが町の中心だ。クロム様がいらっしゃる」
 やはり大樹は箱の中心を貫通していたようだ。あの木の中に、神がいる。両親を殺した奴の名を知れるかもしれない。やっと手がかりを掴める。
「あなたの旅は、日暮れと共に終わる」
 唐突に話しかけられて立ち止まる。
 振り返ると、綺麗な顔立ちの若い女が立っていた。年齢はたぶん、僕とほとんど変わらないだろう。
「あなたの旅は、もうすぐ終わる」
 女の声は耳に残った。特徴のある声なのではない。脳に、直接語りかけるような喋り方だったのだ。
「なんだ、鬱喰いのお嬢さんか。今ちっと急いでるんでな。ニコさん、行きましょう」
 うん、と返事をして再び歩き出す。
 歩きながら振り向くと、女がキースを撫でているのが見えた。
「キース、行くよ」
 キースは小走りでついて来た。口にはジャーキーのようなものを咥えている。貰ったようだ。
「シルバさん、鬱喰いって何?」
「占い師のことでさぁ。人の憂鬱な過去を透視してその人の未来を占うんだが、これが絶対に当たるんだ」
 絶対に当たる占い。それは占いなのか?
 予知だ。僕は予言をいただいたわけだ。
 僕の旅は日暮れと共に終わる。ということは今日、終わってしまうのか。朝旅に出て、夜には終わる。その終わりがハッピーエンドなのかゲームオーバーなのかはわからないが、この旅の短さからハッピーエンドは考えられないような気がする。日暮れまであと半日も無い。
 僕の旅は失敗に終わるのか。
 そんなことを考えているうちに、大樹の幹の前に着いた。
 幹にはボタンのような出っ張りが付いている。
「そのボタンを押しな。俺は門番に戻るよ。じゃあなニコさん、健闘を祈る」
「うん、ありがとう」
 シルバは行ってしまった。
 僕はそのボタンを押した。

 ピンポーン。
 間の抜けた音がした。
「はぁい、どちら様?」
 大樹の中からも、間の抜けた声がする。
「えっと……」
 想像していたのと全く違う!
 返事をするのも馬鹿馬鹿しい。ここに本当にクロムがいるのか?僕は今、本当に神の化身と話しているのか?
 なんだか頭が痛くなってきた。
「……いたずらかな」
 再び中から声がする。
「えっと……ニコです」
 その刹那、突然木の幹に長方形の穴がぽっかりと空いた。キースも驚いて飛び上がる。
「来ると思っていたよ」
 そこには白いTシャツに半ズボンの、黒髪の青年が右手の小指を鼻に突っ込みながら立っていた。動作とは対照的に声が大人びているのが無性に腹が立つ。というより不気味だ。
 しかし、オーラだけはやはり黒魔導師だ。それも並みの魔導師とは比べものにならない、この世の全てのものが凍り付きそうな程の強力なオーラを感じる。宇宙を創ったのはこの男だと言われても信じてしまいそうだ。
 あのふざけた見た目でなければ、僕は今、恐怖のあまり気絶してしまっただろう。もしかして、それを見越したうえでの姿なのだろうか。
 もっと年老いた人を想像していた。これではあまりにも若すぎる。不老不死の魔法を使っているのだろうか。だとしたら本当に神のようだ。
「さあ、どうぞ」
 クロムは僕を大樹の幹の中に迎え入れた。
 中は空洞になっていた。窓は無いのになぜか明るく、幹に空いた入り口が再び塞がっても、十分な光がそこには満ちている。木のテーブルと、木のイスが三つあるだけのシンプルな空間だ。
「今朝、君のオーラを感じて迎えにモーブを行かせたんだが、入れ違いになったかな」
 クロムがイスに座る。
「その人って、クリムソンの目をした人ですか?」
「ああ、そうだよ」
 僕が殺してしまった男だ。なぜあんな場所にいたのか今分かった。僕を迎えに来てくれていたのだ。本当に取り返しのつかないことをした。俯いたまま顔を上げることができない。
 僕が返事をできない理由を、クロムは悟ったようだ。
「そうか……まあモーブはあまり頭が良くないしキレやすいところがあったからな。君を見てニコだと気づかなかったか。仕方がない。どうぞ座って。そこの猫さんも座って。あぁ、紹介が遅れた。僕の名前はクロムだ。よろしく」
 僕たちは握手をした。
「あなたは神なんですか?」
「気付いているんだろう。この世に神なんていないことを。君の両親が亡くなった日に」
 頷いた。両親が殺された日から神の存在なんて信じていない。
「僕が……僕とアシロイが神と云われている所以はね、時間を操ることができるからなんだ」
「タイムスリップ、とかですか?」
「まぁ、そんなところかな」
  クロムは自分の右手をまじまじと見つめた。
「今の握手で、君の過去を全て見せてもらったよ。君はマリア……白魔導師の女に襲われたね」
 今の一瞬で僕の記憶を全て読まれたのか。魔法のレベルが違い過ぎる。
「なぜ襲われたのか、気になるだろう」
 僕は黙って頷く。
「全ての始まりから話そう。ちょっと長い話になるよ」
 クロムの話が始まった。

 君を襲った白魔導師は、名をアッシュという。
 彼女は僕とは違う考えの持ち主だった。だからこの町を抜けた。べつに僕が追放したわけじゃない。
 アッシュは、いや、多くの魔導師は自分と違う色の魔導師を滅ぼそうと考える。なぜなら、自分には無い能力を持つ者は、自分にとって脅威となるからだ。黒魔導は主に破壊の魔術を、白魔導は再生の魔術を使う。互いに厭う存在になることは、もはや運命としか言いようがない。
 だがアッシュは白魔導師で、君も白魔導師。君が襲われる筋合いは無いはずだろう。
 しかし、君はただの白魔導師じゃないんだよ。君はグレーだ。白にも黒にもなり得る。
 君はハーフなんだよ。白魔導師と黒魔導師のね。
 君の母親のリリィは無垢な白魔導師だった。僕が知る限り一番素晴らしい白魔導師だったと思う。お世辞じゃなくね。
 君の記憶にはセピアの情報が少ないから、自分のことをリリィと同じ純血の白魔導師だと思っていたんだろう。
 だがリリィの夫であり君の父親にあたるセピア、彼は黒魔導師だった。それもただの黒じゃない。暗黒魔導師と呼ばれる、僕の次に強い力をもつ魔導師だったんだ。黒魔導師には階級があり、黒、暗黒、漆黒の順に魔力が強くなっていく。君のお父さんは並みの黒魔導師じゃなかったんだよ。
 僕は神と謳われたが、セピアは仏と謳われていた。強いだけじゃなく、彼は優しい男だったから。
 昔の、若い頃の僕は今と違って残酷で馬鹿だったんだ。人を殺すことを躊躇しなかった。軽蔑されても仕方がない。
 ある日、セピアはリリィと出会い、恋に落ちた。
 彼は唖然とする僕に言ったよ。色の違いなんて関係ない、俺たちは同じ人間なんだから、ってね。
 だがその愛は、この世界では異例のことだった。
 だからセピアとリリィの間に君が生まれたとき、世界中の魔導師たちが驚愕した。でも黒魔導師の大半はセピアを慕っていたから、ニコの誕生は平和の象徴だと考える奴も多かったんだ。
 僕も、その一人だった。
 セピアとは遠い親戚でね、幼い頃から仲も良かった。だから、君とも親戚ってことになるのかな。
 僕は純粋に、心からセピアとリリィを祝福した。
 リリィも白魔導師からは一目置かれた存在だった。世界は、だんだんと平和に向かっていたんだ。
 しかし、一部の白魔導師からセピアは恨まれていた。特に男の白魔導師からはね。あんなに美人なリリィを違う色の魔導師に取られたんだ。当然と言えば当然だけど、ほとんど逆恨みだね。
 命を狙われることも度々あって、セピアは家を出なくなった。もちろん、死ぬことを恐れたんじゃない。白魔導師と戦って殺すことを嫌がったからだ。セピアとリリィの家の場所は誰もわからなかった。セピアが特殊な魔法陣の中に家を建てたからね。僕には場所を教えてくれた。赤ん坊の君の顔を見に、一度だけ遊びに行ったことがあるよ。
 白と黒の争いは日に日に少なくなっていき、本当の平和まであと一歩というときに、二人は何者かに殺された。
 君の両親の遺体を最初に発見したのは僕だった。家の近くの草原に、二人は互いを守り合うようにして亡くなっていた。君を探したが姿が見えない。家に隠れているのかと思ったけど、セピアが死んで家を隠していた魔法陣が少し歪み、僕も家を見つけることができなくなってしまったんだ。
 あのときはすごく心配したよ。でも、君から放たれる淡い灰色のオーラが感じられたから、どこかで生きていることを知れた。
 セピアとリリィの訃報はすぐに世界中に広まり、嘆き悲しんだ魔導師たちは犯人探しに躍起になった。
 まず最初に疑われたのは僕だ。家の場所を知っていたのは僕だけだったからね。でもリリィと君が出かけているところをよく目撃されていたから、跡をつければ誰でも知ることができた。まぁ、あのリリィが気づかないような尾行をする手練れが、この世にいたとは思えないけどね。
 僕がセピアと仲が良いことは知られていたし、動機も無かったから疑いはすぐに晴れた。
 次に疑われたのは白魔導師の男たちだ。セピアを殺す動機は十分にあった。しかしリリィまで殺すとは考えにくい。だけど黒魔導師たちは白魔導師の誰かが犯人だと決めつけ、収まりかけていた殺し合いが再び始まった。
 そしてリリィの伯父にあたる大賢者アシロイが激怒し、その殺し合いに拍車を掛けたんだ。
 アシロイは、リリィが黒魔導師と結ばれなければ殺されなかったのにと深く悔やんだ。だから黒魔導師を皆殺しにすることを全ての白魔導師に呼びかけた。
 殺し合いは今までより悲惨なものとなり、たくさんの魔導師が死んだ。戦争だ。黒魔導師はもう絶滅寸前になり、白魔導師もかなり減った。
 平和の象徴だった君は、今度は不幸の象徴として、血を裏切る者という烙印を押された。

「……そして犯人はわからぬまま、現在に至るわけだ」
 クロムは長い溜め息をついた。
「あなたも……あなたですら、犯人は分からないんですか?」
 ほとんどの真実が明かされた今、知りたいことはそれだけだ。
「わからない……時渡りの魔法を使えば過去に戻れるけど、僕は自分に時縛りの魔法を使って、この若い姿を保ってるからそれができない。時縛りを解けば僕は寿命を迎えて死ぬ」
 クロムが僕を見据えた。
「他の人間を過去に送ることもできたけど、誰が犯人か分からない中で誰かを過去に送るのは、幼い頃の君を再び危険に晒してしまう……だけど今日、君がやって来た。僕には分かっていたよ。成人を迎えた君が僕の元に来ることを。真相を求め、僕の申し出を受け入れるということも」
 クロムは拳を掲げて言う。
「そうさ、ニコ。君が過去に行くんだ!」
 彼の推測通り、僕には断る理由が無かった。
「この黒猫も、一緒に連れて行ってください」
「いいだろう。一人じゃ不安かな? でも君なら大丈夫さ。僕の右腕のモーブを倒した男なんだ。君ならきっと、無事に帰って来れる」
 僕の手とキースの肉球を、クロムの手が包み込む。
「さあ、準備は良いかい? 君の正義を貫き通せ。歪んだ過去を正しい位置に戻して来い」
 意識が薄れていく。視界がぼやけてきた。
「君が行く過去は、両親が亡くなる一時間前。現在に戻る方法は……まぁ、感覚で分かるよ。では、健闘を祈る!」
 なんだその曖昧な説明は。
 そんな指摘をする間も無く、僕の意識は完全な闇に飲み込まれた。

 真っ暗だった視界にモノクロームの草原が映し出された。鉛筆で描かれた絵の中に閉じ込められたような気分だ。
 視覚以外の感覚は正常にはたらいていないようだ。何の匂いもしないし音も聞こえない。もっとも、視覚も正常にはたらいているとは言えないが。
 視界に少しずつ、じわりじわりと色が付いていく。やはり色は美しい。黒と白だけの世界を見た後だと、色の有り難みがよくわかる。
 やがて全身に感覚が戻ってきた。
「ニコ、もう動けるか?」
「うん」
「なら、下ろしてくれていいぞ」
 気付けば僕は、キースを抱きかかえたまま突っ立っていた。
「親の仇に会うことが、そんなに怖いか?」
「べつに」
「ニコは不安になると、いつも俺を抱く。さっきトンビに乗って飛んだときもそうだ」
 不安になるとキースを抱いてしまう。過度の恐怖を感じると、僕は無意識にキースを抱きしめて自分を安心させる。
 だが今感じている恐怖は、キースを抱きかかえてもまだ拭い切れない。
 夜ごと悪夢にうなされた死の恐怖が、僕のすぐ近くまで迫っている。
「ニコ、俺がいないと生きていけなくなっちまうぞ。いつまでも俺に甘えるなよ」
「さっきまで静かだったのに、よく喋るじゃないか。まさかキースも不安なのか?」
「バカめ……俺の不安は、もっと別のところにある」
 何のことだろう。
 それより、ここはどこだ?
 雲ひとつ無い澄んだ空の下、どこまでも続く草原に僕はいる。
 激しい頭痛が起こるのと同時に、空を染める無数の赤い槍と草の上に倒れ込む両親の姿がフラッシュバックした。
 そうか。あの日と同じだ。
 あの日、両親が死んだときと全く同じ場所にいる。
「ということは……」
 眩暈に耐えながら振り返ると、やはりそこに僕の家があった。父の結界で他の人間には見えないだろうが僕には見える。
 遠くの方から、いろんな色の賑やかなオーラを感じる。たぶん哀しみの町からだ。風も錆びた匂いがしない。まだ廃墟になっていないのだろう。本当に過去に戻ってきたのだ。
 家の中にはまだ父がいるかもしれない。
 会いたい。もう一度、生きている両親に触れたい。
 でもそれはできない。ここにはこの時代の僕がいる。両親にとって今の僕は見知らぬ魔導師だ。未来から来たあなたたちの息子です、なんて言って近づいたら怪しい事この上ない。
 僕にはやるべきことがある。やっと掴んだ復讐のチャンス。失敗は許されない。なんとしても両親の殺害を阻止しなくては。
 そのためにはあの日のことを思い出さなくてはならない。
 鍵を掛けた心の奥の奥から、あの日の記憶を呼び醒ます。

 母と哀しみの町で買い物をして帰る途中だった。この時代の哀しみの町は別の名で呼ばれていたが、僕は知らない。
 町から家までの長い草原。母とふたり、手を繋いで歩く。
 家まであと少し、本当にあと何歩かのところで襲撃された。
 空から無数の赤い槍が降ってきたのだ。母は素早く戦闘の体勢をとり、光の盾を作り出して槍を防ぐ。
「はやく家に、結界の中に入りなさい」
 母は光の盾の中でそう言った。今までに見たことのない怖い顔をしていた。
 僕は全速力で走り家に飛び込んだ。父に知らせると、一瞬で母の所へ消えていた。僕は窓からずっと戦いを見ていた。両親は、黒いローブを着た魔導師の蒼白い顔に傷ひとつつけることすらできないまま、唐突に敗れた。
 ふたりは一瞬体を痙攣させ、糸の切れた操り人形のように崩れ落ちた。ぴくりとも動かないふたりを見て、死んだのだと悟った。
 きっと目に見えない攻撃を受けたのだろう。
 その魔導師は結界に守られた僕の姿を見つけることができずに立ち去り、僕は殺されずに済んだ。
 それからずっと僕は家に篭っていた。外の世界が怖くて。ふたりの死体を沢山の人が取り囲んで泣いていたときも、僕は家でひとり泣いた。
 ひとりでいるのも怖くて、その日の夜、泣きながら絵を描いた。綺麗な瞳をもつ黒猫の絵。魔法で黒猫に命を吹き込み、一緒に暮らそうと決めた。
 黒猫が、孤独な僕を正しい道に進ませる道標となるように。

 黒いローブに蒼白い顔。手掛かりはそれだけだ。でも、どこかで見たことがある気がする。
 そいつを、この時代の僕と母がここを通る前に倒さなくてはならない。
 クロムは、今が両親の死ぬ一時間前だと言っていた。戦闘は十分に満たなかったと思う。すると約五十分後に僕と母がここを通る。それまでに魔導師を見つけ、倒せるだろうか。僕は勝てるだろうか。
「キース、どうしたらいいと思う?」
「お前は最終決戦前に猫にアドバイスもらうのか」
「猫の手も借りたいんだよ。敵がどこにいるかすら分からないんだ」
「俺の推理じゃ、仇は今リリィを尾行してるはずだから町にいるね。跡をつけて家の場所を知り、家族三人皆殺しにする作戦だったんだろうな」
「それなら奴はなぜ家に入った所を襲わないで、こんな家まであと少しの所で攻撃したんだ?」
「リリィとセピアのふたりを相手にするよりひとりずつの方が楽だからだろ。だが結局、セピアも参戦してしまったが」
「でもここで母さんを殺したら、家の場所を知ることはできないよ。僕を脅して場所を吐かせるつもりだったのかな」
「きっとそうさ」
「でも母さんを尾行できるほどの手練れは知らないって、クロムがさっき言ってたよ」
「なら仇は最初からこの場所で待ち伏せしていたことになる。だとすれば犯人は家の場所を知っている奴だ」
「そんなの、クロムしかいないじゃないか」
「クロムは白だ。あ、奴は黒魔導師だけど白っていうのはつまり……」
「犯人じゃないってことだろ。わかってるよ。じゃあ一体誰が……」
 そのとき、目の前の空間が突然歪んだ。
 景色がぐにゃりと溶けたように掻き回され、歪みの中心に黒い亀裂ができた。亀裂は宙を裂き、ガラスが割れるような音を出しながら広がってゆく。
 真っ黒な、宇宙のように広がったその穴が、何かの形に変形していることに気づいた。人間だ。
 それは黒の濃淡だけの状態から徐々に色づき、やがて本物の人間となった。
 僕には分かった。こいつが捜し求めていた「仇」だと。
 仇が顔を上げる。
 その顔を見た僕は言葉を失った。
 その顔は、僕自身だった。ソックリさんなんてレベルではない。僕には双子の兄弟だっていない。
 あれは、もうひとりの僕なのだ。
「……ニコ?」
 キースが沈黙を破る。
 十年前に僕の両親を殺したのは、僕だったのか。もうひとりの僕。そいつは僕とまったく同じ姿をしていたが、放つオーラと傷ひとつ無い綺麗な顔だけは、今の僕と違っていた。あいつは紛れもない黒のオーラを放っている。白のオーラを放つ僕の頬には、キースの引っ掻いた傷がある。
「「どういうことだ?」」
 僕と、目の前の僕の声が重なった。
「奴も僕同様に動揺してるみたいだ」
「ドウヨウにドウヨウ……ふっ」
 キースはニヤニヤ笑っている。
 一体、何が起こっているのだろう。
「俺は、なんとなく分かったよ。事の顛末がな」
「だから笑ってるのか」
「いや違う、ニコのダジャレがツボに入っただけだ。この状況は笑えねェ」
 僕はべつに、駄洒落を言ったつもりは無いのだが。ダジャレ好きの黒猫は僕に笑顔を向けると、次はもう一人の僕に向かって毛を逆立てた。

 この時代の僕と母さんがここを通るまでに奴を倒さなければ。しかし、その仇は僕自身なんだ。僕が僕を倒すという矛盾に頭が爆発しそうなほど混乱している。
 目の前に佇む虚ろな瞳の僕が、魔導書と杖、いや分厚いスケッチブックと細長い鉛筆を取り出した。いつでもスケッチブックに描き込める体勢。あれは僕の戦闘体勢だ。僕も身構える。
「ニコ、あれはもうひとつの人生を送ってきた、もうひとりのお前だ」
「もうひとつの人生?」
「あいつは両親が生きている人生を生きてきたニコだよ。つまり、パラレルワールドで生きていたんだ」
「何を言っているのか、よく分からない」
「時の流れは基本的に一本道だが、枝分かれすることもある。それは過去に戻ったときだ。過去が変われば未来も変わり、もう一本の道ができることがある。ニコ、お前はそのもう一本の方の道を生きてきたんだよ。
 両親の生きる世界で何かがあったニコ、仮に名前を黒ニコとすると奴は、過去に戻り両親を殺害した。一緒に幼いニコを殺せばタイムパラドックスが生じて自分も消えてしまう可能性があるからお前は殺されなかった……そう、幼い頃の自分が死んだら、両親を殺しに行くこともできなくなり、矛盾が生まれるんだ。
 そして幼かったニコは復讐を誓い生き続け、黒ニコと同じルートでこの過去に辿り着いた。今ここはパラレルワールドと結合し、ふたつの世界が交錯しているんだ。
 これからここで起きることは、もうひとつの未来、三本目の道を決める戦いだ。両親は死なずにお前が未来に帰るか、再び両親を殺されてお前も死に、あの黒ニコが未来に戻るかだ」
「未来に帰るのはどちらか一人……おもしろい」
 黒い僕が呟いた。奴にもウィアの声が聞こえているのか。
「なぁ、お前は僕の分身なんだから、僕の苦しみを理解してくれるだろう? だから少し話を聞いてくれよ」
 お前は僕の分身。僕は、コイツの分身なのか。たしかに、コイツは僕より前の世界に生きている。僕は枝分かれした方の世界を生きてきた。僕はオリジナルじゃないのか。
 なら僕は、一体何者なんだろう。
「僕は自分が何者なのか分からず、ずっと悩んでいたんだ。この世界の人間は皆、黒と白に分かれている。だが僕だけはそのふたつが混ざり合っているんだ。黒として生きるべきか、白として生きていくべきなのか分からない。僕は滅茶苦茶混乱したよ。だから僕はその中間を、灰色魔導師として生きていくことを決めたんだ。僕は普通の奴と違った。異質だった。魔法学校に入学すれば同級生に散々イジメられた。人と違うことはこの世界では罪なんだよ。僕はこんな自分を産んだ両親を恨んだ」
「だから殺したのか」
「……僕はまだ殺してないぜ? これから殺すんだ。今こうして、クロムおじさんに頼んで過去に飛ばしてもらえたんだからな。しかしお前の言動から察すると、僕は一度は殺しに成功してるみたいだな」
 なんだか頭が混乱してきた。
 パラレルワールドは僕の世界と同時並行的に存在する。黒い僕が生きてきた世界。僕が生きてきた世界。そしてそのふたつが混ざり合ったこの世界。つまり第三の世界。
 黒い僕は、僕の世界で一度両親を殺している。だが僕も過去に飛んだことで、ここは三つ目のパラレルワールドとなったのか。
「なんで親を殺すためにわざわざ過去へ来たんだ?」
「過去なら両親の魔力がまだ若い。歳をとるごとに魔力は濃くなるからな。過去なら互角に、いや僕が優勢に戦えると踏んだからだよ」
 まさか両親を殺すとは思わないクロムは気軽に黒ニコを過去に送ってしまったのか。何が神の化身だ、ポンコツめ!
「さあ、お喋りはここまでだ。どうやらお前は僕の計画を阻止しに来たようだな。母がここに来る前にお前を殺す」
「僕は死なない。両親も殺させない!」
 今朝と同じ、冷たい風が吹く。しかしそれは黒ニコから吹いてくる。魔力を帯びた風だ。
「厄介なクローンめ……オリジナルは僕だ。僕なんだよ!」
 黒ニコな怒号と同時に、奴のスケッチブックから無数の紅い槍が飛び出した。あの日、襲撃を受けた時と同じ、真っ赤な槍が弧を描きながら降ってくる。あの日は母さんが守ってくれた。僕の攻撃から、僕を守ってくれたんだ。
 あいつはオリジナルで、僕は、クローン?
「僕は、偽物なのか……?」
 一瞬の気の迷いが動きを鈍らせた。
「しっかりしろ、ニコ!」
 咄嗟に槍を躱したが、一本が僕の右足を貫いた。大腿から血が溢れ出す。
「うっ……!」
  ほとんどの槍は外れ、僕の周りに突き刺さっている。キースは離れたところにちょこんと座っていた。無事のようだ。
「リリィのいない今、誰もニコのことを守ってくれないんだぞ!」
「くっ……自分だけ、安全なところに、逃げやがって……」
 激痛のあまり正常な思考ができない。キースにすらうっすら怒りが湧いて来た。
 クソ、なんでこんなことになるんだ。痛い、痛い、痛い。母さん。助けて。助けてくれ……クソ! チクショウ……ブッ殺してやる。
 こんな感情は初めてだ。画用紙を鉛筆で真っ黒に描き殴るような荒々しさ。これが本当の僕なのか。本当の僕は、こんなに残酷なのか。
 僕は、一体何者なんだ。
 あいつの分身? クローン? 偽物?
 僕は、誰だ。
「お前、怒りと混乱でオーラが黒くなってきてるぜ。このまま俺と同化するか。殺す手間が省けて助かるな」
 黒ニコが不愉快な笑みを浮かべている。僕が笑うときも、あんな顔をしているのかな。
「自分を見失うなよニコ。お前はお前だ。お前は誰かの分身なんかじゃない。ずっと一緒にいたこの俺が、そんなこと知ってるさ」
 僕は僕……?
「俺の親友、ニコだろ。お前はオリジナルだよ」
 親友……そうか。今までキースと過ごしてきた時間は確かに存在した。僕の人生は僕のものだ。
「キース、ありがとう」
 間違ってるのはアイツだ。僕が正しい道を作らなければ。必ず、勝つんだ。
「オーラが白に戻ったか……」
「どっちがオリジナルか、ハッキリさせてやる」
 僕は素早くポケットからシャープペンシルを取り出し、黒ニコの顔に狙いを定めてノックボタンを押す。勢いよく超合金の芯が発射される。が、黒ニコは頭を少し傾けただけでそれを躱した。
「我ながらムカつく野郎だ」
 黒ニコは舌打ちすると、再びスケッチブックを開き、素早く何かを書き込んだ。
「喰らえ。石膏固め」
 右足を貫いたままの槍が白く変色し始めた。僕の足をも飲み込み、右足全体を白く染める。そして一瞬熱を帯びた後、右足はガチガチに固まりまったく動かなくなった。だが、そのおかげで血は止まり、右足の間隔と共に痛みも消えた。
 「なんだ、これなら好都合じゃないか」
「ニコ、気をつけろ! 石膏に変化した所は簡単に砕けるぞ!」
「うわっ!」
 バランスが取れずすぐ転んでしまう。石膏になった足にはまったく力が入らない。
 だめだ、立ち上がれない。
 焦る手でリュックからスケッチブックと筆を取り出す。
「無様に地を這う虫みたいだな。お前はもうそこから動けない。袋の鼠だ」
 落ち着け。足なんか動かなくても大丈夫だ。目が見えて手を動かすことさえできれば、絵は描ける。
「そろそろ消えてもらう。僕は一人いれば十分なんだ。二人もいらない」
 黒ニコがスケッチブックの最後のページを僕に向ける。その紙は血に浸したように一面真っ赤に染まっていた。
「具現化素描、エラズモ・ダ・ナルニ・マルス!」
 ふたつの大きな赤い塊がボトッボトッと音を立ててページから零れ落ちた。まるで、紙が二人の赤ん坊を産み落としたかの様だった。
「具現化素描って、僕のと同じ魔法だ」
 ふたつの塊は人の形をして立ち上がる。
「ひねりのない呪文は口にするとダサいよなぁ」
 キースよ、まったくその通りである。
 赤い人間は、ひとりは頭に兜を着けた青年、もうひとりは防具を身に纏い、腰に剣を差した強面の姿をしている。
 二人とも血のように赤くて不気味ではあるが、強そうには見えない。
「僕の最も得意とする魔法だ。デッサンに命を吹き込むことができる。石膏像を具現化してかつての軍神と傭兵を復活させたんだ」
 なるほど、弱そうな理由が分かった。滑稽だ。笑いを隠しきれない。
「なんだそれ。ヘタクソ、形狂ってんだよ」
「は?」
 黒ニコは鳩が豆鉄砲を食ったような顔になる。
「絵は描き手の念が篭るんだよ。その念が強ければ強いほど強力な魔法になる。お前はそんなヘタクソな絵で、僕に勝てると思ったのか?」
 黒ニコのポカンと開いた口から叫び声が上がるのと同時に顔を真っ赤にさせて暴れ出した。
「うわぁぁあ‼︎ うるさい! うるさいうるさい! 俺がヘタクソだと⁉︎ 舐めるなよクソが!」
 奴はスケッチブックを破り捨てて踏みつける。
「僕は普通の奴とは違う存在だった…それは罪だと思っていた。だが僕は絵を描くことで自分という存在を表現できたんだ! そんな僕の絵を、ヘタク……」
「普通とは違う? 普通と違うことが罪だと? この凡人が。そういうこと言う奴に限ってド凡人なんだよ。お前の絵に、個性も何もあったもんじゃない」
「うるせぇぇぇえ‼︎ 黙れ、殺すぞ!」
「我ながら哀れな奴だ。それで両親を逆恨みか」
「……まあいい。どのみち動けないお前には何もできない。死ぬ前に存分に喚けばいい。二人とも、やれ!」
 赤い二体の人形が僕に向かって行進し始めた。
「僕が今まで何もしてこなかったと思うのか?」
 僕もスケッチブックの最後のページを開く。濡れて波打ったページ。この絵は鉛筆で描いたものではない。
「これは今日のために描いてきた絵だ。この絵を描くのに十年かかった。この日のために……お前を倒す、僕の創った生き物」
 復讐の念だけを込めて描いた。
「大いなる二次元の世界より、血の契約を以ってここに呼び出さん。我が憎しみと怒りの化身……出よ、復讐の代行者、アベンジエル!」
 眩い光とともにスケッチブックから飛び出した真っ白な生き物は、翼を羽ばたかせ飛び出した勢いをそのままに、鋭い鉤爪で赤い人形たちを真っ二つに切り裂いた。
 天使のような翼や色とは対照的にその三本指の鉤爪だけはドラゴンのように長く、たった今付着した粘着質の赤い液体を滴らせている。
「一撃で二人を切り裂いただと……ありえない」
「僕はずっと引き篭もって絵を描いて生きてきたんだ。お前なんかの画力に負けるわけが無い。アベンジエルだって魔力を込めた絵の具を涙で少しずつ溶かして描いたんだ。血で描いただけのお前のラクガキとは、レベルが違うんだよ」
「たしかに、デッサン力は天と地の差があるな。猫の俺の目から見ても明らかだ」
「カカカッ……カカカカ」
 電子音とも声ともつかない呻き声を出しながらアベンジエルは翼を広げて黒ニコに向かって突進した。
「クソ、俺のとっておきの魔法をよくも……!」
 黒ニコは落ちているスケッチブックを拾い上げるが、ビリビリに破けた紙には何も描くことができない。そして狼狽している間にアベンジエルに抱きつかれた。
「お前の人生の狂ったパース、僕が直してやるよ」
「何をする……やめろ……やめてくれ!」
 これで終わりだ。合言葉を唱える。
「芸術は!」
 アベンジエルの眼が金色に輝いた。そして、その口で唯一話せる言葉を叫ぶ。
「爆発ダ!」
「やめろぉおおおおおおおお‼︎」
 黒ニコの断末魔の叫びと共にアベンジエルは木っ端微塵に吹っ飛んだ。奴は跡形もなく消え、一筋の煙だけがそこに残った。
「呆気なかったな」
 キースが足元に擦り寄ってくる。石膏じゃない方の足にだ。
「なんで僕の両親は、あんな大して強くもない僕に負けたんだろう」
「セピアとリリィはとても強く、そして賢かった。だから気づいちまったんだろう。未来から来た黒ニコが自分達の子供であることに」
 だから黒ニコを倒せなかったのか。本気を出せば苦もなく勝てただろうに。
 復讐を終えて達成感とは違う、安堵感に包まれた。虚しさは無い。なぜなら僕は僕に勝ったのだから。黒かった過去が白くなったのだ。
「これからニコはふたつの世界が都合良く混ざり合った未来に戻る。自分で切り開いた三つ目の世界だ。そこでは平和が取り戻されていることだろう」
 きっと今まで死んだ人たちもみんな生き返ってるはずだ。なぜなら父さんも母さんも死んでいないんだもの。南大陸はかつてのように栄え、黒魔導師と白魔導師は仲良く、きっと争いの無い世界になっているのだ。なんて素晴らしいんだろう!
「僕がここまで来れたのはキースのおかげだ。ありがとう」
 お礼にサンマの塩焼きでもご馳走しようかと思ったそのとき、キースの体が淡く輝き出していることに気づいた。
「なんだ? 何が起こっているんだ?」
「やっぱりな……」
 キースは悲しそうな顔で言う。
「どうやら俺の不安は的中しちまったみたいだ。俺はセピアとリリィが死んだ日に、ニコが自分自身を守るために創り出したんだ。両親が死ななくなった今、俺は不必要になった。幼い日のニコは俺を創る必要が無くなったんだ。だから俺の存在はもうすぐ消滅する。おそらく未来に戻れば俺の記憶も消えるだろう」
「嘘……だろ?」
 何を言ってるんだ。キースが消える?ずっと二人一緒に生きてきたじゃないか。こんな所にお前を置いて、一人で未来に帰れというのか。
「お前はもう俺がいなくても大丈夫だ。その石膏の足も未来に帰ればきっと元に戻る。ニコ、お前は今朝旅に出たときに比べてすごく成長した。たった一日だがお前は強くなった。ニコは誇り高き白魔導師だ」
 そう言う間にもキースの放つ光は強くなっていく。猫の面影は、もう光のシルエットしか残っていない。黒猫だったのに真っ白な猫のように見える。
「そんな……キースが、いなくなったら、寂しいよ。消えないで、くれよ」
「泣くなよ。俺だって消えたくないさ。もっとニコと一緒に生きたかった……」
 キースが小さな光の粒となって空に昇っていく。涙で視界が歪む。あれは、あの光は魂なのだろうか。
「家族を……大切にな」
 それが彼の最後の言葉だった。キースの光は雲の上まで昇り、完全に見えなくなった。
「キース!」
 慣れ親しんだ名前を呼ぶ。僕の叫びが、彼に聞こえただろうか。
 眠りに入るように、僕の意識も薄れていく。体が勝手に、未来に帰ろうとしているのが分かる。
 瞼がずっしりと重くなり、僕は目を閉じてしまう。
 すぐ近くで足音がした。楽しそうな親子の声。きっと母さんと幼い僕だ。何事もなく、家に帰るのだろう。
 瞼の裏の真っ暗な世界で、今度は遠くから声が聞こえた。
「……ニコが直に帰ってくる頃だ。モーブ、セピアとリリィを呼んでくれ。外はもう真っ暗だ。一人で家に帰らせるのは心配だよ…」
 クロムの声だ。良かった、本当に皆生きているんだ。モーブも僕に殺されずに済んだんだ。
 でも、僕の親友はもういない。キースは消えてしまった。
 でも、きっとまた会えるよね。未来に帰ったら、もう一度君の絵を描くよ。
 僕は描けるだろうか。あのダジャレ好きな黒猫を。
 人は同じ絵を二度と描けない。
 でも僕ならきっと描けるはずだ。今の僕には、できないことなんて無いような気がするんだ。

             fin.
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