キュウカンバ伯爵家のピクルス大佐ですわよ!

紅灯空呼

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【第十三幕】四級女官は王宮を守れるか?

鮭ちゃん、鰯ちゃん、若芽ちゃん

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 窓辺に行き伸ばした手に触れたのは、遮光幕ではなく、やや温かみのある厚い漆黒の段ボール板だった。
 取りも直さず、その黒板をひっ剥がすと、硝子板を通過する日輪の光が眼球壁に刺さってきて、とてつもなく痛い。
 昨夜、フカヒレマートで購入したばかりの時計が衣装棚の上に置いてあるのだが、ちょうど二時を示して停止している。
 原因を調査するべく、ほとんど条件反射的に裏側のカバーを開けてみた。

「まあ!!」

 若い男性店員が、「サービスしときますよ」といって、その場で装着してくれた新品の乾電池が取り外されて、もぬけになっている。

「たれそ、ここへ真夜中に忍び込んできて、悪さして帰ったのだわ。ああっ★わたくし、今それどころでありませんことよ。大変ですわっ!!」

 慌てふためきながらも、シルクのネグリジェを脱ぎ、肌色のパンティ・ストッキングを穿いて、白い女官衣装を着る。清潔な前かけもつけて、最後に靴を履く。
 すると、右の爪先に異物感があり、くちゃりという音も漏れた。
 そちらの靴だけを脱いでみた。甲の先端に、かさかさしている茶色の物質が付着していたので、摘み取って目近で観察した。

「アブラゼミの殻、ですわ。どうしてこんなぁ、く、ぐすっ……」

 途端に、ピクルスの緊張の糸が切れてしまった。
 どうしようもない打撃が胸の内を叩き、悲しみが込み上げてきて、もう大粒の涙が続けて溢れ出るのに、逆らえなかった。
 数秒間泣いていたが、それでもエプロンのポケットから、こちらも購入したばかりの薄緑色に染めてある絹のハンケチを取り出して、涙を拭った。

「わたくし、くじけませんわ。ええ、わたくしは、ううぅ……ぐっ」

 なにかを思考してしまうと、新たな涙の粒が落ちそうになる。それ故に、ぐぐっと堪えなければならない。ここは逸早く身体・精神とも空無になるべきなのだ。
 立ち上がり、もう一度右の靴を履き「化粧魔鏡」の前に立つ。

「ああ、るは自在じざいなる菩薩ぼさついろすなはくうなり、らあめぇーん!」

 発経を終えると、騒がしかった胸の内に穏やかな水が流れ、熱かった目の端に涼やかな風が吹いた。

「ばっちりですわ!」

 すっかり気丈さを取り戻したピクルスの顔面は、いつものナチュラル・メイクで整えられている。

「さあ、急ぎましょう」

 部屋を飛び出し、全速力で駆けた。
 女官たちの食堂に入り、咄嗟に壁の時計を見ると、既に五時五十九分だ。息をつく間も惜しみ、猛烈一直線で、カウンターへ突っ走る。

「焼き鮭定食を購入しますわ!」
「ごめんね、ピクルス大佐ちゃん」
「えっ、売り切れですの!?」
「うん、ちょっと遅かったのよね~。後は、鰯ちゃんだけ」

 料理長のエスプレ‐キンカンヌが愛想笑いを保ちながら、醤油煮鰯定食を指差している。この太った中年女性は、女官たちの名のみならず、どの料理の品も押しなべて、「ちゃんづけ」で呼ぶ。

「それを、頂きますわ」
「そうかい、また次のお楽しみだねえ、鮭ちゃん。あでもね、今朝の汁の実は若芽ちゃんなのよ、好き?」
「シュアー」

 醤油煮鰯を除く朝定食の品は、それぞれ週に一回ずつだ。逃してしまった希少な焼き鮭は、次週まで待たなければならない。
 目覚まし時計を用意して、この朝を楽しみにしていたピクルスは、醤油と砂糖とジンジャーの味が染み込んでいる甘っ辛い鰯の身を口に入れる。またも泣きたくなりながら、ゆるりゆるり何度も噛み砕く。
 他に選択肢のなかった醤油煮鰯定食とて、それはそれで味わいたけなわ、給仕人のチャイルカがきた。ウムラジアン大陸のヴェッポン国が世界に誇る家電製品製造会社「サラッド電器」が製作したロボットだ。

「ピクルスタイサ・ソモサン」
「せっぱ!」
「ロイヤル・オンギュウニュウチャ・イルカ」
「そうですわね、お願いしますわ」
「チャヨウカ・カシコマッタ・シバシ・マタレヨ」
「五分後で、構いませんわ♪」
「ソウ・クルカ」
「シュアー」

 チャイルカは、クルリと方向転換して滑らかな車輪あしどりで厨房へ戻る。ロボットとはいえ朱色の衣装をきている彼女は、三級女官である。
 少しして、ショコレットが向かってきた。手のトレーに載っている食器が跡形もなく空になっていることから、率直に食後だと判明した。

「ご機嫌よう、王宮一の貧相女さん」
「ご機嫌よう、準一級女官さん」
「鰯がお好きですの?」
「それほどでも、ありませんわ」

 ピクルスの浮かない顔を横から眺めて、いつものクルクル髪がここぞとばかりに揺れている。

「ほほほ。私、今朝は焼き鮭定食を頂きましたの。どうかしら?」
「わたくしもそれを所望しましたのに、生憎ながら、売り切れていて……」
「それは残念でしたわねえ。ええ、さぞかし無念でしょうに。――まあ、それはそれとして、時にあなた、今日の芸をもうお決めになって?」
「いいえ、まだですわ。実際どのような趣向が良いのやら、目下皆目、見当見性つきませんもの」
「ほほほ。せいぜい、お悩みになっては?」
「シュアー」

 ショコレットは立ち去った。
 ほどなく、チャイルカによって、王室御用達の温牛乳茶が運ばれてきた。

(ライブラリーに出向いて、いくつか芸能書など紐解きましょう)

 高貴な香りが一抹の不安を消してくれるようで、そのうえ味も抜群だ。
 その紅茶をひとしきり楽しんで終えると、トレーを返せば、直ちに食堂を出るのみとなった。
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