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20巻
20-2
しおりを挟む「――皇国鉄道は本日より、予定していた運行計画を変更し、特別計画へと移行いたします。運休、変更となる車輌につきましては、各駅の発券窓口、相談窓口、各地の皇国鉄道事務所か出張所へお尋ねください。指定券の払い戻し、時間変更などについても対応いたします」
駅係員が、皇国鉄道の紋章が入った拡声機を手に、今朝一番に上司から手渡された案内を読み上げる。
これは皇国鉄道普通職員の若手が最初に経験する業務だ。しっかりした、聞き取りやすい声の出し方は、鉄道職員の基本技能だが、彼はまだその技能に習熟していないようだった。
「えー、今回の摂政殿下御登極に際し、皇国鉄道は臨時列車の運行を決定しておりますが、軍の輸送予定により運休、または運行時刻の変更等が発生する可能性があります。皆様には大変ご迷惑をおかけしますが、ご理解とご協力よろしくお願いいたします」
淡々と己の口から吐き出されていく内容を、彼はそれほど重要だと思ってはいなかった。
よほど情報が乏しい寒村の農民でもないかぎり、この程度の情報はいくらでも手に入る。役場はもちろん、村の顔役あたりにも詳しい日程は伝えられていた。だから、村の有志を募って村名義の祝いの品を献上するなど、ほぼ例外なく、皇国全土で今回の式典に向けての準備が進められている。
鉄道の要地であれば、貸し切りの特別列車を見ない日はない。さらに皇国鉄道――正確には皇国鉄道の運行にも強い影響力のある軍が企画する、皇王家所縁の史跡を辿る団体旅行は、常に定員いっぱい近くまで人を集めていた。
こうした動きは、諸外国も同じだ。
皇国の歴史は古く、また独特である。それに価値を見出す人々は、国内よりも国外の方が多い。
特に今回の式典の場合、婚礼の儀には帝国とイズモから妃が輿入れする。そのため、皇国政府は両国の国民に対する入国査証の審査を一時的に簡素化した。
もともと多かった国外からの旅行者は、それによってさらに増えた。ときを同じくして行われた〝大陸安全保障会議〟所属国同士の入国審査の基準緩和もあり、間違いなく今回の戴冠と婚礼の式典は、史上最大の規模になるだろうと言われていた。
「ちょっとお兄さん、あっちで帝国の団体さんが固まってて困るんだけど……」
「ご迷惑をおかけして申し訳ありません。すぐに対応いたしますので」
「いいえぇ、いいのよ。帝国の方たちってあまり旅行とかしないんでしょう? これでわたしたちのことを好きになってくれたらいいわね」
「そうですね、ご婦人」
温和な表情を浮かべて立ち去る婦人を見送り、若い駅係員は帝国の団体客を相手にするべく歩き出す。
本当にこれで皇国に好意を抱いてくれれば、それに勝る幸運はない。自分と同じように皇国鉄道に勤める兄――今は〈ウィルマグス〉の皇国型駅舎の建設現場で陣頭指揮を執る彼が、無事に家に戻ってくる一助になるだろう。
戦争に戦争を重ね、民たちの間にすら拭いきれない憎しみが存在するふたつの国。
せめて自分たちが理性的に友好を考えられる間に、ふたつの国が友情を育めるように。
帝国の攻撃に巻き込まれて命を落とした父の恨みを、次の世代に持ち込む必要がないように。
◇ ◇ ◇
深い雪に閉ざされた〈アクィタニア王国〉。
この国の民にとって、冬とは停滞の季節だった。
物流は滞り、手紙を出そうものなら返事が来るのは春になってから。一冬を家の中で越す山奥の集落では、毎年必ずひと家族は冷たくなって発見される。
それほどまでに厳しい冬でありながら、王妃リールには今年の王都がどこか活気付いているようにも見えた。
王女が隣国に嫁ぐのだ。
皇国から入り込んできた商会や、帝国本土の商会が、この商機を逃すまいと、婚礼祝福の雰囲気を盛り上げている。
国民の中には暖かな皇国で冬を過ごそうという者たちまでおり、これまでの冬とはまるで違った空気が国中を満たしていた。
例年なら雪によって閉ざされているはずの市には割引価格を掲げた露店が軒を連ね、それを目的にした市民が建前の「王女殿下万歳」を叫びながら財布を取り出す。
また、帝国万歳の幟を掲げて皇国名産品を売っていても、どこから漏れたかわからないようなマティリエの好物だという菓子を売っていても、帝国政府の見解とは異なる皇国との歴史を綴った歴史書が売られているとしても――リールは良いと思っていた。
娘を商売の種にされて怒るほど、彼女の立場は軽くない。個人的な感想はともかくとして、自分の娘が人々に笑顔を与えているのだ。誇りに思うべきだろう。
「裁縫はひと通り教えたから……次は果汁糖でも教えましょうか」
考えていたよりもずいぶん早く嫁ぐことになった娘に、リールは毎日様々なことを教えている。いずれ娘が孫にそれらを伝えられるよう、手書きの手引き書も作っている。
特定の学習機関を持たなかった彼女の一族は、親が子どもたちに技術を伝えてきた。
そのため、鍛冶が得意な家、織物が得意な家、料理が得意な家、狩猟が得意な家、そして政治が得意な家と、ひとつの村で総て事足りるようにできている。
だが、そんな昔ながらの獣人の村はほとんど帝国内に残っていない。大陸最大の獣人の街と言えば、隣国〈アルトデステニア皇国〉にある渓谷都市だ。
過酷な環境だとは聞くが、そこに無理やり押し込められたのではないことは、リールでさえも知っている。
皇国の獣人は、自分たちの能力を最大限に活用できる生活の場を求め、人間が暮らしていくにはあまりに危険で、しかし希少な鉱石が比較的簡単に手に入る場所に、街を作った。
そこでは帝国から逃れた獣人たちと、元からそこに住んでいた皇国の獣人がともに暮らしていると聞く。
元々自分たちも故郷を追われた者だと知っている皇国の獣人らは、帝国の同胞を温かく迎え入れ、皇国の民として生きるために必要なあらゆるものを提供してくれる。
皇国は移民に対して、皇王と皇国の法への恭順を求めるが、それ以外の面についてはほとんど干渉しなかった。皇王に対する恭順も、忠誠を求めるのではなく、自分たちの群れの長として認めろという程度のものであったから、大抵の場合受け入れられた。
それでも納得できない者たちもいないわけではなかったが、皇国の民としての権利をいくらか放棄すれば、少なくとも皇国から追い出されるようなことはない。あとは時間が彼らを懐柔し、皇国へと馴染ませていく。
そうして皇国は多くの移民を受け入れ、皇国の民としてきた。
そんな国だからこそ、リールはまだまだ幼い娘を送り出すことができる。少なくとも、自分が生きてきたこの国よりは生きやすいとわかっているからだ。
そうはいっても、本心としてはあと二年は手元で育てたかった。しかし、このような縁はそうあるものではない。
夫も義妹も認める男など、これから先現れるかどうか。そう考え、リールはこの縁談を積極的に受け入れた。
娘に様々なことを教えたのも、これが娘にとってもっとも幸せな道だと思ったからだ。
「うん、まずは林檎あたりから教えましょう」
リールは尻尾を揺らしながら、王城の廊下を進む。
そうして娘の部屋まであと少し、その扉が見えてきたところで、彼女は足を止めた。
娘の世話係を務める侍女が、困ったような表情を浮かべて扉の前に佇んでいたのだ。
年齢が一番近いこともあって娘と仲が良く、本人の希望もあってともに皇国へ赴くことになっていた。
「エカテ、どうかしたの?」
そう声をかければ、侍女は両手を胸の前で組み、扉とリールの間で視線を彷徨わせた。
どう説明するべきか悩んでいるようだった。
「マティリエは?」
訊かずとも、リールには何が起きたのか、おおよその予想がついていた。
似たような経験が彼女にもあったのだ。
「――お部屋にいらっしゃいますが、布団をかぶって『行きたくない』と」
やはりか、とリールは嘆息した。
群れを作って生きる獣人は、その群れから離れることを本能的に恐れる。
家族や気心の知れた家臣たちと離れることが、マティリエには恐ろしくてたまらないに違いない。
これまでは我慢してきたのだろうが、輿入れが間近に迫り、耐え切れなくなった。リールはそう当たりをつけ、エカテに下がるよう告げる。
「マティリエ」
侍女の姿が廊下の向こうに消えると、リールは扉の前で優しく娘に語りかける。
このようなとき、彼女は怒鳴りつけるような真似はしない。
あと少しで自分から離れていく娘に、怒鳴り声ばかりを聞かせたくはなかった。
「今日はお父様と一緒にお茶をしましょう。マイセルがお勉強で、お父様寂しそうなのよ」
寂しそうというのは、事実だった。
マティリエの弟マイセルも、これを機に皇国へ留学する。つまり、子どもがふたりとも手から離れてしまうのだ。
どれだけ取り繕おうとも、リールにはディトリアの内心が手に取るようにわかる。
あの可愛らしい夫は、家族がいなくなることを心の底から嘆いている。
それを隠す技量があるために、誰もそれに気付かないだけだ。
「――おとうさまが?」
扉の向こうからくぐもった声が聞こえてきた。
布団の下からはみ出した尻尾と、亀のように飛び出した頭。
姿は見えなくとも、そんな娘の姿は簡単に想像できた。
「ええ、そうしたら一緒にお菓子を焼いて、マイセルと一緒におやつね」
「――うん」
我が娘ながら、食べ物にはなんと弱いことか。
一子相伝の蜂蜜菓子も教えなければ――リールはそんなことを思った。
◇ ◇ ◇
雪に閉ざされた静かな夜。マティリエとマイセルの姉弟が同じ寝台で手を繋いで寝入ると、リールは寝台横の椅子に座ったまま、絵本を畳んでふたりの姿をしばらく眺めていた。
時折ぴくりぴくりと耳が動く様を見て、彼女は自分の血が確かにふたりに受け継がれているのだと実感する。
獣人として生まれ、獣人として生き、獣人として死んでいく。
このふたりにはそんな当たり前の人生を歩んでもらいたい。リールは心の底から願っていた。
「眠ったか」
「はい」
静かに扉を開け、姿を見せた夫に、リールは頷く。
ディトリアはリールの肩越しに姉弟の寝姿を見ると、目を細めて微笑む。
かつて、この国を含む帝国総てを手に入れようとしていた男の、小さな小さな、しかし本当に幸せそうな姿。
リールは我が子と夫、それぞれの姿に幸せを噛み締めた。
「よく寝ている」
「ええ。本当に」
警戒心が強い獣人であっても、親の傍らにいる限りは安心して眠ることができる。
子どもたちの安心しきった表情を見れば、ふたりは自分たちの責任を果たしていると胸を張ることができた。
「あまり眺めていても、名残惜しくなるだけだ」
「そうね……」
リールはディトリアに促されて寝室を後にする。
マイセル付きの侍女と執事にその場を任せ、ふたりは自分たちの寝室へと入った。
「皇国へ行っても、ふたりは眠ることができるだろうか」
暖炉の前に座ったディトリアの言葉は、彼の心の奥底から湧き出した言葉だった。子が長い安寧を得られるかどうか。それだけは彼にも確信が持てない。
今、彼が持っている手札の中でもっとも子どもたちの未来が明るいと思える一枚。それを切った以上、これから何ができるというものではない。
だが、その段に至ったからこそ、彼はふつふつと現れる疑問を払拭できないのだ。
彼はできる総てのことをした。
ただ、彼以外の何かが引き起こしたことで、娘に不幸が及ぶ可能性はある。
「いつまでも子どもは子どものままではないから……」
「しかし、親はいつまでも親のままだ。なんとも不公平なことではないか」
ディトリアは暖炉に薪を放り込むと、鉤棒で火を整える。ちらちらと舞う火の粉が、彼の視界の中で躍る。
「私は――俺は、自分が許せる限り妥協した。娘の嫁ぎ先として一番相応しい家を選んだし、息子の留学先としても皇国以上の場所はない」
「そうね、あなたは頑張った」
リールはいつになく饒舌な夫の姿に、もしかしたら酒でも入っているのかもしれないと思った。
ディトリアは日頃酒を嗜むことはないが、時折昔のように飲むことはある。
「もしもわたくしがあなたの立場でも、同じ決断を下したでしょう。あなたは間違っていない。わたくしが保証するわ」
リールは知っている。
彼女と出会う前のディトリアが持っておらず、今の彼が後生大事に抱えているもの、弱さと呼ばれるそれを。
「大陸の動きだけを考えるなら、戦争などそうそう起きるものではない。父も莫迦ではないし、妹たちもそうだ」
しかし、それ以外の要素がこの大陸の未来に絡みついてきた。
「我国と皇国の間には、覆しようのない戦力差がある。〈皇剣〉があっても、龍族がいても、それは変わらない。皇国は戦闘には勝てるが、戦争には勝てない国だ」
「占領統治ができないから?」
リールは、もはや帝国の知識階級で常識となりつつある説を口にした。
皇国は強力な軍を持っているが、それはあくまでも一時的な戦闘に限られる。〈ウィルマグス〉の件を見ればわかるように、皇国に帝国本土を深く斬り裂く力はないのだ。
せいぜいが、皮一枚を剥ぎ取るぐらいだろう。
「皇国がその気になれば、帝都を陥とすことは難しくない。他のどんな都市でも同じだ。しかし、それは限られた戦力を全力で叩きつけるからこそ」
そして陥落させたところで、彼らにそれを占領維持する能力はない。
補給など、あとが続かないのだ。
「だから、俺は皇国との戦争も限定的なものだと思ってきた。それがどうだ、他大陸からの干渉で妹たちがろくでもないことを考えはじめている。父の健康状態が思わしくないのも、気になる」
「婿殿も同じように考えている?」
リールは隣国の皇太子を婿と呼ぶ。それが、彼女なりのけじめであった。
「もっと先を見ているかもしれんな。――つくづく、俺の矜持を満足させるいい婿だ」
「『父としての最大の意地、最後の愛、最高の矜持』だったかしら? 自分よりも優れた男に娘をくれてやる、随分と大きなことを言うようになったわね」
「婿に求めるものはな、娘への責任と愛情に比例するんだ。マティリエが幸せになれる相手、幸せを与えられる相手、そんな男を見つけ、預ける。花嫁の父としての最大の仕事だ」
「本当、変わったわ、あなた」
結婚する前のディトリアなら、娘を道具として扱っていた。
しかし今の彼には、そんな考えは欠片もない。
「マティリエが幸せになること、これがもっとも多くの者を幸せにすることになる。違うか?」
リールは夫の質問に答えなかった。
ただ、そうであってほしいとは思った。
「我国とイズモ、両国が他の妃に較べて一歩劣る妃を用意したこと。婿殿は気付いていると思う?」
「気付いているに決まっている。獣人で、現在決まっている妃の中でもっとも幼いマティリエに、神混じりの全盲の姫。マティリエがあとふたつも年かさで、イズモの姫が健やかであったなら、皇国はこの話を受けなかっただろうさ」
結局のところ、本人たちの思惑とは別に、このふたつの国からの輿入れは人質以上のものではないと見られている。
失っても惜しくない程度の者を送り込んでいるのだと、世間の大半ではそう認識されているのだ。
それは、ディトリアの望む通りのことでもあった。
「下手に藪をつついて龍を出すこともない」
「藪をつつくのはマティリエよ」
「だったならなおさらだ。あの子は獣に好かれるからな」
ディトリアは、自分と婿が同じ考えを抱いていることについて、疑問を感じたことはない。
それどころか、思考の中で会話をしているような気分にさえなる。
ディトリアが何も言わなくとも、また相手が何も言わずとも、先の動きが完全に理解できる。
不思議な感覚だった。
「俺は帝王の器だったかもしれないが、これからの世界ではそれ以上の器が必要になる」
「またそんなこと……」
マティリエの輿入れが決まってから、ディトリアがよく口にするようになった言葉だ。
まるで自分に言い聞かせているようにも感じ、リールは苦笑を隠せない。
「じゃあ、婿殿の宰相にでもなる?」
「いいな、それは」
ディトリアは妻の冗談を聞き、笑顔で頷いた。
そうなったらさぞ面白いだろう。世界を狙ってみるというのも悪くない。
「婿殿に会ってみたら、聞いてみようか」
――ディトリアの言葉は、果たされることはなかった。
◇ ◇ ◇
レイヴン・ゲート・ガリウエドが皇都入りしたのは、他の西域諸国の君主のいずれよりも早かった。
かつてともに轡を並べた戦友の結婚となれば、真っ先に祝うのがマルドゥク戦士の誉れであるとは、彼に同行した報道官が記者たちに語った言葉である。
しかしその本心は、まったく別のところにあった――
「ううむ、首都の要塞化とはここまでやれるものなのか。参考にするにしても、あまりにも規模が違いすぎるぞ」
レイヴンは客室としてあがわれた皇城の一室から皇都を眺め、さらに部屋の中に置かれている要塞都市皇都の分解模型を熱心に見詰めている。
彼の姿はまるで玩具を前にした子どもだが、心中にあるのは幼い子どもじみた無垢な好奇心ではなく、より純粋化された戦意だった。
このような都市があれば、別の戦い方ができる。
もしも自分の国でこれに似た都市が造れるとしたら、敵軍を首都近郊にまで誘引、各地に隠蔽していた軍と要塞首都による挟撃が可能になる。
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「ううむ、やはり何か手土産の一つも欲しい」
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レクティファールは、レイヴンが本気で国土の要塞化を企図していることに気付き、誤魔化すように手を振って革椅子へと腰を下ろした。
客人を迎える態度としてはあまり誉められたものではないが、レイヴンという男はそうした畏まった挨拶を好まない。
必要な話をできるだけ手短に済ませることを選ぶ男なのだ。
「何十年とかかる話だ。研究をしたいというなら、技術者を貸すことはできる。だが、それ以上はなんとも言えない」
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