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14巻
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しおりを挟むそもそも空中騎士連隊とは、有翼人種の国である〈マルドゥク王国〉で花形とされている部隊であり、軍の中核をなす部隊である。
専用に開発された軽量魔動式甲冑を纏い、複数の術式を組み込んだ突撃槍を抱えて、敵の頭上から急降下攻撃を行う空中騎士。彼らは、上空警戒の天馬部隊や一角馬部隊の援護があれば、堅牢な装甲で守られた自動人形さえ一方的に撃破できる――と軍の高官は嘯いている。だが、実際に空中騎士を率いている者たちや空中騎士自身は、自分たちが大空の中でもっとも脆弱な生き物であると自覚していた。
大地の上で、人間種や力なき混血種が、竜種や獣人、幻想種といった種族に劣っているように、有翼人は空に生きるものの中で最も劣弱だった。
爪も牙もなく、魔力を扱う技術に突出しているわけでもない。飛行速度では小鳥に勝る程度、昇れる高度は世界で最も高き山の頂に届かず、夜目が利くのは一部の部族のみ。
結局のところ、地上に向けての降下突撃以外で、有翼人が他の種族に優越する手段がなかったというのが偽らざる現実である。
様々な技術革新によって、有翼人の扱える魔動式甲冑が実用化され、魔導武具が生み出され、非力な彼らでも一定以上の攻撃能力が得られるまで、彼らの任務といえば空からの偵察が主であった。
今でも有翼人の偵察部隊の練度が高いのは、その頃に得た技術や経験が活かされているからに他ならない。
〈マルドゥク王国〉の栄えある空中騎士連隊――人々の抱く幻想を守り抜くため、彼らは指揮官から一兵卒に至るまで生え抜きの精鋭で構成されている。
貴重な精鋭であるが故に、戦線に占める彼らの重要性は高い。最前線の後方に予備機動戦力として存在するだけで、帝国の動きを制限することができるのだ。アントニオがいる〈ライデ・シルブ〉は、そのために作られた基地であった。
〈ボルデ・シルブ〉も同様の役割を担っているのだが、アントニオの同窓であるヴィッツ・ハルケン大佐は、連隊を連れてそこを離れ、王都に向かっているというのである。
アントニオとヴィッツは士官学校時代からの仲で、家族ぐるみの付き合いがあり、息子同士も友人だ。それだけに、アントニオは親友の行動が信じられなかった。
「帝国がこれを機に動かないとも限らん。前線に警戒を促せ」
アントニオは辛うじてそれだけを部下に命じた。
前線も自分と同じ情報を得ているのなら、すでに厳戒態勢が敷かれているはずだ。
東方での敗北が影響しているのか、現在のところ帝国の動きは鈍い。しかし、これからもそうであるとは考えられない。
部下も同じことを考えていたのだろう、すぐに彼の知りたかったことを報告した。
「擬装撤退と思われているのか、現在のところ、帝国軍に動きは見られません。前線では帝国軍の動きについて意見が分かれているようですが、現状を維持するということでは一致しています」
ただ、と部下は言った。
「前線の部隊の中にも、王都に向かう部隊が現れているようです。この動きについては、全く情報がありません。司令部が慌ててその意図を問い質したところ、本営からの命令であると答えたとか」
「本営だと?」
アントニオは、現在の王都が一部の軍人貴族によって制圧されていることを知っている。
彼自身は、そんな軍事政権側に賛同するつもりも排撃するつもりもなかった。本来、自分たち軍人が政治に口を挟むことは厳に慎むべきであり、たとえ同僚が禁を破ったからといって、自分たちも同じ行動を取る免罪符にはならない。
自分たちの任務は、正規の命令系統で受けたものであり、撤回されていない以上はそれに従うべきだと思った。
そういった態度を日和見だと言う者がいることは知っている。
軍人ならば王都の逆賊を討つべきだと。
しかし、軍人が誰それを逆賊などと断じてしまえば、秩序の崩壊を加速させるだけだ。大きな力を持っているからこそ、己を律する必要がある。
(ヴィッツも、同じように本営からの命令を受け取ったとでも言うのか? 軍事政権側のやり方をあれほど嫌っていたアイツが?)
アントニオは、親友が王都にいる連中を心底嫌っていたことを知っている。
最前線の守りという重要な役目を負っていることもあり、直接的な行動に出ることはなかったが、間違いなく軍事政権側の命令に従うような性格ではない。
(討伐軍というわけでもあるまいし、アイツが素直に命令に従う相手が中央にいるのか?)
アントニオは大きく息を吐き出し、両目を覆い隠すようにしてこめかみを揉む。
ヴィッツが何を考えているのかは分からないが、自分がすべきことは何ら変わらないのだ。
公にはされていないが、前線部隊にも軍事政権側と心を同じくする者たちがいることは確認されている。
軍事政権側も――むしろ彼らの方が、国外にいる正統政府よりもよほど前線の現状を知っているため、戦線崩壊の危険がある部隊から兵力を引き抜くことなどあり得ないのは、容易に想像できた。
それらの理由から、前線部隊では軍事政権側と接触している部隊を内偵するのみに留めていた。
また、正統政府からも軍事政権からも、前線部隊には「国境警備任務を継続せよ」という命令しか届いていない。どちらの命令に従っても、他方の命令に反することはないのだ。
前線のことだけではない。正統政府は軍事政権そのものの扱いに関して慎重になっている。
かつて正統政府の大半を占めていた「逆賊討つべし」という考えはいつの間にやら姿を消し、首班であるパトゥーリア王子の周辺には、軍事政権を帰順させる方が得策であると唱える者が増えた。
何が起きたのか、答えはひとつだ。
軍事政権へ密かに手を差しのべている〈アルトデステニア皇国〉からの働きかけが、形になりはじめたのである。
彼らは、王国の状況を改めて正統政府に忠告し、迂闊に軍事政権の力を弱めることは帝国に利すると囁いた。
正統政府の重鎮たちも、自分たちの権力基盤が王国内部にあることは理解している。万が一にも帝国が王国に侵攻し、権力基盤を破壊した場合、自分たちが大きな損害を被ってしまうこともだ。
皇国は、そんな彼らの不安を大いに煽る。
軍事政権を打倒するのはいいだろう。しかしそのあと、王国の軍勢を誰が纏めるというのだ?――少しでも先が見える者ならば、軍事政権が王国自体を人質に取っているという現状を理解できるはずだ。
そして正直なところ、正統政府に協力している〈アルストロメリア民主連邦〉も、軍事政権の打倒を望んでいるわけではない。軍事政権が軍内部で一定の支持を受けていることは把握しているし、積極的に支持を表明していなくても、心情的には軍事政権に近いという軍高官も少なくない。
市民の間でも、軍事政権を認める者は増えた。
なぜなら、皇国が背後にいるとしても、軍事政権の統治は以前の王統政府時代と同じか、それ以上の水準にあるのだ。
市民が軍事政権を認めるようになっても不思議はない。
皇国資本が軍事政権の許可を得て〈マルドゥク王国〉の市場へと参入するようになったことで、他国や国内の商会も、軍事政権下での商取引に不安を感じなくなったらしい。〈マルドゥク王国〉国内での経済循環はほぼ以前の水準に戻り、市民が軍事政権に不満を抱く理由のひとつは、完全に排除されたと言って間違いない。
武力による政権奪取は、確かに他国の警戒心を煽ったが、彼らは武力のみで政権を奪ったわけではない。彼らの背後には旧体制に不満を持つ官僚や貴族、商会などの存在があった。そうでなければ、あれほど簡単に首都を掌握できなかったし、今に至るまで占領地域を維持することもできなかっただろう。
現状を整理してみると、正統政府が軍事政権を打倒する名分は王家の名ひとつであり、確かにそれは名分にはなるのだが、利益にはならないのである。
アントニオは、そんな状況を良く理解していた。
「〈ボルデ・シルブ〉の兵で前線から移動したのは?」
「予備部隊が幾つか。ただ、最後方の予備部隊でしたので、大きな影響はなかったようです」
無論、全く問題がないということはないだろう。
王国の兵力には限界があり、最前線は常にぎりぎりの兵力によって支えられていた。帝国側の兵力が減っている状態でなければ、とても許容できる状況ではない。
「クソ、最近ろくなことがない」
アントニオは机の上に置いてあった保湿箱を開き、そこから葉巻を一本取り出した。軍事政権が王都を制圧してから、とみに消費が増えたものがこれだった。
酒は判断力が鈍るため飲むことができず、結局葉巻に逃げるしかない。
「あ、すぐに火を……」
「いらん」
部下が慌てて点火器を探す素振りを見せると、アントニオはそれを制して、引き出しにあった油式点火器で火を点けた。
紫煙を吐き、苛立たしげに机の天板を指で叩く。
背中の翼が不機嫌そうに揺れ、眉間には何本もの深い皺が刻まれた。
(連邦の犬に成り下がった正統政府は論外だが、周辺国との関わりを考えれば、軍事政権も当てにならん。皇国も軍事政権を表立って認めたわけじゃない)
対帝国の障壁としてのマルドゥクの重要性を理解している幾つかの国は、軍事政権下にある現状でもある程度変わらない付き合いをしている。
生活物資の流通が滞っていることはないし、商業もそれなりに円滑に回っている。正統政府が軍事政権を批判して各国に経済制裁を求めたこともあったが、結局は連邦に近い一部の国が実行したのみで、今ではその国々ですら禁輸などの処置を中止している。
皇国やイズモ、都市同盟が禁輸措置を取らなかったため、かえって自分たちの首を絞めることになってしまったのだ。
正統政府にとって業腹なのは間違いない。口を開けば皇国を非難するのも無理からぬことだ。
(だが、この大陸で帝国に相対している以上、皇国との間に亀裂を生じさせることは避けなければならない)
それは連邦も同じらしく、皇国嫌いの最右翼である正統政府首班のパトゥーリア王子を表に出すことが少なくなっている。王子は、自分の意見を曲げて他者の機嫌を窺うという腹芸が全くできないのだ。
(分かっているんだ。今のままでは、そう遠くない未来にこの国は立ちいかなくなる)
同じような危機感を抱いている人々は多い。
彼らは貴族、平民といった身分、政治家や軍人、商人といった職業に区別されることなく、自国の現状を憂えている。
武力による政変を起こした者たちも、元々はそうした人々だった。
(そもそもの始まりは、やはり皇国だったな)
皇国の皇王崩御に端を発した騒動は、西域にも波及した。
皇国の混乱によって、大陸の流通網に僅かながら影響が出たのだ。ただそれ自体は、悪影響を最小限に留めようという努力が皇国内部で行われたおかげで、さほど大きな問題を引き起こすことはなかった。
しかし当時の王国政府は、商業活動の鈍化による税収の減少を殊更大きく喧伝し、臨時の増税を実行してしまう。見る者が見れば、それが単なる口実であり、臨時増税の大義名分に利用しただけなのは明らかだった。
確かに、当時王国は皇女グロリエ率いる帝国軍の大攻勢によって疲弊していた。軍を支えるために税を引き上げる必要があったのも確かだ。
だが、多くの若者を帝国との戦いで喪い、同時に経済的打撃も受けた王国の民に、政府の行動を許容する余裕はなかった。
ここに至るまでも、王国政府は幾つもの失政を積み重ねており、今回の件はそれがついに爆発してしまったという面があるのかもしれない。
帝国との戦いが一応の安定期にあったここ二十年ほど、王族は享楽に耽り、貴族は国家体制を蚕食していた。
国の体力が衰えていたのだ。
そこに、政府が止めを刺した。
(軍の中から呼応者が出たのも仕方がない)
軍費を賄うために、軍人年金の削減なども議論されていた時期だ。自分たちは命を捨てて国を守っているというのに、国の方が自分たちを裏切ろうとしている。そう考えても無理はない。
アントニオ自身、酒の席で愚痴を零したこともあった。
(あいつも同じだった)
友人であるヴィッツも、政府の方針に憤っていた。特にアントニオは父も軍人だ。彼は戦いの中で片翼を失い、今は国からの年金で暮らしている。
軍人として国に身を捧げることに疑問はない。しかし、その国が間違っていたら、自分たちの行動は果たして正しいのか。
(俺たちは、国民を虐げるために戦っているんじゃない)
国民も、軍の実情はよく知っている。だから、軍人たちは尊敬を集めているし、新たに軍に志願する若者が減っているという話も聞かない。
ともに苦しい時期を乗り越えようという意志が国民の中に存在したのは間違いない。それを、政府が踏みにじってしまったのである。
「――おい」
アントニオは苦虫を何匹も噛み潰したような表情を浮かべ、部下を呼んだ。
「は……」
部下は若干怯える素振りを見せたが、すぐに背筋を伸ばして答える。
「王都の方では大した動きはないんだな?」
「現時点で情報は入っておりません。補給物資なども概ね予定通りに到着しております」
「そうか……」
どんな戦場であろうとも、中央から策源地までの補給が滞った時点で破綻する点は変わらない。
アントニオは大きく煙を吸い込み、気に入っていたはずの煙草の味に苛立った。
(連邦も皇国も、部外者の身で人の故郷をいいように弄びやがって……!)
一軍人として客観的に見れば、そのどちらの国もそれなりに信用できる。
しかし一個人としてなら、自分の大切な故郷を好き勝手に切り分けようとしているとしか思えない。
(だが、俺たちにはどちらも必要だと来た!)
帝国の圧力を分散するためには、大陸の有力国家が帝国と敵対している状況が望ましい。〈マルドゥク王国〉単独で帝国と相対することなど不可能に近いのだ。
現在帝国は、皇国との戦いで蒙った被害に加え、国内で帝王位を巡る争いが激化していることもあり、軍の動きが鈍化している。
前線からの部隊移動は、それを見越しているからだろうが、だからといって今こんな危険を冒す理由が分からない。
アントニオが見たところ、正統政府はそう遠くない未来に、連邦と皇国の二大国間の取引によって軍事政権と和解することになる。
連邦の目的は海を得ることであり、皇国は西域が安定した皇国経済の受け皿であり続ければいいと考えているはずだ。目的さえ達せられるなら、両国はどちらが政権を担おうと構わない。
至極真っ当で、誠実な結論だ。
両国の政府が責任を負うべきは、自らの国の民と政体と法に対してのみであり、他国というのは自国の利益を構成するひとつの外的要因に過ぎない。
皇国は他の国に較べていささか人のよすぎる外交をするが、それも自国の利益の確保が大前提である。国益のために他国の利益を保護し、自国の商会のために他国の商人を保護し、自国の民のために他国の民を守る。前提が崩れることはない。
「どいつもこいつも好き勝手に動き回りやがって」
吐き捨てるようなアントニオの言葉に、部下が憐憫とも取れる眼差しを向ける。
国の現状を憂えても、目の前に敵がいるならば、そこから目を離すわけにはいかない。
幾重にも作り上げられた防衛線を維持することが、現在の彼らの役目であるのは明白だ。ここを突破されることは国土防衛上、致命的な結果をもたらす。
「くそ」
アントニオは頭に鋭い痛みを感じた。
敵と味方が判別できない状況というのは、軍人にとってもっとも馴染み深く、しかし精神的重圧を感じるものである。
前方にいる帝国軍は間違いなく敵だが、隣や背後にいる味方が本当に信頼に足るかどうかが分からない。国が割れている現状では、同じ命令系統に属しているとも確信できないのである。
「おい、念のために先任伍長に兵たちの様子を確認させろ。俺は部下を疑いたくない」
「はっ」
部下はそれを命令として受け取り、敬礼して踵を返す。
退室する部下を見送り、アントニオは机の上に伏せてあった写真立てを手に取った。
写っているのは、アントニオとヴィッツの家族である。
ともに行楽地に出掛けた際に撮ったものだ。
肩を組み、満面の笑みを浮かべている自分と友人。その顔を見詰め、アントニオは独語する。
「貴様が、国は裏切っても家族は裏切らないことは分かっている。一年後、十年後、貴様の行動が正しかったと評価されても俺は驚かない」
戦場での野性的な勘は、ヴィッツの方が遥かに優れていた。
状況を一変させるだけの閃きを見せたことも、一度や二度ではない。
おそらく今回の行動も、ヴィッツなりに成算があってのことだろう。
少なくとも、家族に迷惑がかかるような真似はしないはずだ。
「――――」
アントニオは再び写真立てを伏せ、天井を仰ぎ見た。
安普請の司令部らしく、構造材が剥き出しになっている。
「そういえば、この建物も皇国の商会が売り込んできたものだったな」
有事の際に、現地に仮設司令部を建てることは珍しくない。移動しやすいようにと簡易天幕で済ませることもあれば、ある程度の期間使用することを考えて、それなりの耐久性を持たせた建物を造ることもある。
(適当な布の天幕や、そこらの納屋を借りるなんて考えはもう古いんだろうな)
アントニオは眉間を揉みながら、自分が士官候補生だった頃の光景を思い出す。
当時の軍は、宿営地の設営の際にみすぼらしい天幕を使うか、宿営地近くにある農家の納屋や軒先を借りるのが当たり前だった。
行軍訓練の中でもそうしたことは当たり前のように行われ、揉め事が起きたときもある。納屋に置いてあった農機具を盗んだり、近くに住む農家の娘を攫ってきて乱暴するなどという行為もあった。
当然、それらの行為は許されるものではない。しかし、政府の怠慢が軍の現場にまで波及していた時期が確かに存在したのだ。
(誰も彼もが責任から逃げ惑った時代か)
それでも、アントニオが士官候補生であった頃は比較的『まし』になっていた。
王家からも国民からも絶対的な信頼を寄せられていたひとりの将軍が軍を率いており、その人物によって綱紀粛正が行われたのだ。
それ以前の時代なら、軍は山賊よりも多少上等、といった程度の武装集団でしかなかった。一部の精鋭を除けば、無頼者に軍服を着せただけという有様で、彼らを如何にして軍という体裁に纏めるか、誰もが四苦八苦していたのである。
そうした意味では、アントニオたちの世代の将校は幸せだ。
部下は軍の改革が行われたあとに入営した者が大半で、以前からいる老練な下士官たちも選りすぐりのまともな連中だったからだ。
しかし、軍の改革が行われても、政府の改革は全くと言って良いほど進まなかった。
貴族が幅を利かせており、彼らの過半が己の権利を守ることに汲々としていた。心ある貴族たちは、そんな状況をどうにか変えようとしていたようだが、彼らが頼るべき王家自身が、鍍金の社稷を象徴する存在に成り下がっていた。
(ツケで放蕩の限りを尽くし、その結果がこれか)
翼ある者の誉れであるはずの空中騎士団も、今は張り子の虎だ。
部隊の練度は低くない。だが、それを運用するための諸々の条件が厳しいのだ。軍の部隊とは、精鋭であればあるほど、行動に必要な予算や物資が多くなる。
膨大な時間を使って訓練を施し、莫大な予算を投じて装備を整える。
軍において何が『無駄』な予算であるかを見極めるのは難しい。必要がないように見えても、練度を維持するためには不可欠なことも多々あった。
予算を縮小して訓練時間を一週間削ったとしたら、同じだけの練度に戻すために一ヶ月必要になり、削減前と同じだけの成果を出すには、二倍の兵力が必要になるということもあり得る。
軍ほど現状維持に多くの金が必要になる組織はないかもしれない。
しかし、それを理解している者は恐ろしく少ない。
「どちらでも構わないが、ここが最前線の国であることを忘れてくれるなよ」
疲れ切った様子で深く息を吐くアントニオ。
だが、彼の苦労はこれだけでは終わらなかった。
「連隊長!」
突然、部屋の扉がけたたましく殴打される。衝撃で天井から落ちてきた埃がアントニオの顔に掛かった。彼はそれを苛立たしげに払い、返答する。
「何だ!」
怒声そのものといった声だが、扉を開けた先ほどとは別の部下に、上官の機嫌を窺う余裕はなかった。
「ハルケン大佐がお見えです!」
「――!?」
このときアントニオを襲った驚きは、妻から妊娠を告げられたときよりも遥かに大きなものだった。手に持っていた煙草を膝に落とし、その熱で飛び上がるまで、彼は大きく目を見開いて硬直していた。
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