白の皇国物語

白沢戌亥

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13巻

13-3

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 結局真実は分からなかったが、仮にあの機人参謀の想い人が摂政であるなら、それなりの苦労を伴う恋愛となるだろう。苦労のない恋愛が存在するかは別として。
 ヘスティは、果たして自分はどうだろうかと思った。
 そもそもそんなことを考えていていいのだろうか、レクトにはタキリという決まった相手がいるのではないか、と悩むこともあった。だが、弟のリヴィに言わせれば「周囲の目を気にしすぎ。横恋慕よこれんぼだと気にする方が失礼」というものらしい。
 こと恋愛観に関して言えば、この国はあまりにも大らかだった。
 多種族が暮らすために固有の恋愛観は生まれず、それどころか貞操ていそう観念も他の国とは大きく異なる。嫁取り婿むこ取り、嫁盗み婿むこ盗み、戦って殺し合って自分の愛情を貫くことさえ許容する国なのだ。
 この国の恋愛に関するしばりなど、「無関係の人々には迷惑を掛けるな」程度のものでしかない。それ以上は種族古来の恋愛事情を制限するものとなり、個々の種族の存続にも影響を与えるからだ。
 だからこそ、リヴィも姉の子どもじみた色恋沙汰ざたに口を挟まない。挟むとすれば、妙に遠慮がちな姉に発破はっぱを掛けるぐらいだ。

「リヴィもいつの間に婚約者なんて……」

 この出張の直前、リヴィから特機研の事務員だった女性と結婚するつもりだと告げられた。ヘスティもその女性とは毎朝顔を合わせ、挨拶あいさつを交わす仲だった。
 しかし、弟と付き合っていることも、結婚まで話が進んでいたことも、知らなかった。だというのに、上司や同僚たちはそれを知っていた。
 知っていたというよりも、当たり前のように理解していたと言うべきだろうか。
 この事実はヘスティを大いにへこませた。そして、そんなリヴィがさっさと手紙でも何でもいいからレクト・ハルベルンとのやりとりを続けろと言ったのだ。いつまでも好きなことばかりをやっていられるほど子どもではない。自分よりも大人なリヴィの言葉はヘスティを再び落ち込ませたが、納得もできた。
 だからこそ、こうして手紙を書いている。
 特に書くべきこともないのではないかと考えもしたが、実際に書きはじめてしまえば、いくらでも書きたいことが出てきた。
 自分の近況だけではなく、当たり前のように相手の近況をたずね、相手の体調を心配しているのだから、ヘスティもそれなりに成長しているのだろう。
 それに対するレクティファールの返事は当たりさわりのない内容ばかりだったが、ヘスティはそれでも満足だった。
 相手からの手紙を読むたび、自分がまるで物語の主人公になったかのような気持ちになる。文字の中にいるのは自分と相手だけで、やりとりに登場する他の存在はあくまでも引き立て役に過ぎない。
 そんなことを考えてしまうこと自体が彼女の幼さだが、大人の持つ幼さすべてが害悪というわけではないのである。

「んーと、他には何かあったかな」

 そうして振り向くと、凍り付いた窓の外には、識別灯をけた施設が並んでいる。
 時折聞こえる轟音ごうおんは、軍用車輌しゃりょうの機関音や屋外設置された魔導炉の駆動音だ。そこに混じるようにして自動人形の足音や、人の声が聞こえてくる。
 ヘスティは立ち上がると窓に近付き、窓硝子ガラスに手を触れた。

「冷たい……」

 突き刺すような冷気が、てのひらを通して体内の熱を消していく。
 暗い窓に映る自分の顔を見て、ヘスティは笑った。

「変な顔」

 化粧けしょうなどほとんどせず、手入れもしてこなかったが、ここ最近はそういったことにも気を遣うようになった。それが可笑おかしく、同時に新鮮だった。

「髪、切ろうかな」

 前髪を手に取り、くるくると指先で回す。
 ただ、誰に会うというわけでもないのにめかし込む必要性があるかどうかは疑問だ。
 この地には仕事のために訪れているのであり、それ以上の意味はない。しかし、諸外国の駐在武官を招いての性能試験ともなれば、それなりの姿格好をしなければならないだろう。
 仕方がないとヘスティはひとつうなずき、時間を作って髪を整えることにした。今の自分は特機研の代表なのだ。

「施設の美容室って何時からだっけ」

 寝台の下に頭を突っ込み、各施設の案内しおりを探しながら、ヘスティは笑みを浮かべていた。研究以外のものに目を向けるようになった自分が可笑おかしく、しかし心地よかった。


         ◇ ◇ ◇


 巨大な鉄の箱が時速二〇〇キロメイテルという高速で疾駆しっくする。
 動八号車輌しゃりょうという形式名が与えられた皇国鉄道の魔導機関車は、四〇両という長大な編成の列車をたった二輌で運ぶ能力を持っていた。
 車輌しゃりょう下部から時折、魔素の残滓ざんしが水蒸気とともに噴き出している。
 その魔素が周囲の魔物を遠ざけ、鉄路の安全を確保する。魔物が嫌厭けんえんする魔素残滓ざんしを放出するようになってから、鉄道での魔物との接触事故は大きく減った。
 もっとも、現在の車輌しゃりょうの強度からすれば、たとえ接触したとしても、ぶつかった魔物が吹き飛ぶだけで、車輌しゃりょうにはほとんど損傷がないのだが。

「――殿下」

 北へ向かう車輌しゃりょうの個室。
 品の良い調度品で固められた一等客室で、タキリ・イチモンジはこぶしを震わせていた。
 原因は、彼女の太ももを枕にして書類を読んでいる男である。

「何か?」

 レクティファール・ルイツ=ロルド・エルヴィッヒ。この国の摂政だ。
 彼は上着を脱いだ襯衣しんい姿のまま、資料として渡された各国駐在武官の調査報告書を読んでいる――タキリの膝枕ひざまくらで。

「何か、ではありません。何故なぜこのような姿勢で……」

 侍従武官補じじゅうぶかんほとして行啓ぎょうけいに同行するのは構わない。これが初めてのことでもないからだ。
 だが、自分の太ももを枕にして良いとは言っていない。たとえそれが誰になじられることのない行動だとしても、タキリ自身が納得していない。

「マリアが、やっておけば万事問題ないと言うので」
「なっ!?」

 驚愕きょうがくの声を上げるタキリに、レクティファールは続ける。

「嫌ならはっきり断る。でも良くても良いとは言わない。マリアが、タキリはそんな性格なので膝枕ひざまくらさせちゃうくらいの強引な接し方でちょうど良いんじゃないかと」
「いえ……でもそれは……」

 別段、嫌というわけではない。
 そもそもそんなことを気にするような仲でもない。
 問題があるとするなら、今頃大神殿と四龍公家それぞれの公都で地団駄じだんだを踏んでいる皇妃候補たちのことだけだろう。

『タキリは他人の世話をするのが好きなのに、生まれとしては自分が世話をされる立場。その鬱憤うっぷんを晴らすには、学生会長とか候補生総代とかになるのが一番だったのよ~』

 これが昨夜、タキリとの北方視察について話した際のマリアの言葉である。
 世話好きになった原因は本人の資質もあるだろうが、国と他人のためにくすように、という教育の結果だろう。
 レクティファールは、同じような教育を受けてきた他の皇妃候補の顔を思い浮かべ、大いに納得してしまった。
 もっとも、皇族や貴族に輿入こしいれするのなら、それくらいの性格がちょうど良いのかもしれない。少なくとも、皇族や貴族には夫の間違いを正すことのできる妻が求められているのだから、タキリたちの資質はこの上なく貴顕きけんの奥に相応ふさわしい。

「あ、お茶ください」
「はい、ただいま」

 レクティファールに頼まれた途端、タキリは表情を変えて、脇に置いてあった茶道具を使ってお茶をれる。
 その仕草には一切の停滞がなく、すぐに香りの良いお茶が用意された。

「どうぞ」
「ありがとう」

 レクティファールは身体を起こすと、資料を卓の上に置いて茶碗を手に取る。
 イズモ風の緑茶だ。

「あ、茶柱」

 薄黄緑の表面に浮かぶ茶柱。
 イズモでは吉兆きっちょうあかしとも言われているが、イズモ式の茶器が揃っていない皇国では、見ることさえ非常にまれなものだった。
 タキリが用意した茶器は、高級品ではなかったが、イズモで生産されたイズモ茶用の茶器だった。

「お茶請けもどうぞ。実家に色々入れてくださっているイズモ商家のお菓子かしです」

 タキリは、茶柱の立った茶碗を「おー」と天に掲げているレクティファールに苦笑しつつ、卓の隣に置いてあったとうの箱から様々な種類の米菓を取り出し並べる。
 香ばしいにおいを前にして、レクティファールは両手でお茶を飲みながら深々と溜息ためいきを漏らした。

「なかなか落ち着きますね」

 イズモ風とはとても言いがたい室内だが、漂っている香りはイチモンジの宗家と同じイズモのものだ。そんな中で穏やかな表情を浮かべるレクティファールに、タキリはくすりと笑みを漏らした。

「ふむ、タキリもどうぞ」
「ええ、いただきます」

 タキリが何も口にしていないことに気付いたレクティファールが、茶と菓子かしを勧める。
 それに従い、タキリは自分のお茶をれた。んだ緑茶を一口すすり、いつも通りの味を出せていることに満足する。

(良かった。ちゃんと良い味になってる。標高とか変わると味も変わるって聞いてたから不安だったけど……)

 タキリは秀でた額にわずかなしわを寄せ、窓の外を見る。
 超硬硝子ガラスの向こうに見えるのは、雪化粧ゆきげしょうをした山々と魔素を発する常緑樹の森、そして枯れた木々の林である。
 常緑樹の森には森エルフたちの街があり、結界によって守られているため、四季を通じてほとんど環境が変化しない。ただ、空に魔素をき出す光景は観光名所としても知られており、近くの都市から観光客が訪れるという。
 とはいえ、今のふたりの目的地はさらに北である。
 目的地――皇国北方辺境領といえば、帝国から割譲された新たな領土として人々にも知られているし、経済分野では莫大ばくだいな資本が投下されている場所としても広く知られていた。
 そんな皇国北方辺境領の中心都市である天領〈ウィルマグス〉まで、直通列車で三日。今日は列車に乗って二日目であるが、すでに窓の外の景色は完全に北の大地のそれである。
 タキリにとっては、あまり歓迎できる環境ではない。
 単純に寒い場所が苦手なのである。

(防寒着はちゃんと持った。襟巻えりまきも今年編んだ新作を持ってきたし、着替えはなんか向こうで用意してくれるって言ってたし……大丈夫大丈夫)

 タキリはてのひらから伝わる熱を感じつつ、思考を高速化させる。

(予定では明後日〈ウィルマグス〉に到着。そのままノールトヴェンツェル辺境伯主宰の歓待式典に参加して、翌日には各軍の基地の視察。諸々もろもろ終わるのが一週間後で、また列車に乗って皇都まで……と)

 実に二週間近い、長い行程である。
 ゆえに、レクティファールに帯同する侍従じじゅう武官には大きな制限が加わり、適任者がタキリひとりとなってしまった。何故なぜ彼女かといえば、ひと言で言えば仕事がなかったからである。
 士官学校と違い、元々騎士学校には卒業という概念がなく、軍によって修了と認められればあっさり実戦部隊に配属となる。
 タキリは現在、騎士学校から海軍本営に配属され、海軍総司令官官房で下にも置かない扱いを受けていた。そして、彼女は自分が摂政に近しい存在になったからこそ、そのような扱いを受けているのだと理解している。
 騎士学校でも近い扱いを受けたが、軍はより露骨だった。
 海軍総司令官である〈大提督グラン・アトミューラ〉が親戚しんせきであることも加わり、タキリの日頃の仕事といえば、官房内での雑用ばかりである。
 新米少尉として三ヶ月を過ごし、すぐに中尉に昇級したのも、不満と言えば不満であった。
 ただ、海軍新米士官の少尉から中尉への昇級については、それほどめずらしいことではない。配属先で大きく幅があり、経験が必要な航海系や技術系の士官であれば、一年や二年は新米として経験を積むことになるし、少尉も中尉も大して扱いが変わらない部署では、あっさり昇級することもある。
 タキリのように、部下がいるわけでもない士官など、素行と成績だけで昇級させても大した問題はない、と判断したのだろう。少なくとも、騎士学校時代の実践学習では良好な成績を残しているのだ。
 それが自分の役目だと思えば、誰かをうらむことも筋違いだった。軍とは、軍人が自分の望む仕事をする場所ではなく、軍が望む仕事を軍人が実行する場所である。
 タキリは、持ち前の責任感と自分の立場への理解から、誰かに文句を言うこともできず、総司令官官房で書類や演算機とにらめっこしながら過ごしていた。いっそ誰かと婚約でもして普通の生活に戻れば良いのではないかと思ったりもしたが、実際に摂政の婚礼こんれいの儀が終わってある程度時間が経たなければ、それもできない。
 ――フェリスが皇族としての義務を果たすまで、健康なまま過ごせるかどうかは誰にも分からないからだ。
 結局、タキリは日常業務と、時折舞い込む軍高官の接待という仕事をこなし続けるしかなかった。
 そんなある日、彼女が忘れそうになっていた侍従じじゅう武官補の仕事が〈大提督グラン・アトミューラ〉イザベルから直接伝えられた。
 摂政に帯同し、二週間程度随行員を務めよというものである。

(そりゃ士官学校も騎士学校も、海軍や陸軍の区別はないけど……)

 海軍士官に内陸部の基地へ行けというのもどうであろうか。タキリは言葉を選びつつ、イザベルにたずねた。しかし、それに対する答えは「侍従じじゅう武官に軍の区別はない」という反論の余地が一切ない正論であった。
 侍従じじゅう武官を出す軍に区別はあっても、侍従じじゅう武官という役職そのものに区別はないのだ。

(だからって……嫁入り前の娘を男と一緒に旅させるとか、どうなの)

 そう考えながらも、レクティファールが必要以上に自分に接触することはない確信もあった。レクティファールという男は、劣情れつじょうを〈皇剣〉によって完全に制御できる。タキリは皇王の子孫として、余人よじんよりも〈皇剣〉についての知識を持っていたのだ。
 たとえ安全だとしても、こうしてレクティファールに同行させられている自分の状況を思うと腹が立つ。
 自分があらゆる意味で代替品であると言われているに等しいからだ。
 純軍事的な助言者ならば、おそらく案内役の高級軍人が〈ウィルマグス〉で待っているだろう。その人物に勝てるほどの見識は、タキリにはない。
 では、視察目的のひとつである自動人形に関する助言者かと言えば、当然特機研の研究者がその解説者となる。彼ら以上に新型自動人形を理解している者はおらず、そこについてもタキリは勝てると思っていない。
 となると、適当に目を楽しませる女としてかと自分に問うてみれば、それもあり得ない。実に腹立たしいことに、レクティファールはそういった態度をタキリの前で一度も見せたことがないし、先述の〈皇剣〉の機能もある。
 つまり、タキリの役目がないわけではないが、それを負うのがタキリである必要は一切なかった。

(まあ、当然だけど)

 軍に限らず、すべての官僚機構は『その役目はその人物にしか果たせない』という現実を嫌悪する。それこそ、この世で最も嫌っていると言っても過言ではないほどに嫌っている。
 当たり前だ。
 彼らが行うすべてには、代替手段が存在しなくてはならない。そうでなければ組織を危うくする。そして組織が危うくなれば、国が危うくなる。
 強固な官僚機構はそれを許さない。
 他国に比して開放的であるとされる皇国の官僚機構であろうとも、事情は同じだ。むしろ開放的であるがゆえに、内部的強度を求める。
 多少風通しが良くなってもびくともしない強靭きょうじんな骨格を作るために。

「――リ、タキリ」
「あ、はい!」

 いつの間にか思考の海にどっぷりひたっていたタキリは、自分を呼ぶレクティファールの声にはっと顔を上げた。
 あわてて答えるも、彼女の声は上擦うわずっている。

「申し訳ありません。何でしょうか」

 一瞬で意識を平静に戻し、呼吸を整えられたのは、彼女の資質のおかげだったのかもしれない。
 ひとつまばたきをすれば、ひとみに残っていた気怠けだるげな色合いは消え失せ、士官学校でも騎士学校でも、彼女を女として見てきた男子候補生を斬り裂いた鋭い眼光が現れる。
 レクティファールはその目を見て一瞬驚いたようだったが、残った霰菓子あられがしを口に入れるとすぐに卓の上の書類を指差した。

「この報告書を提出した担当者を呼び出してください。二種暗号化通信で結構」
「はい」

 命じられ、タキリはレクティファールの指差した報告書に目を落とした。
 そこには、各国駐在武官の調査結果が記されているが、いくつか赤いしるしが付けられている。タキリには分からなかったが、それは皇王府が把握はあくしている各国駐在武官の情報と異なる記述がある箇所だった。
 軍と皇王府が常に情報を連結し、共有しているということはない。
 基本共通化情報に設定されている情報を除けば、ともに必要なときに必要な分の情報を融通ゆうずうし合うというのが通常の関わり方だ。
 だからこそ、こうして情報の齟齬そごが往々にして発生する。
 どちらが責められるような話ではない。どちらも正しかったり、どちらも間違っていたりする場合がある。
 タキリは、報告書に記載された書類番号と担当者の名前をふところから取り出した用箋ようせんに書き込むと、それを再度確認して立ち上がった。

「では、行ってまいります」
「うん、よろしくお願いします」

 敬礼し、個室を出る。
 いつの間にか、タキリの心の底にわだかまっていた不満は消えていた。
 今この瞬間、皇国の主であるレクティファールのめいを果たせるのは自分だけであるという責任感が、あらゆる不満を吹き飛ばしてしまった。

(現金な女)

 そう考えつつも、タキリの顔には笑みがあった。


         ◇ ◇ ◇


「それでは、お休みなさいませ」

 タキリは扉の前で一礼すると、ぎゃんぎゃんぴーぴーと盛大な着信音をかなでる通信機を手に、非常に難しい顔をしているレクティファールの部屋を出た。
 ほぼ同時に大神殿と白龍宮から通信があり、どちらから出るべきか悩んでいるのだ。
 レクティファールは、着信してすぐにタキリにすがるような視線を向けた。だが、ごく個人的な問題に首を突っ込むほど彼女は愚かではない。
 平静を保ちながら部屋を出た。
 一瞬、レクティファールの持つ通信機の回線を開いて自分の姿を見せてみようかとも思ったが、騒ぎになったところでマリアが喜ぶだけだと判断し、やめた。
 そのまま隣にある自室へ戻ると、入り口近くの衣裳いしょう入れに制服を掛け、窓際の机のあかりをけて軍から与えられた随員用の資料の確認に入る。
 会うべき人物についての情報はすでに頭の中に入っていたが、これからおもむく地にはまだ分からないことがある。彼女はかなりの数がある資料の中から、直轄ちょっかつ領〈ウィルマグス〉に関する冊子を選び出した。

「うん、これね」

 軍が間に合わせで作った資料に、観光用冊子が挟み込まれている。
 そこには、新しい都市の中心市街地の写真と、解説文が載っていた。その土地の必要な情報を得ることに関して、こうした観光資料は莫迦ばかにできない。
 タキリは観光用冊子を開いた。

(卓上旅行みたいでちょっと楽しいかも……)

 そんな感想を抱いたりもしつつ、タキリは資料を読み進める。
〈ウィルマグス〉の中心である都市中央駅は、ここ数ヶ月で大幅な改修が行われた。
 皇国と帝国では、鉄路軌条きじょうや支持部構造などの規格がまったく異なっていたからで、鉄道の重要性を考慮して、領主である皇王家の私費で工事が行われたという。おかげで、わずか四ヶ月で工事が終了した。
 なお、規格の差は、鉄道整備を軍事的事業の一環としておこなっている皇国と、行政事業を主としておこなっている帝国との認識の差が、明確に表れたものだった。
 幅四メイテル前後の自動人形をそのまま輸送用鉄箱に収容して運べる皇国の鉄道は、軌条きじょう幅が帝国のそれの二倍というだ。
 国土を要塞化する上で、鉄道網は軍需物資輸送のかなめとなる。当然、鉄路規格はあらゆる点で軍事的側面が優先され、他国が費用対効果から見向きもしなかった、もしくは有効性に気付いていながらも採用を断念せざるを得なかった、超広軌の採用となったのだ。
 皇国の標準的な客車の幅も四メイテル以上であり、個室や大浴場、あるいは劇場などが内包されていることさえある。
 それに対し、帝国の鉄道は車輌しゃりょうの幅が三メイテル程度である。軌条きじょう中軌ちゅうきで、装甲車輌しゃりょうくらいであれば問題ないが、自動人形などは分解して輸送されるのが常だった。

(帝国は皇国に直接乗り込まれるのが怖いから別規格の鉄道にしたって聞いたけど、本当かしら?)

 旧帝国の鉄道が皇国と同じ超広軌であったことを考えれば、もしかしたら、歴史的には皇国鉄道の方が旧帝国鉄道の後継者なのかもしれない。
 無論、旧帝国の後継を自称する帝国がそれを認める可能性は低い。現に彼らは自分たちの鉄道網を旧帝国の遺産として喧伝けんでんしていた。

(まあ、いつものことね)

 タキリは、もはや定番となった帝国の言動を思い出しながら、新しく造り直された駅の写真を見る。
 豪雪地域の駅舎だけあって、先鋭的な意匠いしょう欠片かけらもなく、骨太の基本構造材に煉瓦れんがなどの石材を組み合わせた、質実剛健を地で行くような構造物だった。
 元々この地にあった駅を改修したのだが、皇国の建築基準――これも軍事面最優先――で造り直されたために、まるで別物のように変化している。

(建物とか完全に別物でしょう、これ)

 建築学は軍人の必修科目とされている。
 より専門的な知識を学ぶのなら工兵科に属するか、自主的に工兵科の授業に交じるしかないが、ごく基本的な知識ならば誰もが学ぶことになる。
 建築学とは、雑多な学問のひとつの集大成である。
 数学、力学、工学、自然科学……といった膨大ぼうだいな知識をもとにした建物を、如何いかに効率的に破壊するか、あるいは守るかを、軍人は学ぶのである。

(ああ、庁舎はそのまま使ってるのね)

 改修工事が行われたのは、〈ウィルマグス〉を行政的、経済的に皇国に編入するための施設だけであり、そういった必要がない施設はほとんどが以前のまま使用されている。
 北方辺境領の領主にして〈ウィルマグス〉の代官――総督であるアルブレヒトが住まうのも、帝国都市長官――これもまた総督と呼ばれる――が暮らしていた帝国風の城だった。
 特に名前を定められることもなく、単にウィルマグス城と呼ばれているそこは、北方辺境領すべてを取り仕切る行政府として機能している。
 レクティファールの視察先にも含まれているから、タキリはじんわりと意識を支配しはじめた眠気ねむけに抵抗しつつ、冊子の該当がいとう部分を読み進めた。

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