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9巻
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◇ ◇ ◇
彼らはイクシード港の片隅に根城を構えていた。
つい先頃崩御した当代皇王に傭兵団として雇われていた彼らは、あの皇都奪還戦で仲間の大半を失い、さらにはそれまでの悪行が暴かれて皇国やその友好国に指名手配される立場にあった。
元々は帝国に滅ぼされた国の騎士団の一員であった彼らは、その練度と統制によって傭兵団としてもそこそこ名が知られていた。しかし今となっては、そんな名声もあってないようなものだ。
そんな彼らが未だ皇都に留まっているのは、下手に動くよりも、人々の頭からあの皇都奪還戦の記憶が薄れるまで皇都にいる方が安全である、という論理的な考えからではない。戦いの混乱に乗じて火事場泥棒よろしく逃亡資金を盗んでいる間に逃げる機を逸してしまったのだ。
彼らが気付いたときにはもう、衛視隊に顔写真が配られ、港や駅に懸賞金付きの張り紙が掲示される始末。陸路で逃げようとしても皇都は島都であり、徒歩で逃げるには常に衛視がその目を光らせている橋を渡らねばならず、水路を使おうにも船を雇う金子がない。いっそ船を強奪しようとも考えたが、すぐ隣の軍港に皇都防衛艦隊の艦艇が停泊しているのを見ると、その気も失せてしまった。
皇都防衛艦隊の本隊は湖の別の島に停泊しているが、もし騒ぎが広がれば戦龍母艦から飛竜が飛んでくるだろう。皇都近傍の空軍基地もすぐに対応するに違いない。また陸軍の駐屯地も近く、とても逃げ切れるものではない。
それらの事情を考慮した結果、彼らは港の打ち捨てられた倉庫を勝手に借り受け、ときに日雇いの仕事をこなし、ときに盗みをして日々の糧を得ていた。
皇都奪還戦からもう八ヶ月が過ぎ、そろそろ彼らの緊張感も途切れ始めていたのかもしれない。
「――お、いい女」
港で夜中から朝に掛けて荷役をしていたその男は、猛烈な眠気に襲われる中、仲間たちと共に住処に向けて歩いているところだった。
かつては傭兵団の一部隊を任せられ、この港から色々な〝荷物〟を送り出していた彼だが、今となっては仲間内で作った零細荷役業者の元締めだった。元締めといっても部下たちと共に汗を掻いている。それ故に傭兵団の潰れた現在も彼らを纏めることができているのだが。
皇都奪還戦のあとも、懸賞金目当てに手下たちを売って自分だけ助かろうなどと考えない点は、彼が根の部分でそれなりの義侠心を持ち合わせていることの証明だろうか。
男の名を、ゲッツォ・ブリステアと言った。
「どうしたんすか、兄貴」
部下のひとりがゲッツォに声を掛ける。
仕事上がりに一杯引っ掛けてきただけあって、その顔には酔っ払い独特の光沢があった。
「おう、ほらあれ、いい女だろう?」
そう言って彼が顎で示したのは、ひとりの男とふたりの女、そしてひとりの少女だった。
少女と女のひとりが男の腕に絡み付いているのを見ると、どうやら良いところの坊ちゃんが平日の昼間から女連れで遊び歩いているようだ。男の背後に控える女は、見たところ同業――いや本業だろう。身ごなしが軍人のそれだ。
「貴族の坊ちゃんが、女連れで……羨ましいもんだねェ」
ゲッツォは無精髭の生えた顎を擦り、女を順に品定めしていく。
男にくっついている女は少女と言っても良いくらい若く、その白い肌と銀髪が、女日照りの彼らには生唾を呑むほど美しく見える。
顔もそこらの高級娼婦とは比べ物にならないほど整っており、もしもあれが何処かの店で働いているというなら、毎日通っても良いとさえ思えた。
そして男の背後の女。あまり目立った容姿ではないが、身体は女性らしい曲線を描き、それでいて軍人らしく無駄な肉が一切ない。だというのに、一目見るだけでその身体が良い具合に熟し始めていると分かる。あの凛とした立ち居振る舞いを乱れさせたいと思うのは、男として真っ当な欲望だ。
残るは男の腕に纏わり付いている少女だが、これも趣味がそちら方面であれば垂涎の品だろう。あの清らかな雰囲気は、あの時分の女にしか存在しない。もしも彼女があの男の情婦だとしても、まだ手を出しておらず、食べ頃を待っているに違いない。
「ちっ、人が汗水垂らして働いてるってのに、いい気なもんだ」
顎髭を生やした別の部下が唾を吐き捨て、貴族の男に憎悪の篭った視線を向ける。
皇都が未だ彼らの手にあった頃は、貧乏貴族の令嬢などを攫ってきたものだが、今となってはそんな真似はできない。娼館に足を運ぶのも、せいぜい月に一、二度。それ以外は自分で処理するか、向こうから誘ってくる、薬物で目が濁ったどんな病気を持っているか分からないような女を食うことで誤魔化している。
「おいおい、お前ら、くれぐれも余計なこと考えるなよ。あんなんでも本職の軍人の女を護衛に付けられるようなお坊ちゃんだ。下手に手を出せば俺ら全員縛り首だぞ」
ゲッツォは冷静に状況を把握していた。
部下たちを制したのは、軍人の女を従えているからではない。あの男自身がそれなりの使い手だからだ。
女ふたりとはいえ、あれだけ体重を掛けられて足捌きが乱れていない。
その視線は、女たちを見ていると思わせて周囲にも向けられており、瞳には偽装された警戒感も見て取れた。
(実戦慣れしているだけじゃないな。あの細身の筋肉の付き方は普通の歩兵や砲兵ではないだろう。重装甲歩兵? いや、魔導装甲歩兵か?)
陸軍歩兵部隊の中でも精鋭と呼ばれる者たち。魔動式甲冑を纏い、戦場を縦横無尽に駆け抜ける手練だ。魔動式甲冑の内部という限られた空間に肉体を収めるため、装着者は必要以上に筋肉を付けないことで知られている。
ゲッツォは傭兵団時代に皇国軍の友軍として彼らと共闘したことがある。その際の目的は大量発生した魔獣の討伐だったが、彼ら装甲歩兵はひとりの負傷者も出さずに任務を終えた。
傭兵団からは死者さえ出たにも拘わらず、だ。
それらの戦績は魔動式甲冑の性能だけで果たせるものではない。高性能な魔動式甲冑を自分の身体と同じように動かすことができる人物だけが、精鋭と呼ばれるのだ。
極端な話、魔動式甲冑は自動人形と違って装着者の能力がそのまま性能に直結する。量産簡易型の魔動式甲冑なら誰でも同じだけの性能を引き出せるよう設計されているが、ゲッツォが知るような精鋭部隊が運用する魔動式甲冑は、装着者にも精鋭としての高い能力を要求するのである。
ゲッツォはそれを知っているからこそ、部下たちを諌めたのだ。
もっとも、部下たちはゲッツォほど敵を見る目がない。
「でも兄貴、お貴族様が女を取られたってお上に訴えると思います? あの高慢ちきで自分の体面のことしか考えないような奴らが」
「そうっすよ兄貴、あの後ろの女はやばそうですけど、残りのふたりは攫ったところで大したことないんじゃないですか」
ただ、彼らの言い分にも理由がある。理由と言うよりも、固定観念と言ったほうが正しいかもしれないが。
貴族という生き物は、己を中心に物事を考える癖のようなものを持っている。
これそのものは一概に悪癖と言い切ることはできない。まず自分の目の届く範囲で物事を判断し、それをさらに大局的な判断の材料にする。そこで得た判断をさらに大きな判断の材料にする――これを繰り返すことで、人は高位の視点で物事を判断できるようになるのだ。
貴族というものは、大きな視点での判断を求められることが多いから、特にその傾向が強いのかもしれない。
ただ、本当に自分とその周辺しか目に入らない貴族もいる。皇国のそのような貴族はほとんどが先の内乱で断絶の憂き目に遭っている。つまり、彼らを雇っていた者たちがこの種類の貴族だった。
そのため、部下たちは「貴族とは利己的で近視眼的である」と思い込んでいる。もしもそんな貴族ばかりであれば、そもそも彼らがこんな立場に追い遣られることはなかったというのに、だ。
ゲッツォは、部下たちの精神がだいぶ疲労してきているようだと思った。
いつ捕らえられるとも知れぬ日々、心が摩耗してくるのも無理はない。
「だがなぁ……」
「兄貴、大分官憲どももおとなしくなってますし、もうすぐ金も貯まります。船にはもう目を着けてありますし、ここらでひとつ航海に花を添える女を手に入れてはどうです?」
下卑た笑いを浮かべる男どもの期待に満ちた視線に、ゲッツォは正直後悔していた。
自分があそこで余計なことを言わなければ、自分と手下どもはもう塒に着いて軽く酒を楽しんでいた頃だろう。
手下どもの粘ついた視線の先にいる四人は、そこらの店で売っている焼き菓子を手に持って何か話しているようだ。自分たちに気付いた様子は見せていない。
「お前ら――」
だが、ここで手を出すほど彼は莫迦ではなかった。
ここは皇都であり、あの摂政の膝元。何処に衛視がいるか分かったものではない。それに、あの貴族の子弟はまずい。本能がそう警告している。彼は、酒精で軽く停滞気味の思考をそのように巡らせ、手下たちを窘めようと口を開いた。
だがそのとき、彼らの鼓膜を激しい爆音が揺らした。
「――!!」
騒然となる周辺。
ゲッツォが慌てて視線を動かせば、朝まで自分たちが働いていたあたりで黒煙が上がっているではないか。
何処かの船で燃料か積荷でも爆発したか――彼がそう考え、手下たちを落ち着かせようと振り返ると、部下のひとりが慌てて駆け寄ってきた。
「兄貴! ガイスたちが!」
「何っ!?」
慌てて手下の示す先を見れば、先程まで女どもを舐め回すような視線で嬲っていた男たちが、酔っ払いとは思えない動きであの女たちの元へ走っている最中だった。
(ガイスだと? おい、まさかあいつら、クスリに……!)
ゲッツォは自分の部下が莫迦だとは思っていない。しかし、部下たちの間で程度の低い違法高揚薬が使用されていることは知っていた。その中心になっているのが、比較的若いガイスという男であったことも知っている。
違法薬物を使用していることが周囲に露見しないよう、仕事の日には使わせていない。また依存症になるほど高い頻度で使うことも許さなかった。
だが、彼が握っていた部下たちの手綱は、どこか緩んでいたのかもしれない。
(俺としたことが、臆病になり過ぎてトンズラする機を逸してたか!)
もっと早く自分が皇都からの脱出を決断していれば、部下たちはそちらに意識を向けていただろう。
そして薬物に頼ることもなかった。しかし、自分が何時まで経っても動かなかった。その結果、部下たちに対する統制は歪んでしまったのだ。
「あのトンマがっ! 戻れ!! ――くそッ、お前ら、あの莫迦どもを捕まえろ!」
「う、うっす!!」
ゲッツォは怒鳴り声を上げ、残った部下たちに命令を下す。
部下たちは慌てて走り始めたが、先走った者たちに追いつけるほどではない。
良く見れば、先程まで男の腕にくっついていた少女が男から離れている。地面に手を伸ばしているところを見ると、あの轟音に驚いて何か落としてしまったようだ。
「まずい、間に合っちまう……!」
男たちに気付いていないのか、少女は地面に屈みこんだ。
手下どもは、そこから僅か十歩程度の距離にいる。たとえ護衛の女が気付いたとしても、手下たちの方が早い。
もし他に護衛がいたとて、周囲の混乱によって眼と耳は潰されているも同然だ。たったひとりを狙う莫迦な部下たちと、周囲の人間総てを警戒しなくてはならない護衛。
どちらが優位かは較べるまでもない。
ゲッツォは、決断した。
(こうなっちゃ仕方がねえ、前倒しでこの街、いやこの国から逃げる!)
「おいタレス、爆弾だって叫んで回れ。ガズはあの莫迦どもをこっちまで連れて来い」
「え、兄貴……」
タレスと呼ばれた部下は、ゲッツォの命令に当惑しているようだった。
無理もない。タレスはゲッツォにもっとも近い考えを持っている。
「早くしろっ、このウスノロ!!」
「へ、へい!」
彼の元から走り去ったタレスは、爆弾だ爆弾だと叫んで周囲の人々の混乱を煽った。人々が様々な方向に走り出し、ガイスたちはその中に紛れ込んだ。
(さあ、どう動く?)
手慣れた護衛であれば、まず主な護衛対象を守ろうとするだろう。それに意識が集中すれば、それ以外の者への意識は逸れる。
ゲッツォの思惑通り、護衛の女もその叫びに気付き、護衛対象らしい男に駆け寄る素振りを見せた。
(よし、これで逃げられる)
ゲッツォは賭けに勝った。
青年の腕にしがみついていた女は、ゲッツォの予想に反して軍人らしい所作で周囲を警戒し始めるが、少女だけは戸惑ったように視線を彷徨わせ、その場で硬直していた。
しかし、こういった状況になった際の対応方法は知っているらしく、自分の男の方に顔を向け、近付こうとした。
そんな少女に、ちょうど部下の手が届いた。
偶然にも助けられた一瞬だった。
護衛の意識は爆発のあった港に向かっており、男は険しい顔つきの銀髪の女に話しかけられてそちらに意識を向けていた。少女だけが、無防備になった。
「きゃああっ!!」
少女の叫びに、貴族の男と驚いたような表情の女たちがこちらに顔を向けた。
「――!」
一瞬、眼球を素早く動かして周囲を確認する貴族の男と彼の視線が絡まり、すぐに逃げ惑う人々に遮られる。
だが、ゲッツォはその一瞬で、自分たちのしでかしたことの危険性に気付いた。彼が知る、殺しを生業とする者たちと似たような眼を、あの貴族の男は持っていた。
何人も殺したことのある、ある種の諦観の滲んだ眼だ。
まずい、まずい、まずいまずいまずい――ゲッツォは顔を青褪めさせた。
相手が悪すぎることに、ようやく彼は気付いた。
もう、遅かった。
「ずらかるぞ!」
ゲッツォは恐怖を誤魔化すように叫び、手下どもを引き連れ、混乱に乗じて遁走に掛かった。
幸運なことに、追手はなかった。
轟音に驚いて手拭いを落としてしまったリリシアがその直後に発した悲鳴を、レクティファールは何処か冷え切った意識で聞いていた。
爆発音という要素が〈皇剣〉の警戒段階を引き上げ、彼から感情を奪い取っていたのだ。
だがリリシアの危機を救うには、問題があった。
レクティファールは、戦場であれば歴戦の戦士と言ってもいい戦いぶりを見せるが、周囲を非戦闘員に囲まれた状態では、安定して自らの能力を十全に発揮することができないのだ。
その理由として、彼が〈皇剣〉の能力を未だ完全に制御できていないことが挙げられる。
下手に〈皇剣〉の力を振るえば、周囲を巻き込んでしまう。気配をよく知り、〈皇剣〉も味方として認識しているメリエラやリーデを避けることはできても、他の非戦闘員はそうではない。
結果、総てを薙ぎ払う無差別な攻撃になってしまう可能性があった。
そう、あくまでも可能性に過ぎない。〈皇剣〉本来の性能を発揮できるのであれば、何の問題もなく暴漢だけを無力化できただろう。しかし今のレクティファールにそれができるかどうかは、賭けになってしまう。
「リリっ!」
メリエラが慌てて手を伸ばすその先、リリシアは見覚えのない男の肩に担がれていた。その周囲には似たような風体の男たちが、リリシアを担ぐ男を守るようにおり、さらに周囲の混乱もあって彼らを追いかけることができなかった。
リーデが慌てて何処かに通信を送っているのを認め、レクティファールは波紋ひとつ起こらない意識で男たちの逃げる先を見る。
体格の良い、無精髭の男が自分たちを見ていた。
「――」
すぐに人々に遮られその姿は見えなくなったが、レクティファールはその男の顔をしっかりと記憶した。黙ってリリシアの連れ去られた先を見詰める彼に、近寄ってきたリーデが囁きかける。
「レクト様、相手は土地勘があったと考えられます。護衛たちも先程の爆発により混乱しており、リリ様を見失ったようで。念のために持っていただいていた信号の発信器は――」
リーデの手にあるのは、リリシアの上着。今日はこの季節としては珍しく気温が高く、リリシアも上着を脱いでいた。
その内側に、発信器は埋め込まれている。
「申し訳ありません。普段なら肌衣に縫い込んである発信器もあるのですが、今日に限っていつもは着ない肌衣をお召しになられたそうで……」
「良い、分かった」
レクティファールと出掛けるということで、普段は着ないようなものを引っ張り出したのだろう。もしかしたら、新しく仕立てたものかもしれない。
レクティファールは、全く動揺していない自分を至極当たり前のものとして捉え、さらに思考を加速させる。リリシアを奪われたことに関する感情の起伏は、〈皇剣〉に完全に制御されていた。
あの男たちがリリシアをリリシアと認識して拐かしたのなら、無事でいるだろう。自分との交渉の札として使うには、その身が無事でなくてはならない。他人の手で穢された巫女姫を、神殿は巫女姫と認めないだろう。つまり、その時点で彼らの手札は意味を失う。
だが、彼らがリリシアをリリシアと知らずに連れ去ったのなら、深刻だ。
身代金目当ての犯行なら、まだ先程の条件が適用されるだろう。人質の価値はできるだけ高い方が良いに決まっている。
しかし、彼らの目的が金ではなくリリシア自身であったなら、こちらと交渉する気が一切ないのなら――リリシアは遠からずレクティファールのもとに帰れなくなる。
「――さて」
「レクト、どうしよう。皇府殿に連絡して、近衛を――」
メリエラは動揺しながらも、比較的真っ当な対応策をレクティファールに提示した。皇王府はこういった状況に対しても責任を負っている。
まずは連絡を入れ、対応を取らせるのが妥当と言えた。
しかし、レクティファールは頭を振る。
「それでは、間に合わない」
近衛の精兵がここに到着するまで一時間と掛かるまい。しかし、それでも間に合わない公算が高い。 彼の周囲には、既に護衛を務めていた近衛兵たちが集まってきているが、その数は決して多くない。おそらく二十名には届かないだろう。周囲の警戒に回っている者たちがいることも考えれば、一個小隊三十名程度の護衛がいるはずだが、それでも人海戦術を採るには絶対数が足りない。
一応、護衛部隊の責任者を務めている乙女騎士に、探測魔法の使い手がいるか確認したが、発信器のない状態で探すには時間が掛かるという答えが返って来た。
発信器がない場合、人が持つ振動波で個人を特定、捜索することになる。その振動波は個人でそれ一個という固有のものだが、その人物の状態により、発せられる振動波の強さが変わり、さらに対象が地下や屋内にいると探知が難しくなる。不特定多数を探査する――ある場所に人がいるかどうかなど――ならば、それほど問題はない探測魔法だが、個人を探すにはその魔法に特化した専門家か、多くの時間を必要とする。
「――ふん」
総ての状況を把握し、それでもやはり無表情のまま、ひとつ鼻を鳴らすレクティファール。
その態度に護衛たちは身体を強ばらせたが、レクティファールは彼らを歯牙にも掛けない。
「よろしい」
レクティファールは彼らの前に立ち、一切の感情のない声音で告げた。
「私は彼らを相手に戦争をしよう。私の腕の中からものを奪うとどうなるか、諸君らに見届けてもらう」
ひたすらに冷たいその声音に、メリエラとリーデは密かに怯えた。彼女たちが知るレクティファールという青年とは、まるで違う生き物。それこそ、血の通わない兵器のよう。
「では、援護を頼む」
本来彼を守るはずの者たちからの反論は、ひとつもなかった。
レクティファールがこうと決めた以上、彼女たちにそれを覆す権限はない。
もはや言葉で諌めることができる段階はとうに過ぎて、レクティファールは完全に相手を敵と認識している。
〈皇剣〉にとって敵とは、原則的に殲滅対象である。〈皇剣〉がその能力を用いて敵に相対すれば、原則通りの結果にしかならないのだ。
そこに、相手の事情を斟酌しようという慈悲はなく、ただ『力』として相手を薙ぎ倒すだけだ。〈皇剣〉とは本来そういった兵器なのである。
相手を殲滅し、自分を生かす、ただそのためだけに作られた兵器だった。
ゲッツォは焦燥に身を焦がしていた。
手下どもが拐かした少女が、あの巫女姫であるとすぐに気付いたからだ。
彼は内戦時から皇国の重要人物の顔を覚えるように努めており、リリシアの顔も聖都に篭りきりであるとはいえ、念のために総大主教ミレイディアと共に記憶していたのだ。
それに、巫女姫はあの戦いのあと幾度か市民の前に顔を出している。新聞などでも、その顔を何度も見た。ただ、一緒にいた男のことは知らない。巫女姫の横にいるべき摂政ならば、髪は白いはず。彼の髪は蒼かった。それが、少女の正体を分からなくしていた一因かもしれない。
「くそっ、最後の最後でどじ踏んだ!」
彼らはイクシード港の片隅に根城を構えていた。
つい先頃崩御した当代皇王に傭兵団として雇われていた彼らは、あの皇都奪還戦で仲間の大半を失い、さらにはそれまでの悪行が暴かれて皇国やその友好国に指名手配される立場にあった。
元々は帝国に滅ぼされた国の騎士団の一員であった彼らは、その練度と統制によって傭兵団としてもそこそこ名が知られていた。しかし今となっては、そんな名声もあってないようなものだ。
そんな彼らが未だ皇都に留まっているのは、下手に動くよりも、人々の頭からあの皇都奪還戦の記憶が薄れるまで皇都にいる方が安全である、という論理的な考えからではない。戦いの混乱に乗じて火事場泥棒よろしく逃亡資金を盗んでいる間に逃げる機を逸してしまったのだ。
彼らが気付いたときにはもう、衛視隊に顔写真が配られ、港や駅に懸賞金付きの張り紙が掲示される始末。陸路で逃げようとしても皇都は島都であり、徒歩で逃げるには常に衛視がその目を光らせている橋を渡らねばならず、水路を使おうにも船を雇う金子がない。いっそ船を強奪しようとも考えたが、すぐ隣の軍港に皇都防衛艦隊の艦艇が停泊しているのを見ると、その気も失せてしまった。
皇都防衛艦隊の本隊は湖の別の島に停泊しているが、もし騒ぎが広がれば戦龍母艦から飛竜が飛んでくるだろう。皇都近傍の空軍基地もすぐに対応するに違いない。また陸軍の駐屯地も近く、とても逃げ切れるものではない。
それらの事情を考慮した結果、彼らは港の打ち捨てられた倉庫を勝手に借り受け、ときに日雇いの仕事をこなし、ときに盗みをして日々の糧を得ていた。
皇都奪還戦からもう八ヶ月が過ぎ、そろそろ彼らの緊張感も途切れ始めていたのかもしれない。
「――お、いい女」
港で夜中から朝に掛けて荷役をしていたその男は、猛烈な眠気に襲われる中、仲間たちと共に住処に向けて歩いているところだった。
かつては傭兵団の一部隊を任せられ、この港から色々な〝荷物〟を送り出していた彼だが、今となっては仲間内で作った零細荷役業者の元締めだった。元締めといっても部下たちと共に汗を掻いている。それ故に傭兵団の潰れた現在も彼らを纏めることができているのだが。
皇都奪還戦のあとも、懸賞金目当てに手下たちを売って自分だけ助かろうなどと考えない点は、彼が根の部分でそれなりの義侠心を持ち合わせていることの証明だろうか。
男の名を、ゲッツォ・ブリステアと言った。
「どうしたんすか、兄貴」
部下のひとりがゲッツォに声を掛ける。
仕事上がりに一杯引っ掛けてきただけあって、その顔には酔っ払い独特の光沢があった。
「おう、ほらあれ、いい女だろう?」
そう言って彼が顎で示したのは、ひとりの男とふたりの女、そしてひとりの少女だった。
少女と女のひとりが男の腕に絡み付いているのを見ると、どうやら良いところの坊ちゃんが平日の昼間から女連れで遊び歩いているようだ。男の背後に控える女は、見たところ同業――いや本業だろう。身ごなしが軍人のそれだ。
「貴族の坊ちゃんが、女連れで……羨ましいもんだねェ」
ゲッツォは無精髭の生えた顎を擦り、女を順に品定めしていく。
男にくっついている女は少女と言っても良いくらい若く、その白い肌と銀髪が、女日照りの彼らには生唾を呑むほど美しく見える。
顔もそこらの高級娼婦とは比べ物にならないほど整っており、もしもあれが何処かの店で働いているというなら、毎日通っても良いとさえ思えた。
そして男の背後の女。あまり目立った容姿ではないが、身体は女性らしい曲線を描き、それでいて軍人らしく無駄な肉が一切ない。だというのに、一目見るだけでその身体が良い具合に熟し始めていると分かる。あの凛とした立ち居振る舞いを乱れさせたいと思うのは、男として真っ当な欲望だ。
残るは男の腕に纏わり付いている少女だが、これも趣味がそちら方面であれば垂涎の品だろう。あの清らかな雰囲気は、あの時分の女にしか存在しない。もしも彼女があの男の情婦だとしても、まだ手を出しておらず、食べ頃を待っているに違いない。
「ちっ、人が汗水垂らして働いてるってのに、いい気なもんだ」
顎髭を生やした別の部下が唾を吐き捨て、貴族の男に憎悪の篭った視線を向ける。
皇都が未だ彼らの手にあった頃は、貧乏貴族の令嬢などを攫ってきたものだが、今となってはそんな真似はできない。娼館に足を運ぶのも、せいぜい月に一、二度。それ以外は自分で処理するか、向こうから誘ってくる、薬物で目が濁ったどんな病気を持っているか分からないような女を食うことで誤魔化している。
「おいおい、お前ら、くれぐれも余計なこと考えるなよ。あんなんでも本職の軍人の女を護衛に付けられるようなお坊ちゃんだ。下手に手を出せば俺ら全員縛り首だぞ」
ゲッツォは冷静に状況を把握していた。
部下たちを制したのは、軍人の女を従えているからではない。あの男自身がそれなりの使い手だからだ。
女ふたりとはいえ、あれだけ体重を掛けられて足捌きが乱れていない。
その視線は、女たちを見ていると思わせて周囲にも向けられており、瞳には偽装された警戒感も見て取れた。
(実戦慣れしているだけじゃないな。あの細身の筋肉の付き方は普通の歩兵や砲兵ではないだろう。重装甲歩兵? いや、魔導装甲歩兵か?)
陸軍歩兵部隊の中でも精鋭と呼ばれる者たち。魔動式甲冑を纏い、戦場を縦横無尽に駆け抜ける手練だ。魔動式甲冑の内部という限られた空間に肉体を収めるため、装着者は必要以上に筋肉を付けないことで知られている。
ゲッツォは傭兵団時代に皇国軍の友軍として彼らと共闘したことがある。その際の目的は大量発生した魔獣の討伐だったが、彼ら装甲歩兵はひとりの負傷者も出さずに任務を終えた。
傭兵団からは死者さえ出たにも拘わらず、だ。
それらの戦績は魔動式甲冑の性能だけで果たせるものではない。高性能な魔動式甲冑を自分の身体と同じように動かすことができる人物だけが、精鋭と呼ばれるのだ。
極端な話、魔動式甲冑は自動人形と違って装着者の能力がそのまま性能に直結する。量産簡易型の魔動式甲冑なら誰でも同じだけの性能を引き出せるよう設計されているが、ゲッツォが知るような精鋭部隊が運用する魔動式甲冑は、装着者にも精鋭としての高い能力を要求するのである。
ゲッツォはそれを知っているからこそ、部下たちを諌めたのだ。
もっとも、部下たちはゲッツォほど敵を見る目がない。
「でも兄貴、お貴族様が女を取られたってお上に訴えると思います? あの高慢ちきで自分の体面のことしか考えないような奴らが」
「そうっすよ兄貴、あの後ろの女はやばそうですけど、残りのふたりは攫ったところで大したことないんじゃないですか」
ただ、彼らの言い分にも理由がある。理由と言うよりも、固定観念と言ったほうが正しいかもしれないが。
貴族という生き物は、己を中心に物事を考える癖のようなものを持っている。
これそのものは一概に悪癖と言い切ることはできない。まず自分の目の届く範囲で物事を判断し、それをさらに大局的な判断の材料にする。そこで得た判断をさらに大きな判断の材料にする――これを繰り返すことで、人は高位の視点で物事を判断できるようになるのだ。
貴族というものは、大きな視点での判断を求められることが多いから、特にその傾向が強いのかもしれない。
ただ、本当に自分とその周辺しか目に入らない貴族もいる。皇国のそのような貴族はほとんどが先の内乱で断絶の憂き目に遭っている。つまり、彼らを雇っていた者たちがこの種類の貴族だった。
そのため、部下たちは「貴族とは利己的で近視眼的である」と思い込んでいる。もしもそんな貴族ばかりであれば、そもそも彼らがこんな立場に追い遣られることはなかったというのに、だ。
ゲッツォは、部下たちの精神がだいぶ疲労してきているようだと思った。
いつ捕らえられるとも知れぬ日々、心が摩耗してくるのも無理はない。
「だがなぁ……」
「兄貴、大分官憲どももおとなしくなってますし、もうすぐ金も貯まります。船にはもう目を着けてありますし、ここらでひとつ航海に花を添える女を手に入れてはどうです?」
下卑た笑いを浮かべる男どもの期待に満ちた視線に、ゲッツォは正直後悔していた。
自分があそこで余計なことを言わなければ、自分と手下どもはもう塒に着いて軽く酒を楽しんでいた頃だろう。
手下どもの粘ついた視線の先にいる四人は、そこらの店で売っている焼き菓子を手に持って何か話しているようだ。自分たちに気付いた様子は見せていない。
「お前ら――」
だが、ここで手を出すほど彼は莫迦ではなかった。
ここは皇都であり、あの摂政の膝元。何処に衛視がいるか分かったものではない。それに、あの貴族の子弟はまずい。本能がそう警告している。彼は、酒精で軽く停滞気味の思考をそのように巡らせ、手下たちを窘めようと口を開いた。
だがそのとき、彼らの鼓膜を激しい爆音が揺らした。
「――!!」
騒然となる周辺。
ゲッツォが慌てて視線を動かせば、朝まで自分たちが働いていたあたりで黒煙が上がっているではないか。
何処かの船で燃料か積荷でも爆発したか――彼がそう考え、手下たちを落ち着かせようと振り返ると、部下のひとりが慌てて駆け寄ってきた。
「兄貴! ガイスたちが!」
「何っ!?」
慌てて手下の示す先を見れば、先程まで女どもを舐め回すような視線で嬲っていた男たちが、酔っ払いとは思えない動きであの女たちの元へ走っている最中だった。
(ガイスだと? おい、まさかあいつら、クスリに……!)
ゲッツォは自分の部下が莫迦だとは思っていない。しかし、部下たちの間で程度の低い違法高揚薬が使用されていることは知っていた。その中心になっているのが、比較的若いガイスという男であったことも知っている。
違法薬物を使用していることが周囲に露見しないよう、仕事の日には使わせていない。また依存症になるほど高い頻度で使うことも許さなかった。
だが、彼が握っていた部下たちの手綱は、どこか緩んでいたのかもしれない。
(俺としたことが、臆病になり過ぎてトンズラする機を逸してたか!)
もっと早く自分が皇都からの脱出を決断していれば、部下たちはそちらに意識を向けていただろう。
そして薬物に頼ることもなかった。しかし、自分が何時まで経っても動かなかった。その結果、部下たちに対する統制は歪んでしまったのだ。
「あのトンマがっ! 戻れ!! ――くそッ、お前ら、あの莫迦どもを捕まえろ!」
「う、うっす!!」
ゲッツォは怒鳴り声を上げ、残った部下たちに命令を下す。
部下たちは慌てて走り始めたが、先走った者たちに追いつけるほどではない。
良く見れば、先程まで男の腕にくっついていた少女が男から離れている。地面に手を伸ばしているところを見ると、あの轟音に驚いて何か落としてしまったようだ。
「まずい、間に合っちまう……!」
男たちに気付いていないのか、少女は地面に屈みこんだ。
手下どもは、そこから僅か十歩程度の距離にいる。たとえ護衛の女が気付いたとしても、手下たちの方が早い。
もし他に護衛がいたとて、周囲の混乱によって眼と耳は潰されているも同然だ。たったひとりを狙う莫迦な部下たちと、周囲の人間総てを警戒しなくてはならない護衛。
どちらが優位かは較べるまでもない。
ゲッツォは、決断した。
(こうなっちゃ仕方がねえ、前倒しでこの街、いやこの国から逃げる!)
「おいタレス、爆弾だって叫んで回れ。ガズはあの莫迦どもをこっちまで連れて来い」
「え、兄貴……」
タレスと呼ばれた部下は、ゲッツォの命令に当惑しているようだった。
無理もない。タレスはゲッツォにもっとも近い考えを持っている。
「早くしろっ、このウスノロ!!」
「へ、へい!」
彼の元から走り去ったタレスは、爆弾だ爆弾だと叫んで周囲の人々の混乱を煽った。人々が様々な方向に走り出し、ガイスたちはその中に紛れ込んだ。
(さあ、どう動く?)
手慣れた護衛であれば、まず主な護衛対象を守ろうとするだろう。それに意識が集中すれば、それ以外の者への意識は逸れる。
ゲッツォの思惑通り、護衛の女もその叫びに気付き、護衛対象らしい男に駆け寄る素振りを見せた。
(よし、これで逃げられる)
ゲッツォは賭けに勝った。
青年の腕にしがみついていた女は、ゲッツォの予想に反して軍人らしい所作で周囲を警戒し始めるが、少女だけは戸惑ったように視線を彷徨わせ、その場で硬直していた。
しかし、こういった状況になった際の対応方法は知っているらしく、自分の男の方に顔を向け、近付こうとした。
そんな少女に、ちょうど部下の手が届いた。
偶然にも助けられた一瞬だった。
護衛の意識は爆発のあった港に向かっており、男は険しい顔つきの銀髪の女に話しかけられてそちらに意識を向けていた。少女だけが、無防備になった。
「きゃああっ!!」
少女の叫びに、貴族の男と驚いたような表情の女たちがこちらに顔を向けた。
「――!」
一瞬、眼球を素早く動かして周囲を確認する貴族の男と彼の視線が絡まり、すぐに逃げ惑う人々に遮られる。
だが、ゲッツォはその一瞬で、自分たちのしでかしたことの危険性に気付いた。彼が知る、殺しを生業とする者たちと似たような眼を、あの貴族の男は持っていた。
何人も殺したことのある、ある種の諦観の滲んだ眼だ。
まずい、まずい、まずいまずいまずい――ゲッツォは顔を青褪めさせた。
相手が悪すぎることに、ようやく彼は気付いた。
もう、遅かった。
「ずらかるぞ!」
ゲッツォは恐怖を誤魔化すように叫び、手下どもを引き連れ、混乱に乗じて遁走に掛かった。
幸運なことに、追手はなかった。
轟音に驚いて手拭いを落としてしまったリリシアがその直後に発した悲鳴を、レクティファールは何処か冷え切った意識で聞いていた。
爆発音という要素が〈皇剣〉の警戒段階を引き上げ、彼から感情を奪い取っていたのだ。
だがリリシアの危機を救うには、問題があった。
レクティファールは、戦場であれば歴戦の戦士と言ってもいい戦いぶりを見せるが、周囲を非戦闘員に囲まれた状態では、安定して自らの能力を十全に発揮することができないのだ。
その理由として、彼が〈皇剣〉の能力を未だ完全に制御できていないことが挙げられる。
下手に〈皇剣〉の力を振るえば、周囲を巻き込んでしまう。気配をよく知り、〈皇剣〉も味方として認識しているメリエラやリーデを避けることはできても、他の非戦闘員はそうではない。
結果、総てを薙ぎ払う無差別な攻撃になってしまう可能性があった。
そう、あくまでも可能性に過ぎない。〈皇剣〉本来の性能を発揮できるのであれば、何の問題もなく暴漢だけを無力化できただろう。しかし今のレクティファールにそれができるかどうかは、賭けになってしまう。
「リリっ!」
メリエラが慌てて手を伸ばすその先、リリシアは見覚えのない男の肩に担がれていた。その周囲には似たような風体の男たちが、リリシアを担ぐ男を守るようにおり、さらに周囲の混乱もあって彼らを追いかけることができなかった。
リーデが慌てて何処かに通信を送っているのを認め、レクティファールは波紋ひとつ起こらない意識で男たちの逃げる先を見る。
体格の良い、無精髭の男が自分たちを見ていた。
「――」
すぐに人々に遮られその姿は見えなくなったが、レクティファールはその男の顔をしっかりと記憶した。黙ってリリシアの連れ去られた先を見詰める彼に、近寄ってきたリーデが囁きかける。
「レクト様、相手は土地勘があったと考えられます。護衛たちも先程の爆発により混乱しており、リリ様を見失ったようで。念のために持っていただいていた信号の発信器は――」
リーデの手にあるのは、リリシアの上着。今日はこの季節としては珍しく気温が高く、リリシアも上着を脱いでいた。
その内側に、発信器は埋め込まれている。
「申し訳ありません。普段なら肌衣に縫い込んである発信器もあるのですが、今日に限っていつもは着ない肌衣をお召しになられたそうで……」
「良い、分かった」
レクティファールと出掛けるということで、普段は着ないようなものを引っ張り出したのだろう。もしかしたら、新しく仕立てたものかもしれない。
レクティファールは、全く動揺していない自分を至極当たり前のものとして捉え、さらに思考を加速させる。リリシアを奪われたことに関する感情の起伏は、〈皇剣〉に完全に制御されていた。
あの男たちがリリシアをリリシアと認識して拐かしたのなら、無事でいるだろう。自分との交渉の札として使うには、その身が無事でなくてはならない。他人の手で穢された巫女姫を、神殿は巫女姫と認めないだろう。つまり、その時点で彼らの手札は意味を失う。
だが、彼らがリリシアをリリシアと知らずに連れ去ったのなら、深刻だ。
身代金目当ての犯行なら、まだ先程の条件が適用されるだろう。人質の価値はできるだけ高い方が良いに決まっている。
しかし、彼らの目的が金ではなくリリシア自身であったなら、こちらと交渉する気が一切ないのなら――リリシアは遠からずレクティファールのもとに帰れなくなる。
「――さて」
「レクト、どうしよう。皇府殿に連絡して、近衛を――」
メリエラは動揺しながらも、比較的真っ当な対応策をレクティファールに提示した。皇王府はこういった状況に対しても責任を負っている。
まずは連絡を入れ、対応を取らせるのが妥当と言えた。
しかし、レクティファールは頭を振る。
「それでは、間に合わない」
近衛の精兵がここに到着するまで一時間と掛かるまい。しかし、それでも間に合わない公算が高い。 彼の周囲には、既に護衛を務めていた近衛兵たちが集まってきているが、その数は決して多くない。おそらく二十名には届かないだろう。周囲の警戒に回っている者たちがいることも考えれば、一個小隊三十名程度の護衛がいるはずだが、それでも人海戦術を採るには絶対数が足りない。
一応、護衛部隊の責任者を務めている乙女騎士に、探測魔法の使い手がいるか確認したが、発信器のない状態で探すには時間が掛かるという答えが返って来た。
発信器がない場合、人が持つ振動波で個人を特定、捜索することになる。その振動波は個人でそれ一個という固有のものだが、その人物の状態により、発せられる振動波の強さが変わり、さらに対象が地下や屋内にいると探知が難しくなる。不特定多数を探査する――ある場所に人がいるかどうかなど――ならば、それほど問題はない探測魔法だが、個人を探すにはその魔法に特化した専門家か、多くの時間を必要とする。
「――ふん」
総ての状況を把握し、それでもやはり無表情のまま、ひとつ鼻を鳴らすレクティファール。
その態度に護衛たちは身体を強ばらせたが、レクティファールは彼らを歯牙にも掛けない。
「よろしい」
レクティファールは彼らの前に立ち、一切の感情のない声音で告げた。
「私は彼らを相手に戦争をしよう。私の腕の中からものを奪うとどうなるか、諸君らに見届けてもらう」
ひたすらに冷たいその声音に、メリエラとリーデは密かに怯えた。彼女たちが知るレクティファールという青年とは、まるで違う生き物。それこそ、血の通わない兵器のよう。
「では、援護を頼む」
本来彼を守るはずの者たちからの反論は、ひとつもなかった。
レクティファールがこうと決めた以上、彼女たちにそれを覆す権限はない。
もはや言葉で諌めることができる段階はとうに過ぎて、レクティファールは完全に相手を敵と認識している。
〈皇剣〉にとって敵とは、原則的に殲滅対象である。〈皇剣〉がその能力を用いて敵に相対すれば、原則通りの結果にしかならないのだ。
そこに、相手の事情を斟酌しようという慈悲はなく、ただ『力』として相手を薙ぎ倒すだけだ。〈皇剣〉とは本来そういった兵器なのである。
相手を殲滅し、自分を生かす、ただそのためだけに作られた兵器だった。
ゲッツォは焦燥に身を焦がしていた。
手下どもが拐かした少女が、あの巫女姫であるとすぐに気付いたからだ。
彼は内戦時から皇国の重要人物の顔を覚えるように努めており、リリシアの顔も聖都に篭りきりであるとはいえ、念のために総大主教ミレイディアと共に記憶していたのだ。
それに、巫女姫はあの戦いのあと幾度か市民の前に顔を出している。新聞などでも、その顔を何度も見た。ただ、一緒にいた男のことは知らない。巫女姫の横にいるべき摂政ならば、髪は白いはず。彼の髪は蒼かった。それが、少女の正体を分からなくしていた一因かもしれない。
「くそっ、最後の最後でどじ踏んだ!」
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