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6巻
6-3
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一群の先に、数名の男女が待っていた。
全員が全員長衣を纏い、それぞれの職位に応じた徽章を着けている。
レクティファールが初めて目にする大礼装は、色彩の乏しい門前を彩っていた。
「お帰りなさいませ、摂政殿下」
見慣れた四龍公。一度だけ顔を合わせた皇国両議会の議長。そして陸海空の三軍から派遣された代表者――元帥であったり、参謀本部の本部長であったりしたが、いずれも軍の最高位と言ってもいい――と近衛軍総司令官。
そして彼らの中央、下馬したレクティファールの腰辺りの高さから子どものような声が発せられた。
レクティファールは少し驚いた表情を見せながらも、その発生源となった小さな女性に歩み寄る。
服装こそ文官然とした薄灰色の長衣であったが、その背にある翅は彼女がただの人間種や混血種とは一線を画した種族であることを物語っている。
(妖精……?)
レクティファールは、〈皇剣〉の中の情報でしか彼女の種族を知らなかった。
これまで彼の周りにいた人々の中に、彼女のような、レクティファールが妖精と聞いてすぐに思い浮かべるような姿を持つ者はいなかった。
そして他方、彼女から見てレクティファールほど摂政として未成熟な者もいなかった。
レクティファールが自分を見て微かに表情を変えたことに気付いたが、彼女は何も言わない。誰もが似た反応を示すからだった。
「出迎え大義だった。それで、君は……」
ここにいるということは皇国の中で、或いは皇王個人として欠くべからざる者ということになる。
しかし、彼の中の〈皇剣〉は、彼女の正体について何も明かさない。
それは〈皇剣〉にとって彼女の役割が取るに足らぬものであるからなのか、若しくは〈皇剣〉の持ち主ならば知っていて当たり前のことなのか。
レクティファールの疑問に答えるため、妖精は優雅に腰を折った。
「申し遅れました。わたしは殿下の下で皇王府を取り仕切らせて頂く、ルキーティ・フェル・フェアリオス。初代陛下には、恐れ多くも『友』と呼んでいただいておりました」
「つまり……」
レクティファールは、自分の背丈の半分程度しかないルキーティの顔をじっと見詰める。人とは違う瞳が彼を見返し、その奥底を見透かそうとしているようだった。
「はい、殿下」
彼女の言っていることが事実であれば、彼女はこれまでレクティファールが一度も面識を持たずに、それでも信頼していた人物ということになる。
レクティファールは表情を固く引き締めたまま、内心大いに動揺していた。
彼の中でこれまで形作られてきたひとつの人物像に罅が入った故に。
果たして、ルキーティは先程よりもさらに洗練された仕草で長衣の裾を軽く持ち上げ、今度は貴婦人のようにひとつ会釈をした。
「二代前の皇王陛下の御代より、皇王の直臣たる皇王府、その総裁を任されております」
先入観というのは実に危険なものだと、レクティファールはまたひとつ学習した。
◇ ◇ ◇
皇王府総裁とは、文字通り皇王府を束ねる実務者の最高位である。
皇国の公的――皇王麾下という意味では同じだが、予算上は別――機関である三院とは違い、皇王家の家政機関である皇王府は皇王の私有組織という位置付けになっており、予算の九分九厘は皇王の個人資産から拠出されていた。
残りの一部を皇国政府が負担することで、辛うじて政治的には中立の立場を保っている。全額を皇王家が負担していた場合、政府は皇王府に対して何らかの違法行為がない限り手が出せなくなるし、皇王府は政府に対して大っぴらに口出しができなくなる。公私の区別が曖昧な皇王に対し、それでは円滑な業務ができないということで、現在の形に落ち着いた。
皇王をひとりの貴族として考えた場合、皇王府はその貴族が召抱えている家臣団、近衛軍は貴族軍という見方をすることも可能だ。
だが、その規模は他の皇国貴族と較べるのも馬鹿らしい。たとえそれが貴族筆頭の四龍公だとしても、段違いだった。
実のところ皇王府は、予備の政府としての機能も持っていた。短期間であれば、皇国行政府の職務を代行することもできる。もっともそれは、何らかの理由で皇国行政府の機能が停止し、国民の生活に影響が出ると判断された場合にのみ行われることであった。
「――とはいうものの、今の皇王府は以前ほど大きな組織ではなくなってしまいましたが」
療養のために白龍公の皇都屋敷へ戻ることになったメリエラと別れ、実に四半日も掛けて凱旋式典を終えたレクティファールは、ルキーティの案内で〈星天宮〉の各施設を回りながら、皇王府について説明を受けていた。
そういえば、メリエラの様子がおかしかった気がする――レクティファールの中に存在する並列意識のひとつがそんなことを考えたが、レクティファールという総体にその思考が伝播することはなかった。
彼にとって、最優先すべき事柄とは、これから自分がやらなくてはならない諸々の仕事のことだ。メリエラが気になっていても、それを優先できるだけの能力が今の彼にはない。
(近いうちに、もう一度お見舞いに行くべきかな……)
並列思考はそう考える。
本当ならウィリィアも含めて自分の手元で治療したいのだが、今のような中途半端な立場では守れるものも守れない。
今の仕事を一通り終わらせて、真正面から会いに行こう。
レクティファールの並列思考はそう結論付けた。
ルキーティの言葉は続いている。
「さて、その原因ですが……」
ふわふわと浮かんでレクティファールを先導するルキーティ。どうやら彼女は、他の種族と歩幅が違い過ぎて、他人と同行するときは地面を歩くことをすでに諦めているらしい。
実際、彼女のようにあまりにも他の種族と体格の差が大きい種族の場合、相手との歩調を合わせるために空を飛んだりすることは失礼に当たらない。
「或いは殿下も気付いておられるかもしれませんが、今上皇王の暴政に嫌気が差した職員の離職辞職にあります」
当代皇王の暴政が民を抑圧すれば、その怒りの矛先を向けられるのは皇王本人だけではない。それに協力している――と人々が考える――者たちも当然怨嗟の対象となり得る。
実際に家族が襲われた職員もおり、彼らの危惧は決して的はずれではなかった。
何よりも、彼ら自身が自分たちの行動に疑問を持っていた。それが、大量の離職者を生んだ。
「殿下の御稜威のお陰でしょうか。ここ最近になって職員がだいぶ戻ってきてくれましたが、やはり数が足りません。国外に出てしまった者も少なくありませんし、将来を考えれば、ここで大々的に新規職員を募集するべきでしょうね」
ルキーティは、レクティファールがこの国を変える様々な計画を胸に秘めていることに気付いていた。彼女にその内容を知る術はないが、たとえ今レクティファールが増員に関する考えを持っていなくても、今後、彼の計画を実行することを思えば、皇王府の職員の増強は必要であった。
「殿下がいれば、三院から人を引き抜くことも可能でしょうし」
ふっふっふ、と邪な笑い声を上げるルキーティ。
皇王府の職員は一部税金を予算として使っている建前上、国家職員としての籍を持ち皇国の外部職員ということになっている。だが、実質的には皇王の直臣だった。
彼らには、皇国の公僕である以前に、皇王の直臣であるという自負があった。
皇国政府の行政庁としての皇城を除いた、〈星天宮〉の施設で働く職員は、総て皇王府の職員である。〈星天宮〉が、皇王が執務を行う場所であると同時に皇王家の居城でもあることを考えれば、そこで働く者たちの大半が皇王家の家臣であることに不思議はない。
服装などで区別はできるようになっているが、皇城のことを知らない者たちが見分けるのは難しい。
そのため、親や兄に連れられて〈星天宮〉に訪れた貴族の子弟や、仕事で〈星天宮〉を訪れた商人などが、〈星天宮〉の職員を自分の使用人のように扱うことがあった。
酷い場合だと、〈星天宮〉内で働く侍女に不埒な行為を強要しようとした例もある。
そんな彼らは、皇王府という組織に関しても無知だったとしか言いようがない。
確かに皇王府は皇国の税によって動く機関のひとつではあるが、国政機関ではない。
根本的には皇王が私的に運用する事実上の独立機関なのである。皇国から皇王府に与えられている予算など、結局は繋ぎ止めておくための方便に過ぎない。皇王府は皇国からの予算が止まっても、その機能にほんの一欠片の障害も起こさないだろう。そのようにできている。
そんな皇王府の職員に手を出すということは、その雇用主である皇王の面子に泥を塗ることと同義だった。
皇王家に対して無知な行いをした彼らは、高い授業料を支払って自分の浅慮を学ぶこととなる。貴族であれば実家から勘当されたり、嫡子であれば廃嫡されたりすることもあるし、商人の場合はどれだけ大きな商会であろうと出入り禁止を通告され、刑事事件として訴えられることとなる。
これらは別に皇王府を相手にした場合に限らないが、顔を潰した相手が国家元首であったとなれば当然世間の目はより厳しくなる。
彼らに与えられる本当の罰とは、世間的な信用の失墜なのかもしれない。
「殿下の認識としては、皇王府は自分個人の家臣。皇国の職員は国家元首としての家臣だと思っていただければ良いかと。まあ、担当する範囲の差ですかね」
「つまり君は、私の個人的な使用人ということか」
「はい。わたしからすると国家に雇われた職員ではなく、皇王家や皇王府に雇われた商会員みたいな感覚ですね」
「ふむ、なるほど」
レクティファールは廊下を歩きながらしみじみと頷く。
今ふたりがいるのは〈星天宮〉の一角に位置する皇王府の庁舎であるが、確かに三院の庁舎と比較して見劣りするものではない。むしろ、纏っているその風格などは勝っていると言っていい。
「次に案内するのは〈星天宮〉が誇る大庭園『白』です。他に『紅』『蒼』『黒』がありますが、これらは四公爵家が皇王家に献上した庭であることからその名が付けられました。四公爵家の所領にある自然の風景を模した庭は、一般の客も立ち入れる数少ない施設のひとつです。今日は殿下をご案内するということで『白』のみ公開を中止いたしました」
庭園の入場禁止はそう珍しくはない。
皇王が目にする庭園ということで、年に幾度も大規模な手入れを行うためだ。
「観光客には悪いことをしてしまったな」
「部外者がいては護衛がやりにくいでしょう。無論、殿下がそう仰るのであれば、すぐにでも一般公開を再開しますが」
「いや、そのままで結構」
ルキーティとしては、別にどちらでも良かったのだろう。
近衛としても、摂政の護衛という晴れ舞台が多少面倒になったところで文句は言わないだろう。
実のところ、問題は一般人の方にある。
自分たちが静かに庭を見て回っているときに騒がしい集団――レクティファールやルキーティではなく、護衛たち――が現れたら、いい気分ではいられないはずだ。彼らのことを考えるなら、最初から公開中止にして別の日か、別の場所を見てもらった方が良い。
うんうんと自分を納得させるように何度も頷くレクティファールを横目に、ルキーティは自分たちの周りに護衛以外の存在がないことを確認した。
「――明日は此度の戦の論功行賞、そして反逆罪となった諸侯への皇王家としての評決があります。すでに罪状はお報せしてあると思いますが……」
「今日中に判決の内容を伝える」
下手な部屋で話せば、何処に耳があるか分からない。
だから、こうして何気ない会話の最中に重要な案件を忍ばせるという手段を講じる。
「ならば良いのです。こちらも根回しが必要なもので」
「理解している。明日の評決に呼応して不審な動きを見せている諸侯もいるだろうからな」
「はい、所領で兵を集めている者、この皇都に配下の者を忍び込ませた者もおります――いずれも今上陛下が今の地位に就けた者であるのは、ある意味では幸いでした」
何代も続く名門貴族の叛逆となれば、それは現体制の不備を物語るものだ。完璧な体制など無いが、人々に限りなく完璧であると見せ掛ける必要はある。
その点、ぽっと出の成り上がり貴族であれば処分は容易い。すでに汚泥に塗れた名誉しか持たない今上皇王の責任とすることが可能だからだ。
レクティファール個人としては、死者に鞭打つような真似はできればしたくなかったが、これも皇王の権力を行使した代償だと思っている。
「――此度の戦、最大限利用しなければ。この戦いで落命した総ての人々に報いるためにも」
「御意」
レクティファールはただ呟き。
ルキーティはただ頷く。
今の両者の間にはそれだけで十分だった。
◇ ◇ ◇
摂政を後宮内の自室に送り届けると、ルキーティは部屋に戻り、本の続きを読み始める。
昔は普通の文字すら読めなかったというのに、今では古代語まで簡単に読めるようになってしまった。
全く、時間の流れとは偉大なものだと思う。
「それにしても、あの猊下が乙女になってるとはね……流石に笑い転げそうになったわ」
くくくっ、と低い笑い声を漏らすルキーティ。
後宮で待ち受けていたリリシアは、レクティファールの首っ玉に齧り付き、しばらく離れようとしなかった。
全身でレクティファールを堪能したあと、手作りの夕食を供するということで喜色満面のまま、彼を攫っていった。
「お風呂に入るとか言ってたけど、大丈夫よね?」
一応、レクティファールには手を出さないよう言い含めておいたが、あれでは行動が子ども過ぎて手を出す気にはならないだろうとも思った。
〈星天宮〉内にある小さな離宮に入ったあの陸軍参謀であれば、手を出しても特に問題はない。後宮の侍女たちには、レクティファールを夕食後その離宮に案内するよう通達してあるが、あの巫女姫がそれを許すかどうかは別問題だ。
とりあえず、レクティファールがリリシア相手に本気にならなければ、それで構わない。
「あの白龍公の姫もだいぶ女らしくなってきたし、面白くなりそうね」
摂政と別れるときに見せた、あの子どものようでいて、その実、狂おしいまでの情愛を秘めた表情。
これまでの四龍姫も、自らの愛する男が実は自分を愛する義務を負っていないのだと気付いたとき、同じような表情を浮かべていたものだ。
「若いよねぇ、本当」
自分の気持ちに折り合いがつけられない。自分の感情を自分で制御し切れない。
そういう意味では、あの摂政は実に見事に自分の感情を御している。
「まあ、自分という認識が薄ければ、自然と抱く感情も淡白になるんだけど……」
淡白というよりも、あの男の本質はもっと別にあるのではないか。
「――もう全部決めてある、とか」
自分の中で決まっているのなら、それに関する他のことは視界にも入らない。
その決断方法がどのようなものであったにしても、人は一度決めた物事にある種の信仰を抱くものだ。そしてその信仰が、それからの道を決定する大きな一因となる。
「あんなのが国主になるんだから、面白い国よね、本当に」
そもそも最初の皇からして、彼女から見れば面白い以外の何ものでもなかった。
本来ならひとつに纏まるはずも無かった諸種族をひとつの国家に纏め上げる。
大した力もない人間種と、神さえ殺せる龍種が同じ国に、同じ街に、同じ家に暮らす国。
いや、天敵とさえ言える人間種と龍種が、エルフとダークエルフが、魔族と天族が、嘗て殺し合った種族でさえ愛し合い子どもを成せる国だ。
これを面白いと言わずに何と言う。
「『みんな仲良く笑顔で』――か、そりゃあんたはそれを見て楽しいでしょうが、それを維持するのは大変だよ」
初代皇王の究極の我侭。それが、血を見るより笑顔を見たいというものだ。
彼は自分の国を作り、それを成し遂げようとした。
結果として、歪ではあるが彼の望んだ国は完成した。
そして、歴代の皇王は少しずつ、既成事実という糊で未完成の国の隙間を埋めた。
様々な種族が一緒に暮らすことが当たり前の国へと、二〇〇〇年掛けて育て上げた。
「――そして、今になって妙な〈白〉が現れた、と。さて、四界の主たちは何を考えているのかな」
嘗て初代皇王に協力し、未完成だった〈皇剣〉を完成させた四界の主たち。
彼らの協力がなければ、アルマダ大陸は今の平穏を得ることができなかっただろう。
その平穏が勢力の均衡によって作られたものだとしても、だ。
「普通に考えるなら、二〇〇〇年前のように四界の主が直接何らかの動きを見せなくてはならないような事態が近付いている。或いは、もう事態は動き始めているということだけど」
ルキーティは窓の外、空に浮かぶ灰色の一等大きな月を見上げる。
大気に含まれる粒体魔素などの不純物の割合で季節ごとに色の変わる月たちだが、今の灰色の月というのはときに不吉な物事の前触れと考えられることがある。
部族によっては逆に吉兆とされることもあるから一概に凶兆だとは言い切れないが、ルキーティの中に漠然とした不安が蟠る。
「さて、今のお月様はどっちかな」
ルキーティは本を閉じ、それを本棚に戻す。
その背表紙には『興國記』とあった。
世界をひとつの意志で統一し、古の大帝国を創り上げた人間たちの戦いが記されている。
「人々の願いは容易に世界を動かす。ただ、あの場所に行きたいという小さな願いでもね」
彼女は背表紙を撫ぜ、薄く笑みを浮かべて独語する。
「――あ、そうだ、初代の龍公たちにも手紙を書こうかな。面白いヤツが来たって」
彼らなら、喜んで冷やかしに来るだろう。
それこそ、現在の皇国軍の総てを相手にしても戦争ができるだけの力を持った連中だ。あの二〇〇〇年前の戦いの再現が起こるなら、どうしてもその力が必要になる。
「嫌な想像ばっかり、当たるんだものなぁ」
嘗て起きた、大陸の力ある者たちが死力を尽くして戦った大戦。
その再現は、現在の皇国にとって重荷だ。
今の皇国は国として纏まり過ぎ、あの頃のように皇王の率いる一集団とは言えない。それが国としての成長と言えばその通りだが、国を軍事組織として見るなら不完全なことこの上ない。
あの頃と同じような事態になるなら、対処できないことも起きるかもしれない。
「ま、予感なんて外れる方が多いけどさ」
むしろ、外れて欲しい。
今、彼の夢見た皇国で生きている人々がこれ以上傷付くのを、彼女は到底認められない。
それは彼の最後の笑顔を汚すことだから。
「――――」
ルキーティは窓に両手をつくと、その緑の瞳で月を見上げる。
妖精の彼女は、粒体魔素を透過し、力を持った月の光を糧にすることができる。そして、特定の比率でその月の光と交われば、それは一部の種族に大きな力を与えることもできた。
この星の周囲を巡る一〇を超える月たち。彼らの目には、この小さな大陸の様子はどのように見えているのだろう。
「――せっかく月の人なんて名前なんだから、不吉な兆しも幸運の兆しに変えて欲しいな」
それが、それだけが、彼女が今レクティファールに願うただひとつの個人的な願いだった。
◇ ◇ ◇
「レクティファール様、お湯加減はどうでしょう?」
「は、ちょうど良い湯加減で」
レクティファールは湯に浸かりながら、浴槽の真ん中に鎮座する岩の向こう側にいる、リリシアに答えた。
背中を流します、と鬼気迫る顔で詰め寄る彼女に引き摺られて、後宮の湯殿に足を踏み入れたのは半時間ほど前だ。
当たり前のようについてくる乙女騎士たちに内心怯えながらも、なんとか服を脱いで――もちろん介添えがあった――浴場に入り、そこで待ち受けていたリリシアに背中と頭を洗われた。
婚礼の儀を済ませていないという理由から湯着を着用していたリリシアだが、浴槽に入るときはそれを脱いでしまった。
「恥ずかしくない恥ずかしくない恥ずかしくない」
と、呟きながら自分の背中を擦ってくれるリリシアに、レクティファールはいかなる抵抗もできなかった。一言でも拒絶の言葉を発すれば、途方も無い罪悪感に襲われることになる。
何よりも、レクティファールにとっては久しぶりにリリシアとゆっくり言葉を交わす機会。それを終わらせるのは忍びなかった。
「色々な温泉を各地から引いているそうです。あちらには薬湯もあります。あとでお入りになりますか?」
「まあ、そのときに決めればいいかなと。急ぐものでもないですし」
レクティファールは自分が入っている温泉の成分を分析しながら話を続ける。
極々平凡な泉質は、確かに生き物には様々な効能を与えてくれるだろう。
ただ、レクティファールには無意味であった。どれだけ効能のある温泉でも、兵器には意味が無い。
「リリシアは、いつもこのお風呂にひとりで入っていたのですか?」
レクティファールは周囲を見渡し、先が湯気で見えないほど広大な浴場を眺める。
それこそ数百人が入っても余裕がある浴場には、大小様々な浴槽があった。中には人の目から隔離された浴槽もあったが、その用途については考えないことにした。
「いえ、最初の一日はこちらに入れていただきましたが、二日目以降はもっと小さなお風呂に。他に誰もいませんから、ひとりで入ってもつまらないだけです」
リリシアの声は寂しそうであったが、どこかほっとしているようでもあった。
「神殿でもひとりだけで入っていました。女官は何人も控えていましたし、目が見えないから介添えの方もいましたけど……」
リリシアが多くの『当たり前』を捨ててきたことは知っている。
レクティファールも同じように多くの『当たり前』を放棄した。
その代価として、これだけ見事な浴場で湯に浸かっていられる。
全員が全員長衣を纏い、それぞれの職位に応じた徽章を着けている。
レクティファールが初めて目にする大礼装は、色彩の乏しい門前を彩っていた。
「お帰りなさいませ、摂政殿下」
見慣れた四龍公。一度だけ顔を合わせた皇国両議会の議長。そして陸海空の三軍から派遣された代表者――元帥であったり、参謀本部の本部長であったりしたが、いずれも軍の最高位と言ってもいい――と近衛軍総司令官。
そして彼らの中央、下馬したレクティファールの腰辺りの高さから子どものような声が発せられた。
レクティファールは少し驚いた表情を見せながらも、その発生源となった小さな女性に歩み寄る。
服装こそ文官然とした薄灰色の長衣であったが、その背にある翅は彼女がただの人間種や混血種とは一線を画した種族であることを物語っている。
(妖精……?)
レクティファールは、〈皇剣〉の中の情報でしか彼女の種族を知らなかった。
これまで彼の周りにいた人々の中に、彼女のような、レクティファールが妖精と聞いてすぐに思い浮かべるような姿を持つ者はいなかった。
そして他方、彼女から見てレクティファールほど摂政として未成熟な者もいなかった。
レクティファールが自分を見て微かに表情を変えたことに気付いたが、彼女は何も言わない。誰もが似た反応を示すからだった。
「出迎え大義だった。それで、君は……」
ここにいるということは皇国の中で、或いは皇王個人として欠くべからざる者ということになる。
しかし、彼の中の〈皇剣〉は、彼女の正体について何も明かさない。
それは〈皇剣〉にとって彼女の役割が取るに足らぬものであるからなのか、若しくは〈皇剣〉の持ち主ならば知っていて当たり前のことなのか。
レクティファールの疑問に答えるため、妖精は優雅に腰を折った。
「申し遅れました。わたしは殿下の下で皇王府を取り仕切らせて頂く、ルキーティ・フェル・フェアリオス。初代陛下には、恐れ多くも『友』と呼んでいただいておりました」
「つまり……」
レクティファールは、自分の背丈の半分程度しかないルキーティの顔をじっと見詰める。人とは違う瞳が彼を見返し、その奥底を見透かそうとしているようだった。
「はい、殿下」
彼女の言っていることが事実であれば、彼女はこれまでレクティファールが一度も面識を持たずに、それでも信頼していた人物ということになる。
レクティファールは表情を固く引き締めたまま、内心大いに動揺していた。
彼の中でこれまで形作られてきたひとつの人物像に罅が入った故に。
果たして、ルキーティは先程よりもさらに洗練された仕草で長衣の裾を軽く持ち上げ、今度は貴婦人のようにひとつ会釈をした。
「二代前の皇王陛下の御代より、皇王の直臣たる皇王府、その総裁を任されております」
先入観というのは実に危険なものだと、レクティファールはまたひとつ学習した。
◇ ◇ ◇
皇王府総裁とは、文字通り皇王府を束ねる実務者の最高位である。
皇国の公的――皇王麾下という意味では同じだが、予算上は別――機関である三院とは違い、皇王家の家政機関である皇王府は皇王の私有組織という位置付けになっており、予算の九分九厘は皇王の個人資産から拠出されていた。
残りの一部を皇国政府が負担することで、辛うじて政治的には中立の立場を保っている。全額を皇王家が負担していた場合、政府は皇王府に対して何らかの違法行為がない限り手が出せなくなるし、皇王府は政府に対して大っぴらに口出しができなくなる。公私の区別が曖昧な皇王に対し、それでは円滑な業務ができないということで、現在の形に落ち着いた。
皇王をひとりの貴族として考えた場合、皇王府はその貴族が召抱えている家臣団、近衛軍は貴族軍という見方をすることも可能だ。
だが、その規模は他の皇国貴族と較べるのも馬鹿らしい。たとえそれが貴族筆頭の四龍公だとしても、段違いだった。
実のところ皇王府は、予備の政府としての機能も持っていた。短期間であれば、皇国行政府の職務を代行することもできる。もっともそれは、何らかの理由で皇国行政府の機能が停止し、国民の生活に影響が出ると判断された場合にのみ行われることであった。
「――とはいうものの、今の皇王府は以前ほど大きな組織ではなくなってしまいましたが」
療養のために白龍公の皇都屋敷へ戻ることになったメリエラと別れ、実に四半日も掛けて凱旋式典を終えたレクティファールは、ルキーティの案内で〈星天宮〉の各施設を回りながら、皇王府について説明を受けていた。
そういえば、メリエラの様子がおかしかった気がする――レクティファールの中に存在する並列意識のひとつがそんなことを考えたが、レクティファールという総体にその思考が伝播することはなかった。
彼にとって、最優先すべき事柄とは、これから自分がやらなくてはならない諸々の仕事のことだ。メリエラが気になっていても、それを優先できるだけの能力が今の彼にはない。
(近いうちに、もう一度お見舞いに行くべきかな……)
並列思考はそう考える。
本当ならウィリィアも含めて自分の手元で治療したいのだが、今のような中途半端な立場では守れるものも守れない。
今の仕事を一通り終わらせて、真正面から会いに行こう。
レクティファールの並列思考はそう結論付けた。
ルキーティの言葉は続いている。
「さて、その原因ですが……」
ふわふわと浮かんでレクティファールを先導するルキーティ。どうやら彼女は、他の種族と歩幅が違い過ぎて、他人と同行するときは地面を歩くことをすでに諦めているらしい。
実際、彼女のようにあまりにも他の種族と体格の差が大きい種族の場合、相手との歩調を合わせるために空を飛んだりすることは失礼に当たらない。
「或いは殿下も気付いておられるかもしれませんが、今上皇王の暴政に嫌気が差した職員の離職辞職にあります」
当代皇王の暴政が民を抑圧すれば、その怒りの矛先を向けられるのは皇王本人だけではない。それに協力している――と人々が考える――者たちも当然怨嗟の対象となり得る。
実際に家族が襲われた職員もおり、彼らの危惧は決して的はずれではなかった。
何よりも、彼ら自身が自分たちの行動に疑問を持っていた。それが、大量の離職者を生んだ。
「殿下の御稜威のお陰でしょうか。ここ最近になって職員がだいぶ戻ってきてくれましたが、やはり数が足りません。国外に出てしまった者も少なくありませんし、将来を考えれば、ここで大々的に新規職員を募集するべきでしょうね」
ルキーティは、レクティファールがこの国を変える様々な計画を胸に秘めていることに気付いていた。彼女にその内容を知る術はないが、たとえ今レクティファールが増員に関する考えを持っていなくても、今後、彼の計画を実行することを思えば、皇王府の職員の増強は必要であった。
「殿下がいれば、三院から人を引き抜くことも可能でしょうし」
ふっふっふ、と邪な笑い声を上げるルキーティ。
皇王府の職員は一部税金を予算として使っている建前上、国家職員としての籍を持ち皇国の外部職員ということになっている。だが、実質的には皇王の直臣だった。
彼らには、皇国の公僕である以前に、皇王の直臣であるという自負があった。
皇国政府の行政庁としての皇城を除いた、〈星天宮〉の施設で働く職員は、総て皇王府の職員である。〈星天宮〉が、皇王が執務を行う場所であると同時に皇王家の居城でもあることを考えれば、そこで働く者たちの大半が皇王家の家臣であることに不思議はない。
服装などで区別はできるようになっているが、皇城のことを知らない者たちが見分けるのは難しい。
そのため、親や兄に連れられて〈星天宮〉に訪れた貴族の子弟や、仕事で〈星天宮〉を訪れた商人などが、〈星天宮〉の職員を自分の使用人のように扱うことがあった。
酷い場合だと、〈星天宮〉内で働く侍女に不埒な行為を強要しようとした例もある。
そんな彼らは、皇王府という組織に関しても無知だったとしか言いようがない。
確かに皇王府は皇国の税によって動く機関のひとつではあるが、国政機関ではない。
根本的には皇王が私的に運用する事実上の独立機関なのである。皇国から皇王府に与えられている予算など、結局は繋ぎ止めておくための方便に過ぎない。皇王府は皇国からの予算が止まっても、その機能にほんの一欠片の障害も起こさないだろう。そのようにできている。
そんな皇王府の職員に手を出すということは、その雇用主である皇王の面子に泥を塗ることと同義だった。
皇王家に対して無知な行いをした彼らは、高い授業料を支払って自分の浅慮を学ぶこととなる。貴族であれば実家から勘当されたり、嫡子であれば廃嫡されたりすることもあるし、商人の場合はどれだけ大きな商会であろうと出入り禁止を通告され、刑事事件として訴えられることとなる。
これらは別に皇王府を相手にした場合に限らないが、顔を潰した相手が国家元首であったとなれば当然世間の目はより厳しくなる。
彼らに与えられる本当の罰とは、世間的な信用の失墜なのかもしれない。
「殿下の認識としては、皇王府は自分個人の家臣。皇国の職員は国家元首としての家臣だと思っていただければ良いかと。まあ、担当する範囲の差ですかね」
「つまり君は、私の個人的な使用人ということか」
「はい。わたしからすると国家に雇われた職員ではなく、皇王家や皇王府に雇われた商会員みたいな感覚ですね」
「ふむ、なるほど」
レクティファールは廊下を歩きながらしみじみと頷く。
今ふたりがいるのは〈星天宮〉の一角に位置する皇王府の庁舎であるが、確かに三院の庁舎と比較して見劣りするものではない。むしろ、纏っているその風格などは勝っていると言っていい。
「次に案内するのは〈星天宮〉が誇る大庭園『白』です。他に『紅』『蒼』『黒』がありますが、これらは四公爵家が皇王家に献上した庭であることからその名が付けられました。四公爵家の所領にある自然の風景を模した庭は、一般の客も立ち入れる数少ない施設のひとつです。今日は殿下をご案内するということで『白』のみ公開を中止いたしました」
庭園の入場禁止はそう珍しくはない。
皇王が目にする庭園ということで、年に幾度も大規模な手入れを行うためだ。
「観光客には悪いことをしてしまったな」
「部外者がいては護衛がやりにくいでしょう。無論、殿下がそう仰るのであれば、すぐにでも一般公開を再開しますが」
「いや、そのままで結構」
ルキーティとしては、別にどちらでも良かったのだろう。
近衛としても、摂政の護衛という晴れ舞台が多少面倒になったところで文句は言わないだろう。
実のところ、問題は一般人の方にある。
自分たちが静かに庭を見て回っているときに騒がしい集団――レクティファールやルキーティではなく、護衛たち――が現れたら、いい気分ではいられないはずだ。彼らのことを考えるなら、最初から公開中止にして別の日か、別の場所を見てもらった方が良い。
うんうんと自分を納得させるように何度も頷くレクティファールを横目に、ルキーティは自分たちの周りに護衛以外の存在がないことを確認した。
「――明日は此度の戦の論功行賞、そして反逆罪となった諸侯への皇王家としての評決があります。すでに罪状はお報せしてあると思いますが……」
「今日中に判決の内容を伝える」
下手な部屋で話せば、何処に耳があるか分からない。
だから、こうして何気ない会話の最中に重要な案件を忍ばせるという手段を講じる。
「ならば良いのです。こちらも根回しが必要なもので」
「理解している。明日の評決に呼応して不審な動きを見せている諸侯もいるだろうからな」
「はい、所領で兵を集めている者、この皇都に配下の者を忍び込ませた者もおります――いずれも今上陛下が今の地位に就けた者であるのは、ある意味では幸いでした」
何代も続く名門貴族の叛逆となれば、それは現体制の不備を物語るものだ。完璧な体制など無いが、人々に限りなく完璧であると見せ掛ける必要はある。
その点、ぽっと出の成り上がり貴族であれば処分は容易い。すでに汚泥に塗れた名誉しか持たない今上皇王の責任とすることが可能だからだ。
レクティファール個人としては、死者に鞭打つような真似はできればしたくなかったが、これも皇王の権力を行使した代償だと思っている。
「――此度の戦、最大限利用しなければ。この戦いで落命した総ての人々に報いるためにも」
「御意」
レクティファールはただ呟き。
ルキーティはただ頷く。
今の両者の間にはそれだけで十分だった。
◇ ◇ ◇
摂政を後宮内の自室に送り届けると、ルキーティは部屋に戻り、本の続きを読み始める。
昔は普通の文字すら読めなかったというのに、今では古代語まで簡単に読めるようになってしまった。
全く、時間の流れとは偉大なものだと思う。
「それにしても、あの猊下が乙女になってるとはね……流石に笑い転げそうになったわ」
くくくっ、と低い笑い声を漏らすルキーティ。
後宮で待ち受けていたリリシアは、レクティファールの首っ玉に齧り付き、しばらく離れようとしなかった。
全身でレクティファールを堪能したあと、手作りの夕食を供するということで喜色満面のまま、彼を攫っていった。
「お風呂に入るとか言ってたけど、大丈夫よね?」
一応、レクティファールには手を出さないよう言い含めておいたが、あれでは行動が子ども過ぎて手を出す気にはならないだろうとも思った。
〈星天宮〉内にある小さな離宮に入ったあの陸軍参謀であれば、手を出しても特に問題はない。後宮の侍女たちには、レクティファールを夕食後その離宮に案内するよう通達してあるが、あの巫女姫がそれを許すかどうかは別問題だ。
とりあえず、レクティファールがリリシア相手に本気にならなければ、それで構わない。
「あの白龍公の姫もだいぶ女らしくなってきたし、面白くなりそうね」
摂政と別れるときに見せた、あの子どものようでいて、その実、狂おしいまでの情愛を秘めた表情。
これまでの四龍姫も、自らの愛する男が実は自分を愛する義務を負っていないのだと気付いたとき、同じような表情を浮かべていたものだ。
「若いよねぇ、本当」
自分の気持ちに折り合いがつけられない。自分の感情を自分で制御し切れない。
そういう意味では、あの摂政は実に見事に自分の感情を御している。
「まあ、自分という認識が薄ければ、自然と抱く感情も淡白になるんだけど……」
淡白というよりも、あの男の本質はもっと別にあるのではないか。
「――もう全部決めてある、とか」
自分の中で決まっているのなら、それに関する他のことは視界にも入らない。
その決断方法がどのようなものであったにしても、人は一度決めた物事にある種の信仰を抱くものだ。そしてその信仰が、それからの道を決定する大きな一因となる。
「あんなのが国主になるんだから、面白い国よね、本当に」
そもそも最初の皇からして、彼女から見れば面白い以外の何ものでもなかった。
本来ならひとつに纏まるはずも無かった諸種族をひとつの国家に纏め上げる。
大した力もない人間種と、神さえ殺せる龍種が同じ国に、同じ街に、同じ家に暮らす国。
いや、天敵とさえ言える人間種と龍種が、エルフとダークエルフが、魔族と天族が、嘗て殺し合った種族でさえ愛し合い子どもを成せる国だ。
これを面白いと言わずに何と言う。
「『みんな仲良く笑顔で』――か、そりゃあんたはそれを見て楽しいでしょうが、それを維持するのは大変だよ」
初代皇王の究極の我侭。それが、血を見るより笑顔を見たいというものだ。
彼は自分の国を作り、それを成し遂げようとした。
結果として、歪ではあるが彼の望んだ国は完成した。
そして、歴代の皇王は少しずつ、既成事実という糊で未完成の国の隙間を埋めた。
様々な種族が一緒に暮らすことが当たり前の国へと、二〇〇〇年掛けて育て上げた。
「――そして、今になって妙な〈白〉が現れた、と。さて、四界の主たちは何を考えているのかな」
嘗て初代皇王に協力し、未完成だった〈皇剣〉を完成させた四界の主たち。
彼らの協力がなければ、アルマダ大陸は今の平穏を得ることができなかっただろう。
その平穏が勢力の均衡によって作られたものだとしても、だ。
「普通に考えるなら、二〇〇〇年前のように四界の主が直接何らかの動きを見せなくてはならないような事態が近付いている。或いは、もう事態は動き始めているということだけど」
ルキーティは窓の外、空に浮かぶ灰色の一等大きな月を見上げる。
大気に含まれる粒体魔素などの不純物の割合で季節ごとに色の変わる月たちだが、今の灰色の月というのはときに不吉な物事の前触れと考えられることがある。
部族によっては逆に吉兆とされることもあるから一概に凶兆だとは言い切れないが、ルキーティの中に漠然とした不安が蟠る。
「さて、今のお月様はどっちかな」
ルキーティは本を閉じ、それを本棚に戻す。
その背表紙には『興國記』とあった。
世界をひとつの意志で統一し、古の大帝国を創り上げた人間たちの戦いが記されている。
「人々の願いは容易に世界を動かす。ただ、あの場所に行きたいという小さな願いでもね」
彼女は背表紙を撫ぜ、薄く笑みを浮かべて独語する。
「――あ、そうだ、初代の龍公たちにも手紙を書こうかな。面白いヤツが来たって」
彼らなら、喜んで冷やかしに来るだろう。
それこそ、現在の皇国軍の総てを相手にしても戦争ができるだけの力を持った連中だ。あの二〇〇〇年前の戦いの再現が起こるなら、どうしてもその力が必要になる。
「嫌な想像ばっかり、当たるんだものなぁ」
嘗て起きた、大陸の力ある者たちが死力を尽くして戦った大戦。
その再現は、現在の皇国にとって重荷だ。
今の皇国は国として纏まり過ぎ、あの頃のように皇王の率いる一集団とは言えない。それが国としての成長と言えばその通りだが、国を軍事組織として見るなら不完全なことこの上ない。
あの頃と同じような事態になるなら、対処できないことも起きるかもしれない。
「ま、予感なんて外れる方が多いけどさ」
むしろ、外れて欲しい。
今、彼の夢見た皇国で生きている人々がこれ以上傷付くのを、彼女は到底認められない。
それは彼の最後の笑顔を汚すことだから。
「――――」
ルキーティは窓に両手をつくと、その緑の瞳で月を見上げる。
妖精の彼女は、粒体魔素を透過し、力を持った月の光を糧にすることができる。そして、特定の比率でその月の光と交われば、それは一部の種族に大きな力を与えることもできた。
この星の周囲を巡る一〇を超える月たち。彼らの目には、この小さな大陸の様子はどのように見えているのだろう。
「――せっかく月の人なんて名前なんだから、不吉な兆しも幸運の兆しに変えて欲しいな」
それが、それだけが、彼女が今レクティファールに願うただひとつの個人的な願いだった。
◇ ◇ ◇
「レクティファール様、お湯加減はどうでしょう?」
「は、ちょうど良い湯加減で」
レクティファールは湯に浸かりながら、浴槽の真ん中に鎮座する岩の向こう側にいる、リリシアに答えた。
背中を流します、と鬼気迫る顔で詰め寄る彼女に引き摺られて、後宮の湯殿に足を踏み入れたのは半時間ほど前だ。
当たり前のようについてくる乙女騎士たちに内心怯えながらも、なんとか服を脱いで――もちろん介添えがあった――浴場に入り、そこで待ち受けていたリリシアに背中と頭を洗われた。
婚礼の儀を済ませていないという理由から湯着を着用していたリリシアだが、浴槽に入るときはそれを脱いでしまった。
「恥ずかしくない恥ずかしくない恥ずかしくない」
と、呟きながら自分の背中を擦ってくれるリリシアに、レクティファールはいかなる抵抗もできなかった。一言でも拒絶の言葉を発すれば、途方も無い罪悪感に襲われることになる。
何よりも、レクティファールにとっては久しぶりにリリシアとゆっくり言葉を交わす機会。それを終わらせるのは忍びなかった。
「色々な温泉を各地から引いているそうです。あちらには薬湯もあります。あとでお入りになりますか?」
「まあ、そのときに決めればいいかなと。急ぐものでもないですし」
レクティファールは自分が入っている温泉の成分を分析しながら話を続ける。
極々平凡な泉質は、確かに生き物には様々な効能を与えてくれるだろう。
ただ、レクティファールには無意味であった。どれだけ効能のある温泉でも、兵器には意味が無い。
「リリシアは、いつもこのお風呂にひとりで入っていたのですか?」
レクティファールは周囲を見渡し、先が湯気で見えないほど広大な浴場を眺める。
それこそ数百人が入っても余裕がある浴場には、大小様々な浴槽があった。中には人の目から隔離された浴槽もあったが、その用途については考えないことにした。
「いえ、最初の一日はこちらに入れていただきましたが、二日目以降はもっと小さなお風呂に。他に誰もいませんから、ひとりで入ってもつまらないだけです」
リリシアの声は寂しそうであったが、どこかほっとしているようでもあった。
「神殿でもひとりだけで入っていました。女官は何人も控えていましたし、目が見えないから介添えの方もいましたけど……」
リリシアが多くの『当たり前』を捨ててきたことは知っている。
レクティファールも同じように多くの『当たり前』を放棄した。
その代価として、これだけ見事な浴場で湯に浸かっていられる。
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