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5巻
5-3
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「グロリエ」
扉を開けて、カリーナが入ってくる。その手には水差し、そしてほんの少しの酒。
「お婆さま、起きておいでだったのですか」
「年寄りの朝は早いもの」
嘘だった。従兵に、もしもグロリエが深夜に起きたら、どんな時間であろうと自分に報告するよう言い含めておいたのだ。
カリーナは、孫娘が自分の予想よりも精神的に追い詰められていることに気付いていた。
敗北らしい敗北を経験しなかったグロリエに、今回の戦いはこれ以上ない敗北となった。
その敗北がグロリエを苛んでいる。
自分の慢心が兵たちを無駄死にさせたのではないか、そうグロリエは考えていた。
「お婆さま。レクティファールは自分の仕事をしたのだ。余はそれをしなかった。ただそれだけの違いだというのに、数千の兵士を余計に死なせた。未亡人を作り、孤児を作った」
今まではその数を考えたこともなかった。必要な犠牲と割り切っていたし、それが間違っていたということもないだろう。
敢えて言うならば、それこそが指揮官に必要な精神であった。
「必要な犠牲とは何か、考えさせられた」
カリーナはその言葉に内心で喝采を送りたくなった。同時に、犠牲になった兵士たちに心から礼を言いたかった。
あなた方の犠牲のお陰で、将来の何倍もの犠牲が減らせたと。
死んだ兵士たちはそう言われて怒りを見せるだろうか、それともグロリエの役に立ったと喜ぶだろうか。
どちらであっても構わない。
カリーナは彼らに心からの賞賛を送るだけだ。
「目先の犠牲を減らしたところで、最後にその何倍もの犠牲を生んでは意味が無い。逆に、目先の犠牲によって後の大きな犠牲を回避することができるなら、そちらの方がいい――お婆さま、余は間違っているだろうか」
無用な犠牲を嫌う指揮官は兵士に信頼される。彼らとて死ぬことは理解していても、無駄死にだけはしたくないと思っていた。
指揮官がその意識を共有していることが、兵士たちに信頼される一つの条件だった。
「間違ってはいないでしょう。あなたは正しい。だけど、それは兵士たちには明かせないこと」
「彼らは自分たちが予定された犠牲だと知りたくない。生き残り、帰りたいということか」
グロリエは寝台に座り、祖母が差し出した水を飲んだ。
汗によって肌に張り付いた夜着を疎ましく思いながら、グロリエはほっと一息ついた。
「死というのは、ああも恐ろしいことなのだな」
レクティファールと剣を交え、初めて彼女の本能は死を想定した。
戦いの中で高揚した精神の中に隠されていた死への恐怖。グロリエは犠牲となった兵士たちとそれを結び付け、悪夢を見る。
「余は、レクティファールにとって取るに足らないのか」
「〈皇剣〉と我々では、そもそもの地力が違います。我々がどう足掻いても龍族を殺すのが精一杯なのに対し、〈皇剣〉は文明を破壊する力を持っている。兵器としての目的が違うの」
寝台に座り、意気消沈する孫娘を抱き締めるカリーナ。そういえば、孫娘を抱いたのはいつ以来であろうか。
(当たり前のことをせず、当たり前のことを理解しろという方が愚かなのかもしれないわね)
もしかしたら、帝王はグロリエが誰かと契りを交わすことは難しいと考えているのかもしれない。
グロリエはその力によって多くを失ってきた。家族という概念もその一つだ。
「お婆さま、お婆さまはどうやって戦い方を覚えたのですか」
幼い頃のような口調に戻るグロリエ。カリーナはその頭を撫で、自分たちの教育が失敗だったと認めた。
忘れていたのではない、最初から思い付かなかった。
グロリエは龍人族である前にヒトだった。ヒトとして育て、その上で龍人族として育てるべきだった。
そうすれば、彼女はもっと早く成長していただろう。兵士たちの犠牲も減らせたかもしれない。
帝族は帝族として、軍人は軍人として教育されて然るべきであるが、その教育が人としてのそれに優先されるようでは意味が無い。
そんな前時代じみた教育がまかり通るほど、帝国は野蛮ではない。
「わたしは……あなたと同じように戦場で多くを学んだ。一兵卒として、下士官として、士官として、将軍として、今も学び続けているわ」
グロリエは優しい。
帝族であるためにそんなことに気付く者は少ないが、間違いなく誰かを愛せる。
カリーナもその娘も、誰かを愛し、そしてグロリエへと血が繋がったのだから。
「レクティファール殿は良い敵手だったのでしょう。ならば、そこから学びなさい。彼もきっと、あなたから多くを学んでいるはず」
好敵手とはそういうものだ。
相手を育て、相手に育てられる。限りなくお互いを高め合う存在。
カリーナはそんな人物に出会えなかったが、グロリエは出会った。
「多くを学びなさい、グロリエ。わたしが教えられることならなんでも教えてあげるから。でも今はお休み」
果たしてそれがグロリエの幸福に繋がるのか、カリーナには確信が持てなかった。
「分かった、お婆さま」
素直に頷き、グロリエは寝台に横になる。
すぐに寝息を立て始めた孫娘に、カリーナは微笑んだ。
「――本国に戻れば、否応なくあなたは嵐の只中に飛び込む。だから今は、ゆっくり休みなさい」
敗戦によってグロリエの地位は揺れている。
他の次期帝王候補たちが、今回の敗報を利用しないはずはない。
「身内で足を引っ張る余裕などありはしないというのに……まったく呑気なもの」
今回の敗戦を受けて、国内の反抗勢力が息を吹き返したという。これまで圧倒的な、不敗と言ってもいい帝国の軍事力に抑え付けられていた人々が、自分たちも勝てるのではないかという希望を抱いた。
「それは、危険なこと」
過ぎたる希望は劇毒である。
夢想と理想の区別もつかない者たちが、あやふやな希望を抱いて帝国に逆らう。カリーナとて彼らの感情を理解できない訳ではないが、不確かな希望で生命を落とし、彼らは幸せだったのであろうか。
「軍の中も、同じ」
軍の末端では、上官への反抗が増えているという。兵士の中には帝国によって併呑された国々の民も含まれている。
彼らは帝国内部での栄達によって以前の生活を取り戻そうとしていたが、別の方法を選ぶ者たちが現れ始めた。
「面倒なことになるわね」
グロリエの軍には、そういった地域の出身者が多い。幸いなことに、彼らはグロリエ個人に対する忠誠によって組織を形成している。そのため、今のところ第三軍集団で目立った反乱は起きていない。
しかし、この敗北を理由にグロリエが第三軍集団司令官の地位を追われたら、或いは彼らがグロリエ以外の軍に転属させられたら、どうなるか分からない。
「陛下に、久しぶりに手紙を書きましょう」
義理の息子でもある帝王ならば、軍の現状を正しく理解できるだろう。
彼は反抗によって帝位を得た男だ。抑え付けられた者たちが起き上がるときの力がどれほど強大になるか、よく理解している。
「可愛いグロリエ」
孫娘の頬に触れ、カリーナは祖母の顔になる。
数多の戦場で返り血を浴び、鬼神と呼ばれた女性が得た幸福が、人の形になって目の前にある。彼女はそれを、誰にも奪わせるつもりはなかった。
「大丈夫」
カリーナは、帝王以外にも手紙を送ることにした。
その人物なら、現状を理解した上で動くことができ、信頼も置ける。
「あなたは愛されているから」
両親に、兵に、そして祖母や兄に。
運命さえ、きっとこの姫君を愛するだろう。
「あの青年があなたの好敵手となったことも、きっと運命に愛された証拠」
彼らは、双方共に英雄になるであろう。
数百年、数千年後も名の残る英雄に。
「わたしの残りの人生、あなたに賭けてみましょう」
血に塗れた自分を祖母と呼んで慕う姫君を撫でながら、老いたる〈龍殺し〉は決意した。
第二章 巨神の渓谷
「橋? それがどうした?」
レクティファールが執務室で書類を片付けていると、伝令の兵士が汗だくになって駆け込んできた。
どうやら軍司令部から直接伝令に走らされたらしい。
通信でも可能な報告をわざわざ伝令に託すことが、軍司令部の困惑と動揺を示している。
「ここから東へと向かう街道に、渓谷を渡る橋があるのです。それが何者かに落とされました」
「ほう……」
誰かに落とされた、と聞き、レクティファールの表情が変わる。
〈ウィルマグス〉の東には、天狼山脈があり、そこから流れ出す雪解け水によって深い渓谷が形成されている。その渓谷には天狼山脈方面の各地に点在する集落の生命線とも言える橋が何本も掛かっていた。
「落とされた橋は東方地域の大動脈ともいえるチェイル大橋。現在ガラハ中将指揮の下、工兵部隊が編成を行っております」
しかし、ここで工兵部隊が架橋を行ったところで、再び落とされては意味が無い。
その原因を排除しなくては、皇国の新領地経営に暗い影を落とすことになるだろう。
「それで、橋を落としたのは誰か。軍はそれについていかなる意見を持っている」
レクティファールにとって、この一件は単なる軍事的障害ではない。政治的な障害だ。
皇国の新たな領地での運営を妨害するのであれば、それはいかなる手段をもってしても排除するべきことだった。
「――は、それが」
伝令はこの件についての軍の意見を携えていた。しかし、それを口に出すことができなかった。彼自身が、その意見に疑念を抱いていたのだ。
ただ、一介の伝令である彼にそれを判断する権限はなく、ただ言われるがままに自分の仕事を果たすだけであった。
「渓谷にて巨神族の姿が確認され、その移動によって橋が破壊されたものと考えられます」
巨神族。それは龍族と同じように他の世界からこの世界へと移り住んだ者たちだと言われている。
巨大な体躯は城よりも大きい。しかしアルマダ大陸で確認された個体は僅かに六体しかいない。
今回発見された個体は、七体目ということになる。
「神々の末裔か」
「はい。我々の祖先でもあると言われております」
巨人族の近衛軍軍曹。ガーリー・フィリポはレクティファールの言葉に頷いた。
彼らも巨人と呼ばれているが、その身体はせいぜい三メイテル弱までしかない。それに対し、巨神族はその十倍だ。
「彼らは自分たちの縄張りから出て来ません。皇国では、グラオンに一柱おられるだけのはずです」
「帝国領だったことを差し引いても、巨神族ほどの存在を隠し通せるとは思えない。どういうことだ」
レクティファールの言葉に、集まった近衛軍と陸軍の幕僚たちが押し黙る。
彼らは巨神族と相対することを想定していない。巨神族は個体ごとに異なる能力を持っており、渓谷の巨神はグラオン荒原に住まう一柱とは違う力を持っていると考えられた。
「ガラハ」
「は」
〈パラティオン要塞〉から急遽呼び出されたガラハ・ド・ラグダナは、摂政の求めに応じて自分の意見を述べる。
「考えられる可能性は少ないですが、その中でありえるとするなら、二つ」
「うむ」
レクティファールが頷き、続きを促す。
ガラハは自らの幕僚団が用意した資料を手に取り、その内容を読み上げた。
「一つは、帝国領内の別の場所から移動してきた可能性。帝国の北には、以前から七体目の巨神の噂があったようです。それが何らかの要因で移動してきたと考えることはできます」
ガラハは自分でそう口にしながら、可能性は低いだろうと思った。
巨神族の移動ともなれば、他国であってもそれを知ることができる。古の神々の眷属とはそれだけの力を持ち、設備さえあれば大陸のどこからでもその行動を感知することができるのだ。
「もう一つの可能性は、初めから天狼山脈に休眠状態で存在していたというものです」
「莫迦な! 巨神族の存在はいずれの国にとっても国家の安全保障上見過ごせる要素ではない。それが今まで気付かれずにいたなど……」
ガラハの言葉を遮ったのは、北方総軍から派遣されてきた参謀の一人だ。
北方総軍参謀総長に補されている、陸軍中将ビスマルク・ツー・ニュルンブルグ。ガラハの同窓であった。
「――ニュルンブルグ。参謀としての君には期待している。相手が巨神族ということで昂ぶるのも分かるが、私のような若造にも理解できるよう議事を進めてはくれないか」
主君に窘められたビスマルクは一瞬顔を赤らめたが、レクティファールの言葉に幾らかの気遣いを感じて黙りこむ。そして、椅子に深く腰を沈めて告げた。
「ラグダナ。貴官の私見を伺いたい」
同窓の言葉に頷いてみせ、ガラハは上座に座るレクティファールに向き直る。
「この地域はこれまで、我国と帝国の緩衝地帯として機能していました。そのため、この地域に対する諸々の調査は行われておりません。それは領土的野心を示しているという批判を避けるためです」
「うん。それは理解できた。では何故、これまで姿を見せなかった巨神が姿を現した?」
ガラハの隣に座っていた一人の技官が起立する。
「君は?」
「は、殿下。軍研究所先史遺物調査部主任研究員、アイヴィルと申します。今回の一件について陸軍から協力要請を受け、こちらに」
「なるほど。では、説明を頼めるか」
「ははっ」
アイヴィルは部屋の照明を落とすよう衛兵に合図を送り、会議卓の中央上にこの地域の立体模型を投影する。
「今回落とされた橋の位置はここです」
〈ウィルマグス〉の東、山脈の端に近い峡谷に赤い光点が浮かぶ。
その道は天狼山脈の麓の街々と〈ウィルマグス〉を繋ぐ大動脈であり、帝国との戦いでは物資の輸送路となる街道であった。
近いうちに周辺の鉱脈の調査が行われ、各種鉱物の採掘が始まる予定の地域でもあった。
「この地下には、我々が第一種魔導体と呼ぶ高効率性魔法誘導体の『魔法銀』の鉱脈があります。周囲の魔力を吸収して生きる巨神族であれば、この辺りに眠っていたと考えるのが妥当です。大深度の龍脈から『魔法銀』の鉱脈を通じて魔力を得られますから」
アイヴィルは自分の言葉を周囲の者たちが理解しているか確認するために周囲を見回し、何名かに睨まれた。
軍人は質問に対して簡潔で明確な返答をすることを美徳とする。学者らしいアイヴィルの言葉は好みではないらしい。
「――失礼、では殿下の質問にお答えいたします」
「うん」
アイヴィルは再度模型に目をやり、その鉱脈を指し示す。
その鉱脈は地下に潜りながらも、〈ウィルマグス〉の近傍まで延びていた。
「この辺りは地盤が不安定で採掘には適しませんが、間違いなく鉱脈があります。魔力を伝導する鉱脈が、大型の魔導炉の地下に存在したのです」
大型の魔導炉。
それは帝国の対〈パラティオン要塞〉兵器の動力源であった。現在は解体作業が進められている。
「発射の際、おそらく魔導炉から溢れた魔力が鉱脈に流れ込んだのでしょう。帝国の魔導炉技術は稚拙です。魔力の遮蔽が完全ではなかった。これまで安定的に供給されていた魔力が突然増加すれば――」
「巨神族が目を覚ます可能性はある」
ビスマルクが苦虫を噛み潰したような顔で唸る。
アイヴィルは自分が責められた訳ではないというのに、肩を縮こませた。
「そ、その通りです。それに、先ほどガラハ中将が仰った北の七体目の巨神族の噂ですが、これはひょっとしたらこの地域の噂が北に移動したものかもしれません」
アイヴィルは別の資料を投影する。
今度は皇国国内のものであった。
「グラオンには巨神〈ヘイパス〉殿がおります。ですから、天狼山脈の巨神の噂は近い地域の〈ヘイパス〉殿と混同された可能性が高く、帝国に伝わる北の巨神族の噂はその名残なのではないかと」
「南下した噂は〈ヘイパス〉殿だと誤認されたために消え、帝国側の、北へと広がった噂だけが残った。そういうことか」
「はい」
噂というよりも、巨神族に関するそれは伝承のような扱いになっていた。
何故噂が北に移動したのかと言えば、この地域が紛争地帯となったことで北へと疎開した者たちが、巨神信仰を持っていたことが原因だろう。
「ともあれ、この地に巨神族がいることは分かった。では、それについてどのような対応をとるか」
レクティファールが参加者を見る。
軍人たちは顔を顰めて腕を組んだり、唸り声を上げる。官僚たちは軍人たちのその様子に不安そうな表情を隠しきれず、レクティファールとそれに近い位置に座っている者たちだけが平静を保っているだけだった。
「軍はどう考える」
「は」
ビスマルクが立ち上がり、ガラハと視線を交わし合う。どうやら軍としての方針は決まっているらしい。
「端的に申し上げるなら、巨神族を排除することは避けるべきだと考えます。可能か不可能かと問われれば可能ですが、それを実行したときの他の巨神族の反応は良くないでしょう」
「確かに、〈ヘイパス〉殿はくれぐれも同胞をよろしくと言っていたようだ。巨神族は神族とは別の種族であるが、神族の心象も良くないだろう」
レクティファールはビスマルクの意見に同意する。
それを受け、ビスマルクはガラハに頷く。ガラハが立ち上がり、レクティファールの前で威儀を正し、深々と頭を下げた。ビスマルクもそれに同調する。
「これも我軍の不手際、殿下のお手を煩わせることはこの身を裂かれるほどの痛みです。ですが、巨神族への礼を尽くし、その上で新たに殿下の赤子となられた民を守るためには、殿下に七柱目の巨神族との協定を結んでいただく他ありません」
巨神族との協定は皇国にとって二度目のことだ。巨神〈ヘイパス〉については、二代目の皇王が実現させた。
「既に七柱目の巨神の位置を探るため、部隊の編成を進めております。それに、橋を架けなければこの冬を乗り越えられない街や村が出てきましょう」
レクティファールが顎に手を当て、少し考える素振りを見せる。
ガラハはレクティファールがこの策を受け入れないとは考えていなかったが、ビスマルクは懐疑的であった。
レクティファールが協定を結ばなくてはならないという理由はない。仮に協定を結ぶとしても、代理を立てるという方法もある。むしろレクティファールの安全を考えるならそちらの策の方が現実的であった。
「部隊の編成はいつ頃終わる。そして架橋にはどれほどの時間が必要だ」
「部隊編成は明日にでも完了。工兵部隊を同行させ、到着後すぐに基礎工事を開始します。協定が結ばれた後、架橋を行う予定です。工期は一週間。人工は現在の工兵隊が許せる最大数を予定しております」
「一週間か、降雪は?」
「あるでしょうが、工期はそれを含んだ数字です。災害級の降雪にならない限りは問題ありません」
実は、工兵部隊を率いる工兵少将とガラハは長い付き合いで、酒を大量に積み、さらにレクティファールと一緒に仕事をするという名誉を餌にした。
工兵少将が熱心な皇室崇拝者だったお陰で、この工期が可能になったのだ。
現在の〈ウィルマグス〉には、北方総軍の抱える工兵部隊の精鋭たちが集まっている。
「巨神族の問題さえ片付ければ、あとはもう我々が総て殿下の御意のままに取り計らいましょう」
レクティファールはガラハの物言いに苦笑していた。
この男が歯の浮くような台詞を吐くのは、相手をからかう意思があるときだ。
これだけの条件を整えられた以上、レクティファールに拒否という選択肢はない。
「分かった、巨神族と話をしてみよう」
「は」
ガラハが再度頭を下げると、レクティファールはやれやれと肩を竦めた。
「で、あなたは何故ここにおられるか」
「――助太刀」
レクティファールは、自らの執務室の応接用の革椅子で山積みになった麦麺の黒蜂蜜掛けをひとつひとつ頬張る黒龍公を、冷たい半眼で見つめた。
「助太刀は大変結構ですが、その大量の麦麺はどこから」
「あなたの……名前で」
「私の名前で注文したと、そういうことですか、ああそうですか」
さしたる値段ではないので麦麺については問題はないが、アナスターシャがこの地を訪れることは予想していなかった。
「巨神族相手だし、わたし……大きいし」
「大怪獣決戦になるような気がします」
相手の巨神族がどれほどの大きさかは分からないが、三〇メイテルを下ることはないらしい。それが、アナスターシャと激突する。
完全に陸軍とレクティファール、置いてけぼりであった。
「保険として、という認識でよろしいか」
「ん、わたしも巨神族に、恨まれるのは困る」
レクティファールはお茶を淹れ、それを卓に置く。
それに手を伸ばしたアナスターシャはお茶を口に含み、硬直した。
「――――」
そっと磁碗を唇から離し、小さく、本当に小さく目尻に涙を浮かべてレクティファールを見上げた。
「――熱い」
「まさかの猫舌っ!」
レクティファールは近くにあった用箋挟でお茶を扇ぐ。黙々と。
その姿を見ながら、アナスターシャは呟いた。
「熱くなくても……ヒトは生きていける」
「今度は人生観っ!」
叫び、冷ましたお茶を差し出すレクティファール。
一仕事終えたという顔つきだった。
「ありがと」
「どういたしまして」
ちびりちびりとお茶を飲みながら、麦麺を口に運ぶアナスターシャ。
彼女がわざわざこの部屋を訪ねてきた理由を、レクティファールは知らなかった。
「頑張れ」
「ええ、頑張りますとも。ターシャもいることですし、思い切りやりましょう」
アナスターシャは、執務机に戻ったレクティファールの顔を見た。
彼は書類に目を落としながら、笑みを崩さない。
「だいじょうぶ?」
「大丈夫です」
花押を書き込み、私見を添え、纏め、一冊の用箋綴りを作る。
レクティファールはそれを繰り返し、アナスターシャはその様子を見ながら麦麺を食べる。
優しげな表情。しかし、それは戦場で鬼神の如き能面へと変わる。
先の戦いで見せたレクティファールの表情は、アナスターシャから見ても恐ろしいものだった。正直に言えば、怯えた。龍族など関係なく、顔見知りがあまりにも違う面を見せたから。
「――――」
そっと立ち上がり、アナスターシャはレクティファールの傍らに立つ。
横顔も、いつものように温かみのある表情だった。
その横顔に、触れる。
「――? おかわりですか?」
「ううん、確認」
この顔が、あんな形相に変わるのだ。
戦いとは、なんと恐ろしいことか。
「疲れてる?」
「特には」
レクティファールはアナスターシャの好きなようにさせた。
その光景は、仕事をする兄と、彼にかまって欲しい妹にしか見えない。
「レクティファール」
「はい?」
名を呼ばれ、レクティファールは顔を上げる。
その唇に、アナスターシャの人差し指が触れた。
「何か?」
「お呪い」
本来であれば子どものするような呪いであった。
相手の唇に触れ、次にその唇が発した言葉が実現するというもの。
「勝って」
しかし、レクティファールがその呪いを知っているとは思わなかった。
ある種の賭けだった。それくらいで丁度良い。
「勝ちます」
そしてアナスターシャは、その賭けに勝つ。
「ん」
満足そうに頷いたアナスターシャは、レクティファールの頭を撫でる。
やはり、その光景は兄と妹にしか見えなかった。
扉を開けて、カリーナが入ってくる。その手には水差し、そしてほんの少しの酒。
「お婆さま、起きておいでだったのですか」
「年寄りの朝は早いもの」
嘘だった。従兵に、もしもグロリエが深夜に起きたら、どんな時間であろうと自分に報告するよう言い含めておいたのだ。
カリーナは、孫娘が自分の予想よりも精神的に追い詰められていることに気付いていた。
敗北らしい敗北を経験しなかったグロリエに、今回の戦いはこれ以上ない敗北となった。
その敗北がグロリエを苛んでいる。
自分の慢心が兵たちを無駄死にさせたのではないか、そうグロリエは考えていた。
「お婆さま。レクティファールは自分の仕事をしたのだ。余はそれをしなかった。ただそれだけの違いだというのに、数千の兵士を余計に死なせた。未亡人を作り、孤児を作った」
今まではその数を考えたこともなかった。必要な犠牲と割り切っていたし、それが間違っていたということもないだろう。
敢えて言うならば、それこそが指揮官に必要な精神であった。
「必要な犠牲とは何か、考えさせられた」
カリーナはその言葉に内心で喝采を送りたくなった。同時に、犠牲になった兵士たちに心から礼を言いたかった。
あなた方の犠牲のお陰で、将来の何倍もの犠牲が減らせたと。
死んだ兵士たちはそう言われて怒りを見せるだろうか、それともグロリエの役に立ったと喜ぶだろうか。
どちらであっても構わない。
カリーナは彼らに心からの賞賛を送るだけだ。
「目先の犠牲を減らしたところで、最後にその何倍もの犠牲を生んでは意味が無い。逆に、目先の犠牲によって後の大きな犠牲を回避することができるなら、そちらの方がいい――お婆さま、余は間違っているだろうか」
無用な犠牲を嫌う指揮官は兵士に信頼される。彼らとて死ぬことは理解していても、無駄死にだけはしたくないと思っていた。
指揮官がその意識を共有していることが、兵士たちに信頼される一つの条件だった。
「間違ってはいないでしょう。あなたは正しい。だけど、それは兵士たちには明かせないこと」
「彼らは自分たちが予定された犠牲だと知りたくない。生き残り、帰りたいということか」
グロリエは寝台に座り、祖母が差し出した水を飲んだ。
汗によって肌に張り付いた夜着を疎ましく思いながら、グロリエはほっと一息ついた。
「死というのは、ああも恐ろしいことなのだな」
レクティファールと剣を交え、初めて彼女の本能は死を想定した。
戦いの中で高揚した精神の中に隠されていた死への恐怖。グロリエは犠牲となった兵士たちとそれを結び付け、悪夢を見る。
「余は、レクティファールにとって取るに足らないのか」
「〈皇剣〉と我々では、そもそもの地力が違います。我々がどう足掻いても龍族を殺すのが精一杯なのに対し、〈皇剣〉は文明を破壊する力を持っている。兵器としての目的が違うの」
寝台に座り、意気消沈する孫娘を抱き締めるカリーナ。そういえば、孫娘を抱いたのはいつ以来であろうか。
(当たり前のことをせず、当たり前のことを理解しろという方が愚かなのかもしれないわね)
もしかしたら、帝王はグロリエが誰かと契りを交わすことは難しいと考えているのかもしれない。
グロリエはその力によって多くを失ってきた。家族という概念もその一つだ。
「お婆さま、お婆さまはどうやって戦い方を覚えたのですか」
幼い頃のような口調に戻るグロリエ。カリーナはその頭を撫で、自分たちの教育が失敗だったと認めた。
忘れていたのではない、最初から思い付かなかった。
グロリエは龍人族である前にヒトだった。ヒトとして育て、その上で龍人族として育てるべきだった。
そうすれば、彼女はもっと早く成長していただろう。兵士たちの犠牲も減らせたかもしれない。
帝族は帝族として、軍人は軍人として教育されて然るべきであるが、その教育が人としてのそれに優先されるようでは意味が無い。
そんな前時代じみた教育がまかり通るほど、帝国は野蛮ではない。
「わたしは……あなたと同じように戦場で多くを学んだ。一兵卒として、下士官として、士官として、将軍として、今も学び続けているわ」
グロリエは優しい。
帝族であるためにそんなことに気付く者は少ないが、間違いなく誰かを愛せる。
カリーナもその娘も、誰かを愛し、そしてグロリエへと血が繋がったのだから。
「レクティファール殿は良い敵手だったのでしょう。ならば、そこから学びなさい。彼もきっと、あなたから多くを学んでいるはず」
好敵手とはそういうものだ。
相手を育て、相手に育てられる。限りなくお互いを高め合う存在。
カリーナはそんな人物に出会えなかったが、グロリエは出会った。
「多くを学びなさい、グロリエ。わたしが教えられることならなんでも教えてあげるから。でも今はお休み」
果たしてそれがグロリエの幸福に繋がるのか、カリーナには確信が持てなかった。
「分かった、お婆さま」
素直に頷き、グロリエは寝台に横になる。
すぐに寝息を立て始めた孫娘に、カリーナは微笑んだ。
「――本国に戻れば、否応なくあなたは嵐の只中に飛び込む。だから今は、ゆっくり休みなさい」
敗戦によってグロリエの地位は揺れている。
他の次期帝王候補たちが、今回の敗報を利用しないはずはない。
「身内で足を引っ張る余裕などありはしないというのに……まったく呑気なもの」
今回の敗戦を受けて、国内の反抗勢力が息を吹き返したという。これまで圧倒的な、不敗と言ってもいい帝国の軍事力に抑え付けられていた人々が、自分たちも勝てるのではないかという希望を抱いた。
「それは、危険なこと」
過ぎたる希望は劇毒である。
夢想と理想の区別もつかない者たちが、あやふやな希望を抱いて帝国に逆らう。カリーナとて彼らの感情を理解できない訳ではないが、不確かな希望で生命を落とし、彼らは幸せだったのであろうか。
「軍の中も、同じ」
軍の末端では、上官への反抗が増えているという。兵士の中には帝国によって併呑された国々の民も含まれている。
彼らは帝国内部での栄達によって以前の生活を取り戻そうとしていたが、別の方法を選ぶ者たちが現れ始めた。
「面倒なことになるわね」
グロリエの軍には、そういった地域の出身者が多い。幸いなことに、彼らはグロリエ個人に対する忠誠によって組織を形成している。そのため、今のところ第三軍集団で目立った反乱は起きていない。
しかし、この敗北を理由にグロリエが第三軍集団司令官の地位を追われたら、或いは彼らがグロリエ以外の軍に転属させられたら、どうなるか分からない。
「陛下に、久しぶりに手紙を書きましょう」
義理の息子でもある帝王ならば、軍の現状を正しく理解できるだろう。
彼は反抗によって帝位を得た男だ。抑え付けられた者たちが起き上がるときの力がどれほど強大になるか、よく理解している。
「可愛いグロリエ」
孫娘の頬に触れ、カリーナは祖母の顔になる。
数多の戦場で返り血を浴び、鬼神と呼ばれた女性が得た幸福が、人の形になって目の前にある。彼女はそれを、誰にも奪わせるつもりはなかった。
「大丈夫」
カリーナは、帝王以外にも手紙を送ることにした。
その人物なら、現状を理解した上で動くことができ、信頼も置ける。
「あなたは愛されているから」
両親に、兵に、そして祖母や兄に。
運命さえ、きっとこの姫君を愛するだろう。
「あの青年があなたの好敵手となったことも、きっと運命に愛された証拠」
彼らは、双方共に英雄になるであろう。
数百年、数千年後も名の残る英雄に。
「わたしの残りの人生、あなたに賭けてみましょう」
血に塗れた自分を祖母と呼んで慕う姫君を撫でながら、老いたる〈龍殺し〉は決意した。
第二章 巨神の渓谷
「橋? それがどうした?」
レクティファールが執務室で書類を片付けていると、伝令の兵士が汗だくになって駆け込んできた。
どうやら軍司令部から直接伝令に走らされたらしい。
通信でも可能な報告をわざわざ伝令に託すことが、軍司令部の困惑と動揺を示している。
「ここから東へと向かう街道に、渓谷を渡る橋があるのです。それが何者かに落とされました」
「ほう……」
誰かに落とされた、と聞き、レクティファールの表情が変わる。
〈ウィルマグス〉の東には、天狼山脈があり、そこから流れ出す雪解け水によって深い渓谷が形成されている。その渓谷には天狼山脈方面の各地に点在する集落の生命線とも言える橋が何本も掛かっていた。
「落とされた橋は東方地域の大動脈ともいえるチェイル大橋。現在ガラハ中将指揮の下、工兵部隊が編成を行っております」
しかし、ここで工兵部隊が架橋を行ったところで、再び落とされては意味が無い。
その原因を排除しなくては、皇国の新領地経営に暗い影を落とすことになるだろう。
「それで、橋を落としたのは誰か。軍はそれについていかなる意見を持っている」
レクティファールにとって、この一件は単なる軍事的障害ではない。政治的な障害だ。
皇国の新たな領地での運営を妨害するのであれば、それはいかなる手段をもってしても排除するべきことだった。
「――は、それが」
伝令はこの件についての軍の意見を携えていた。しかし、それを口に出すことができなかった。彼自身が、その意見に疑念を抱いていたのだ。
ただ、一介の伝令である彼にそれを判断する権限はなく、ただ言われるがままに自分の仕事を果たすだけであった。
「渓谷にて巨神族の姿が確認され、その移動によって橋が破壊されたものと考えられます」
巨神族。それは龍族と同じように他の世界からこの世界へと移り住んだ者たちだと言われている。
巨大な体躯は城よりも大きい。しかしアルマダ大陸で確認された個体は僅かに六体しかいない。
今回発見された個体は、七体目ということになる。
「神々の末裔か」
「はい。我々の祖先でもあると言われております」
巨人族の近衛軍軍曹。ガーリー・フィリポはレクティファールの言葉に頷いた。
彼らも巨人と呼ばれているが、その身体はせいぜい三メイテル弱までしかない。それに対し、巨神族はその十倍だ。
「彼らは自分たちの縄張りから出て来ません。皇国では、グラオンに一柱おられるだけのはずです」
「帝国領だったことを差し引いても、巨神族ほどの存在を隠し通せるとは思えない。どういうことだ」
レクティファールの言葉に、集まった近衛軍と陸軍の幕僚たちが押し黙る。
彼らは巨神族と相対することを想定していない。巨神族は個体ごとに異なる能力を持っており、渓谷の巨神はグラオン荒原に住まう一柱とは違う力を持っていると考えられた。
「ガラハ」
「は」
〈パラティオン要塞〉から急遽呼び出されたガラハ・ド・ラグダナは、摂政の求めに応じて自分の意見を述べる。
「考えられる可能性は少ないですが、その中でありえるとするなら、二つ」
「うむ」
レクティファールが頷き、続きを促す。
ガラハは自らの幕僚団が用意した資料を手に取り、その内容を読み上げた。
「一つは、帝国領内の別の場所から移動してきた可能性。帝国の北には、以前から七体目の巨神の噂があったようです。それが何らかの要因で移動してきたと考えることはできます」
ガラハは自分でそう口にしながら、可能性は低いだろうと思った。
巨神族の移動ともなれば、他国であってもそれを知ることができる。古の神々の眷属とはそれだけの力を持ち、設備さえあれば大陸のどこからでもその行動を感知することができるのだ。
「もう一つの可能性は、初めから天狼山脈に休眠状態で存在していたというものです」
「莫迦な! 巨神族の存在はいずれの国にとっても国家の安全保障上見過ごせる要素ではない。それが今まで気付かれずにいたなど……」
ガラハの言葉を遮ったのは、北方総軍から派遣されてきた参謀の一人だ。
北方総軍参謀総長に補されている、陸軍中将ビスマルク・ツー・ニュルンブルグ。ガラハの同窓であった。
「――ニュルンブルグ。参謀としての君には期待している。相手が巨神族ということで昂ぶるのも分かるが、私のような若造にも理解できるよう議事を進めてはくれないか」
主君に窘められたビスマルクは一瞬顔を赤らめたが、レクティファールの言葉に幾らかの気遣いを感じて黙りこむ。そして、椅子に深く腰を沈めて告げた。
「ラグダナ。貴官の私見を伺いたい」
同窓の言葉に頷いてみせ、ガラハは上座に座るレクティファールに向き直る。
「この地域はこれまで、我国と帝国の緩衝地帯として機能していました。そのため、この地域に対する諸々の調査は行われておりません。それは領土的野心を示しているという批判を避けるためです」
「うん。それは理解できた。では何故、これまで姿を見せなかった巨神が姿を現した?」
ガラハの隣に座っていた一人の技官が起立する。
「君は?」
「は、殿下。軍研究所先史遺物調査部主任研究員、アイヴィルと申します。今回の一件について陸軍から協力要請を受け、こちらに」
「なるほど。では、説明を頼めるか」
「ははっ」
アイヴィルは部屋の照明を落とすよう衛兵に合図を送り、会議卓の中央上にこの地域の立体模型を投影する。
「今回落とされた橋の位置はここです」
〈ウィルマグス〉の東、山脈の端に近い峡谷に赤い光点が浮かぶ。
その道は天狼山脈の麓の街々と〈ウィルマグス〉を繋ぐ大動脈であり、帝国との戦いでは物資の輸送路となる街道であった。
近いうちに周辺の鉱脈の調査が行われ、各種鉱物の採掘が始まる予定の地域でもあった。
「この地下には、我々が第一種魔導体と呼ぶ高効率性魔法誘導体の『魔法銀』の鉱脈があります。周囲の魔力を吸収して生きる巨神族であれば、この辺りに眠っていたと考えるのが妥当です。大深度の龍脈から『魔法銀』の鉱脈を通じて魔力を得られますから」
アイヴィルは自分の言葉を周囲の者たちが理解しているか確認するために周囲を見回し、何名かに睨まれた。
軍人は質問に対して簡潔で明確な返答をすることを美徳とする。学者らしいアイヴィルの言葉は好みではないらしい。
「――失礼、では殿下の質問にお答えいたします」
「うん」
アイヴィルは再度模型に目をやり、その鉱脈を指し示す。
その鉱脈は地下に潜りながらも、〈ウィルマグス〉の近傍まで延びていた。
「この辺りは地盤が不安定で採掘には適しませんが、間違いなく鉱脈があります。魔力を伝導する鉱脈が、大型の魔導炉の地下に存在したのです」
大型の魔導炉。
それは帝国の対〈パラティオン要塞〉兵器の動力源であった。現在は解体作業が進められている。
「発射の際、おそらく魔導炉から溢れた魔力が鉱脈に流れ込んだのでしょう。帝国の魔導炉技術は稚拙です。魔力の遮蔽が完全ではなかった。これまで安定的に供給されていた魔力が突然増加すれば――」
「巨神族が目を覚ます可能性はある」
ビスマルクが苦虫を噛み潰したような顔で唸る。
アイヴィルは自分が責められた訳ではないというのに、肩を縮こませた。
「そ、その通りです。それに、先ほどガラハ中将が仰った北の七体目の巨神族の噂ですが、これはひょっとしたらこの地域の噂が北に移動したものかもしれません」
アイヴィルは別の資料を投影する。
今度は皇国国内のものであった。
「グラオンには巨神〈ヘイパス〉殿がおります。ですから、天狼山脈の巨神の噂は近い地域の〈ヘイパス〉殿と混同された可能性が高く、帝国に伝わる北の巨神族の噂はその名残なのではないかと」
「南下した噂は〈ヘイパス〉殿だと誤認されたために消え、帝国側の、北へと広がった噂だけが残った。そういうことか」
「はい」
噂というよりも、巨神族に関するそれは伝承のような扱いになっていた。
何故噂が北に移動したのかと言えば、この地域が紛争地帯となったことで北へと疎開した者たちが、巨神信仰を持っていたことが原因だろう。
「ともあれ、この地に巨神族がいることは分かった。では、それについてどのような対応をとるか」
レクティファールが参加者を見る。
軍人たちは顔を顰めて腕を組んだり、唸り声を上げる。官僚たちは軍人たちのその様子に不安そうな表情を隠しきれず、レクティファールとそれに近い位置に座っている者たちだけが平静を保っているだけだった。
「軍はどう考える」
「は」
ビスマルクが立ち上がり、ガラハと視線を交わし合う。どうやら軍としての方針は決まっているらしい。
「端的に申し上げるなら、巨神族を排除することは避けるべきだと考えます。可能か不可能かと問われれば可能ですが、それを実行したときの他の巨神族の反応は良くないでしょう」
「確かに、〈ヘイパス〉殿はくれぐれも同胞をよろしくと言っていたようだ。巨神族は神族とは別の種族であるが、神族の心象も良くないだろう」
レクティファールはビスマルクの意見に同意する。
それを受け、ビスマルクはガラハに頷く。ガラハが立ち上がり、レクティファールの前で威儀を正し、深々と頭を下げた。ビスマルクもそれに同調する。
「これも我軍の不手際、殿下のお手を煩わせることはこの身を裂かれるほどの痛みです。ですが、巨神族への礼を尽くし、その上で新たに殿下の赤子となられた民を守るためには、殿下に七柱目の巨神族との協定を結んでいただく他ありません」
巨神族との協定は皇国にとって二度目のことだ。巨神〈ヘイパス〉については、二代目の皇王が実現させた。
「既に七柱目の巨神の位置を探るため、部隊の編成を進めております。それに、橋を架けなければこの冬を乗り越えられない街や村が出てきましょう」
レクティファールが顎に手を当て、少し考える素振りを見せる。
ガラハはレクティファールがこの策を受け入れないとは考えていなかったが、ビスマルクは懐疑的であった。
レクティファールが協定を結ばなくてはならないという理由はない。仮に協定を結ぶとしても、代理を立てるという方法もある。むしろレクティファールの安全を考えるならそちらの策の方が現実的であった。
「部隊の編成はいつ頃終わる。そして架橋にはどれほどの時間が必要だ」
「部隊編成は明日にでも完了。工兵部隊を同行させ、到着後すぐに基礎工事を開始します。協定が結ばれた後、架橋を行う予定です。工期は一週間。人工は現在の工兵隊が許せる最大数を予定しております」
「一週間か、降雪は?」
「あるでしょうが、工期はそれを含んだ数字です。災害級の降雪にならない限りは問題ありません」
実は、工兵部隊を率いる工兵少将とガラハは長い付き合いで、酒を大量に積み、さらにレクティファールと一緒に仕事をするという名誉を餌にした。
工兵少将が熱心な皇室崇拝者だったお陰で、この工期が可能になったのだ。
現在の〈ウィルマグス〉には、北方総軍の抱える工兵部隊の精鋭たちが集まっている。
「巨神族の問題さえ片付ければ、あとはもう我々が総て殿下の御意のままに取り計らいましょう」
レクティファールはガラハの物言いに苦笑していた。
この男が歯の浮くような台詞を吐くのは、相手をからかう意思があるときだ。
これだけの条件を整えられた以上、レクティファールに拒否という選択肢はない。
「分かった、巨神族と話をしてみよう」
「は」
ガラハが再度頭を下げると、レクティファールはやれやれと肩を竦めた。
「で、あなたは何故ここにおられるか」
「――助太刀」
レクティファールは、自らの執務室の応接用の革椅子で山積みになった麦麺の黒蜂蜜掛けをひとつひとつ頬張る黒龍公を、冷たい半眼で見つめた。
「助太刀は大変結構ですが、その大量の麦麺はどこから」
「あなたの……名前で」
「私の名前で注文したと、そういうことですか、ああそうですか」
さしたる値段ではないので麦麺については問題はないが、アナスターシャがこの地を訪れることは予想していなかった。
「巨神族相手だし、わたし……大きいし」
「大怪獣決戦になるような気がします」
相手の巨神族がどれほどの大きさかは分からないが、三〇メイテルを下ることはないらしい。それが、アナスターシャと激突する。
完全に陸軍とレクティファール、置いてけぼりであった。
「保険として、という認識でよろしいか」
「ん、わたしも巨神族に、恨まれるのは困る」
レクティファールはお茶を淹れ、それを卓に置く。
それに手を伸ばしたアナスターシャはお茶を口に含み、硬直した。
「――――」
そっと磁碗を唇から離し、小さく、本当に小さく目尻に涙を浮かべてレクティファールを見上げた。
「――熱い」
「まさかの猫舌っ!」
レクティファールは近くにあった用箋挟でお茶を扇ぐ。黙々と。
その姿を見ながら、アナスターシャは呟いた。
「熱くなくても……ヒトは生きていける」
「今度は人生観っ!」
叫び、冷ましたお茶を差し出すレクティファール。
一仕事終えたという顔つきだった。
「ありがと」
「どういたしまして」
ちびりちびりとお茶を飲みながら、麦麺を口に運ぶアナスターシャ。
彼女がわざわざこの部屋を訪ねてきた理由を、レクティファールは知らなかった。
「頑張れ」
「ええ、頑張りますとも。ターシャもいることですし、思い切りやりましょう」
アナスターシャは、執務机に戻ったレクティファールの顔を見た。
彼は書類に目を落としながら、笑みを崩さない。
「だいじょうぶ?」
「大丈夫です」
花押を書き込み、私見を添え、纏め、一冊の用箋綴りを作る。
レクティファールはそれを繰り返し、アナスターシャはその様子を見ながら麦麺を食べる。
優しげな表情。しかし、それは戦場で鬼神の如き能面へと変わる。
先の戦いで見せたレクティファールの表情は、アナスターシャから見ても恐ろしいものだった。正直に言えば、怯えた。龍族など関係なく、顔見知りがあまりにも違う面を見せたから。
「――――」
そっと立ち上がり、アナスターシャはレクティファールの傍らに立つ。
横顔も、いつものように温かみのある表情だった。
その横顔に、触れる。
「――? おかわりですか?」
「ううん、確認」
この顔が、あんな形相に変わるのだ。
戦いとは、なんと恐ろしいことか。
「疲れてる?」
「特には」
レクティファールはアナスターシャの好きなようにさせた。
その光景は、仕事をする兄と、彼にかまって欲しい妹にしか見えない。
「レクティファール」
「はい?」
名を呼ばれ、レクティファールは顔を上げる。
その唇に、アナスターシャの人差し指が触れた。
「何か?」
「お呪い」
本来であれば子どものするような呪いであった。
相手の唇に触れ、次にその唇が発した言葉が実現するというもの。
「勝って」
しかし、レクティファールがその呪いを知っているとは思わなかった。
ある種の賭けだった。それくらいで丁度良い。
「勝ちます」
そしてアナスターシャは、その賭けに勝つ。
「ん」
満足そうに頷いたアナスターシャは、レクティファールの頭を撫でる。
やはり、その光景は兄と妹にしか見えなかった。
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