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3巻
3-3
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ガーリーは無意識の内に感嘆の溜息を漏らしてしまった。
「そうよね、ウィリィアもガーリー軍曹も。ほら」
差し出されるのは何本かの串焼き。
それを差し出すのは幸せそうな銀の龍姫。
ガーリーは隣にいるウィリィアをちらりと見た。
「ほら、これとか結構あっさりしていて美味しいんですよ。ウィリィアさんは濃い目の味付けよりこっちの方が好みでしょう」
「――確かにその通りですが、レ……若旦那様に教えたことは無かったはずです」
「だって、ウィリィアさんの食べる料理っていつもあっさり目の味付けのものばかりですし、何となくそんな気がしていたし」
「何となくって何ですか、実は結構お莫迦様ですか」
「うわ、教え子になんて酷い言葉の暴力。莫迦に様付けても尊敬語にはならないと私は思います」
立場を弁えた敬語であるはずなのにどこか気安げな笑みを浮かべるウィリィアと、どんなに邪険にされても平気な顔で笑いかけるレクティファール。
ガーリーとしては、ウィリィアのその顔は先ほどの顔よりもよっぽど幸せそうに見えた。
「まあ、人間観察の力が付いたということで頂いてあげます」
仕方がないなぁといった風に頭を振るウィリィア。何とも微笑ましくて、メリエラから串焼きを貰ったガーリーは密かに笑ってしまった。他の周囲の人々も、二人の仲の良い姉弟のような遣り取りに笑みを浮かべている。
「じゃあ、メリエラに倣って……はいどうぞ」
しかし、レクティファールはやはり肝心なところで踏み込みが過ぎる。
本人に悪意はないだろうが、相手にとっては悪意の有無など二の次だ。
「――――」
眼前に差し出された串焼きにウィリィアの笑顔が引き攣る。
ついでにガーリーの笑顔が凍り付いた。
周囲の人々は相変わらずで、機嫌の良いメリエラは先ほどからにこにこ笑ったままだ。
「――何故?」
「いや、こういうもんなんじゃないかと」
常識外れというよりも、単にこれが当たり前だと思っているだけのレクティファール。
かつての常識は半分以上役に立たないと考えた彼は、この世界の常識をさっさと学習してしまおうと積極的に動き始めていた。
そして今日得たこの世界の常識が、〝これ〟だった。
すなわち――「親しい男女はお互いに食べ物を相手に食べさせてあげるのが常識」である。
普通ならとても常識であるとは思えないのだが、レクティファールはどれだけ自分が変だと思ってもこの世界では常識であると考える、思考上の変な癖が付いていた。この世界に適応するための自己防衛手段なのかもしれないが、巻き込まれる方は堪ったものじゃない。
「ええと、レクト様……いえ、レクト。こういうことはね、特別好き合う男女が――」
はぁ、と溜息を吐き、できの悪い弟に物事を教える姉そのものの態度で説教という名の小言を続けるウィリィア。レクティファールはといえば首を傾げながらもその説教を聞いており、ガーリーの目には平民の姉弟が街中で戯れているようにしか見えなかった。
しばらく説教は続いたが、こちらもレクティファールにとって姉のような存在であるメリエラが区切りの良いところで止めた。これ以上続けられると、市を見て回る時間が無くなってしまう。
「ウィリィア」
「はい、メリエラ様」
主君の一言で小言終了。
ウィリィアの中ではメリエラの言葉に対する答えに、基本的に否はないらしい。
「折角だから、食べてあげて、ね?」
「――は、いただきます」
厳しいところもあるが基本的に駄々甘な姉と常に厳しく時折優しさを見せる姉。そんな二人の女性に囲まれたレクティファールが幸せであるかどうか、正直他人には理解できない。
少なくとも、ガーリー・フィリポという一近衛軍下士官には理解できなかった。
女性というのは、何処の世界でも買い物好きと決まっているらしい。
レクティファールは広場に面した服飾店の中で、あーでもないこーでもないと良いモノ探しをしている二人の女性を見てそう思った。ウィリィアの身体にあれこれと服を押し当てては、元の衣服掛けに戻すという動きを繰り返しているメリエラ。ウィリィアは困惑したように何かを口にするが、メリエラは頭を振って取り合わない。
私服の少ないウィリィアに似合う服を見繕うとメリエラが鼻息を荒くしていたから、まだまだ時間は掛かるだろう。
荷物が増えると言ってやんわりと断っていたウィリィアだが、アナスターシャ経由で実家に送ればいいと言われて渋々納得していた。
「うーん、女性の買い物は長い――これって統計的に証明できるだろうか」
しても、多分誰も相手にしない。
世の男性陣は深く頷いて同意を示してくれるだろうが、それだけだろう。
「ガーリー軍曹は、どう思います?」
「は、小官には正直何も言えません。確かに母と妹の買い物では苦労しますが……」
「ですよねぇ……長いですよねぇ……」
懐から懐中時計を出して時間を確認するレクティファール。
フレデリックから戦勝祝いということで貰った時計だ。国章を上蓋に刻んである以外は酷く簡素で、その外見に相応しく戦場に持ち込んでも壊れないという、軍人向きの信頼性があるらしい。一つ作るのに一年掛かり、値段も軍用魔動車一台とほぼ同額という代物だが、レクティファールはそれを知らなかった。
ともあれ、時刻を確認した限り、すでに一時間以上広場の中心にある噴水の縁で二人は待ち呆けている。
何処か見に行こうかとも思ったが、後が恐すぎるので止めた。それに、このあとは黒龍宮に招かれてアナスターシャと会食する予定になっている。他の三龍公が皇都に残っているのに対し、アナスターシャは帝国への備えとして自領に戻っていた。
「ふうむ、何か飲みますか……」
「では、自分が行って参ります」
ガーリーの言葉に一瞬躊躇ったレクティファールだが、自分はこの世界の飲み物のことをあまり知らないことを思い出した。仕方がないと諦め、胸の物入れから銀貨を一枚出してガーリーに手渡した。
「じゃあ、これで買ってきて下さい。あの二人の分はいいから、君と私の分、二つ」
「あ、いえ、そういうわけには……」
銀貨を返そうとするガーリー。
だが、レクティファールは笑顔でそれを止めた。
「これは皇王府から支給された交際費。元々私がいつの間にか相続した皇王家の資産だし、こういうときにこそ使わないと、ご先祖に後で文句を言われてしまうでしょう」
「は、はぁ……了解しました」
しぶしぶ頷いて広場の片隅に店を構える喫茶店へ向かうガーリーだった。
レクティファールはその後ろ姿を見送ると、物入れから皇国で流通している法定貨幣を出してみた。どれも北へ向かう前に皇王府の担当者から渡された「交際費」だった。
「マーカス金貨が一〇〇ギル。ペトロベン金貨が五〇ギル。リッキルス銀貨が一〇ギル。フェドロック銀貨が一ギル。ガルガイス銀貨が二五リッツ、カーパス銅貨が一〇リッツ、グリニッド銅貨が一リッツ――と。一〇〇リッツが一ギルっていうことは……うーん、リッツは補助通貨ってことで……」
先ほどガーリーに手渡したものがリッキルス銀貨だ。
こういう場で供される飲食物はたいてい五ギル以内だから、それで十分だろう。一例を挙げると、落としても大丈夫な蓋付きの金属製の容器に入っている香茶が一杯三ギル五〇リッツである。
「紙幣がないのは造幣技術云々って言うよりも、戦争が多いから紙幣が信用されていないってことなんだろうか。単に信用の問題? 貨幣の種類が多いのはちょっと困るけど、これで経済が成り立ってるんだから今は変更は要らないか」
必要になれば、紙幣も世に出るだろう。
レクティファールは貨幣を物入れにしまうと、とりあえず財布が欲しいと思った。貨幣のこすれる音を立てて歩く趣味はない。
「レクト様、お待たせしました」
「ん、ありがとう」
少し前から、レクティファールは偽名を名乗っていた。
レクト・ハルベルンという名で、ウィリィアの実家ハルベルン家の三男という設定だ。
レクティファールはこの偽名を名乗るに当たってハルベルン家当主アルフォード・ハルベルン、ウィリィアの父と顔を合わせる機会があったが、挨拶のときはひたすら恐縮していたのに、少し緊張がほぐれると「娘を側に上げていただければ、本当にうちの息子になれますぞ。あの性格でしょう、貰い手に困っておりまして」と言われて非常に困った。
その直後彼は娘に折檻されていたが、二人とも〈龍殺し〉と呼ばれる存在だから問題ないとアルフォードの奥方に教えて貰った。その奥方は普通の人間種だという。
「レクト様のお好みになるものが分かりませんでしたので、無難なものを選びましたが……」
そう言ってガーリーが差し出したのは牛乳入りの黒豆茶だった。ほかほかと湯気が上っている。
「いや、食べ物飲み物に関しては余り詳しくなくて、今は美味しいと不味いしか分からないのです」
「はは、小官も似たようなものです。巨人族は体質的に繊細な味の違いが分からないのですが、小官はその中でもとくに分からないようで」
「私も色々教わってはいるんだけど、うちの教師は厳しい割に辛いモノが苦手のようだから、私も甘いものばかり詳しくなって困る」
「メリエラ様とウィリィアさんですか、正直意外です」
ガーリーは二人揃って好き嫌い無く何でも食べるという印象を持っていたという。
メリエラにも好みくらいはあるだろうが、軍人とは大凡好き嫌いを言っていられる職業ではないから人前では何でも食べている。ウィリィアもその態度から、食べ物の好き嫌いなど、目立つ弱点や欠点などないように思っていたらしい。
「人なんてそんなものかもしれません。君だって、私と初めて顔を合わせたときは――くく……っ」
「れ、レクト様……! 後生ですから勘弁して下さい!」
レクティファールと顔を合わせたとき、ガーリーはその穏和な風貌と皇都奪還戦で展開した苛烈とも言える戦運びが繋がらず、酷く困惑してしまい、思わず――
「『本物ですか?』だものなぁ……あれは笑わせて貰った。悪いとは思ったけど」
「あのときは、本当にレクト様の姿があの戦いで受けた印象と違いすぎて……失礼しました……」
「いや、構わない。多分、他の人も多かれ少なかれ同じような印象を持っているだろうから」
以前から顔を合わせていた人々ならともかく、あの戦いのあとに知己となった人々はみなレクティファールの風貌と戦い方から受ける印象の落差に驚き、ガーリーと同じ表情を見せたものだ。
「主君にするなら、もっと上背があって、威厳があって、ついでに個人的な武もあるといいんだけど――と思っていたんじゃないかと思う」
「あ、いえ、まさか……」
正直、そう思っていた。
本当に大丈夫かと不安にさえなった。
あの衝撃的な皇都奪還戦がなければ、不本意ではあるが、ガーリーとしてもまず主君を疑うことから始めなくてはならなかっただろう。
「評価っていうのはその場だけでどうこうできるものじゃない。周囲の人たち、未来を生きる人たちがするものだからなぁ。これで帝国との戦いに負ければ皇都での勝利も偶然か、別の誰かの功績ってことになる」
諦めの上に立つ男。
彼は今この場で死んでも、おそらく少々の後悔しか抱かないだろう。
自分の器というものを一切信用せず、彼の中の自分というのは他人の評価の上にしか存在しない。彼の持つ『自信』とは他人に貰った感謝の『代価』であり、何もない場所から湧き出るものではないのだ。
「あそこでああしているあの人たちを守れれば、結局私は満足なんだと思う」
何処か遠くのものを見るような目で、ガーリーの主君は笑顔で話している二人の女性を眺める。
その顔は老人のようで、子供のようで、どれか一つの感情を読み取ることのできない、様々な思いが混淆としたものだった。
「皇都にも二人くらい守らなきゃいけない人がいるし、私としてはここで何処かの国のお姫さまと殺し合うくらいはやっても良いと思うんだけど、困ったことに私は個人では戦えない」
〈皇剣〉の力が全部使えればできるのかもしれないけど――レクティファールは自嘲気味に笑う。
「結局、私は自分の大切な人を守るには誰かを使うしかないんだ、軍曹。そして誰かを使うという行為の代価は、その誰かの大切な人を守ることだ」
その皇として振る舞う代償は、皇として在り、その責務を負うこと。
レクティファールは一度皇として振る舞い、その権利を行使した。
「私はあの人たちを守る権利を得るために、この国全部を守る義務を負った。君たち近衛は、それに巻き込まれたということになるかな」
レクティファールは何かを試すような眼差しでガーリーを見る。
その視線を受けて、巨人族の青年はたじろいだ。
「幻滅されるだろうけど、仕事だと割り切って私を支えてくれると嬉しい」
レクティファールは小さく「よ」と掛け声を掛けて立ち上がる。ぐっと伸びをして、軽く肩を回した。
「さて、お姫さま方の機嫌を取らないとね。軍曹もお土産を選ぶと良い。皇都勤務じゃ、こっちまで出てくる機会はないだろうから」
「で、殿下……」
レクティファールはガーリーの言葉を聞こうとはしなかった。
ガーリーがどんな決断をしても、レクティファールはそれを受け入れるつもりだった。ガーリーの意志こそがガーリーの人生を決めることができるのだから。
「さて、装飾品の何たるかも分からない私がどうやって機嫌を取れるのか……うん、皇都を取り戻す方がよっぽど楽だ」
ぶつぶつと無知な自分に対する文句を呟きながら、レクティファールは店に向かって踏み出した。
それと同時だった。
「泥棒だぁっ!! 財布を取られたっ!!」
彼らの座っていた噴水の正面。
市場通りからこちらに走ってくる一人の男がいた。
「はっ……はっ……はっ……!」
農民の風体をしていて、その身体は痩せ細って生気がない。着ている服も泥や埃、そして男自身の垢で汚れており、とてもではないが市場に買い物に来たようには見えなかった。
そしてその男の背後を、大声を上げて陸軍の兵士たちが追い掛けている。
どうやら、掏摸らしい。
「軍曹」
レクティファールは、ただそれだけを侍従へと告げた。
「は、御意のままに」
そしてガーリーも、そうとだけ答える。
彼はその巨体に見合わぬ速さで、逃げる男の前方に飛び出した。
同時にレクティファールが叫ぶ。
「止まれっ!」
「ひっ!」
巨人族が発する威圧感というのは、一般の人々にとっては悪鬼羅刹のそれと大差ない。
掏摸の男はレクティファールの声よりも、ガーリーの姿を見て足を縺れさせ、その直前で大きく速度を落とした。
「止まれと言っている!」
今度はガーリーが獅子の如く吼えた。その声は周囲の人々を萎縮させるほどの大音声だった。
しかし、男は止まろうとはしなかった。体勢を大きく崩しながらもガーリーに突っ込んでくる。
「くっ」
ガーリーは唇を噛みながら、自分に全体重を掛けて突っ込んできた男を受け止めると、次の瞬間には身体をぐるりと半回転させ、その勢いのまま空へと投げ飛ばした。
レクティファールの頭上を、情けない悲鳴を上げた男が通り過ぎる。
男はそのまま盛大に噴水に落ち、水飛沫を撒き散らした。
水面か池の底に身体を打ち付けたのか、起き上がってくる様子はない。
「力だけでここまでやれるっていうのは、すごいな……」
幾らか体術を囓ったレクティファールには、ガーリーの動きが力任せにしか見えない。巨人族とは見た目以上の怪力を発することができる種族だが、さすが海軍から近衛軍に引き抜かれただけのことはある。自分の特性というものをよく判っている身ごなしだ。
「それに引き替え、私は何とも……」
レクティファールは自分の不甲斐なさをぼやきながら、うつ伏せのまま沈んでいる男を助けるべく、上着を脱いだ。
騒ぎを聞いて現れた衛視隊に男を預けたレクティファールは、そのまま簡単な事情聴取を受けていた。軍から発行されている身分証を提示すると、聴取役の衛視は威儀を正して敬礼。レクティファールも答礼する。
「中央総軍、皇都方面軍のレクト・ハルベルン少尉ですね。ご協力感謝いたします」
「いえ、職務ですし、実際に働いたのは私の部下です。それで、あの男は何故……」
何故、軍の人間を狙ったのか。
訓練を積んだ軍人からも財布を盗めるほどの玄人ならば、こんな軍人だらけの場所は選ばない。
となると、素人の場当たり的な犯行と考えられるのだが――
「少尉殿の考えておられる通りかと……。あの男は家族で畑をやってましてね、街の近くに畑もあって、よく作物を売りに来てましたし、自分も知っております」
家族想いのいい男です。衛視の言葉には、隠し切れない懊悩が滲んでいた。
「すると、こんな風に間違いを犯すような人間ではないと……」
「はい、つい先頃までの――こんなこと言うのも畏れ多いことですが、皇王陛下の政で多くの農民が蓄えを失いました。この〈ニーズヘッグ〉の街に住んでいる者はまだマシですが、あの男のように財産が畑や家畜だけという家は、嫁や娘が……身を売らないと税を払えない程でして……」
中年の衛視は辛そうに顔を顰めながらも、それでもレクティファールの疑問に答えてくれた。
「彼の苦しい状況を知ったらしく、上の娘さんの嫁入りが立ち消えになって……下の娘さんと息子さんもこれからまだまだ金がかかる歳です。街に来ては金を貸して欲しいと頼んで回っていましたが、いくらここが黒龍公様のお膝元でもみんな他人を助けられるほどの余裕がある訳じゃあありません。黒龍公様も色々手を尽くされていましたが、国そのものがおかしいのではそれも……」
偽名とはいえ一応皇王に仕える軍人を名乗るレクティファール相手に、皇王を貶す言葉を言い切った衛視。彼にしてみれば、あの農民の男よりも当代皇王の方が余程憎い相手なのだろう。レクティファールは顔を伏せ、列車に戻ったら政府からの報告書にもう一度目を通そうと決めた。
「少尉殿に話しても仕方がないのですが、黒龍公様が頑張れば頑張るほど他所から難民が流れこんできて、このような犯罪も最近は増えるばかりなんです。自分たち官憲や街にいる者たちは摂政殿下と黒龍公様のお陰で幾らか仕事も増えましたが、百姓衆には畑以外ありません。黒龍公様に食料の配布を願ったりもしているのですが、それだけじゃあとても……」
皇国政府としても、これまでの皇王政治の負の要素を洗い流そうと必死になっているが、すぐに効果が出るというものは少ない。皇王家も多くの資産を復興支援に投じているが、やはり社会経済基盤や社会保障に多くを取られて末端の農民にまで予算を投じることができないでいる。
今現在誰かが悪事をはたらいているということではない。単に、社会が回復しきれていないのだ。
時間を掛ければ農村部にも支援の手は届く。少しずつ回復の兆しは現れているはずなのだ。
だが、それまで待てない者もいる。
レクティファールにとってみれば、「やはり」という感想しか抱けない現実だった。
「は、それで……少尉殿にお伺いしたいのは、その……」
衛視は持っていた調書の上で硬筆を彷徨わせながら、聞き辛そうにレクティファールの顔色を窺う。彼もこの街の衛視としてはそこそこの立場にいるのだろう、胸と襟には衛視隊の部隊長として扱われる衛視長の階級章がある。
「ええとですね……あの男は少尉殿の警告を無視して、軍曹殿に殴りかかったという証言もありまして……」
「ああ、なるほど」
この衛視は、あの男の罪の軽重に関わる証言をレクティファールとガーリーに訊ねているのだ。
単なる掏摸であれば窃盗罪、相手が怪我を負っていれば暴行や傷害という罪も加わる。ただ、それはあくまで掏摸に付属する罪だ。
しかし、逃亡中に限定的ながら逮捕権を持つ軍士官の制止を無視し、あまつさえ自発的にその公務を妨害しようとしたとなれば罪はさらに増える。
現行犯である以上逮捕権などは関係ないかもしれないが、それでも制止を無視して公務執行妨害。懲役は倍の年数になり、執行猶予を得ることは難しくなる。そうなってしまえば、彼が罪を犯してまで守ろうとした家族はどうなるのか。
「彼は、その、仕方がな――」
男を庇うような言葉を口にしようとした衛視を、レクティファールは視線と言葉で窘めた。
「衛視長、それ以上は職分を超えるぞ」
「――っ! 失礼いたしました……」
犯罪者の罪を決めるのは衛視の役割ではない。
ましてや、犯罪者のために罪を軽くしようと働くこともその役割ではない。
衛視は公正でなくてはならないのだ。それがたとえただの建前だとしても、証言をねじ曲げるようなことをしてはならない。
「私は事実しか言えない。そうでなくては、彼も含めたこの国を守れないからだ。私は国家の盾だが、彼だけの盾にはなれない」
「は、仰る通りです」
衛視として、全くの正論に抗弁することはできない。衛視長は苦虫を噛み潰したように、ひたすら俯くだけだ。ガーリーもレクティファールに総てを託しているらしく、特に口を挟む様子はない。
レクティファールは、今の彼にできるぎりぎりの選択をした。
「――彼は私の制止に驚き、止まろうとしたが、足が縺れてしまい、軍曹に飛び掛かってしまったように見えた。本当の所は本人から訊いて欲しい」
「は、ははっ!」
衛視は顔を上げ、驚いたようにレクティファールを見る。
そしてその言葉を理解すると、右手の拳を胸に当てる武官風の敬礼をして頭を下げた。
「捜査協力、感謝いたします! それでは自分はこれで!」
走り去る衛視。
それを見送ったレクティファールは、ガーリーに苦笑して見せた。
「――甘いね、私は」
「いえ、小官にもそう見えました。レクト様は『そう見えた』と証言なされたのです。あとは、本人がどう自供するかです」
あるいはレクティファールの言ったことが事実なのかもしれない。
それは結局、本人にしか分からないことだ。
レクティファールは、内政を立て直すためにもさっさとこの戦いを終わらせることこそ自分の役割であると再確認し、ガーリーに笑い掛けた。
帝国よりも先に、まずは目の前に迫った脅威を何とかしなくてはならない。
その脅威とは、二人に――というよりもレクティファールに――対して、衛視隊によって張られた立ち入り禁止用の紐の外から厳しい視線を向けている二人の女性だ。
「さて、と――あそこで頬を膨らませているお姫さまと侍女様への言い訳、一緒に考えません?」
「無理です」
ガーリーのいっそ冷たいとさえ言えるその断定に、レクティファールはさめざめと涙を流した。
端的に言えば、レクティファールは頑張った。
「うん、よく似合ってるよメリエラ」
「そ、そうかしら……ちょっと派手じゃない?」
「メリエラの髪はきらきらしてて綺麗だから、これくらいで丁度良いと思う」
「うん、そう言われれば結構合うかも……」
通りの中でも目立つ場所にある庶民からするとそこそこ高級な装飾品を扱う店でご機嫌取りを実行するレクティファール。
メリエラの性格から、ただ高いだけでは駄目だと判断したのだ。こういう店は流行に敏感で、庶民には手が出ないような高級店よりも品数が多い。
鏡の前で、自分の銀の髪に挿された、銀細工に宝石をあしらった髪飾りを様々な角度から眺めるメリエラ。実に顔が緩んでいる。
「そうよね、ウィリィアもガーリー軍曹も。ほら」
差し出されるのは何本かの串焼き。
それを差し出すのは幸せそうな銀の龍姫。
ガーリーは隣にいるウィリィアをちらりと見た。
「ほら、これとか結構あっさりしていて美味しいんですよ。ウィリィアさんは濃い目の味付けよりこっちの方が好みでしょう」
「――確かにその通りですが、レ……若旦那様に教えたことは無かったはずです」
「だって、ウィリィアさんの食べる料理っていつもあっさり目の味付けのものばかりですし、何となくそんな気がしていたし」
「何となくって何ですか、実は結構お莫迦様ですか」
「うわ、教え子になんて酷い言葉の暴力。莫迦に様付けても尊敬語にはならないと私は思います」
立場を弁えた敬語であるはずなのにどこか気安げな笑みを浮かべるウィリィアと、どんなに邪険にされても平気な顔で笑いかけるレクティファール。
ガーリーとしては、ウィリィアのその顔は先ほどの顔よりもよっぽど幸せそうに見えた。
「まあ、人間観察の力が付いたということで頂いてあげます」
仕方がないなぁといった風に頭を振るウィリィア。何とも微笑ましくて、メリエラから串焼きを貰ったガーリーは密かに笑ってしまった。他の周囲の人々も、二人の仲の良い姉弟のような遣り取りに笑みを浮かべている。
「じゃあ、メリエラに倣って……はいどうぞ」
しかし、レクティファールはやはり肝心なところで踏み込みが過ぎる。
本人に悪意はないだろうが、相手にとっては悪意の有無など二の次だ。
「――――」
眼前に差し出された串焼きにウィリィアの笑顔が引き攣る。
ついでにガーリーの笑顔が凍り付いた。
周囲の人々は相変わらずで、機嫌の良いメリエラは先ほどからにこにこ笑ったままだ。
「――何故?」
「いや、こういうもんなんじゃないかと」
常識外れというよりも、単にこれが当たり前だと思っているだけのレクティファール。
かつての常識は半分以上役に立たないと考えた彼は、この世界の常識をさっさと学習してしまおうと積極的に動き始めていた。
そして今日得たこの世界の常識が、〝これ〟だった。
すなわち――「親しい男女はお互いに食べ物を相手に食べさせてあげるのが常識」である。
普通ならとても常識であるとは思えないのだが、レクティファールはどれだけ自分が変だと思ってもこの世界では常識であると考える、思考上の変な癖が付いていた。この世界に適応するための自己防衛手段なのかもしれないが、巻き込まれる方は堪ったものじゃない。
「ええと、レクト様……いえ、レクト。こういうことはね、特別好き合う男女が――」
はぁ、と溜息を吐き、できの悪い弟に物事を教える姉そのものの態度で説教という名の小言を続けるウィリィア。レクティファールはといえば首を傾げながらもその説教を聞いており、ガーリーの目には平民の姉弟が街中で戯れているようにしか見えなかった。
しばらく説教は続いたが、こちらもレクティファールにとって姉のような存在であるメリエラが区切りの良いところで止めた。これ以上続けられると、市を見て回る時間が無くなってしまう。
「ウィリィア」
「はい、メリエラ様」
主君の一言で小言終了。
ウィリィアの中ではメリエラの言葉に対する答えに、基本的に否はないらしい。
「折角だから、食べてあげて、ね?」
「――は、いただきます」
厳しいところもあるが基本的に駄々甘な姉と常に厳しく時折優しさを見せる姉。そんな二人の女性に囲まれたレクティファールが幸せであるかどうか、正直他人には理解できない。
少なくとも、ガーリー・フィリポという一近衛軍下士官には理解できなかった。
女性というのは、何処の世界でも買い物好きと決まっているらしい。
レクティファールは広場に面した服飾店の中で、あーでもないこーでもないと良いモノ探しをしている二人の女性を見てそう思った。ウィリィアの身体にあれこれと服を押し当てては、元の衣服掛けに戻すという動きを繰り返しているメリエラ。ウィリィアは困惑したように何かを口にするが、メリエラは頭を振って取り合わない。
私服の少ないウィリィアに似合う服を見繕うとメリエラが鼻息を荒くしていたから、まだまだ時間は掛かるだろう。
荷物が増えると言ってやんわりと断っていたウィリィアだが、アナスターシャ経由で実家に送ればいいと言われて渋々納得していた。
「うーん、女性の買い物は長い――これって統計的に証明できるだろうか」
しても、多分誰も相手にしない。
世の男性陣は深く頷いて同意を示してくれるだろうが、それだけだろう。
「ガーリー軍曹は、どう思います?」
「は、小官には正直何も言えません。確かに母と妹の買い物では苦労しますが……」
「ですよねぇ……長いですよねぇ……」
懐から懐中時計を出して時間を確認するレクティファール。
フレデリックから戦勝祝いということで貰った時計だ。国章を上蓋に刻んである以外は酷く簡素で、その外見に相応しく戦場に持ち込んでも壊れないという、軍人向きの信頼性があるらしい。一つ作るのに一年掛かり、値段も軍用魔動車一台とほぼ同額という代物だが、レクティファールはそれを知らなかった。
ともあれ、時刻を確認した限り、すでに一時間以上広場の中心にある噴水の縁で二人は待ち呆けている。
何処か見に行こうかとも思ったが、後が恐すぎるので止めた。それに、このあとは黒龍宮に招かれてアナスターシャと会食する予定になっている。他の三龍公が皇都に残っているのに対し、アナスターシャは帝国への備えとして自領に戻っていた。
「ふうむ、何か飲みますか……」
「では、自分が行って参ります」
ガーリーの言葉に一瞬躊躇ったレクティファールだが、自分はこの世界の飲み物のことをあまり知らないことを思い出した。仕方がないと諦め、胸の物入れから銀貨を一枚出してガーリーに手渡した。
「じゃあ、これで買ってきて下さい。あの二人の分はいいから、君と私の分、二つ」
「あ、いえ、そういうわけには……」
銀貨を返そうとするガーリー。
だが、レクティファールは笑顔でそれを止めた。
「これは皇王府から支給された交際費。元々私がいつの間にか相続した皇王家の資産だし、こういうときにこそ使わないと、ご先祖に後で文句を言われてしまうでしょう」
「は、はぁ……了解しました」
しぶしぶ頷いて広場の片隅に店を構える喫茶店へ向かうガーリーだった。
レクティファールはその後ろ姿を見送ると、物入れから皇国で流通している法定貨幣を出してみた。どれも北へ向かう前に皇王府の担当者から渡された「交際費」だった。
「マーカス金貨が一〇〇ギル。ペトロベン金貨が五〇ギル。リッキルス銀貨が一〇ギル。フェドロック銀貨が一ギル。ガルガイス銀貨が二五リッツ、カーパス銅貨が一〇リッツ、グリニッド銅貨が一リッツ――と。一〇〇リッツが一ギルっていうことは……うーん、リッツは補助通貨ってことで……」
先ほどガーリーに手渡したものがリッキルス銀貨だ。
こういう場で供される飲食物はたいてい五ギル以内だから、それで十分だろう。一例を挙げると、落としても大丈夫な蓋付きの金属製の容器に入っている香茶が一杯三ギル五〇リッツである。
「紙幣がないのは造幣技術云々って言うよりも、戦争が多いから紙幣が信用されていないってことなんだろうか。単に信用の問題? 貨幣の種類が多いのはちょっと困るけど、これで経済が成り立ってるんだから今は変更は要らないか」
必要になれば、紙幣も世に出るだろう。
レクティファールは貨幣を物入れにしまうと、とりあえず財布が欲しいと思った。貨幣のこすれる音を立てて歩く趣味はない。
「レクト様、お待たせしました」
「ん、ありがとう」
少し前から、レクティファールは偽名を名乗っていた。
レクト・ハルベルンという名で、ウィリィアの実家ハルベルン家の三男という設定だ。
レクティファールはこの偽名を名乗るに当たってハルベルン家当主アルフォード・ハルベルン、ウィリィアの父と顔を合わせる機会があったが、挨拶のときはひたすら恐縮していたのに、少し緊張がほぐれると「娘を側に上げていただければ、本当にうちの息子になれますぞ。あの性格でしょう、貰い手に困っておりまして」と言われて非常に困った。
その直後彼は娘に折檻されていたが、二人とも〈龍殺し〉と呼ばれる存在だから問題ないとアルフォードの奥方に教えて貰った。その奥方は普通の人間種だという。
「レクト様のお好みになるものが分かりませんでしたので、無難なものを選びましたが……」
そう言ってガーリーが差し出したのは牛乳入りの黒豆茶だった。ほかほかと湯気が上っている。
「いや、食べ物飲み物に関しては余り詳しくなくて、今は美味しいと不味いしか分からないのです」
「はは、小官も似たようなものです。巨人族は体質的に繊細な味の違いが分からないのですが、小官はその中でもとくに分からないようで」
「私も色々教わってはいるんだけど、うちの教師は厳しい割に辛いモノが苦手のようだから、私も甘いものばかり詳しくなって困る」
「メリエラ様とウィリィアさんですか、正直意外です」
ガーリーは二人揃って好き嫌い無く何でも食べるという印象を持っていたという。
メリエラにも好みくらいはあるだろうが、軍人とは大凡好き嫌いを言っていられる職業ではないから人前では何でも食べている。ウィリィアもその態度から、食べ物の好き嫌いなど、目立つ弱点や欠点などないように思っていたらしい。
「人なんてそんなものかもしれません。君だって、私と初めて顔を合わせたときは――くく……っ」
「れ、レクト様……! 後生ですから勘弁して下さい!」
レクティファールと顔を合わせたとき、ガーリーはその穏和な風貌と皇都奪還戦で展開した苛烈とも言える戦運びが繋がらず、酷く困惑してしまい、思わず――
「『本物ですか?』だものなぁ……あれは笑わせて貰った。悪いとは思ったけど」
「あのときは、本当にレクト様の姿があの戦いで受けた印象と違いすぎて……失礼しました……」
「いや、構わない。多分、他の人も多かれ少なかれ同じような印象を持っているだろうから」
以前から顔を合わせていた人々ならともかく、あの戦いのあとに知己となった人々はみなレクティファールの風貌と戦い方から受ける印象の落差に驚き、ガーリーと同じ表情を見せたものだ。
「主君にするなら、もっと上背があって、威厳があって、ついでに個人的な武もあるといいんだけど――と思っていたんじゃないかと思う」
「あ、いえ、まさか……」
正直、そう思っていた。
本当に大丈夫かと不安にさえなった。
あの衝撃的な皇都奪還戦がなければ、不本意ではあるが、ガーリーとしてもまず主君を疑うことから始めなくてはならなかっただろう。
「評価っていうのはその場だけでどうこうできるものじゃない。周囲の人たち、未来を生きる人たちがするものだからなぁ。これで帝国との戦いに負ければ皇都での勝利も偶然か、別の誰かの功績ってことになる」
諦めの上に立つ男。
彼は今この場で死んでも、おそらく少々の後悔しか抱かないだろう。
自分の器というものを一切信用せず、彼の中の自分というのは他人の評価の上にしか存在しない。彼の持つ『自信』とは他人に貰った感謝の『代価』であり、何もない場所から湧き出るものではないのだ。
「あそこでああしているあの人たちを守れれば、結局私は満足なんだと思う」
何処か遠くのものを見るような目で、ガーリーの主君は笑顔で話している二人の女性を眺める。
その顔は老人のようで、子供のようで、どれか一つの感情を読み取ることのできない、様々な思いが混淆としたものだった。
「皇都にも二人くらい守らなきゃいけない人がいるし、私としてはここで何処かの国のお姫さまと殺し合うくらいはやっても良いと思うんだけど、困ったことに私は個人では戦えない」
〈皇剣〉の力が全部使えればできるのかもしれないけど――レクティファールは自嘲気味に笑う。
「結局、私は自分の大切な人を守るには誰かを使うしかないんだ、軍曹。そして誰かを使うという行為の代価は、その誰かの大切な人を守ることだ」
その皇として振る舞う代償は、皇として在り、その責務を負うこと。
レクティファールは一度皇として振る舞い、その権利を行使した。
「私はあの人たちを守る権利を得るために、この国全部を守る義務を負った。君たち近衛は、それに巻き込まれたということになるかな」
レクティファールは何かを試すような眼差しでガーリーを見る。
その視線を受けて、巨人族の青年はたじろいだ。
「幻滅されるだろうけど、仕事だと割り切って私を支えてくれると嬉しい」
レクティファールは小さく「よ」と掛け声を掛けて立ち上がる。ぐっと伸びをして、軽く肩を回した。
「さて、お姫さま方の機嫌を取らないとね。軍曹もお土産を選ぶと良い。皇都勤務じゃ、こっちまで出てくる機会はないだろうから」
「で、殿下……」
レクティファールはガーリーの言葉を聞こうとはしなかった。
ガーリーがどんな決断をしても、レクティファールはそれを受け入れるつもりだった。ガーリーの意志こそがガーリーの人生を決めることができるのだから。
「さて、装飾品の何たるかも分からない私がどうやって機嫌を取れるのか……うん、皇都を取り戻す方がよっぽど楽だ」
ぶつぶつと無知な自分に対する文句を呟きながら、レクティファールは店に向かって踏み出した。
それと同時だった。
「泥棒だぁっ!! 財布を取られたっ!!」
彼らの座っていた噴水の正面。
市場通りからこちらに走ってくる一人の男がいた。
「はっ……はっ……はっ……!」
農民の風体をしていて、その身体は痩せ細って生気がない。着ている服も泥や埃、そして男自身の垢で汚れており、とてもではないが市場に買い物に来たようには見えなかった。
そしてその男の背後を、大声を上げて陸軍の兵士たちが追い掛けている。
どうやら、掏摸らしい。
「軍曹」
レクティファールは、ただそれだけを侍従へと告げた。
「は、御意のままに」
そしてガーリーも、そうとだけ答える。
彼はその巨体に見合わぬ速さで、逃げる男の前方に飛び出した。
同時にレクティファールが叫ぶ。
「止まれっ!」
「ひっ!」
巨人族が発する威圧感というのは、一般の人々にとっては悪鬼羅刹のそれと大差ない。
掏摸の男はレクティファールの声よりも、ガーリーの姿を見て足を縺れさせ、その直前で大きく速度を落とした。
「止まれと言っている!」
今度はガーリーが獅子の如く吼えた。その声は周囲の人々を萎縮させるほどの大音声だった。
しかし、男は止まろうとはしなかった。体勢を大きく崩しながらもガーリーに突っ込んでくる。
「くっ」
ガーリーは唇を噛みながら、自分に全体重を掛けて突っ込んできた男を受け止めると、次の瞬間には身体をぐるりと半回転させ、その勢いのまま空へと投げ飛ばした。
レクティファールの頭上を、情けない悲鳴を上げた男が通り過ぎる。
男はそのまま盛大に噴水に落ち、水飛沫を撒き散らした。
水面か池の底に身体を打ち付けたのか、起き上がってくる様子はない。
「力だけでここまでやれるっていうのは、すごいな……」
幾らか体術を囓ったレクティファールには、ガーリーの動きが力任せにしか見えない。巨人族とは見た目以上の怪力を発することができる種族だが、さすが海軍から近衛軍に引き抜かれただけのことはある。自分の特性というものをよく判っている身ごなしだ。
「それに引き替え、私は何とも……」
レクティファールは自分の不甲斐なさをぼやきながら、うつ伏せのまま沈んでいる男を助けるべく、上着を脱いだ。
騒ぎを聞いて現れた衛視隊に男を預けたレクティファールは、そのまま簡単な事情聴取を受けていた。軍から発行されている身分証を提示すると、聴取役の衛視は威儀を正して敬礼。レクティファールも答礼する。
「中央総軍、皇都方面軍のレクト・ハルベルン少尉ですね。ご協力感謝いたします」
「いえ、職務ですし、実際に働いたのは私の部下です。それで、あの男は何故……」
何故、軍の人間を狙ったのか。
訓練を積んだ軍人からも財布を盗めるほどの玄人ならば、こんな軍人だらけの場所は選ばない。
となると、素人の場当たり的な犯行と考えられるのだが――
「少尉殿の考えておられる通りかと……。あの男は家族で畑をやってましてね、街の近くに畑もあって、よく作物を売りに来てましたし、自分も知っております」
家族想いのいい男です。衛視の言葉には、隠し切れない懊悩が滲んでいた。
「すると、こんな風に間違いを犯すような人間ではないと……」
「はい、つい先頃までの――こんなこと言うのも畏れ多いことですが、皇王陛下の政で多くの農民が蓄えを失いました。この〈ニーズヘッグ〉の街に住んでいる者はまだマシですが、あの男のように財産が畑や家畜だけという家は、嫁や娘が……身を売らないと税を払えない程でして……」
中年の衛視は辛そうに顔を顰めながらも、それでもレクティファールの疑問に答えてくれた。
「彼の苦しい状況を知ったらしく、上の娘さんの嫁入りが立ち消えになって……下の娘さんと息子さんもこれからまだまだ金がかかる歳です。街に来ては金を貸して欲しいと頼んで回っていましたが、いくらここが黒龍公様のお膝元でもみんな他人を助けられるほどの余裕がある訳じゃあありません。黒龍公様も色々手を尽くされていましたが、国そのものがおかしいのではそれも……」
偽名とはいえ一応皇王に仕える軍人を名乗るレクティファール相手に、皇王を貶す言葉を言い切った衛視。彼にしてみれば、あの農民の男よりも当代皇王の方が余程憎い相手なのだろう。レクティファールは顔を伏せ、列車に戻ったら政府からの報告書にもう一度目を通そうと決めた。
「少尉殿に話しても仕方がないのですが、黒龍公様が頑張れば頑張るほど他所から難民が流れこんできて、このような犯罪も最近は増えるばかりなんです。自分たち官憲や街にいる者たちは摂政殿下と黒龍公様のお陰で幾らか仕事も増えましたが、百姓衆には畑以外ありません。黒龍公様に食料の配布を願ったりもしているのですが、それだけじゃあとても……」
皇国政府としても、これまでの皇王政治の負の要素を洗い流そうと必死になっているが、すぐに効果が出るというものは少ない。皇王家も多くの資産を復興支援に投じているが、やはり社会経済基盤や社会保障に多くを取られて末端の農民にまで予算を投じることができないでいる。
今現在誰かが悪事をはたらいているということではない。単に、社会が回復しきれていないのだ。
時間を掛ければ農村部にも支援の手は届く。少しずつ回復の兆しは現れているはずなのだ。
だが、それまで待てない者もいる。
レクティファールにとってみれば、「やはり」という感想しか抱けない現実だった。
「は、それで……少尉殿にお伺いしたいのは、その……」
衛視は持っていた調書の上で硬筆を彷徨わせながら、聞き辛そうにレクティファールの顔色を窺う。彼もこの街の衛視としてはそこそこの立場にいるのだろう、胸と襟には衛視隊の部隊長として扱われる衛視長の階級章がある。
「ええとですね……あの男は少尉殿の警告を無視して、軍曹殿に殴りかかったという証言もありまして……」
「ああ、なるほど」
この衛視は、あの男の罪の軽重に関わる証言をレクティファールとガーリーに訊ねているのだ。
単なる掏摸であれば窃盗罪、相手が怪我を負っていれば暴行や傷害という罪も加わる。ただ、それはあくまで掏摸に付属する罪だ。
しかし、逃亡中に限定的ながら逮捕権を持つ軍士官の制止を無視し、あまつさえ自発的にその公務を妨害しようとしたとなれば罪はさらに増える。
現行犯である以上逮捕権などは関係ないかもしれないが、それでも制止を無視して公務執行妨害。懲役は倍の年数になり、執行猶予を得ることは難しくなる。そうなってしまえば、彼が罪を犯してまで守ろうとした家族はどうなるのか。
「彼は、その、仕方がな――」
男を庇うような言葉を口にしようとした衛視を、レクティファールは視線と言葉で窘めた。
「衛視長、それ以上は職分を超えるぞ」
「――っ! 失礼いたしました……」
犯罪者の罪を決めるのは衛視の役割ではない。
ましてや、犯罪者のために罪を軽くしようと働くこともその役割ではない。
衛視は公正でなくてはならないのだ。それがたとえただの建前だとしても、証言をねじ曲げるようなことをしてはならない。
「私は事実しか言えない。そうでなくては、彼も含めたこの国を守れないからだ。私は国家の盾だが、彼だけの盾にはなれない」
「は、仰る通りです」
衛視として、全くの正論に抗弁することはできない。衛視長は苦虫を噛み潰したように、ひたすら俯くだけだ。ガーリーもレクティファールに総てを託しているらしく、特に口を挟む様子はない。
レクティファールは、今の彼にできるぎりぎりの選択をした。
「――彼は私の制止に驚き、止まろうとしたが、足が縺れてしまい、軍曹に飛び掛かってしまったように見えた。本当の所は本人から訊いて欲しい」
「は、ははっ!」
衛視は顔を上げ、驚いたようにレクティファールを見る。
そしてその言葉を理解すると、右手の拳を胸に当てる武官風の敬礼をして頭を下げた。
「捜査協力、感謝いたします! それでは自分はこれで!」
走り去る衛視。
それを見送ったレクティファールは、ガーリーに苦笑して見せた。
「――甘いね、私は」
「いえ、小官にもそう見えました。レクト様は『そう見えた』と証言なされたのです。あとは、本人がどう自供するかです」
あるいはレクティファールの言ったことが事実なのかもしれない。
それは結局、本人にしか分からないことだ。
レクティファールは、内政を立て直すためにもさっさとこの戦いを終わらせることこそ自分の役割であると再確認し、ガーリーに笑い掛けた。
帝国よりも先に、まずは目の前に迫った脅威を何とかしなくてはならない。
その脅威とは、二人に――というよりもレクティファールに――対して、衛視隊によって張られた立ち入り禁止用の紐の外から厳しい視線を向けている二人の女性だ。
「さて、と――あそこで頬を膨らませているお姫さまと侍女様への言い訳、一緒に考えません?」
「無理です」
ガーリーのいっそ冷たいとさえ言えるその断定に、レクティファールはさめざめと涙を流した。
端的に言えば、レクティファールは頑張った。
「うん、よく似合ってるよメリエラ」
「そ、そうかしら……ちょっと派手じゃない?」
「メリエラの髪はきらきらしてて綺麗だから、これくらいで丁度良いと思う」
「うん、そう言われれば結構合うかも……」
通りの中でも目立つ場所にある庶民からするとそこそこ高級な装飾品を扱う店でご機嫌取りを実行するレクティファール。
メリエラの性格から、ただ高いだけでは駄目だと判断したのだ。こういう店は流行に敏感で、庶民には手が出ないような高級店よりも品数が多い。
鏡の前で、自分の銀の髪に挿された、銀細工に宝石をあしらった髪飾りを様々な角度から眺めるメリエラ。実に顔が緩んでいる。
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