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3巻
3-2
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「わたしとしてはファリエルに理解されても嬉しくはないな。姉妹なんてのはいつか離れるもの。そのときの悲しさが倍増するだけだ」
姉の言葉に何か思い当たるふしがあるのか、ファリエルがレクティファールの隣に座って溜息を吐く。
「ああ……あのクソ親父からの婚約話かぁ……嫌だなぁ……」
「そんなに嫌ならわたしが行くぞ。どうせどっちかが行けば済む話だ、別にファリエルが悩むことじゃない」
フェリエルはファリエルとでレクティファールを挟むように座り、妹に笑いかける。
「いや、姉さん、そういうことじゃないんだけど……」
「じゃあなんだ」
「う、そう言われると……」
二人はレクティファールを挟んであーでもないこーでもないと訳の分からない議論を始める。
きっとどちらも相手を守りたいんだろうな、とレクティファールは思った。もしかしたら、こうやって面と向かって話せば、彼女たちのことも少しぐらいは理解できるかもしれない。
レクティファールは宿営地に戻ったらメリエラやウィリィアと色々話そうと決めた。
「だーかーらー、そもそもあのクソ親父の言うことなんか聞いてやる必要ないって……」
「相手のいる話だぞ。こっちの都合ばかり言ってられない」
「その話だってアタシらに何の相談もなく決められたことでしょ」
「父は我が家の長、家同士の婚約なら父の決めるべきことだろう」
「それだって親父の勝手な言い分でしょうが、一度きっちり話し合って……」
「その話し合いの結果がそのまま相手に受け容れられるはずないだろう」
「えー……」
二人の何とも言えない議論を聞きながら、レクティファールは空を見上げて一口お茶を飲む。
さっきよりも、少しだけ苦かった。
でも、旨かった。
第一章 北へ
――黒の第三月五日。
摂政レクティファールはこの日、〈パラティオン要塞〉救援軍を率いて皇都を発った。その救援軍の内訳は、皇国陸軍中央総軍から二個師団三万と、皇国空軍中央航空総軍に属する第一空軍と第二空軍より二個航空団五〇〇。さらに近衛軍一個中隊一二〇だ。正面兵力を優先したため輜重部隊の比率は低いが、それは北方総軍が担う手筈になっている。
彼らは皇国全土に広がる鉄道網を使って北に向かい、皇国鉄道最北の都市〈ヴァーミッテ〉で魔動車と馬による移動に切り替える予定だった。このとき、聖都から皇都へ向かうよりも遙かに遠距離を移動しなくてはならないという理由から、空中機動は行われていない。
その代わりという訳ではないが、北方総軍の持つ戦略予備軍が摂政擁する中央総軍の援軍部隊よりも一足早く、〈パラティオン要塞〉へ入城することが決まっていた。彼らは要塞防衛軍司令官ガラハ・ド・ラグダナ中将の指揮下に入り、帝国との激戦に身を投じることになる。
陸空軍の北進に先んじて海軍も動き始めていた。皇国の海を任務地とする海軍正規艦隊十二個――奇数艦隊は外洋機動型、偶数艦隊は区域防衛型――の内、第三、第七艦隊を統合し編成した第二連合艦隊――北洋艦隊を北上させ、帝国領海に迫った。目的はお互いを仮想敵とした洋上演習。しかし、その艦総てに実弾と魔法燃料を満載していることは、諜報において他国の後塵を拝する帝国でさえ気付いていた。
この頃になると、帝国以外の他の国々も内乱からの復活の兆しを見せ始めた皇国に強い関心を抱いていた。中には駐在武官を第二連合艦隊に従軍させて欲しいと願い出る国もあり、レクティファールはそういった国々の希望を積極的に受け入れるよう海軍に通達していた。
そのため、第二連合艦隊には大陸内外の二十二カ国の観戦武官が従軍し、皇国海軍の現状をつぶさに観察していた。
さらに第三艦隊には強襲揚陸艦や輸送艦などが随伴しており、これらの艦は腹の中に大荷物を積んでいることを示すように海に深く身を沈めている。敵地への強襲揚陸を目的とした第三艦隊と、その揚陸を外洋上で防ぐ第七艦隊という想定の演習が設定されているらしいが、それが本当にただの軍事演習であるかどうか帝国に判断はできない。
ただし帝国も、皇国側の動きに確信が持てないにしても、万が一にも『神聖なる帝国の国土』が害獣共に汚されては大問題と考えていた。こと海軍力において帝国の海軍は皇国海軍と同程度の主力艦合計排水量を誇っていたが、帝国は元々陸軍国家であり、海軍はその補助でしかない。陸軍の行動を円滑に進めるための手段として海軍が存在しているのだ。このときも、皇国海軍が帝国領内に揚陸し、橋頭堡を築くことを防ぐために帝国海軍南遣艦隊が根拠地〈リーベラ〉より出航した。
その報告を聞いた〈大提督〉イザベルは、皇国海軍連合艦隊旗艦にして第一艦隊旗艦〈カルマイク〉の司令座艦橋で微笑んだ。
帝国は皇国海軍の動きをどの程度読んでいるか。帝国海軍を撃破しての積極防御か、あるいは陸軍の運動を間接的に援助する陽動か。
どう転んでも、イザベルたちの目的は果たされる。
「帝国は我々の動きを注視するでしょう。結果がどのようなものであれ、帝国は陸海の双方で我々皇国と相対しなくてはならない。わたしたちの最大の目的はそこにあります」
皇国の最終的な戦略目標は一時的な帝国軍の撃退ではない。
「皇国、侮り難し」――そう帝国に思わせることが最大の目的だ。
皇国の内情を正直に述べるのならば、今帝国と全面的な紛争を戦う余裕はない。
内乱とそれに先立って行われた当代皇王の悪政。結果として皇国の経済は破綻寸前に追い込まれ、国民の心は辛うじて皇王家に対する忠誠心を残しているに過ぎない。内乱を終結に導いたのが次期皇王である摂政レクティファールであるからこそ、帝国との国境戦を戦うだけの力、つまり兵力と士気、そして新たな戦争への国民の許容と僅かな時間が残されただけで、本来なら早急な国家の立て直しこそがもっとも優先されるべきなのだ。
帝国との戦いが長引けば――帝国側の事情からすればほとんど可能性はないが――皇国の西方、連合参加国のいずれかが分不相応な野望を抱きかねない。
帝国陣営と国境を接する連合参加国は帝国の南進を警戒して早々に軍を北に張り付けることを選択したが、それ以外の国が何処を狙うかなど子どもでも分かる。どのような過程を経たとしても、勝てば正義、負ければ悪。国家間に横たわる価値観とは得てしてその程度だ。
もちろん、西方には皇国陸軍西方総軍の各部隊が無傷で残っているため、皇国領土に火事場泥棒がやすやすと入れる可能性は限りなく低い。だが、万が一という最悪の中の最悪は常に想定しておく、これこそが国防と呼ばれるものだ。
想像できる最も最悪な事態に備えよとは、皇国軍総ての基本概念である。
◇ ◇ ◇
摂政レクティファールが軍用列車に揺られて皇都を発った数時間後、聖都より巫女姫リリシアが皇都へと入った。
ある程度皇都が落ち着いてから後宮に入るべきであるという神殿の意見を受け容れ、これまで聖都に残っていたリリシアだが、再び摂政レクティファールが戦いに赴くと決まったとき、復興途中の皇都に飾られる象徴として相応しいのは彼女しかいなかった。
次期皇王レクティファールの伴侶にして四界神殿の巫女姫。いずれは皇王の第一妃となることがほぼ確実な彼女ならば、摂政不在の皇都と皇城の民心を纏めることができるだろう。
もっとも、彼女は入れ違いでレクティファールに会えないことを酷く不満に思っていたらしい。だが、一人の気の利く女官に、
「夫の留守を万事大過なく守ることこそ良き妻の仕事」
と教えられたらしく、紅潮した顔を緩め、鼻歌でも歌いはじめそうな様子で改装工事中の皇城を素通りして後宮へと入った。
未だ戦痕夥しい皇城内は、リリシアのような純粋培養のお姫さまが気軽に入れるような状況ではなかった。そのためレクティファールから書面で皇城の留守を任された近衛軍総司令官ベルファイルが、近衛軍の後宮護衛部隊である第一特別護衛旅団――通称〈機甲乙女騎士団〉に命じてリリシアを後宮へと押し込んだのだ。
もっとも後宮というのは、皇妃と呼ばれる皇王配偶者が起居する施設なので、リリシアの待遇としては順当なものだ。なお、政治的な理由で皇妃になれない女性たちや自ら皇妃となることを拒んだ女性たち、側妃や妾妃と呼ばれる皇王の非公式配偶者――というよりも愛人――は望めば一応皇族に準じる扱いはされるものの、公的に皇族や準皇族とは見なされず、後宮ではなく離宮や市井で暮らすことになる。彼女たちの子供は皇妃の子供らと違って皇族扱いを受けないが、貴族以外の家、例えば大商家や名家などの家に養子に出される場合が多い。
つまるところ、この時点で後宮に入れる資格を持つ女性はリリシア一人だけであり、ベルファイルの判断は特に間違ったことではないのだ。
実はこのとき皇城に最も近い離宮に一人の女性――愛妾アリアが入ったのだが、ほとんどの市民に気付かれることはなかった。
彼女の場合はレクティファールの意向もあって、本人が望みさえすれば皇妃として後宮へと上がることができたが、「愛妾の身であり、さらには未だ摂政殿下の愛を受けていない自分が、リリシア猊下のおられる後宮に入ることはできない」と固辞した。
この時点ではまだ後宮にリリシアしかいない。後に皇妃となるであろう四公の姫君たちも入宮していない時点で〈蕾の姫〉である彼女が入宮することは、後々の諸事を円滑に進める上では悪手だっただろう。そう考えれば、アリアの今回の判断は至極妥当だったと言える。
〈蕾の姫〉は特定の男に気に入られるために大貴族の令嬢以上の教育を受けているから、アリアの政治的な感覚というのはリリシアのそれと近い。巫女姫も幼少の頃から政治の何たるかを学んでおり、ひょっとしたらこの二人の方が摂政として日の浅いレクティファールよりも、余程上手く皇都とその周辺を慰撫することができるだろう。
ベルファイルや皇都に残された政府高官たちがそこまで考えたのかは分からないが、少なくとも、皇都の市民は笑顔で入城する巫女姫リリシアの姿に新たな時代の幕開けを感じ取り、明るい表情で復興に努めることとなった。
◇ ◇ ◇
〈パラティオン要塞〉までの行程は、民間鉄道網との兼ね合いもあって時折駅に足止めされることもあり、多くの人々が順調と聞いて思い浮かべるほどには簡単に進まなかった。軍の物資集積場と兵站駅は都市の郊外にあったが、都市間の路線は軍民共通なのだ。
それでも徒歩行軍が主であった頃に比べればその速さは桁違いであり、陸軍からも空軍からも、当然近衛軍からも文句は出なかった。それどころか三軍の兵士たちは、駅や駐車場に列車が止まる度に上官からの「下車許可」の声を待つようになっており、摂政以外の救援軍首脳陣の苦笑と失笑を買っていた。摂政自身が時折供を連れて駅のある街にお忍びで出掛けるということもあって、彼ら兵士も交代で街に出ることが許された。
彼らは万を超える大集団であり、当然彼らが落とす金というのはそれなりの額になる。その結果、摂政軍の止まる駅、止まる駅で恐ろしい数の出店が軒を連ねることとなり、予定された日でもないのに駅前に市が立つことさえあったほどだ。
彼ら商人にしてみれば、寒々しい限りの懐を少しでも暖めようという切実な想いもあっただろう。
特にこれから迎える冬に備え、農業と兼業で店を営む人々は彼ら摂政軍の来訪を歓迎した。
自分たちは『摂政殿下の軍隊』であると自負するだけあって、街で問題を起こす兵士もおらず、むしろ摂政軍が来たことで治安が改善されたということもあった。
皇国鉄道は元々北への迅速な兵力展開を目的として敷設されたもので、それが皇国の各地へと広がっていったという経緯がある。主要都市には軍の管理する物資集積場と兵站駅があり、素早く効率的に各地に物資を供給できる体制が整えられていた。もちろん、鉄道が運ぶのは物資だけではなく、人員も含まれる。皇国軍では兵員輸送車輌という専門の車輌が作られており、これは海軍技術者が設計に携わって兵士たちの移動に伴う疲労を極力抑えるよう工夫されていた。
例えば三段三列になっている寝台は基本的に兵士一人に一つあてがわれる。
帝国の兵員輸送列車が家畜用の幌付き運搬車をそのまま使っているのに対して、皇国のそれは完全に密閉され、狭いなりに一応個人の空間というものが用意されているのだ。彼らの寝台を覗けば家族や恋人の写真がべたべたと貼られているのを見ることができるし、夜ともなれば気の合う仲間と囁き合う光景が見られる。
皇国軍は他国に比べて女性将兵の割合も多いから、女性専用の兵員輸送車というのもあった。こちらは男性用の車輌とは違う匂いというものがあり、男性兵士たちはどうにかしてあの車輌に潜り込めないかと日々無駄な努力を重ねている。潜り込んだところで、腕っ節に自信のある頼もしい女性兵士たちに歓迎されるだけなのだが、男の性質というのは理屈で量れるものではないらしい。
さすがに車外宿泊は許可されないが、昼間の自由な時間に『花屋』や『花売り』に向かうことは黙認されていた。というよりも、軍としてはそういったことを止めるつもりは全くない。
戦場などにおいては男女の欲求は高まるもので、それはどうしようもないことだ。
勤務時間と軍律さえしっかりと守っていれば、恐い憲兵に睨まれることもなかった。
そうして皇都から北へと向かう途中、三度目の停車駅となった都市は、黒龍公アナスターシャの治める街、公都〈ニーズヘッグ〉。
建国以来、豊富な埋蔵量を誇る鉄鉱鉱山と魔導鉱鉱山を持ち、製錬所から皇国各地へと送り出す役目を負っている都市だ。今では鉱山と製錬所は都市の端に移動――正確には都市が鉱山とは逆方向に広がった――し、それらの鉱山を運営する商会や精製した鋼材を用いた工場などが軒を連ねる商工業都市として人々に認識されている。
そんな軍人たちと市民で溢れる公都〈ニーズヘッグ〉の市場を、軍装を纏った四人組の男女が歩いていた。
「――勇猛果敢に敵軍に飛び込む軍人も、結局は人の子ということですかねぇ……」
雑多な人種と喧噪が場を支配する市場を歩きながら、一人の青年が漏らした。
肩ぐらいまでの薄青の髪を一つに束ね、他の三人と同じく濃緑の皇国陸軍の制服を着ている。変装したレクティファールだった。
「当たり前のことを感心したように言わない」
「失礼しました」
彼の隣にいた空色の髪の女性――ウィリィアが、レクティファールの言葉を窘めた。軍人を消耗品扱いする人々は多く、青年の発言はそのような意図がなかったとしても誤解を招きかねないものだったからだ。青年はそれを認め、大人しく謝った。ウィリィアもそれ以上追及するつもりはないらしく、一言「分かればよろしい」と言って視線を前方に向けた。
この二人の風貌は髪の色のせいもあってよく似ており、姉弟だと言われれば大抵の者はその言葉を信じるだろう。実際、この市に来てからは何度も間違えられた。美人のお姉さんがいて羨ましいねえ、と店を開いていた中年の店主に話しかけられたとき、レクティファールは容姿と性格は別物だと答え、頭頂部に一撃を貰ったものだ。
実際のところ、ウィリィアの姿は十代後半くらいに見える。しかし、姿と年齢が一致していない種族が多いこの国では、見た目だけで年齢を判断することは少なく、この二人の場合は雰囲気で姉と弟という判断が為されていた。
そして、実際の年齢でもその判断は正しい。
「ウィリィア、あの串焼きは何かしら」
「白狼山羊の肉ではないでしょうか、この辺ではこの時期によく出回りますし」
ウィリィアとは青年を挟んで反対にいたメリエラが彼女に問う。内乱が始まってからは街に出ることも少なくなったメリエラだが、一つの区切りを迎えたことで、こうして街に出る回数も増えてきた。今日はレクティファールと一緒に出掛けるということで、だいぶ髪の手入れに力が入っていた。
問われたウィリィアはメリエラの指差す先を一瞥すると、少し悩みながらも答えた。メリエラはその答えに納得したのか、何度も頷きながら串焼きの屋台をじっと見詰める。
「ふうん、そうなんだ。美味しそうだし、ちょっと買ってくるわね」
「あ、いえ、姫さま。言ってくださればわたしが……」
「姫さま禁止って言ったでしょう、メリエラでいいわよ。それに、軍にいればこういう場所で買い食いなんて当たり前なんだから」
そう言うと、メリエラは屋台に向かって走っていった。その楽しそうな表情に、ウィリィアは何も言えなくなる。
屋台でメリエラが串焼きを注文している間、残された三人は別の店を覗きながら時間を潰す。
串焼きの屋台の店主は中年の男だったが、見目麗しいメリエラの笑顔に鼻の下を伸ばしており、紙袋にどかどかとおまけの串焼きを放り込んでいる。すでにおまけの方が多いくらいだ。
もしかして、彼女はそれを狙っていたのだろうかと、青年は店主に少しだけ憐憫の情を抱いた。
あの女性は、何というか、すでに嫁ぎ先は決まっているのだ。たとえ自分のものにならないことが分かっていても、実際に別の男のものになってしまうのは、男にとって格別の悲しさがある。それを知らずああしてだらしない顔を晒してせっせと貢いでいるのだから、同情ぐらいはしてもいいだろう。
そこに、その嫁ぐ相手が自分だという優越感が無いこともない。
「うん、自分がここまで良い性格しているとはこれまでの人生で気付かなかった。いや、これまでの人生って何処から何処までだろうか……まあ、いいか……」
そもそも悲しいことに、これまでの人生で女性に縁があったことなどほぼない。そんな自分がああも男の欲望を刺激する女性を隣に置いていることに、小市民的と言われても仕方がないが、ちょっとした優越感を抱いてしまう。
そのままお手軽な優越感に浸り続ける青年の下に、一抱えほどに膨らんだ紙袋を持ってメリエラが戻ってきた。
「麦麺に挟んでも美味しいって、店の人がおまけしてくれたの。いい人よね」
「うん、いい人ですね、本当に」
レクティファールは心の底から同意した。メリエラの後ろ姿を見送っていた店主がレクティファールの姿に気付き、微妙に憎しみの籠もった目で睨んでいることは分かっていたが、同じ男として理解できない感情ではないので好意的に無視した。多分、自分が向こうの立場だったら溜息を一つ吐いて諦めていただろうと思いながら。
そんなちょっとした男としての矜持を懸けた戦いを済ませた青年に、メリエラが串焼きを差し出した。
「はい、レクト。あーん」
「――っ!?」
こんがりとした肉汁たっぷりの山羊肉に飴色の餡が絡み、非常に美味しそうである。
そして、それを差し出しているのはいずれ自分に嫁いでくる予定の綺麗な女性。これは食べるべきだ。
しかし、周囲には沢山の人、人、さらに人。
これから轡を共にする戦友たちが、市場のど真ん中に発生した甘ったるい空間を見ている。
男たちは若干の憎しみを視線に乗せて、女たちは頬を赤く染めて。
(――ああ、でも、何が恐いって……メリエラの後ろのウィリィアさんですよねぇ……目だけ笑ってないし、何か詠唱しているような気がするし、手を太腿に伸ばそうとしているし)
どっちを選んでも結局彼女に良い笑顔で見詰められ、ちょっとした折檻を受けるのだ。
だったら、この可愛らしくも美しい女性を喜ばせる方が良いだろう。
「――いただきます」
衆人環視の中で恋人というか婚約者に手ずから串焼きを食べさせて貰うというある種の快挙を成し遂げた皇国摂政レクティファールには、周囲からやっかみと黄色い悲鳴と拍手が送られる。
ほとんどの者には変装しているせいで摂政だと気付かれていないだろうが、勘の良い者はすでに気付いているにちがいない。
銀髪の女性を連れた若い男というのは、その辺りにいるようで意外といないものだ。
ただ、気付いたとしてもそれを明かして場を混乱させようという無粋な者はいなかったらしく、四人は再び歩き始めた。
「――殿下は、いつもこうなのですか?」
四人組最後の一人、筋骨隆々とした長身を持つ鈍色の髪の青年がウィリィアに訊いた。
ウィリィアは無意識にべたべたいちゃいちゃする二人から一歩下がり、男の隣に並ぶ。
二人はお互いに串焼きを相手に食べさせるという高等精神攻撃を、無意識に、そして無差別に周囲へと撒き散らしている。
地団駄を踏む者、泡を吹いて卒倒する者、串焼きを買ってきて、同じ部隊の女性兵士に食べさせてもらおうとして引っぱたかれる者、了承を取り付けて両拳を天に掲げて叫ぶ者、そして自分たちもやってみようと無差別攻撃に加わる恋人たち。
四人を中心に混沌が広がっていくが、ウィリィアは少しも気に留めなかった。
「殿下はやめるように、軍曹。まあ、いつもはレクトが一歩引いて逃げ腰なんだけれど、皇都戦以降は少し余裕ができたらしいわ。――全く、どうしてくれようかしらあの唐変木」
「じ、自分としては、妃殿下と仲が良いならそれに越したことはないと思うのですが……」
軍曹と呼ばれた男が静かに怒気を発するウィリィアに抗弁する。
彼は近衛軍から摂政随伴を命じられた下士官で、今は護衛も兼ねてここにいた。その大きな体躯は、余計な騒動を防ぐ抑止力といったところだろう。
近衛軍の軍人らしく、皇王家に対する忠誠というものは一般人よりも強いらしい。
「ええ、メリエラ様が嬉しそうだからこれに関しては何もしないわ。あとでメリエラ様泣かしたときに纏めてお返しするけれど……ふふふ……」
「……」
冷や汗を垂らす軍曹。名前をガーリー・フィリポという。
「フィリポ軍曹は、ああいう決まった女性はいないの? 巨人族って言えば、どこも家庭円満っていう印象があるけど」
「は、軍に入って以来作っておりません。以前は海軍の艦隊勤務でしたし、陸にいる時間は余り多くなかったもので」
「そう、でも今は近衛だし、作っても困らないのではなくて? 巨人族は退役後に結婚する人も多いから急ぐ必要は無いけれど」
そういうウィリィアもいい年齢なのだが、彼女自身にはそういった噂が一切無い。元々白龍宮の一使用人なのだから自分の時間が少ないのは当たり前といえば当たり前なのだが、皇国貴族筆頭リンドヴルム公爵家の使用人となれば嫁の貰い手などいくらでもあるはずだった。
貴族の使用人というのは高い教養が必要とされることが多く、行儀見習いで使用人として貴族に仕える者もいるほどだ。
使用人の質はそのまま雇っている貴族の評価になるから、貴族たちも使用人の教育には力を入れる。伯爵家以上の使用人となれば、市井の識者よりも博識だという。
「わたしは、姫さまのお側にいられればそれで満足なのよ。その内、姫さまの稚様を抱けるだろうし、それで十分」
そう言ってウィリィアは前を歩く二人を眩しそうに眺める。
彼女と二人の間にある距離は、彼女の歩幅で二歩程度。しかし、その二歩こそがウィリィアとメリエラの間に確かに存在する距離だった。
ウィリィアにその距離を縮める意志はなく、メリエラもその距離を守る分別を持っている。
「――――」
ガーリーはおそらく同僚となるだろう女性の横顔を、ただ黙って見るしかなかった。
まだ若い彼には、こういうときに発するべき言葉というものがない。あっても声を掛けられたかどうか。
「あ、あの……」
それでも、何か言うべきだと本能が告げた。
無意識の自分が何かを言えと叫んだ。
それに従い、ガーリーは絡む舌を無理やり動かした。
だというのに――
「あ、ウィリィアさんも食べませんか?」
あの摂政は、いともあっさり自分の葛藤をぶち抜いていく。
姉の言葉に何か思い当たるふしがあるのか、ファリエルがレクティファールの隣に座って溜息を吐く。
「ああ……あのクソ親父からの婚約話かぁ……嫌だなぁ……」
「そんなに嫌ならわたしが行くぞ。どうせどっちかが行けば済む話だ、別にファリエルが悩むことじゃない」
フェリエルはファリエルとでレクティファールを挟むように座り、妹に笑いかける。
「いや、姉さん、そういうことじゃないんだけど……」
「じゃあなんだ」
「う、そう言われると……」
二人はレクティファールを挟んであーでもないこーでもないと訳の分からない議論を始める。
きっとどちらも相手を守りたいんだろうな、とレクティファールは思った。もしかしたら、こうやって面と向かって話せば、彼女たちのことも少しぐらいは理解できるかもしれない。
レクティファールは宿営地に戻ったらメリエラやウィリィアと色々話そうと決めた。
「だーかーらー、そもそもあのクソ親父の言うことなんか聞いてやる必要ないって……」
「相手のいる話だぞ。こっちの都合ばかり言ってられない」
「その話だってアタシらに何の相談もなく決められたことでしょ」
「父は我が家の長、家同士の婚約なら父の決めるべきことだろう」
「それだって親父の勝手な言い分でしょうが、一度きっちり話し合って……」
「その話し合いの結果がそのまま相手に受け容れられるはずないだろう」
「えー……」
二人の何とも言えない議論を聞きながら、レクティファールは空を見上げて一口お茶を飲む。
さっきよりも、少しだけ苦かった。
でも、旨かった。
第一章 北へ
――黒の第三月五日。
摂政レクティファールはこの日、〈パラティオン要塞〉救援軍を率いて皇都を発った。その救援軍の内訳は、皇国陸軍中央総軍から二個師団三万と、皇国空軍中央航空総軍に属する第一空軍と第二空軍より二個航空団五〇〇。さらに近衛軍一個中隊一二〇だ。正面兵力を優先したため輜重部隊の比率は低いが、それは北方総軍が担う手筈になっている。
彼らは皇国全土に広がる鉄道網を使って北に向かい、皇国鉄道最北の都市〈ヴァーミッテ〉で魔動車と馬による移動に切り替える予定だった。このとき、聖都から皇都へ向かうよりも遙かに遠距離を移動しなくてはならないという理由から、空中機動は行われていない。
その代わりという訳ではないが、北方総軍の持つ戦略予備軍が摂政擁する中央総軍の援軍部隊よりも一足早く、〈パラティオン要塞〉へ入城することが決まっていた。彼らは要塞防衛軍司令官ガラハ・ド・ラグダナ中将の指揮下に入り、帝国との激戦に身を投じることになる。
陸空軍の北進に先んじて海軍も動き始めていた。皇国の海を任務地とする海軍正規艦隊十二個――奇数艦隊は外洋機動型、偶数艦隊は区域防衛型――の内、第三、第七艦隊を統合し編成した第二連合艦隊――北洋艦隊を北上させ、帝国領海に迫った。目的はお互いを仮想敵とした洋上演習。しかし、その艦総てに実弾と魔法燃料を満載していることは、諜報において他国の後塵を拝する帝国でさえ気付いていた。
この頃になると、帝国以外の他の国々も内乱からの復活の兆しを見せ始めた皇国に強い関心を抱いていた。中には駐在武官を第二連合艦隊に従軍させて欲しいと願い出る国もあり、レクティファールはそういった国々の希望を積極的に受け入れるよう海軍に通達していた。
そのため、第二連合艦隊には大陸内外の二十二カ国の観戦武官が従軍し、皇国海軍の現状をつぶさに観察していた。
さらに第三艦隊には強襲揚陸艦や輸送艦などが随伴しており、これらの艦は腹の中に大荷物を積んでいることを示すように海に深く身を沈めている。敵地への強襲揚陸を目的とした第三艦隊と、その揚陸を外洋上で防ぐ第七艦隊という想定の演習が設定されているらしいが、それが本当にただの軍事演習であるかどうか帝国に判断はできない。
ただし帝国も、皇国側の動きに確信が持てないにしても、万が一にも『神聖なる帝国の国土』が害獣共に汚されては大問題と考えていた。こと海軍力において帝国の海軍は皇国海軍と同程度の主力艦合計排水量を誇っていたが、帝国は元々陸軍国家であり、海軍はその補助でしかない。陸軍の行動を円滑に進めるための手段として海軍が存在しているのだ。このときも、皇国海軍が帝国領内に揚陸し、橋頭堡を築くことを防ぐために帝国海軍南遣艦隊が根拠地〈リーベラ〉より出航した。
その報告を聞いた〈大提督〉イザベルは、皇国海軍連合艦隊旗艦にして第一艦隊旗艦〈カルマイク〉の司令座艦橋で微笑んだ。
帝国は皇国海軍の動きをどの程度読んでいるか。帝国海軍を撃破しての積極防御か、あるいは陸軍の運動を間接的に援助する陽動か。
どう転んでも、イザベルたちの目的は果たされる。
「帝国は我々の動きを注視するでしょう。結果がどのようなものであれ、帝国は陸海の双方で我々皇国と相対しなくてはならない。わたしたちの最大の目的はそこにあります」
皇国の最終的な戦略目標は一時的な帝国軍の撃退ではない。
「皇国、侮り難し」――そう帝国に思わせることが最大の目的だ。
皇国の内情を正直に述べるのならば、今帝国と全面的な紛争を戦う余裕はない。
内乱とそれに先立って行われた当代皇王の悪政。結果として皇国の経済は破綻寸前に追い込まれ、国民の心は辛うじて皇王家に対する忠誠心を残しているに過ぎない。内乱を終結に導いたのが次期皇王である摂政レクティファールであるからこそ、帝国との国境戦を戦うだけの力、つまり兵力と士気、そして新たな戦争への国民の許容と僅かな時間が残されただけで、本来なら早急な国家の立て直しこそがもっとも優先されるべきなのだ。
帝国との戦いが長引けば――帝国側の事情からすればほとんど可能性はないが――皇国の西方、連合参加国のいずれかが分不相応な野望を抱きかねない。
帝国陣営と国境を接する連合参加国は帝国の南進を警戒して早々に軍を北に張り付けることを選択したが、それ以外の国が何処を狙うかなど子どもでも分かる。どのような過程を経たとしても、勝てば正義、負ければ悪。国家間に横たわる価値観とは得てしてその程度だ。
もちろん、西方には皇国陸軍西方総軍の各部隊が無傷で残っているため、皇国領土に火事場泥棒がやすやすと入れる可能性は限りなく低い。だが、万が一という最悪の中の最悪は常に想定しておく、これこそが国防と呼ばれるものだ。
想像できる最も最悪な事態に備えよとは、皇国軍総ての基本概念である。
◇ ◇ ◇
摂政レクティファールが軍用列車に揺られて皇都を発った数時間後、聖都より巫女姫リリシアが皇都へと入った。
ある程度皇都が落ち着いてから後宮に入るべきであるという神殿の意見を受け容れ、これまで聖都に残っていたリリシアだが、再び摂政レクティファールが戦いに赴くと決まったとき、復興途中の皇都に飾られる象徴として相応しいのは彼女しかいなかった。
次期皇王レクティファールの伴侶にして四界神殿の巫女姫。いずれは皇王の第一妃となることがほぼ確実な彼女ならば、摂政不在の皇都と皇城の民心を纏めることができるだろう。
もっとも、彼女は入れ違いでレクティファールに会えないことを酷く不満に思っていたらしい。だが、一人の気の利く女官に、
「夫の留守を万事大過なく守ることこそ良き妻の仕事」
と教えられたらしく、紅潮した顔を緩め、鼻歌でも歌いはじめそうな様子で改装工事中の皇城を素通りして後宮へと入った。
未だ戦痕夥しい皇城内は、リリシアのような純粋培養のお姫さまが気軽に入れるような状況ではなかった。そのためレクティファールから書面で皇城の留守を任された近衛軍総司令官ベルファイルが、近衛軍の後宮護衛部隊である第一特別護衛旅団――通称〈機甲乙女騎士団〉に命じてリリシアを後宮へと押し込んだのだ。
もっとも後宮というのは、皇妃と呼ばれる皇王配偶者が起居する施設なので、リリシアの待遇としては順当なものだ。なお、政治的な理由で皇妃になれない女性たちや自ら皇妃となることを拒んだ女性たち、側妃や妾妃と呼ばれる皇王の非公式配偶者――というよりも愛人――は望めば一応皇族に準じる扱いはされるものの、公的に皇族や準皇族とは見なされず、後宮ではなく離宮や市井で暮らすことになる。彼女たちの子供は皇妃の子供らと違って皇族扱いを受けないが、貴族以外の家、例えば大商家や名家などの家に養子に出される場合が多い。
つまるところ、この時点で後宮に入れる資格を持つ女性はリリシア一人だけであり、ベルファイルの判断は特に間違ったことではないのだ。
実はこのとき皇城に最も近い離宮に一人の女性――愛妾アリアが入ったのだが、ほとんどの市民に気付かれることはなかった。
彼女の場合はレクティファールの意向もあって、本人が望みさえすれば皇妃として後宮へと上がることができたが、「愛妾の身であり、さらには未だ摂政殿下の愛を受けていない自分が、リリシア猊下のおられる後宮に入ることはできない」と固辞した。
この時点ではまだ後宮にリリシアしかいない。後に皇妃となるであろう四公の姫君たちも入宮していない時点で〈蕾の姫〉である彼女が入宮することは、後々の諸事を円滑に進める上では悪手だっただろう。そう考えれば、アリアの今回の判断は至極妥当だったと言える。
〈蕾の姫〉は特定の男に気に入られるために大貴族の令嬢以上の教育を受けているから、アリアの政治的な感覚というのはリリシアのそれと近い。巫女姫も幼少の頃から政治の何たるかを学んでおり、ひょっとしたらこの二人の方が摂政として日の浅いレクティファールよりも、余程上手く皇都とその周辺を慰撫することができるだろう。
ベルファイルや皇都に残された政府高官たちがそこまで考えたのかは分からないが、少なくとも、皇都の市民は笑顔で入城する巫女姫リリシアの姿に新たな時代の幕開けを感じ取り、明るい表情で復興に努めることとなった。
◇ ◇ ◇
〈パラティオン要塞〉までの行程は、民間鉄道網との兼ね合いもあって時折駅に足止めされることもあり、多くの人々が順調と聞いて思い浮かべるほどには簡単に進まなかった。軍の物資集積場と兵站駅は都市の郊外にあったが、都市間の路線は軍民共通なのだ。
それでも徒歩行軍が主であった頃に比べればその速さは桁違いであり、陸軍からも空軍からも、当然近衛軍からも文句は出なかった。それどころか三軍の兵士たちは、駅や駐車場に列車が止まる度に上官からの「下車許可」の声を待つようになっており、摂政以外の救援軍首脳陣の苦笑と失笑を買っていた。摂政自身が時折供を連れて駅のある街にお忍びで出掛けるということもあって、彼ら兵士も交代で街に出ることが許された。
彼らは万を超える大集団であり、当然彼らが落とす金というのはそれなりの額になる。その結果、摂政軍の止まる駅、止まる駅で恐ろしい数の出店が軒を連ねることとなり、予定された日でもないのに駅前に市が立つことさえあったほどだ。
彼ら商人にしてみれば、寒々しい限りの懐を少しでも暖めようという切実な想いもあっただろう。
特にこれから迎える冬に備え、農業と兼業で店を営む人々は彼ら摂政軍の来訪を歓迎した。
自分たちは『摂政殿下の軍隊』であると自負するだけあって、街で問題を起こす兵士もおらず、むしろ摂政軍が来たことで治安が改善されたということもあった。
皇国鉄道は元々北への迅速な兵力展開を目的として敷設されたもので、それが皇国の各地へと広がっていったという経緯がある。主要都市には軍の管理する物資集積場と兵站駅があり、素早く効率的に各地に物資を供給できる体制が整えられていた。もちろん、鉄道が運ぶのは物資だけではなく、人員も含まれる。皇国軍では兵員輸送車輌という専門の車輌が作られており、これは海軍技術者が設計に携わって兵士たちの移動に伴う疲労を極力抑えるよう工夫されていた。
例えば三段三列になっている寝台は基本的に兵士一人に一つあてがわれる。
帝国の兵員輸送列車が家畜用の幌付き運搬車をそのまま使っているのに対して、皇国のそれは完全に密閉され、狭いなりに一応個人の空間というものが用意されているのだ。彼らの寝台を覗けば家族や恋人の写真がべたべたと貼られているのを見ることができるし、夜ともなれば気の合う仲間と囁き合う光景が見られる。
皇国軍は他国に比べて女性将兵の割合も多いから、女性専用の兵員輸送車というのもあった。こちらは男性用の車輌とは違う匂いというものがあり、男性兵士たちはどうにかしてあの車輌に潜り込めないかと日々無駄な努力を重ねている。潜り込んだところで、腕っ節に自信のある頼もしい女性兵士たちに歓迎されるだけなのだが、男の性質というのは理屈で量れるものではないらしい。
さすがに車外宿泊は許可されないが、昼間の自由な時間に『花屋』や『花売り』に向かうことは黙認されていた。というよりも、軍としてはそういったことを止めるつもりは全くない。
戦場などにおいては男女の欲求は高まるもので、それはどうしようもないことだ。
勤務時間と軍律さえしっかりと守っていれば、恐い憲兵に睨まれることもなかった。
そうして皇都から北へと向かう途中、三度目の停車駅となった都市は、黒龍公アナスターシャの治める街、公都〈ニーズヘッグ〉。
建国以来、豊富な埋蔵量を誇る鉄鉱鉱山と魔導鉱鉱山を持ち、製錬所から皇国各地へと送り出す役目を負っている都市だ。今では鉱山と製錬所は都市の端に移動――正確には都市が鉱山とは逆方向に広がった――し、それらの鉱山を運営する商会や精製した鋼材を用いた工場などが軒を連ねる商工業都市として人々に認識されている。
そんな軍人たちと市民で溢れる公都〈ニーズヘッグ〉の市場を、軍装を纏った四人組の男女が歩いていた。
「――勇猛果敢に敵軍に飛び込む軍人も、結局は人の子ということですかねぇ……」
雑多な人種と喧噪が場を支配する市場を歩きながら、一人の青年が漏らした。
肩ぐらいまでの薄青の髪を一つに束ね、他の三人と同じく濃緑の皇国陸軍の制服を着ている。変装したレクティファールだった。
「当たり前のことを感心したように言わない」
「失礼しました」
彼の隣にいた空色の髪の女性――ウィリィアが、レクティファールの言葉を窘めた。軍人を消耗品扱いする人々は多く、青年の発言はそのような意図がなかったとしても誤解を招きかねないものだったからだ。青年はそれを認め、大人しく謝った。ウィリィアもそれ以上追及するつもりはないらしく、一言「分かればよろしい」と言って視線を前方に向けた。
この二人の風貌は髪の色のせいもあってよく似ており、姉弟だと言われれば大抵の者はその言葉を信じるだろう。実際、この市に来てからは何度も間違えられた。美人のお姉さんがいて羨ましいねえ、と店を開いていた中年の店主に話しかけられたとき、レクティファールは容姿と性格は別物だと答え、頭頂部に一撃を貰ったものだ。
実際のところ、ウィリィアの姿は十代後半くらいに見える。しかし、姿と年齢が一致していない種族が多いこの国では、見た目だけで年齢を判断することは少なく、この二人の場合は雰囲気で姉と弟という判断が為されていた。
そして、実際の年齢でもその判断は正しい。
「ウィリィア、あの串焼きは何かしら」
「白狼山羊の肉ではないでしょうか、この辺ではこの時期によく出回りますし」
ウィリィアとは青年を挟んで反対にいたメリエラが彼女に問う。内乱が始まってからは街に出ることも少なくなったメリエラだが、一つの区切りを迎えたことで、こうして街に出る回数も増えてきた。今日はレクティファールと一緒に出掛けるということで、だいぶ髪の手入れに力が入っていた。
問われたウィリィアはメリエラの指差す先を一瞥すると、少し悩みながらも答えた。メリエラはその答えに納得したのか、何度も頷きながら串焼きの屋台をじっと見詰める。
「ふうん、そうなんだ。美味しそうだし、ちょっと買ってくるわね」
「あ、いえ、姫さま。言ってくださればわたしが……」
「姫さま禁止って言ったでしょう、メリエラでいいわよ。それに、軍にいればこういう場所で買い食いなんて当たり前なんだから」
そう言うと、メリエラは屋台に向かって走っていった。その楽しそうな表情に、ウィリィアは何も言えなくなる。
屋台でメリエラが串焼きを注文している間、残された三人は別の店を覗きながら時間を潰す。
串焼きの屋台の店主は中年の男だったが、見目麗しいメリエラの笑顔に鼻の下を伸ばしており、紙袋にどかどかとおまけの串焼きを放り込んでいる。すでにおまけの方が多いくらいだ。
もしかして、彼女はそれを狙っていたのだろうかと、青年は店主に少しだけ憐憫の情を抱いた。
あの女性は、何というか、すでに嫁ぎ先は決まっているのだ。たとえ自分のものにならないことが分かっていても、実際に別の男のものになってしまうのは、男にとって格別の悲しさがある。それを知らずああしてだらしない顔を晒してせっせと貢いでいるのだから、同情ぐらいはしてもいいだろう。
そこに、その嫁ぐ相手が自分だという優越感が無いこともない。
「うん、自分がここまで良い性格しているとはこれまでの人生で気付かなかった。いや、これまでの人生って何処から何処までだろうか……まあ、いいか……」
そもそも悲しいことに、これまでの人生で女性に縁があったことなどほぼない。そんな自分がああも男の欲望を刺激する女性を隣に置いていることに、小市民的と言われても仕方がないが、ちょっとした優越感を抱いてしまう。
そのままお手軽な優越感に浸り続ける青年の下に、一抱えほどに膨らんだ紙袋を持ってメリエラが戻ってきた。
「麦麺に挟んでも美味しいって、店の人がおまけしてくれたの。いい人よね」
「うん、いい人ですね、本当に」
レクティファールは心の底から同意した。メリエラの後ろ姿を見送っていた店主がレクティファールの姿に気付き、微妙に憎しみの籠もった目で睨んでいることは分かっていたが、同じ男として理解できない感情ではないので好意的に無視した。多分、自分が向こうの立場だったら溜息を一つ吐いて諦めていただろうと思いながら。
そんなちょっとした男としての矜持を懸けた戦いを済ませた青年に、メリエラが串焼きを差し出した。
「はい、レクト。あーん」
「――っ!?」
こんがりとした肉汁たっぷりの山羊肉に飴色の餡が絡み、非常に美味しそうである。
そして、それを差し出しているのはいずれ自分に嫁いでくる予定の綺麗な女性。これは食べるべきだ。
しかし、周囲には沢山の人、人、さらに人。
これから轡を共にする戦友たちが、市場のど真ん中に発生した甘ったるい空間を見ている。
男たちは若干の憎しみを視線に乗せて、女たちは頬を赤く染めて。
(――ああ、でも、何が恐いって……メリエラの後ろのウィリィアさんですよねぇ……目だけ笑ってないし、何か詠唱しているような気がするし、手を太腿に伸ばそうとしているし)
どっちを選んでも結局彼女に良い笑顔で見詰められ、ちょっとした折檻を受けるのだ。
だったら、この可愛らしくも美しい女性を喜ばせる方が良いだろう。
「――いただきます」
衆人環視の中で恋人というか婚約者に手ずから串焼きを食べさせて貰うというある種の快挙を成し遂げた皇国摂政レクティファールには、周囲からやっかみと黄色い悲鳴と拍手が送られる。
ほとんどの者には変装しているせいで摂政だと気付かれていないだろうが、勘の良い者はすでに気付いているにちがいない。
銀髪の女性を連れた若い男というのは、その辺りにいるようで意外といないものだ。
ただ、気付いたとしてもそれを明かして場を混乱させようという無粋な者はいなかったらしく、四人は再び歩き始めた。
「――殿下は、いつもこうなのですか?」
四人組最後の一人、筋骨隆々とした長身を持つ鈍色の髪の青年がウィリィアに訊いた。
ウィリィアは無意識にべたべたいちゃいちゃする二人から一歩下がり、男の隣に並ぶ。
二人はお互いに串焼きを相手に食べさせるという高等精神攻撃を、無意識に、そして無差別に周囲へと撒き散らしている。
地団駄を踏む者、泡を吹いて卒倒する者、串焼きを買ってきて、同じ部隊の女性兵士に食べさせてもらおうとして引っぱたかれる者、了承を取り付けて両拳を天に掲げて叫ぶ者、そして自分たちもやってみようと無差別攻撃に加わる恋人たち。
四人を中心に混沌が広がっていくが、ウィリィアは少しも気に留めなかった。
「殿下はやめるように、軍曹。まあ、いつもはレクトが一歩引いて逃げ腰なんだけれど、皇都戦以降は少し余裕ができたらしいわ。――全く、どうしてくれようかしらあの唐変木」
「じ、自分としては、妃殿下と仲が良いならそれに越したことはないと思うのですが……」
軍曹と呼ばれた男が静かに怒気を発するウィリィアに抗弁する。
彼は近衛軍から摂政随伴を命じられた下士官で、今は護衛も兼ねてここにいた。その大きな体躯は、余計な騒動を防ぐ抑止力といったところだろう。
近衛軍の軍人らしく、皇王家に対する忠誠というものは一般人よりも強いらしい。
「ええ、メリエラ様が嬉しそうだからこれに関しては何もしないわ。あとでメリエラ様泣かしたときに纏めてお返しするけれど……ふふふ……」
「……」
冷や汗を垂らす軍曹。名前をガーリー・フィリポという。
「フィリポ軍曹は、ああいう決まった女性はいないの? 巨人族って言えば、どこも家庭円満っていう印象があるけど」
「は、軍に入って以来作っておりません。以前は海軍の艦隊勤務でしたし、陸にいる時間は余り多くなかったもので」
「そう、でも今は近衛だし、作っても困らないのではなくて? 巨人族は退役後に結婚する人も多いから急ぐ必要は無いけれど」
そういうウィリィアもいい年齢なのだが、彼女自身にはそういった噂が一切無い。元々白龍宮の一使用人なのだから自分の時間が少ないのは当たり前といえば当たり前なのだが、皇国貴族筆頭リンドヴルム公爵家の使用人となれば嫁の貰い手などいくらでもあるはずだった。
貴族の使用人というのは高い教養が必要とされることが多く、行儀見習いで使用人として貴族に仕える者もいるほどだ。
使用人の質はそのまま雇っている貴族の評価になるから、貴族たちも使用人の教育には力を入れる。伯爵家以上の使用人となれば、市井の識者よりも博識だという。
「わたしは、姫さまのお側にいられればそれで満足なのよ。その内、姫さまの稚様を抱けるだろうし、それで十分」
そう言ってウィリィアは前を歩く二人を眩しそうに眺める。
彼女と二人の間にある距離は、彼女の歩幅で二歩程度。しかし、その二歩こそがウィリィアとメリエラの間に確かに存在する距離だった。
ウィリィアにその距離を縮める意志はなく、メリエラもその距離を守る分別を持っている。
「――――」
ガーリーはおそらく同僚となるだろう女性の横顔を、ただ黙って見るしかなかった。
まだ若い彼には、こういうときに発するべき言葉というものがない。あっても声を掛けられたかどうか。
「あ、あの……」
それでも、何か言うべきだと本能が告げた。
無意識の自分が何かを言えと叫んだ。
それに従い、ガーリーは絡む舌を無理やり動かした。
だというのに――
「あ、ウィリィアさんも食べませんか?」
あの摂政は、いともあっさり自分の葛藤をぶち抜いていく。
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