白の皇国物語

白沢戌亥

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2巻

2-3

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 果たして彼らは自分の言葉を信じるだろうか。お互いに裏切り者と看做みなされても仕方がないことをしてきたが、再び手を取り合うことは可能だろうか。
 少し思考を巡らせると、ここが諦めどころかもしれないと思うようになった。
 こうなればあとは信じるしかない。それに、彼らも実際に自分の目で見れば分かるはずだ。この青年は皇王としての才能は未知数だが、龍の主君としての才ならば確かにある。自分を前にして一歩も退かず、〈皇剣〉さえ従えたのだから。

「あちらに見える四阿あずまや、そこで会談が行われます。私は殿下の臣ではありますが、あの中では中立とさせていただきまする。ご承知置き下さいますよう」

 皇太子としての初めてのお役目に緊張しているのか、レクティファールは少しだけ青褪あおざめた顔でうなずいた。
 どんな相手が来るかは伝えてある。
 それでも動揺を顔色一つで済ませているのだから、大したものと言って良いだろう。

「――それでは、参りましょう」

 カールはレクティファールに気付かれぬ程度に緩めていた歩調を戻し、四阿あずまやへと進み始めた。


 レクティファールが四阿あずまやに入ったとき、その場にいたのは円卓に座るたった三人の男女であった。
 一人目は長い真っ直ぐな黒髪を持ち、小柄な体躯たいくを飾り布の多い衣裳いしょうに包んだ小さな少女。彼女は眠たげに細められた瞳をレクティファールに向け、茫洋ぼうようとしたその視線で何かを探っているようだった。
 二人目は深紅の髪を短く切り揃え、細くもしっかりとした筋肉に覆われた大柄な身体をカールと似通った衣裳いしょうで包んだ美丈夫。レクティファールの到着に気付いていながら、目を閉じて身じろぎすらしない態度は、あるいは拒絶の証だったのかもしれない。
 三人目は蒼穹そうきゅうの色を写した髪をゆるく三つ編みにし、それを背中に垂らした女性。比較的穏和そうな雰囲気を持っていたが、その実、もっとも底の知れない気配の持ち主でもあった。
 レクティファールが三人を短く観察し終えた頃、カールが彼の横に並び、三人それぞれを示しながら紹介を始めた。

「黒龍公、アナスターシャ・フォン・ニーズヘッグ」
「紅龍公、フレデリック・バルガ・スヴァローグ」
「蒼龍公、マリア・ヴィヴィ・フォン・レヴィアタン」

 本来ならば自ら立ち上がって名乗るのが礼儀だが、この三人がレクティファールに礼を示す理由はない。
 当代皇王の素行に反発して皇王家からの独立を宣言した彼らにとって、如何いかなる公職にも就いていない、ただの皇太子であるレクティファールに示す礼儀などありはしないのだ。
 いや、彼ら三人が皇国以外の国の貴族であるのならばそれなりの礼儀を示していたかもしれない。
 しかしここは皇国であり、彼らは皇国守護を初代皇王より命じられた四龍の子孫である。
 皇国を乱すのならば、皇王とて斬り捨てる大義名分があった。
 しかしこのとき、彼らは決してレクティファールを排除しようとはしなかった。
 ただ――

「――カール……これで義理、果たした」

 黒龍公アナスターシャがおもむろに立ち上がり、カールとレクティファールに向けて言い放つ。肩を震わせたカールの動揺が、レクティファールにも伝わってきた。
 それに続き、紅龍公フレデリックも組んでいた腕を解き、席を立つ。立ち上がればレクティファールよりも背が高く、見下ろすようにレクティファールをにらみ付けてきた。

「確かにな、時間が限られている中で譲歩したんだ。文句はないだろう」

 レクティファールは彼らの行動に驚きを隠しきれなかった。
 自分はまだ名乗っていない。
 確かに彼らにとって取るに足らないような存在かもしれないが、仮にも国家元首になろうとしている人物がこうも軽んじられる理由が理解できなかった。
 好き嫌いで人を選ぶことはあるだろう。だが、好悪で元首を選ぶようなことはあってはならない。真に国を想うというのなら、個人的感情よりも優先すべきことがあるのではないか。

「カールちゃん、あとはよろしくね」

 にっこりと暖かな笑みを浮かべた蒼龍公マリアが彼らに続いて立ち上がり、レクティファールの隣に立つカールに笑いかけた。このとき彼女は、決してレクティファールを見ようとしなかった。
 レクティファールは驚き、満足に思考を働かせることができなかった。だが、それはカールも同じことだ。彼は顔を紅潮させ、三人の前に立ちはだかった。

「き、貴様ら……何を考えている」

 唇を震わせ、三人をにらむ。皇国の一大事に、最強の手札である皇太子を無碍むげに扱うとはどういうつもりなのか。
 しかしその視線を受け止めても、三人は小揺るぎもしなかった。
 カールと同格の龍族である三人にとって、その視線など大した意味を持たない。現にフレデリックは呆れたように首を振り、レクティファールとカールに告げた。

「決まっているだろう。俺たちは皇王家から独立したんだ、皇国を守るのは当然だが、その配下に入ることはしない」
「馬鹿なっ! 初代皇王陛下との契約は……」
「それだけどね、カールちゃん」

 マリアが困ったような笑顔をカールに向けた。しかし、その金色の瞳は少しも笑っていなかった。

「初代様の遺言は、皇国を守ること。わたくしたちは確かに皇王家には忠誠心を持っているけど、国にとって善か悪かも分からない皇太子に対する忠誠心は持ち合わせていないの。それに、彼がこの混乱を収められるという確証はないでしょう? 賭けごとは嫌いじゃないけれど、わたくしたちだって時間と場所はわきまえているつもりよ」

 不確定要素だらけの賭けに出るよりも、確実に現状を収めることができる方法を選ぶべき。マリアはそう言っているのだ。

「――――」

 カールは絶句して残りの一人、黒龍公アナスターシャを見た。
 お前も同じ考えなのか、そう視線でたずねていた。
 互いの視線が絡み合い。果たして、アナスターシャは小さくうなずいた。

「――うん。……じゃあねカール、また遊びに行く」

 そう言って身をひるがえすアナスターシャ。その動きには躊躇ためらいの欠片かけらも見えない。
 マリアもそれに続き、フレデリックもまたカールたちに背を向けた。

「待て! 皇国を守るというのなら、お前たちはまさか……」

 カールの声に、フレデリックだけが振り返った。

「――決まってる。俺たちは、自分たちの軍を率いて連合を喰らい尽くす。皇国軍の手は要らん、協力を約束した貴族共もいるしな。そのまま帝国の蛮人どもも追い返すさ」
「な……っ!」

 フレデリックの言葉に、カールは驚きのあまり目眩めまいがした。
 皇都戦線の危機的状況は知っている。だが、朋友である三人がいきなり強硬手段に出るなどということは予想していなかった。それでは連合諸国と周辺国に要らぬ敵愾心てきがいしんを植え付けるだけではないか。
 確かに強硬手段に訴えれば、短期的には連合の主力を殲滅せんめつしてその侵攻の意志をくじくことはできよう。しかしその先に待っているのは連合との泥沼の戦争だ。周辺国も皇国を危険な国と見るかもしれない。
 何としてもそれだけは阻止しなくてはならない。
 カールは三人を呼び止めるために口を開いた。
 だが、それを遮るように金属じみた硬質な声が四阿あずまやに響いた。

「――ふざけてもらっては困るんだよ、この石頭共。長生きのし過ぎで考え方まで化石になったのか」

 彼の隣に立ったまま、そして立ち去る三人に目を向けることもしないまま、青年が吐き捨てた。


 後にカールは娘に語っている。初めて自らの主君に恐怖を抱いたのは、一切の抑揚の無い怒声を聞いたこのときであった、と。
 一〇〇〇年以上生きたカールさえ感情を揺り動かされたのだ。他の三人が何も感じないはずがなかった。

「――何?」

 初対面のレクティファールに痛罵つうばされた三人は揃って足を止め、一斉に振り返った。
 三人の表情は総じて硬く、フレデリックに至っては怒りのあまり瞳孔が鋭く裂けていた。
 龍族の特徴の一つである龍眼は、人間の姿で日常生活を送っている限りは決して現れない。ただ感情がたかぶり、あふれる魔力を抑えるために龍の姿に戻ろうとする過程で、瞳孔が裂け、龍眼となる。
 つまり、龍族の瞳を見れば、その龍族の怒りがどの程度のものか判断できるということだ。
 最近は龍族も自らの魔力を効率よく抑える術を開発しているので絶対とは言えないが、それでも公的私的を問わず龍族と関わりのある者はこの判断基準を固く信じて行動するようにしていた。
 皇国内外にかかわらず、悪名高き龍族の逆鱗げきりんとは別に、彼らが人の姿で見せる龍眼もまた人々の恐怖の対象だったのである。
 しかし、フレデリックの龍眼を見てもなお、レクティファールの表情に変化は無かった。
 常に使用者の状態を最良に保つための複数の機能を持つ〈皇剣〉。その機能の一つによって怒りを排除された思考を元に、ただ冷然と、こう告げるのみだった。

「ふざけるな、と言ったんだ。それとも、老いて耳も狂ったか?」
「――!」

 その言葉に三人の反応は分かれた。
 明らかに挑発と分かるレクティファールの言葉に、衝動的な怒りよりも強い疑問を抱いたアナスターシャとマリア。彼女たちは動きを見せなかったが、その挑発に乗ったフレデリックは一気に龍眼を見開き、その体内に抱える莫大な魔力を練り上げて一瞬で召喚魔法の魔法陣を虚空こくうに生み出した。
 その魔法陣から現れたのは一本のつか
 革紐ではなく鱗状の金属で覆われたそれは太く長く、その先に存在するであろう刃の巨大さを物語っていた。
 フレデリックはそのつかを引っ掴み、短い呼気と共にレクティファールに向けて振り抜く。魔法陣の残留魔力が尾を引き、現れた巨大な両刃を輝かせた。
 対するレクティファールもその刃を黙って受けるようなことはしなかった。
 まばたき一つで白銀の龍眼を右眼にあらわすと同時に、ほぼ無意識のうちにフレデリックのものとは違う魔法陣を組み上げ、同じように魔法陣から現れた細いつかを握る。それは白金に輝く糸を柄巻つかまきにした、彼にとって最も身近である『白刃』。

「――っ!」

 自分に向かってくる大剣に向けて、レクティファールはその細い剣――刀を叩き付けた。


 折れない、折れることは有り得ないと本質的に理解しているからこそできる、武技の欠片かけらも感じられない無茶な迎撃。脳まで響くような金属の衝突音と摩擦音、それらが空に溶け消えるまでの刹那せつなで、フレデリックはその刀の正体を察した。
 レクティファールの召喚した刀はこの世界で唯一無二の概念兵器――

「――〈皇剣〉っ!」

 フレデリックの悲鳴にも似た叫びには意味がある。
 過去に皇太子が〈皇剣〉を継承したときには、その力を使いこなすまで幾ばくかの時間を要した。
 だが、目の前の無礼な男はわずか数日前に〈皇剣〉を継承したばかりのはずである。たとえこの男が〈皇剣〉の力を望んだとしても、〈皇剣〉が使い手を認めない限りその力を振るうことはできないはずだった。それは未熟な使い手に対しては自己を守るために機能を制限するという〈皇剣〉に備わっている安全機構が原因であるとも、単に使い手が未熟で〈皇剣〉の機能を理解していないからだとも言われているが、事実は一つ、皇太子として〈皇剣〉を継承した者がこれほど短期間で〈皇剣〉を使うことはこれまで不可能だったということ。
 しかし、今フレデリックの前に立つこの男は〈皇剣〉を使って彼の剛剣をしのいで見せた。
〈皇剣〉に傷一つ無いという事実は、その機能故に特にフレデリックの矜持きょうじを傷付けたりはしなかったが、立太子したばかりの若者が自らの剣を受けきったという事実はフレデリックを動揺させた。
 その動揺はレクティファールにも伝わり、彼はそうして生まれた間隙に言葉を滑り込ませる。

「――〈皇剣〉はこの国を守るために力を振るう。だからこそ、今私に力を与えた。この意味が理解できるはずだ、紅龍公」

 怒りを機械によって圧し潰され、しかし隠された激情をその龍眼にたぎらせたレクティファールの言葉に、フレデリックは一言うめき、そして沈黙した。
 今となっては彼も理解している。
 今までの皇太子が、あるいは半皇はんおうがすぐに皇王として〈皇剣〉を振るえなかったのは、単にその状況になかったからだと。
 護衛に守られ、先代皇王のが明けて即位の儀を迎えるまで決して危険にさらされることはなかった彼らに、〈皇剣〉を振るう理由も意志も存在しなかった。だからこそ〈皇剣〉はその力を発揮することがなく、即位前の践祚せんそを終えたばかりの新たな皇王には〈皇剣〉を使うことができないという常識ができ上がってしまった。
 だが、今このとき皇太子となった青年にはそれが存在した。
 外敵を排し、内憂ないゆうを滅し、大切な者が住むこの国を守る。
 だからこそ、〈皇剣〉は皇国を守るために使い手の望みを叶えたのだ。

「私が三人の立場だったとしても、いきなり現れた、践祚せんそもしていない皇太子に忠誠を誓うなんてことができるとは思えない。だから、忠誠なんてものは後回しでも、最悪、無くても構わない」

 レクティファールはフレデリックの剣を受け止めた体勢のまま、三人に語り掛ける。
 今必要なのは剣ではなく、意志だ。
 否、今の自分には意志しかない。人脈も財も、経験さえ持たない自分にあるのは、皇太子として振舞うという意志だけだ。

「あなた方は初代皇王より皇国の護持を命じられているはずだ。そして、当代皇王でもそれは変わらなかった」

 彼ら三人がここで軍を発することを選んだのは、皇都戦線の崩壊を察知したからだろう。
 皇都は単に皇国の首都というだけではない。
 初代皇王の建国宣言から始まる皇国の歴史が、皇都〈イクシード〉には積み重なっている。
 そこを他国に蹂躙じゅうりんされるのは皇国の存在そのものが傷付くということであり、だから彼らは戦いを選んだ。もっとも確実で、早期の解決になるであろう道を。
 しかし、レクティファールはそれを性急だと言う。

「当代皇王の蛮行、代わって私が謝罪する。だから、此度こたびの戦だけは私の意見を通させて欲しい。その上で私がこの国に害を及ぼすと判断したのなら、そのときは斬り捨ててくれて構わない。決して抵抗はしないと約束する」

 レクティファールの龍眼が三人を見詰めている。
 力持つ龍族ならば金色以外に有り得ない龍眼。
 しかし、この皇太子の瞳は他に類を見ない白銀の龍眼だった。
 これまでの皇王も同じように龍眼を持っていたが、彼らの龍眼も元々の瞳の色を色濃く残していた。その中でも、白銀という色素の薄い龍眼はこれまでに無いものだ。
 三人には別にそれが特別であるという意識はない。ただ、その白銀に少しだけ興味が湧いた。龍族とは違うその瞳で、今何を見ているのかと。

「――――」
「ターシャ!?」

 フレデリックの驚愕をぼうっとした顔のまま受け流したアナスターシャが、無言のまま円卓に戻り腰を下ろした。
 そんな盟友の行動に、如何いかにも仕方がないといった風に肩をすくめたマリアが続いた。
 カールもまた密かに安堵の溜息を漏らして円卓に着き、残るはフレデリックただ一人となった。

「――――」

 無言で視線を絡ませる二人。にらみ合いとも言えない視線の交わり、互いの内心を解き明かそうと視線を交錯させる。
 そして、黄金は白銀と交わり、離れた。
 その刃と共に。

「――今回だけは〈皇剣〉に免じて話を聞いてやる。従うかどうかはそのあとだ。文句はねえな?」
「感謝する」

 不機嫌そうに鼻を鳴らしたフレデリックが円卓に戻ったとき、この場は皇国の次期皇王と元老が集う議場となった。
 情報開示の行われた後、この戦いを記した書物にことごとく名を刻むことになる、『聖都会談』の幕開けである。


         ◇ ◇ ◇


 三公の一人、蒼龍公マリアが会談の進行役を担うことになったのは、単に彼女がもっとも年長であったからに過ぎない。宮内序列としてはカールが筆頭だが、四龍公だけの場であるならこちらの方が面倒が少ない。
 一体彼女は何歳だろうというレクティファールの思考にすぐさま気付き、薄ら寒い微笑みを見せたマリア。その視線に身体を震わせたレクティファールは、彼女とはできるだけかたき同士どうしにはなりたくないとこの上ないほど真剣に思った。
 龍族の女性は歳を経ると年齢を気にしなくなるというが、実際には子供を産めるかどうかという点が基準になっている。彼女たちは、個人差はあるもののおよそ四百歳前後で子供を産むことができなくなり、それとほぼ同じ頃には自らの年齢に頓着とんちゃくしなくなるという。
 無論、個人的な性格として最初から気にしない人もいるし、逆にいつまでも気にする人もいる。マリアは後者なのかもしれない。
 彼女は非常に笑顔でレクティファールをじっと見詰め、彼の額に一粒の汗が浮かんだのを確認して正面に向き直る。レクティファールの心底ほっとしたような吐息を涼しい顔で聞き流し、会議の口火を切った。

「――さて、久しぶりに顔を合わせたっていうのに、面倒な議題ね。お姉さん困るわ」
「無駄口を叩くんじゃねえ、くそババア。それこそ老いてボケが始まったか?」
「――!?」

 フレデリックの言葉通り、彼とマリアの年齢差は実に千歳を越える。
 その点では的外れな言葉ではないが、暴言であることは確かだ。その証左に、彼の言葉と同時にマリアの笑顔が凍り付いた。
 笑顔のままのマリアだが、ひょっとするとまぶたの奥のその瞳は龍眼になっているかもしれない。それを証明するように、マリアを中心として周辺の魔力が動き始めている。
 一気に険悪になった場の空気を誤魔化すべく、レクティファールは生来の小動物振りを発揮して立ち上がった。

「ま、まず、私の先ほどの無礼をお詫びしたい。三公をこの場に留めるためとはいえ、皇太子にあるまじき行為だった」

 この場に来る前にカールに言葉遣いを注意されたレクティファール。〈皇剣〉に記録されている歴代皇王の言葉から辛うじて真似できるものを選び出した結果が、この口調だ。
 元が一般人であるレクティファールには、おうが臣下に対するような言葉遣いなど分からない。元世界で得た知識を総動員して理解した〈皇剣〉の記録だけでは、この辺りの言葉が限界だった。
 しかし、怒りによってある程度口調が固定されていた先ほどまでとは違い、レクティファールという人物を多少なりとも理解している者が聞けば、一瞬で無理していると看破されるだろう。

「――言葉、別に無理、しなくていい……」
「あ」

 いや、理解していない人であっても十分無理していると分かるものらしい。
 アナスターシャのぼうっとした瞳に見詰められ、レクティファールはただうめくしかない。

「あなた、一言話すたびに、いちいち次の言葉、考えてた」
「ぐっは」

 途切れ途切れで喋るアナスターシャ独特の口調に肺腑はいふえぐられるレクティファール。
 色々足りない頭と羽毛並の質量しかない度胸を振り絞ってこの場にいるというのに、このままでは目的を達成する前に精神的に陥とされかねない。
 レクティファールは、何とか気持ちを奮い立たせようと深呼吸する。よし、と心の中でつぶやいて再度口を開く、が。

「あら、そう言えば名前まだ聞いてないわ」
「――――」

 それを遮るようなのんびりとしたマリアの声にかくんと肩が落ちる。
 そういえばそうだったと思いながらも、なんて間の悪さだと内心愚痴ぐちこぼす。
 もしも意図的なものだったとしたら、やはり現四公爵最年長は伊達だてではないということだろう。レクティファールは純粋に感心してしまった。こういったことはやはり長年の経験がものを言う。
 いつか自分もそうなれるか、と考え、すぐに多分無理だろうなと結論を出した。
 人には生来の性格というものがあるのだ。根本的な部分はどうにもならない。教育や環境で矯正きょうせいすることもできるだろうが、それには多くの時間を要する。
 レクティファールはなんとか気を取り直して、その場を見渡す。カール以外の三人の金の瞳が、品定めするように彼をじっと見詰めていた。
 彼は一つ咳払せきばらいをし、動きの鈍い舌を意識しながらゆっくりと言葉を発した。

「大変失礼しました。それでは、改めて名乗らせていただきます。――――皇国皇太子、レクティファール・ルイツ=ロルドです」

 ルイツ=ロルド。
 それが皇太子として立ったレクティファールに神殿から送られた称号だった。
 目が覚めてからの慌ただしい時間の中で伝えられたせいで有難味ありがたみの一つも無かったが、これはおうとしての花押かおうにも使われる大事な称号だ。

「――家名は?」

 フレデリックが問う。
 皇太子は通常、称号のあとに家名を持つ。
 これは他国で言う王朝としての名であり、彼の配偶者や子供はこの家名を名乗ることになる。
 だが、レクティファールにはそれがなかった。

「通常であれば皇王陛下より家名を賜るのだが、此度こたびは無理だ。それも含めて、この場で相談したいと思う。名が決まらなければ、摂政位に就くことができんからな」

 カールが助け船を出す形でフレデリックの問いに答えた。
 おうの家名は国家として掲げる名でもある、四公の合議の議題としては十分だった。
 それに今後皇国の全権を掌握するために最低限必要な摂政の地位も、皇王が皇太子を認めたという証でもある家名が無くては就くことができない。逆に言えば、家名さえあれば皇王のいない現状では、皇太子自身の宣言のみで摂政として立つことが可能だ。

「先代の家名を名乗ることは……無理だな、反感を買うだけだ」

 自分の意見を自分で否定するフレデリック。
 先代皇王の家名ということは、この争乱の原因となった当代皇王と同じ家名ということになる。
 とてもではないが、国民の反感をあおるような名を名乗ることはできない。

「というより、世襲でもない限り同じ家名は使えないわよ。神殿に依頼するという形は取れないの?」
「――大戒律」
「ああ、それじゃだめね」

 マリアの提案は、称号と同じような形で四界神殿から家名を貰えないかということだ。
 だが、神殿草創期以来の役目であり、皇王以外の者が名乗ることはない称号の授与とは違い、皇妃やその子供も名乗ることになる皇家の名は今後の皇国の政治に関わる重要な事案であり、大戒律に抵触する可能性が高い。アナスターシャはそう言っているのだった。

「いっそ、勝手に名乗るという手もあるんじゃないか?」

 フレデリックがぽつりとつぶやく。円卓を指で叩くと、かつんと硬い音がした。
 皇王がいない今、勝手に家名を名乗っても文句を言える人間はいない。
 皇太子の行動を制限できるのは皇王のみだ。

「実際、初代陛下は自ら家名を付けたといわれているだろう。これもおうの権利じゃないのか?」

 その言葉にカールが反論した。

「いや、当時は皇国そのものが存在していなかった。初代陛下は単に家の名を名乗ったに過ぎん」

 その後、皇国が建国されて皇家に連なる者たちが初代皇王の家名を名乗るようになった。家名が皇家の名として、対外的には王朝の名として定着したのはそれからだ。

「とはいえ他に方法はないか。ただできるなら、皇国に縁のある名を名乗っていただきたい。そうであるのとないのとでは、国民の受け取り方がまったく違う」

 皇王家に深く関わりのある名であれば、国民がレクティファールに抱く感情も良い方向に修正されるだろう。今回の騒動で皇家に対して少なからぬ不満が存在するのは誰の目にも明らかだ、できる限りそれを取り除くことが肝要だった。

「――初代様から、少しだけ名を分けて貰う」
「『ヴィクトル』の名か」

 アナスターシャの言葉にカールがあごに手を当てて唸り始めた。
 初代皇王の家名として知られているその名は、元々は初代皇王の妃であった女性の家名であった。
 旧アルマダ帝国末期、帝国貴族の家柄でありながら初代皇王と共に戦ったその女性の家は、彼女の存在によって時の皇帝の勘気かんきに触れてしまった。それ故に、『ヴィクトル』の名を持つ一族は根絶やしにされてしまい、さらにその女性は生涯初代皇王と共にあると決め、すでに家名をてていたため、この時点で『ヴィクトル』の名は完全に途絶えていた。
 だが帝国崩壊後、初代皇王は突然『ヴィクトル』の家名を公に名乗るようになった。
 それはすでに妻となっていた女性への一つの意思表示だったのだろうと言われているが、真実を知るものは本人たち以外にいない。ただ、当時を知る初代四龍公は、その事実を苦笑と共に秘していた。

「確かに、初代様の家名であればあやかることに問題はないと思うわ。民たちも納得するでしょうし」
「――ということだが、お前はどうなんだ」

 フレデリックが横目でレクティファールを見遣る。
 四人の議論を感心するような表情で見ていた彼は、その言葉に目を丸くした。
 自分が参加できるような会話ではなかったではないか。

「いや、どうと言われても」
「お前が決めなくてどうするんだ……」

 フレデリックは呆れたように言う。
 これが次代皇王かと思うと、この国の将来を心配せずにはいられなかった。

「決めて良いものなのですか?」

 レクティファールは四人を順に見た。
 四人ともうなずき、アナスターシャが補足する。

「わたしたちに、決める権利ない」
「はあ……」

 建国以来の権門とて、所詮しょせんは臣下である。主君の今後に関わる重大事を勝手に決めることはできない。四人はそういった意味合いの視線をレクティファールに送り、彼の自発的な決断を促す。
 注目を浴びたレクティファールの額に嫌な汗が浮かぶ。しかし答えを出さないわけにもいかず、彼は必死に〈皇剣〉の記録を走査し始めた。幾つかの言葉が候補として羅列され、レクティファールは一つ一つそれを確認していく。
 その中の一つに、目を留めた。

「そうですね、もし名乗るとしたら……」

 彼は四人の視線に押し潰されそうになりながら、訥々とつとつと口を開く。
 だが、彼を小心者と笑える者などいない。並の人間ならば、そもそもこの四人と同席などできなかっただろう。早々にその存在の発する重圧に耐えかね、逃げ出していたに違いない。それほどまでに市井の人々にとって龍族とは、神にも等しい圧倒的な存在なのだ。
 そんな龍族に囲まれながらも自分の考えを失わない。ある意味では、それが皇太子としてこのときのレクティファールに最も必要なことだったのかもしれない。
 そして彼は、それを成し遂げた。
 最初こそ小さな声だったが、その名だけははっきりと口にした。

「『エルヴィッヒ』と」


         ◇ ◇ ◇


 レクティファールの言葉は受け入れられた。
 初代皇王より『ヴィ』の字を受け継ぎ、皇家としての『エルヴィッヒ』家を立ち上げたのである。
 以後、彼の系譜に連なる者はエルヴィッヒの一族と呼ばれることになる。


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