白の皇国物語

白沢戌亥

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1巻

1-3

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「つまり、今上陛下の身柄を押さえるためには皇都に侵攻し、武力でびょうを暴かなくてはならない」

 だが、侵攻すれば今度こそ辺境貴族たちの軍が連合軍に攻めかかるだろう。貴族たちは何度もそれを匂わせたし、現に彼らの軍は続々と皇都周辺に集結し、いつしかその数は連合軍を凌駕りょうがしていた。
 自分たちで皇王の身を害すれば弑逆しいぎゃくとなってしまう。それを避けるために他国の力を借りたが、これ以上他国の軍を愛する皇国の領土に留め置く理由はない。貴族たちにとってはもう、連合軍は邪魔者だった。
「もう用は済んだのだから早急に撤退せよ」という辺境貴族軍と、「わずかな賠償金以外に何も得られず、単に無駄に軍事費を消費しただけでは国民の支持を失ってしまう」という各国政府の対立という構図が新たに生まれ、状況はより混迷の度合いを増した。
 外征は莫大な資金と物資を必要とする軍事行動である。どんな大国でもおいそれと実行できるものではない。国債発行などで戦費を拠出した各国政府にしてみれば、すでに自国経済に影を作り始めた今次侵攻作戦の戦費にも満たない、少額の賠償金だけで納得できる訳がない。
 戦争とは最終的に黒字になるから行うものなのであって、赤字前提で戦争を行う国家は早晩滅びることになろう。しかし、このとき連合側が長期的な視点に立って戦後を見ることができたなら、貴族側の申し出を受け入れた可能性もあった。しかし、連合国上層部は選挙によって選ばれた為政者である。次の選挙を落とす危険を冒してでも皇国との関係改善を選べるかと問われ、うなずく者は非常に少なかった。
 結局のところ、連合側からすれば最低限収支の釣り合いが取れる条件を皇国側に呑ませなくては撤退などできない。
 他方、連合軍とにらみ合いを続ける辺境始原貴族側も内部に複数の問題を抱えていた。

「そう、何処どこも問題だらけだった」

 身内の恥をさらすことに躊躇ためらいはない、と言わんばかりに言葉を続けようとするメリエラ。
 しかし、彼女が口を開く前に、扉が数度叩かれる。
 冷水を浴びせられたように身体をすくませるメリエラであったが、レクティファールの視線を感じると慌てて表情を取り繕い、扉に向かって入室の許可を出した。

「――姫さま、お茶をお持ちしました」

 扉を開けて部屋に入ってきたのは、先程の侍女だった。
 台車にお湯の入った保温瓶と茶壷、お茶請けの焼き菓子を載せ、二人にそれを差し出す。

「あ、ありがとう……でも……」
「何ごとも緩急が大事だと、旦那様も仰っておられたではありませんか。それに、この方は病み上がりです。あまり無理をさせては」

 彼女は侍女にそう指摘され、はっとした表情でレクティファールを振り返る。
 良く見てみれば、先程よりも顔色が悪くなっていた。

「ごめんなさい。少し気が急いてしまったみたい」
「いいや、別に……」

 気にしていない、と続けようとしたレクティファールだが、こちらを見る彼女の目が無理をしようとしている自分をたしなめているような気がして、それ以上言葉を継ぐことができなかった。

「――少し休憩しましょう」

 メリエラの言葉で、部屋の空気が少しだけ弛緩した。



 第二章 そこにある現実


 侍女はお茶をれる用意をすると、すぐに部屋から退出した。
 メリエラがあとは自分でやると言い、下がらせたのだ。

「これでも、お茶にはちょっと自信があるの」

 そう言い、彼女は慣れた手付きで紅茶をれた。温めたポットに茶葉と熱湯を入れ、ほんの少しの時間で見事な色合いのお茶をれて見せた。

(うまいものだ)

 貴族令嬢というからには、てっきり侍女にお茶をれさせるものと思っていたレクティファールは、メリエラの見事な腕前に感嘆するしかない。

「どうぞ」
「頂きます」

 差し出された磁碗じわんを受け皿ごと受け取ろうとしたレクティファールだが、ふとお茶の表面が波立っていることに気が付いた。そして、その原因を探ろうとしてメリエラの手を見、そこに付着したインクに目を奪われた。
 小さな傷だらけの手。その傷や爪の間に染み込んだインクは、メリエラのその美しい姿にはあまりに不釣合いだった。

「どうしたの? ――あ!」

 メリエラはレクティファールが自分の視線を手に向けていることに気づくと、その手がインクで汚れていることを思い出し、慌ててお茶をレクティファールに押し付けた。

「ご、ごめんなさい」

 真っ赤な顔で恥じ入ったように手を隠し、「本当にごめんなさい。いつもはこんなことないのに……」とつぶやく。染み込んだインクは軽く洗った程度では落ちたりしないのだから彼女に責任はないはずだが、メリエラは顔を伏せたまま上げようとしない。

「あの、別に気にしていませんから」

 そうレクティファールが明るく声をかけても、お茶を飲んで美味しいと言っても、メリエラは顔を上げなかった。ただ、その耳が真っ赤に染まり、彼女の隠された表情をレクティファールに窺わせる。
 先程まではひどく真剣な空気が満ちていたというのに、今の室内はあまりにも穏やかであった。
 しかし、メリエラが必死に隠しているその手に刻まれていた幾つもの傷のことを思うと、レクティファールの表情から一切の笑みが消え去った。

「――その傷は、どうしたのですか」

 動揺を押し隠して問うてみれば、メリエラは自分の手をそっと見つめ、困ったように微笑んだ。

「大丈夫、わたしたちの種族は治癒ちゆ力が高いから」

 レクティファールが求めた答えは、もちろんそんなものではなかった。
 そして、メリエラのその今にも泣き出しそうな表情も、けっして望んでいなかった。
 明確な理由もなく、ただただそんな顔を見るのが嫌だった。

治癒ちゆ能力が高いのに、そんな小さな傷もいやせないのですか」
「――いじわる、本当に」

 だが、今の彼には、メリエラを笑顔にさせるだけの言葉がなかった。
 気の利いた台詞せりふも、仕草も知らない。
 だから、せめて怒らせようとした。少し考えればそれがあまりにもつたない小細工であると分かりそうなものであるが、この時点では二人ともそれを察する余裕はなかった。

「あなたには関係ないことでしょう」
「いいえ」

 レクティファールはこれまでで一番強い意思を瞳にたぎらせ、メリエラの黄金の瞳を見つめた。
 しばらくの間その視線を受け止めていたメリエラであるが、やがて耐え切れなくなったように視線をらした。

「――本当に、いじわるな人ね」
「あなたには負けます。あんな顔を見せられて、黙っていろと言うのだから」

 あそこで黙っていられる程、レクティファールは物分かりのいい大人になりきれていなかった。そして、そんな大人になどなりたくもなかった。みっともない、子どものような我侭わがままだという自覚はあった。

「せっかくの綺麗な顔が台無しでしたよ」
「お世辞は、もう少し場を選ぶべきね。こんな雰囲気も何も無いところで言っても、恥ずかしいだけよ」

 そういうメリエラの方が、恥ずかしそうに頬を染めている。
 言葉を発したレクティファールが平気な顔をしているということが、益々ますます彼女の羞恥心しゅうちしんあおる。

「少し、手を見せてくれませんか」
「え? でも……」

 躊躇ためらうメリエラの手を、レクティファールは強引に引き寄せた。メリエラが本気で抵抗すればそんなことはできなかっただろう。だが、驚きを顔いっぱいに浮かべたままの彼女は自分の手を掴む青年に抗うことができなかった。今まで、彼女をこんな風に扱う他人など、ほとんどいなかったからだ。
 人々は彼女を姫君として扱っていたし、辛うじて軍の上官や教官がそれ相応の態度を取っていただけで、ひょっとしたら、仕事や役目以外で彼女を白龍公の姫君と知り、なおその態度を変えなかったのは目の前の青年が初めてかもしれない。

「――肌が白いってことは、その分荒れやすいんでしょうか」

 と言って、メリエラの両手を自分のそれで包みこむレクティファール。
 彼の体温が、じんわりとメリエラに移っていく。

「――う」

 それがなんとも気恥ずかしい。移ってくる体温に集中してみれば、それはまるでもっと親密な男女のむつみ合いを体験しているような感覚であった。
 全体は優しく包まれ、荒れて痛みを覚える箇所は優しく撫でられる。それは治癒ちゆ魔法ではなく単なる愛撫あいぶであったはずなのに、メリエラの白磁はくじの手は、その傷を次々といやされていく。
 不思議な光景だった。
 魔法も使わずに傷を治すなど、神々が与える奇蹟のようではないか。

「こんなことを言うと、怒られるかもしれませんが」

 レクティファールは、自分の引き起こしている現象の理由を知らない。
 それが奇蹟でも何でもないということだけ、知っていた。

「君は、君の守りたい人たちの痛みを知る必要はないと思います」

 メリエラの肩が、大きく震えた。痛みを感じることで許しを得ようとしていた自分の浅薄せんぱくさを、初対面の男に看破されたことで生じた衝撃。それは彼女の身体を反応させ、心を揺り動かした。

「でも、彼らの苦しみを理解しないと……」
擬似ぎじ的な体験と、感覚の共有は別物ですよ。君のやっているような痛みの擬似ぎじ体験ではなく、感覚を共有しない限り、本当の意味で、他者が感じている痛みを理解することはできないのではないですか」
「じゃあ、わたしはずっと彼らの苦しみを理解できないの?」

 彼にこんなことを問うのは、間違っている。
 だが、訊かないという選択肢はない。それほどまでに、メリエラの心は答えを欲していた。

「彼らの苦しみを理解することが、そんなにも大切ですか」

 彼の言葉を、メリエラは理解できなかった。
 民の苦しみや喜びを理解できずして、何が為政者か。どうして統治者でいられるのか。疑問ばかりが浮かぶ。そして、最後にひとつだけ答えが残る。

「当たり前、じゃない……そうしないと、彼らがわたしたちを統治者として認めることはできない」
「本当に?」

 尋ねるレクティファールの表情は、メリエラとは正反対の穏やかなものだった。彼の中にある答えは、メリエラの言葉にも揺らいでいないのだ。

「人々の苦しみを理解できれば、あなたを人々が認めてくれると?」
「――――」

 肯定も、否定もできなかった。
 苦しみを理解できれば、彼らの望むことが分かるだろう。だが、分かったところで望むものを与えられるかどうかは、また別の問題だ。

「手段と目的を間違えては、あとで後悔することになるでしょう。あなたがすべきは民の苦しみを擬似ぎじ的に感じるのではなく、その苦しみを取り除くためにどうしたら良いかを考えることなのでは?」
「でも、それじゃあ、人々が求めることは……」
「人々が求めることは、人々自身の声から知るしかないと思います。勝手に想像を膨らませて、自分を傷めつけて、そして理解しようとしていると言っても、それは目的と手段を間違えているだけ」

 レクティファールにとって、メリエラの語るこの世界の現実は、所詮しょせん他人ごとでしかない。彼の言葉を聞けば、怒りに駆られる者もいるだろう。現実を知らぬ者が何を知ったような口をきくのか、と。
 だが、彼の手の中にある細く白い手は、彼にとっての現実である。そこに刻まれていた痛々しい傷も、彼女の浮かべていた悲しみも。
 彼はその現実をどうにかしようと思案を巡らせ、そして彼なりの答えを見付けたのだった。

「まず、あなたはあなたとして自分を万全な状態にしておくべきだと思います。あなたが倒れてはあなたが救えるかもしれない人々も救えなくなる」
「それは、慰めかしら」
「まさか、あなたを慰められるほど、私は上等な人間ではないのです」

 レクティファールは、そっとメリエラの手を解放した。そこには一つの傷も残っていなかった。
 いやしたのではない、メリエラ本来の治癒ちゆ力を阻害していた要因を取り払っただけだ。傷付かなくてはならないという、メリエラの心の内にある黒い願望を。

「あなたが間違っていたということはありません。傷付くことで得ることができたものもあったでしょう。あとは、それを上手く使うだけです」
「上手く使えなかったら?」

 それこそ、意地の悪い問いかけだった。
 だが、レクティファールはその意地の悪い問いかけにも笑みを崩さない。

得難えがたい失敗を得たと思い、その失敗から得たものをさらに上手く使うだけです。何度失敗しようとも、諦めようとも、放棄さえしなければ機会は訪れるでしょう。諦めと放棄は同じように見えても似て非なるものです。あなたは未だ生きていて、まだ歩くことができて、まだ話すことができる。そして、そうやって穏やかに笑っていられる」
「――?」

 メリエラは、思わず自分の顔に触れた。
 笑っていたのだろうか、もし笑っていたのなら、それはどんな表情だったのだろうか。
 平和だったあの頃と同じ表情だっただろうか、それとも役目として身に付けた公爵家の令嬢としての笑顔だろうか。
 彼女は浮かんだ疑問をそのままに、レクティファールへ問いかけた。

「――どんな、顔をしているかしら」

 レクティファールは、少し考える素振りを見せると、一つうなずいて答えてくれた。

「あなたに似合う、綺麗な笑顔です」

 メリエラは、頬に触れていた手の平で熱を感じ、自分が真っ赤に染まった顔をしていると確信した。


         ◇ ◇ ◇


 二人は穏やかな雰囲気の中、互いにちょっとした意見を交わしながらお茶を飲んでいた。
 お茶の味、菓子の味から始まり、それらの名産地や製法、互いの味の好みなどを語り合う。その最中、メリエラが新しくれた紅茶を見つめながらつぶやいた。

「――ねえ、一つ聞いてもいいかしら?」
「なんでしょう?」
「甘党な女って、どう思う?」
「え……」

 答えるより先に、メリエラの手が砂糖壺に伸びた。
 蓋を開け、そこに入っていた純白の砂糖を一杯、二杯、そして三杯と続けて紅茶に入れる。

「実は、凄く苦かったの、これ」

 言い訳をして、砂糖たっぷりの紅茶を口に含むメリエラ。その表情が一気に緩んだ。幸せそうに目を細めている。

「ええと、別に甘党でもいいような気がしますが」
「そうよね! 可笑おかしくないわよね!」

 でも、紅茶の味を完全に殺すほどの砂糖はどうだろうかと思う。

「一杯目はちゃんとそのまま飲むのよ? 紅茶を作ってくれた農家の人たちとかに悪いから。でも、ずっとそのまま、何も入れずに飲むのはちょっと……」

 どうやら、彼女なりの考えがあるらしい。そういえば、二杯目の時点で彼女の表情が少し曇ったような気がしていたが、それはこういうことだったのか。初対面だからと、相手に合わせて我慢していたのだろう。幸せそうなメリエラの頬が微かに朱に染まっているのは、その幸福感と一緒に羞恥しゅうちも覚えているからだろうか。

「他の飲み物なら平気なんだけど、どうしてかしらね」
「さあ、個人の趣味嗜好しこうはさすがに分かりかねます……」

 誤魔化すように、レクティファールは紅茶をすすった。
 そのままお茶の入った磁碗じわんもてあそびながら、彼は目の前の女性の顔を何度か窺う。そして、その表情が部屋に入ってきたときよりも幾分か穏やかになっていることに気付き、そして安堵した。

(ふむ……)

 もしかしたら、と彼は思う。
 彼女は他の何よりも、自分の心の内を誰かに聞いて欲しかったのではないだろうか。
 彼の見た限りでは――そして事実として――相当に責任感の強い人物のようだから、当然、自分にも厳しい。となれば、誰にも言えず、溜め込んだ想いというものは存外多いのかもしれない。
 レクティファールは彼女から聞いた『今の現実』を一から思い返し、その仮定に確信に近いものを覚えた。

(しかし、私が根本的に話を理解してないとは、考えていないのかな)

 そもそも彼には理解の下地となる知識が存在しない。
 この国が内乱中であるということと、その内乱の終わりがまったくもって見えてこないという点は、辛うじて頭の中にある知識でも理解できる。その混乱がこの女性に心労を強いていることも。しかし国号や地域の名前などはまるで分からず、地理的、歴史的背景が見えないので突っ込んだ話になるとただ黙って話を聞くしかない。
 それでも、彼女が話したいというなら黙って聞こうと思う。
 彼女が自分を救ってくれたことは間違いないようであるし、何よりも、彼女の話は自分にも関わりのあることのようだ。
 それに、自分が話を聞くことで彼女の気持ちが少しでも晴れれば良い。

(さて、鬼が出るか蛇が出るか)

 彼は彼女が磁碗じわんを皿に戻したのを合図に、再び話を聞くだけの生き物になった。

「次は、連合軍が皇都に迫った頃のこと」

 窓の向こうに目を向け、メリエラは静かに語り始めた。

「連合軍に撤兵を受け入れる意志がないと知るや、始原貴族を始めとする軍勢は皇都近くにあるミラ平原に展開、連合軍を半包囲した」

 連合軍に対する始原貴族の軍勢は、これまで連合軍が打ち破ってきた寄せ集めの弱軍とは比べ物にならない。行き届いた統制、潤沢な物資、そして『祖国守護』という申し分のない大義名分によって天をく士気。皇王の指揮する正規軍には及ばないにしても、彼らの持つその威圧感は連合軍将兵の精神を疲弊ひへいさせるには十分だった。
 しかし、始原貴族も包囲以上の行動に出ることができずにいた。皇都を背に布陣した連合軍は、その皇都を人質に取っているも同然だ。
 皇都に立て籠もっている賊軍――今上皇王の支持貴族が能力的に信頼できるなら挟撃という策もある。始原貴族たちは皇都に籠もる支持貴族たちにも一欠片かけらの愛国心があるのではと期待し、協力を求めた。連合軍という共通の敵がいる今なら、と淡い期待を抱いた。
 されども、皇都に逃げ込んだ支持貴族にとっては始原貴族も連合軍も同じ、自分たちを破滅させようとしている敵であった。支持貴族たちは始原貴族からの再三の要請にも耳を貸さず、自分たちの立場を守るために最後まで始原貴族と協同することはなかった。
 連合軍が引き揚げれば、今までの所行の代価として今度は自分たちが討伐される。支持貴族の首脳部はそう考えており、それは疑いようのない現実に思えた。自業自得、身から出たさびと言って間違いないのだが、それを認められるような殊勝しゅしょうな精神構造を持っているならば、そもそもこんな絶望的な籠城ろうじょう戦などしていないだろう。

「皇都の住人にとっては、迷惑なことでしょうね」

 だが住人がどれだけ支持貴族をうとんじようとも、彼らは自分たちの命を守るために皇都から出ることはない。
 それに対する始原貴族たちは、深い悲しみの中で一つの決断をくだした。皇国を危機に陥れた当代皇王と支持貴族たちを国家に対する反逆者として認定し、然るべき裁きをくだそうというのだ。それは皇国を愛する彼らにとって自らの身を切り刻むに等しい苦行であった。
 如何いかに道を違えようとも、皇都に籠もっている貴族たちは間違いなく同じ国の同胞。ほんの少しだけ運命が違っていれば、国を守るべくくつわを並べていたかもしれない。
 始原貴族たちは運命という残酷で冷徹な現実に唾棄だきしながら、同胞を討つ決断を下した。
 ことここに至っては厳格な綱紀こうき粛正しゅくせいを行って分裂した国内を再び一つにまとめ上げ、更なる栄光の歴史を歩むための下地とする――始原貴族たちの思惑と願いはこれに尽きた。

「もう、後戻りはできなかった」

 かくしてすべての事象が複雑に絡み合い、皇国の首都で三つの軍が互いを敵と看做みなして布陣した。
 第一に、この場において最大兵力を保有する辺境始原貴族五万一〇〇〇。
 第二に、皇都を人質に取ることで兵力差を埋めている連合軍三万九〇〇〇。
 そして最後の一つは、大陸第二の湖であるアルカディス湖に浮かぶ堅牢無比の城塞。皇国の首都にして大陸最大の要塞都市でもある皇都〈イクシード〉を占拠している支持貴族四〇〇〇。
 三者のにらみ合いはどこにも解決の糸口が無いまま膠着こうちゃくし、既に五ヶ月が経過していた。


         ◇ ◇ ◇


「五ヶ月。短いように思えて、それなりに長く感じたわ。でももう、このくだらないにらみ合いは終わりそう。どんな結果になるかは別にして、ね」
「何故にらみ合いが終わるのですか?」

 ここでようやく口を開く機会を得たレクティファールは、その心に湧き上がった純粋な疑問を口にした。
 今までただ聞くだけだった彼から初めて問われ、彼女は一瞬言葉に詰まり、そして暗く、曖昧あいまいな表情でそれに答えた。心の内に、大いなる罪悪感を抱いて。

「連合軍の糧秣りょうまつが底を尽きかけているの。いいえ、もう彼らが持参してきた物資は武器弾薬、燃料などの直接戦闘に関わる物資しか残っていないでしょうね」

 馬匹ばひつに与えるえさにさえ苦労するようになった連合軍。その士気は地に落ちた。
 自国内での戦いである始原貴族は、後方にある自分たちの領地から物資の補給を受けられる。
 支持貴族たちも、年単位の籠城ろうじょうを想定して作られた要塞都市〈イクシード〉に蓄えられた物資がある。
 だが、連合軍にはそれがない。本来ならば長期戦になった場合、密約に従って本国や皇国の辺境貴族から物資を受け取る予定だったのだが、本国へと通じる補給路は辺境の始原貴族に押さえられ、当然、敵となった彼らからは物資の提供など受けられない。
 もう連合軍将兵は一日に一度の食事さえ満足に摂ることができない。水は井戸が陣地内にあるので問題ないのだが、そう遠くない未来に湯を沸かすこともできなくなるだろう。
 日に日に減っていく食事の量。痩せていく同僚。息絶える軍馬や飛竜たち。それらを目の当たりにした連合軍将兵の絶望は、察するにあまりある。

「とはいえ、このときはまだ、量は少ないけど、皇都周辺の穀倉地帯から物資を徴発できたことで、まだ兵が餓死するには至っていなかった。でも、問題はまだあるわ。分かると思うけど、戦場で必要な補給は食糧や武器だけじゃないのよ」

 戦場にいる軍内で士気や道義モラルを維持するために必要なものは幾つかあるが、それらを充足させ、兵や将校の能力を維持することが軍として最低限要求される機能だ。特に知恵ある者の三大欲求と呼ばれるものには、迅速かつ確実に対処しなくては急激に軍としての統制が失われていくことになる。この世界では、それらの欲望が欠けている、もしくは希薄である種族が例外として存在するが、大多数はそれらの欲望に忠実だ。

「わたしも、軍の学校では随分苦労した。自分にとっては大して重要じゃないと思えるものも、部隊全体で見たらすごく大事だったりするし……」

 彼女が偶然見かけた下士官兵の秘密の酒盛り。
 彼らはわいわいと騒ぎながら上官たちを罵倒し、けなしていた。
 まだ若い彼女は憤慨し、そのことを上官に告発したのだが、上官は笑って「放っておけ」と言うだけだった。自分のことをおとしめられて何故許しておけるのかと問う彼女に、上官は一つだけ教えてくれた。

『軍人も、人なんだよ』

 軍というある種の異常な集まりの中で、人が人として生きるには生じるゆがみを何処どこかで矯正きょうせいしなくてはならない。
 その手段の一つがあの酒盛りであり、他にも賭博とばくや女遊びなど様々な方法がある。

「難しいものよ、軍を維持するのは。敵地ではなおさら」

 連合軍司令部が苦悩していることは、士官としての教育を受けたメリエラにも容易に想像できた。
 本国からの補給線は断ち切られ、現地での徴収も困難になった以上、兵たちの食欲を満足させることはできない。
 睡眠欲は軍隊の得意とする規則正しい生活によってある程度充たすことができるだろうが、いつ何時なんどき敵が襲ってくるか分からない状況では安眠など不可能だ。当然、疲労も溜まる。
 そして、戦時にはとみに高まる傾向のある性欲は、敵地で包囲された軍の内部ではどうしようもない。
 特にこの最後の一つが引き金となり、自滅に近い形で連合軍は内部から崩壊しようとしていた。
 一度崩れた規律は、容易には回復しないものだ。

「こういうとき、普通ならしかるべき業者を通して娼館などに仕事を依頼するのだけど、ここは敵国。それもいつ戦いが始まってもおかしくない場所に布陣している軍隊に、どこの物好きが女たちを与えてくれると言うの?」

 彼女自身、軍人としてそういった場所に仕事を依頼したことはある。そのときに入った店は、まるでごく普通の商家のようであった。そしてその店は単に女性だけを取り扱うのではなく、軍の女性を相手にする男娼も揃えていた。そんな軍御用達の娼館は国内に相当数存在していた。
 しかし、それらの業者は連合軍相手に商売をする気などさらさら無かった。
 もし連合軍相手に商売をしても、その代金が支払われる可能性はかなり低い。連合軍の本国は敵地に孤立した自国の軍隊の扱いに四苦八苦していたし、もしも連合軍が全滅するようなことになったら今度は皇国と連合各国の間で戦争になる。そうなったら、泣き寝入りするしかない。
 それに、その頃にはもう、連合軍には一つの噂が付きまとうようになっていた。その噂が、色売り業者やそれ以外の商売人たちを連合軍から遠ざけていた。

「――『人さらい』、別に珍しいことじゃないわ。何処どこの国の軍隊でもやっていることだし」

 無論、彼女にそれを容認する考えはない。
 だが、それらの軍による犯罪行為が無くならないのも事実である。


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