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第五章:因果去来編
第五話「深き海の底から」その四
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「うう……」
目の前に迫る壁。
巨大な船だ。
大きさだけならば都市中央船の方がよほど大きいはずだが、目の前のこの船からは中央船からは感じない強い威圧感が発せられている。
彼女にとって船は大地であり、その命を保証してくれる揺り籠だった。
しかし、この船は違う。
この船は、命を奪うために生まれた船だ。
「――!!」
やがて彼女の視界は白く染まり、船の姿も見えなくなっていく。
最後に残ったのは、目の前の巨大な船の舷側から自分を見下ろす無機質な銀色の瞳。あの船と同じ、冷たい威圧感を持つ誰かだった。
「――っ!!」
大きく息を吸い込みながら飛び起きる。
寝台がぎしりと音を立て、彼女の身体が二度三度跳ねた。
「あ、エリン、起きたの?」
寝台の横にいた彼女――エリンと同じ年頃の少女が、手に持っていた教科書を脇机に置いて身を乗り出してきた。
「熱とかはないみたいだね。おうちに連絡して迎えに来て貰わないと……」
「うち……? あ! 今何時!? っていうか、ここどこ!?」
「どこって、学校の保健室だよ。エリンったら海に落っこちて、航行管制局の人に運ばれてきたんだよ。あ、時間はお昼過ぎたころだね」
お昼ご飯どうする、と訊ねる友人の声を聞きながら、エリンは頭を抱えた。
「航行管理局が、あたしを?」
エリンは自分になにが起きたのか、少しずつ思い出していた。
遅刻しそうになり、航行禁止区域を抜けようとした。しかし、その途中で巨大な船にぶつかってしまい、海に投げ出されたのだ。
あのまま海に浮かんでいれば、いずれ動き回る船の推進器に巻き込まれて命を落としていただろう。そうならなかったのは、あの船は然るべき救助行動を取ったということだ。
「――ねえ、あたしどうなったって聞いてる?」
「んんとね、航行禁止区域で浮標にぶつかって、そのあと近くにいた航行管理局の監視艇に拾われたんだって。病院で検査を受けてなんともなかったから、学校まで運んでくれたみたいだよ」
「浮標? あたしが? そんなバカな!!」
浮標とは文字通り、浮かぶ標識である。
この街では浮標そのものが自力航行しており、船団の移動とともに自動で表示を切り替えたり、場所を移動したりするようになっている。
確かに日常的に自走浮標との接触事故は発生しているが、エリンのような船団生まれが、小回りの利く小型艇で浮標にぶつかることなど、荒天時でもなければあり得ないことだった。
「あたしがぶつかったのは、浮標じゃなくてもっと大きな船で……」
「え? そうなの? でも管理局の人は先生にそう説明してたよ?」
「そんなバカなことが……!!」
エリンは担任教師に真実を確かめるべく立ち上がろうとする。
だが、その瞬間、彼女と友人の身体は大きな横揺れに襲われた。
「うわっ」
「きゃっ」
体勢を崩した友人を抱き留め、一緒に寝台に身を伏せる。
学校が――否、学校やその周辺の施設を擁する都市船が大きく進路を変えたのだ。
「こんな急運動したら、街が大変なことになっちゃう!」
彼女の言葉通り、窓の外から断続的に破砕音がこだまし、悲鳴や小さな爆発音
も聞こえてきた。
都市船が急運動をすることは滅多にない。そのために緻密な運行表が作られ、それは毎日のように更新されている。しかも、彼女の学校があるのは船団中央に近い場所で、周囲には船が急運動を行えるほどの余裕はない。
巨大な都市船がそんな動きをすれば、周囲に甚大な被害を及ぼすことになるだろう。
だが、今日は違った。
「ぶつからない……?」
都市船の急運動にも関わらず、覚悟していたような破滅的な振動はやってこなかった。
いったいなにが、と窓の外を見た彼女は、そこでこれまで見たことがないような光景を目にする。
「街が……動いてる」
そう、急運動を行っているのは彼女たちがいる都市船だけではなかった。
行政府が存在する都市中央船の象徴たる高層建築物が、恐ろしい勢いで横に流れていく。それは中央船も彼女のいる都市船と同じように急運動していることの証左であり、船団が途轍もない事態に巻き込まれたことのなによりの証明だった。
「な、なにか聞いてないの!?」
「し、しらないよぉっ! 今日だって急に授業がなくなって! でもエリンがいるから、わたしと先生だけが残ってたの!」
「授業がなくなったって、それっていったい……」
エリンが友人に更なる事情の説明を求めようとしたそのとき、保健室の扉が勢いよく開け放たれ、若い女性が飛び込んできた。
「ああ、よかった! 目が覚めたのね!」
「ファレン先生!?」
エリンと友人はまったく同時に教師の名を呼んだ。
その様子に今の今まで焦燥しか浮かんでいなかった教師の顔に余裕が生まれ、それは笑みへと変わった。
「立てるなら、すぐにここから移動するわ。見ての通り、今船団は大変なことになっているから」
「せ、先生、大変っていったい……っ!?」
エリンが担任教師に事情を尋ねようと口を開くと、今度は下から突き上げるような衝撃が彼女たちを襲った。
「きゃああああっ!!」
三人は抱き合ってその衝撃に耐えた。
保健室の棚に収められていた瓶が次々と床に落ちて割れ、薬品の匂いが室内に充満する。
その中には混ぜることで有毒な気体を発生させるものもあり、鼻の奥をつんと刺す刺激にファレンの顔色が変わった。
「――ふたりとも! 急いでここから出るわよ! 避難船が近くまで来てるはずだから!!」
「避難船!? 先生、いったいなにが起きてるの!?」
エリンは友人の手を借りて、寝台の脇に転がっていた自分の編み靴に足を通す。
紐を結んでいる間も船全体を揺らす振動は続き、窓の外には炎の色さえ見えるようになっていた。
その炎に照らされた担任教師の顔を見て、エリンは自分の問いがあまりにも莫迦げたものだと自覚した。
都市船がこれほどの急運動をする理由など、そうそうあるものではない。
船団がばらばらになって逃げなければならないほどの災害――
「――戦争よ」
エリンは、自分が生まれ育った場所が海の藻屑になろうとしていることを知った。彼女たちは海に生まれ、やがて海に死ぬ。
彼女たちは無意識のうちにその死に方を理解し、緩やかにその一点へと向かっていた。
だが、時としてその歩みは加速する。
彼女たちの意思とは関わりなく、大きな力によってそれを強制されるのだ。
エリンは自分の呼吸が短くなっていくのを感じた。
「――!!」
そして、窓の外で炎と共に崩れていく中央船の高層建築物を見て、自らの運命が荒波に揉まれる流木となったことを知るのだった。
目の前に迫る壁。
巨大な船だ。
大きさだけならば都市中央船の方がよほど大きいはずだが、目の前のこの船からは中央船からは感じない強い威圧感が発せられている。
彼女にとって船は大地であり、その命を保証してくれる揺り籠だった。
しかし、この船は違う。
この船は、命を奪うために生まれた船だ。
「――!!」
やがて彼女の視界は白く染まり、船の姿も見えなくなっていく。
最後に残ったのは、目の前の巨大な船の舷側から自分を見下ろす無機質な銀色の瞳。あの船と同じ、冷たい威圧感を持つ誰かだった。
「――っ!!」
大きく息を吸い込みながら飛び起きる。
寝台がぎしりと音を立て、彼女の身体が二度三度跳ねた。
「あ、エリン、起きたの?」
寝台の横にいた彼女――エリンと同じ年頃の少女が、手に持っていた教科書を脇机に置いて身を乗り出してきた。
「熱とかはないみたいだね。おうちに連絡して迎えに来て貰わないと……」
「うち……? あ! 今何時!? っていうか、ここどこ!?」
「どこって、学校の保健室だよ。エリンったら海に落っこちて、航行管制局の人に運ばれてきたんだよ。あ、時間はお昼過ぎたころだね」
お昼ご飯どうする、と訊ねる友人の声を聞きながら、エリンは頭を抱えた。
「航行管理局が、あたしを?」
エリンは自分になにが起きたのか、少しずつ思い出していた。
遅刻しそうになり、航行禁止区域を抜けようとした。しかし、その途中で巨大な船にぶつかってしまい、海に投げ出されたのだ。
あのまま海に浮かんでいれば、いずれ動き回る船の推進器に巻き込まれて命を落としていただろう。そうならなかったのは、あの船は然るべき救助行動を取ったということだ。
「――ねえ、あたしどうなったって聞いてる?」
「んんとね、航行禁止区域で浮標にぶつかって、そのあと近くにいた航行管理局の監視艇に拾われたんだって。病院で検査を受けてなんともなかったから、学校まで運んでくれたみたいだよ」
「浮標? あたしが? そんなバカな!!」
浮標とは文字通り、浮かぶ標識である。
この街では浮標そのものが自力航行しており、船団の移動とともに自動で表示を切り替えたり、場所を移動したりするようになっている。
確かに日常的に自走浮標との接触事故は発生しているが、エリンのような船団生まれが、小回りの利く小型艇で浮標にぶつかることなど、荒天時でもなければあり得ないことだった。
「あたしがぶつかったのは、浮標じゃなくてもっと大きな船で……」
「え? そうなの? でも管理局の人は先生にそう説明してたよ?」
「そんなバカなことが……!!」
エリンは担任教師に真実を確かめるべく立ち上がろうとする。
だが、その瞬間、彼女と友人の身体は大きな横揺れに襲われた。
「うわっ」
「きゃっ」
体勢を崩した友人を抱き留め、一緒に寝台に身を伏せる。
学校が――否、学校やその周辺の施設を擁する都市船が大きく進路を変えたのだ。
「こんな急運動したら、街が大変なことになっちゃう!」
彼女の言葉通り、窓の外から断続的に破砕音がこだまし、悲鳴や小さな爆発音
も聞こえてきた。
都市船が急運動をすることは滅多にない。そのために緻密な運行表が作られ、それは毎日のように更新されている。しかも、彼女の学校があるのは船団中央に近い場所で、周囲には船が急運動を行えるほどの余裕はない。
巨大な都市船がそんな動きをすれば、周囲に甚大な被害を及ぼすことになるだろう。
だが、今日は違った。
「ぶつからない……?」
都市船の急運動にも関わらず、覚悟していたような破滅的な振動はやってこなかった。
いったいなにが、と窓の外を見た彼女は、そこでこれまで見たことがないような光景を目にする。
「街が……動いてる」
そう、急運動を行っているのは彼女たちがいる都市船だけではなかった。
行政府が存在する都市中央船の象徴たる高層建築物が、恐ろしい勢いで横に流れていく。それは中央船も彼女のいる都市船と同じように急運動していることの証左であり、船団が途轍もない事態に巻き込まれたことのなによりの証明だった。
「な、なにか聞いてないの!?」
「し、しらないよぉっ! 今日だって急に授業がなくなって! でもエリンがいるから、わたしと先生だけが残ってたの!」
「授業がなくなったって、それっていったい……」
エリンが友人に更なる事情の説明を求めようとしたそのとき、保健室の扉が勢いよく開け放たれ、若い女性が飛び込んできた。
「ああ、よかった! 目が覚めたのね!」
「ファレン先生!?」
エリンと友人はまったく同時に教師の名を呼んだ。
その様子に今の今まで焦燥しか浮かんでいなかった教師の顔に余裕が生まれ、それは笑みへと変わった。
「立てるなら、すぐにここから移動するわ。見ての通り、今船団は大変なことになっているから」
「せ、先生、大変っていったい……っ!?」
エリンが担任教師に事情を尋ねようと口を開くと、今度は下から突き上げるような衝撃が彼女たちを襲った。
「きゃああああっ!!」
三人は抱き合ってその衝撃に耐えた。
保健室の棚に収められていた瓶が次々と床に落ちて割れ、薬品の匂いが室内に充満する。
その中には混ぜることで有毒な気体を発生させるものもあり、鼻の奥をつんと刺す刺激にファレンの顔色が変わった。
「――ふたりとも! 急いでここから出るわよ! 避難船が近くまで来てるはずだから!!」
「避難船!? 先生、いったいなにが起きてるの!?」
エリンは友人の手を借りて、寝台の脇に転がっていた自分の編み靴に足を通す。
紐を結んでいる間も船全体を揺らす振動は続き、窓の外には炎の色さえ見えるようになっていた。
その炎に照らされた担任教師の顔を見て、エリンは自分の問いがあまりにも莫迦げたものだと自覚した。
都市船がこれほどの急運動をする理由など、そうそうあるものではない。
船団がばらばらになって逃げなければならないほどの災害――
「――戦争よ」
エリンは、自分が生まれ育った場所が海の藻屑になろうとしていることを知った。彼女たちは海に生まれ、やがて海に死ぬ。
彼女たちは無意識のうちにその死に方を理解し、緩やかにその一点へと向かっていた。
だが、時としてその歩みは加速する。
彼女たちの意思とは関わりなく、大きな力によってそれを強制されるのだ。
エリンは自分の呼吸が短くなっていくのを感じた。
「――!!」
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